第39話 亀裂。


 なんて上から目線で良識者ぶったことを考えていた美緒は、けれども練習が進むにつれ、気がついたら誰よりもガンガンやりまくっていたのだった。

「おっし、出だしは悪くねーな。じゃあDから――」

 練習内容を「音プレ」に移し、序盤を吹き終えた直後。まずまずの出来で雪乃たちが満足気に顔を見合わせている中へ、真面目一本の美緒の声が突き立った。

「すいません、Cの一拍前、揃ってないんでもう一度お願いしますっ」

「……え、揃ってなかった?」

「ないですっ。もう一度っ」

 というわけで、Cの五小節前から十小節ほどを繰り返すこと五回。お姉さんがたの指がトリル続きでそろそろへばってきた頃合いに、雪乃が言った。

「……こんなもんでいいんじゃねえの?」

「あの、Cからの旋律、全然アクセントがついてるように聞こえないんですけど」

「そ、そうかな?」

「微妙にタイミングずれてるせいもあると思うんで、ここは神経細かくして合わせてくださいっ」

 かくてリピート区間を少し後ろにずらせて繰り返すこと八回。誰もが額から汗をしたたらせ始めたあたりで、また雪乃が言った。

「こ、こんなもんでどうでぇ?」

「すいません、Cの五小節目と六小節目、十六分音符の入りがわずかに早くて、タイミングが――」

「か、加津佐の旦那っ」

「はい?」

「少し、休憩、いいかな? ちょっとみんな限界なんだけど」

 真っ赤になった顔のクラリネットパート御一同が、打ち揃って疲れた顔を美緒に向けていた。その時になって、美緒自身も汗だくになっている自分に気づく。

「はあ、それじゃ……どうぞ」

 うめき声とため息が一斉に上がって、みんな座ったままぐったりと体を伸ばした。そろそろ扇風機回さなきゃ、と誰かが言った。練習の初めに美緒を叱りつけていた三年生が、ケロッとしている美緒を見て、笑いかけながら言った。

「旦那は元気だねえ」

 いつの間にか旦那にまで出世してしまった。まあいいんだけど。

「そんなちっこい体で、大丈夫なんかい? そのうちぶっ倒れたりしない?」

 いくらか本気混じりの気遣わしげな表情で尋ねかける。

「いや、まあ大丈夫だと思いますけど」

 時々酸欠を起こすことはあっても、基本、美緒はスタミナのある方なのだろう。気の張った練習が一時間二時間続いても、それほどバテることはない。どちらかと言うと瞬発力より持久力が勝っているようだ。ただ、それを口にしてしまうと「チューバ向けだね」と言われてしまいそうなので、黙っているだけで。

「で、十六分音符の入りが早いってどういうこと?」

 楽譜を持って雪乃が美緒の元にやってきた。その部分の指摘は、雪乃としても不本意だったらしい。どう表現すべきか迷った美緒は、ふと思いついて、

「最近の合奏の録音、今出せますか? 聞き返してもらったら分かると思います」

 微かに首を傾げながらも、雪乃が自分のスマホを持ってくる。自分たちの演奏を録音してチェックするというのは、かねてから部内で実践されてる練習法の一つで、熱心な部員の何人かは、時々合奏の音を自分で録音して演奏の参考にしている。と言っても、実際は友達のトチった音を聞いて喜んだり、先生の外し気味のツッコミを再生して面白がったりで、本来の目的から微妙にズレた活用がほとんどなのだけれど。

 水曜日の練習の最後に合わせた時の録音が、割合きれいな音質で鳴り始めた。一分ほど進んだところで、件の箇所に差し掛かる。

「ほら、ここです」

「うーん、言われてみりゃ……」

 顔を寄せ合っていた他のメンバーたちも、腕組みをして難しい顔をしながら、

「なんでっスかね? メトロノーム使ってばっちり練習してきたじゃねえスか」

「先生の指揮と微妙にズレてる?」

「いーや、ここの小節だけズレちまった、なんてこたぁあり得ねえ」

 とりあえず美緒の指摘は受け止めて、熱心に問題の本質を考えてくれる。見ていて、ちょっと美緒は嬉しくなった。なんだ、みんないい人たちだ。ムードは違うけど、金管の先輩たちと変わらない、熱血音楽バカばっかり。

 いくらかネットの情報なんかに食いつきすぎるっていうだけで、ちゃんと話も通じるじゃん。そんな部の中を割るような深刻な対立なんて、私の考えすぎだったのかな、と、ポジティブな気分で満たされそうに思えた、その時だった。

「つまり、他のパートがズレてるってことじゃねえんかい?」

 え?

「こっちのテンポは乱れてねえ、先生の指揮にも合わせてる、ってことはよ、他がズレてるってことしかあり得ねえ」

「まあ、理屈の上ではそうなるっスね」

「ちょっと待ってください、そういう問題じゃないでしょう?」

 黙っていられなくて、つい反論してしまう。二年生の一人がじろっと美緒を見て、

「じゃあどういう問題?」

「誰がズレてるとかいう以前に、クラリネットが他のパートの音、聞けてないってことじゃないですか」

 ごく当たり前の正論を言ったつもりだった。それも、ことさら意地悪い表現をしたつもりもない。けれども美緒の一言は、なんだか異様に重たい沈黙をその場にもたらした。

「そもそも、パカパンパンってリズムを意識して、それに乗っかるように吹いたら、自然に合いますよ、こういうところって」

「……ほう、チューバの旦那がわっちらクラの二年三年にご指導くださる、と?」

「はぁっ?」

 あてこすってる中身は即座に理解できて、だからこそ美緒は呆れてしまった。単純な拍打ちばかりのチューバ吹きに、細かいパッセージを受け持つクラ吹きの苦労なんか分かるもんか、と言われてるんだろうけど、美緒はチューバよりトランペットの方がずっと長い。五年生から二年間みっちり吹いてきたのだ。リズム打ちに旋律をどう乗っけたらタイミングが合うかなんてノウハウは、それこそ中学でクラリネットを始めた三年生と同じぐらいのキャリアがある。いや、そんなことを言い立てるよりも、初歩的な合奏のテクを、そういう物言いでうやむやにしようとする態度にカチンと来た。

「一年生だとか、チューバだとか、関係ないじゃないですかっ! 合ってないのは聞いてないからだし、聞いて合わせるのなんて、小学生でもできますっ!」

「お、聞き捨てならねーなあっ! そいつぁつまり、私らが小学生にも劣るってかあぁっ?」

 エキサイトしてきた二年生を、すっと手で止めて三年の一人が横から出てきた。

「ちいと待ちやがれ。問題はそこじゃねえ。加津佐、あんた自分で自分の言ってることが分かってるんかい?」

「……どういうことでしょう?」

「聞いて合わせりゃって言うが、こちとら合わせようがねえ。なにしろ、チューバの音がろくに聞こえてこねえんだからよ」

「なっ……」

 もちろん嫌味の延長で話を誇張してるだけだと思った。室内の、決して広くない教室で、接するようにイスを並べて吹いてるのだ。聞こえないなんてはずはない。

「そ、そんな言い方ってないんじゃないですか!? 私の音、そりゃ唐津先輩なんかには全然届いてませんけど――」

「いや、そういう難しい意味じゃねえの。言葉通りの意味。あんたの音、ほんと聞こえにくい。マジで」

「それ、自分も思ったっス」

「右に同じく」

 割とまともそうな二、三年生のメンバーまで賛同して、いよいよ美緒は言葉を失った。

「まあ、この場での合わせはギリギリできるにしても、あんた、舞台の上はどうする? そんな響きで、大ホールなんかであたしらにそこんところの音、聞かせられるかい?」

「そ、それは」

「それが難しいんなら、指揮の棒に合わせるってのがいちばん間違いねーわけだろ? あたしらがメトロノーム使ってるのは、ちゃあんと理由があるんだよ」

 言いたいことは分かる。聞いて合わせるやり方は万能ではないということだ。合わせるべき音を吹く人がミスするかも知れない。上がっちゃって音が出せないかも知れない。何が起きても音楽を続けるためには、確かに指揮者を徹底的に見て合わせるしかない。

 でも、だからって聞き合うことまで否定するのは――

「とにかく、合わせるってことにかけちゃ、あたしらは絶対の自信がある。クラリネットはいつだって、どのパートよりも先生の指揮にぴったり合わせてる。なら、合ってないのは他のパート。そうだろ?」

「けど」

「あんたもね、それ以上部に迷惑かける前に、とにかく音を前に出しな。話はそれからってことで」

「おう、そーだそーだ」

 最初にケンカ売ってきた二年生が、尻馬に乗っかってさらに囃し立てた。

「おめえはそれぐらいにしとけ」

「なんで? だいたいこいつ、日頃からナマ言いすぎですって。唐津先輩は仕方ないとしても、こいつが期待外れで、みんなどんだけ被害受けてるか」

 ひどく重みのある単語が出てきて、美緒はショックを受けた。

「被害ってなんですかっ?」

「あん? チューバが聞こえねえと、バスを他で作るしかねえだろ。バスクラの多佳町、あいつは本来ならバスクラは兼任で、曲によっちゃクラに戻ってくることもあるって話だったのに、あんたのせいでもうバスクラ専属になっちまった。可哀想に」

「それは……」

 おかしい。それは筋違いだ。仮にその話が本当でも、「可哀想」にはならないはず。だって、そうじゃないと多佳町先輩はいやいやバスクラをやってるってことになるから。バスパートはみんなして仕方なく受け持ってるパートだってことに……いや、でもそれはその通りなのかな?

 そうかも知れない。何をどう言い訳しても、私自身がそうなんだから。今も心の底では、バスパートなんて押し付け合いだと思ってる。貧乏くじだと思ってる。でも、あんな言い方って……けど、それは真実なんだから……

 色んな考えがぐるぐる回って、美緒は部屋の真ん中で棒立ちになってしまった。無表情で黙りこくった美緒の姿を、反抗的な態度と見たのか、尻馬二年生がさらに何かを言い募ろうとしたその時、教室の入り口から、場違いに明るい端嶋先生の声が聞こえてきた。

「お、みんな揃ってるな。あれ、加津佐さんもいるの? ちょうどいい」

 運んできた何かを広げているようで、部員たちがそっちに集まる気配がする。

「……なんですか、それ? ってまさか!?」

「そうこれ。コントラバス・クラリネット。熟旦高校から今年も借りたんだ。夏いっぱい使えるぞお」

「で、でも先生、借りるなんて話、今年は全然」

「ああすまん。直前まで借りられるか分からなかったんでね」

「困ります。そういうことはあらかじめ伝えておいてくれないと。急に言われても、メンバーの調整とか」

「あ、そう? でも、吹きたい人、誰かいるでしょう?」

 妙に冷めた目で、気まずそうな顔を見交わすクラパートメンバーたち。その時になって、ようやく先生はその場の微妙な空気に気づいたようだ。

「何かあったのか?」



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