第36話 「フェリスタス」を聞きながら。
土曜日。午後三時。
だいぶん蒸し暑くなってきた天気にもめげず、今日も吹部の面々は校舎の内外で練習に励んでいる。
そして、ここ中庭では。
サックスパートのメンバーに囲まれるようにして、砥宮慶奈が嫋々とむせ返るような旋律を歌い上げていた。
うつむき加減にマイクを握ってる女性歌手が、ため息混じりに歌い上げてる昭和歌謡みたいなメロディーだ。中庭のあちこちで水玉を滴らせている、雨上がりのあじさいによく似合う。と言うか、あんまりにも似合いすぎ。
「ちょっとぉ、そんなテンポ引きずらないでって。合わせられないよ、そんなの」
「下はテンポ通りでいいんじゃないかな。最初の三音だけ合わせてみてよ。多分それで形になるから」
「えー? そうかなあ」
もう一度最初から合わせてみる。ワンフレーズ二人のユニゾン、それから慶奈がソロで六度下の愛弓とハモりながら歌い続ける……形のはずが、やっばりちょっとズレ過ぎてる。
「うーん、難しいな」
「二本のところでルバートはちょっと無理あるんじゃね? どうしてもテンポ引きずりたきゃ、最初のユニゾンをソロに変えちまうとかだな。で、二本のとこは、まあ音の押し引きで表情つけるって感じにして」
試行錯誤する慶奈に、滝野悠介が横から意見する。サックスパートの横では、さっきからトランペットの面々が楽器を膝にしたままで慶奈たちの演奏を眺めている。別にサックスの見学に来たわけじゃなくて、合同で曲を合わせてるのになかなかペットの出番にまで進まないのだ。
「もういいから次行ってくれよ。俺ら、さっさと吹きたいんだけど」
「はいはい」
改めてメロディーの頭から。悠介のアドバイス通り、ルバートを控えめにした慶奈が、咽び泣くような歌い方はそのままに、八小節のメロディーを吹き終える。
それを受けつなぐような形で、悠介のトランペットソロが朗々と鳴り渡った。泣き崩れている女の肩を抱き寄せながら、こちらは無言できっと空を睨みつける男のようなイメージ――なんて言ったら、「昭和歌謡」にあてはめ過ぎだろうか。
「えええーっ、なんかズルいっ。自分だけ目一杯ルバートかけてるぅっ」
ペットのフレーズが最後までいききらないうちに、慶奈が素頓狂な声を上げた。悠介はニタッと笑い返してから、
「でもそんなにおかしくないだろ?」
しゃあしゃあと開き直った。慶奈の目の色が真面目に考える時のそれになる。
「え、どうやってんの? 私のとこと、下の声部、そんなに変わらない…よね?」
「まあ、色々とコツがね」
「ちゃんと説明してよ」
「眼の前で吹いてみせたじゃねーか」
深江亜実は、そんな三年生同士のじゃれ合いを、一歩離れた位置から微笑混じりに見ている。腕自慢のパートメンバーを頼もしく見守ってるパートリーダーの姿――に一応は見える。
「深江、次吹いてみろよ」
悠介が同じ箇所のソロを亜実に譲った。亜実はさらりとした声で頷いた。
「いいですよ」
またもサックスソロから。心持ち譜面通りのきちんとした吹き方に変えた慶奈に続けて、亜実の骨太のサウンドが中庭いっぱいに満ちた。ルバートはかけず、奇をてらわずに素直に響かせるメロディーラインだ。
練習番号の切れ目まで吹ききってから、メンバーたちは満足したように口から楽器を離した。
「さすが、王道の吹き方だな」
「いえ、私はもっと表情つけたいんです……けど」
「でも、深江さん、なんだか滝野君に影響されてきてるよ。今の、きちきちの楽譜通りにはなってなかったしね」
「え、そうですか?」
悠介と慶奈からのコメントを受けて、一瞬、本当に嬉しそうな笑みが亜実の顔に浮かぶ。少なくとも、先輩のアドリブソロを聴いて逆に落ち込んでいた時の影は、今はない。
悠介の言う「パートリーダーとして自分の音楽をやる」責を全うしつつ、自らに足りないところは学ぶべき相手から学ぶ――そう構え直して、今後も吹き続ける覚悟を固めた、というところだろうか。
「……なんだか小難しいお年寄りのエッセイみたいなまとめ方ですね」
サックスとトランペットの合奏を二階の窓から眺めながら、美緒が言った。世間話のように、ここ数日の深江亜実の変化について語っていた端嶋先生は、「そうかな?」と眉を上げて、ちょっと心外そうに首を傾げている。
「亜実先輩、ああいう見せかけでも、なんか無理してるところがあると思うんですけど」
「まあ、事実上失恋みたいなもんだったからね。それなりに傷はあるだろうけど」
「先生の方でフォローしてあげたりとかしないんですか?」
「学校の先生の仕事じゃないよ、今のところは。はっきり無理が出てくるようなら、手は打つけど」
二年生の教室で、端嶋先生は担当クラスの〝雑用〟にかまけていた。ノートパソコン相手に、何やら機械的な事務作業をやっている。美緒はその場所にお邪魔している形だ。
この土曜日から、クロスパート練習というものが始まった。部全体を九つのパートに分けて、日替わりでペアになったパートが相手を変えつつ合奏練習していくというもの。つまりは、全パートがリーグ戦みたいに総当りでぶつかり合おうってわけ。
たとえば金管同士でなんとなく合奏することはあっても、フルートとパーカッションが組む、なんて練習はまずない。でも実際の曲では全てのパートとそれなりに連係していかなきゃならない。これはその手がかりを得るための練習法だそうだ。あと、他流試合を繰り返せば、曲の意外なところが見えてくるかも、とは曽田部長の意見。
面白そうなんだけれど、美緒の場合はいきなりスケジュール構成に不備が出た。クロスパート練習ではチューバとユーフォは別パート扱いになる。でもこれまでさんざん「バリチューバ・パート」としてパート練習やってきてるんだから、正直、お互いの音は知り尽くしている。なのに、初っ端でチューバはユーフォと相まみえる形になったのだ。
これはもう、もっと有意義なことしていいよね、と三砂とも話がつき、今日は貴之が検査で丸々欠席していることもあり、美緒はその一時間を、目下いちばんの懸案事項になっていることの対策に充てた。
「で、何しに来たんだっけ? ああ、深江さんと白木部君をどうくっつけるかって話?」
「そっちじゃないです! ってか、なんで知ってるんですか、先生!?」
「まあ、深江さんが保健室に担ぎ込まれた時の事情を聞いてたら、なんとなくねえ。後は浪瀬さんの小説とか」
「読んでるんですか!?」
「楽しんで読んでるわけじゃないよ。でもせっかくの生徒からの公開情報だし」
この先生、実は何もかも全部見透かしているんじゃなかろうかと、ふと美緒は畏れに近い気持ちが兆したのを感じた。
「嫌な顔しなくても、他の部員がしゃべくり合ってることしか知らないよ、僕は」
「白木部先輩の件は、そう何人も知らないはずなんですけど」
「まあね。でも、指揮台からは丸見えだからね」
そういうことか、と美緒は小さく唸った。
「どのみち、顧問が口出しすることじゃない。率直に言って、君らもあんまり深入りしないほうがいいと思うよ」
「そうしたいんですけどね……」
関わった責任もあるんで、昨日、美緒は亜実に探りを入れていた。「三砂先輩が事実関係の確認をしたいそうです」という話をでっちあげて、遠回しに亜実が浩太をどう見ているのか訊いたのだ。
――水曜日のあの時のことですけど、亜実先輩が倒れ込む前、誰とどういう会話をしたか、憶えてます?
――うん、もちろん。確か、コータンが、ハイC吹くのは怖くないよって。
――……それだけでしたっけ?
――うん。それで、私も急に気が抜けちゃったんだから。
――それはつまり、コータ……白木部先輩のセリフが、脱力するほど嬉しかったから、とか?
――んーん。あ、バレてたんだって気持ちから。
つまり、亜実先輩は、白木部先輩のあの一言を、全然そういうセリフだと受け止めてなかったってことだ。意味内容だけ理解して、後はスルーしたのか。
やっぱり亜実先輩、恋とかできない体質なんじゃ……。
何にしても、これは今日明日でなんとかできることじゃない、とひとまず結論せざるを得ない美緒だった。
「とにかく、今はプレゼンで頭がいっぱいなんで」
「君も一年生から大変だねえ」
そう、美緒はプレゼン対策で先生の元を訪れたのだった。中間テスト直後に無体な指名を受けてから、実は一人で色々と行動はしていた。先輩たちにもあれこれ手伝ってもらっている。でも、なにしろ小学生にいきなり大学論文を書けと言うようなもんだから、まとまった構成になかなか仕上げられない。
いよいよ泣きつく時が来たか、と奥の手として顧問の元に足を運んだら、何と言われたか。
――みんな真っ先に僕のところに来るんだけどね。加津佐さんはいちばん遅かったねー。
(それさっさと言ってよ!)
校舎の屋上から絶叫したい気持ちをぐっと抑えて、改めて教えを授かろうとしたんだけど、先生は世間話に流れてばかりで、講義の雰囲気になかなかならない。
窓の下では、サックスとペットがさっきの曲を頭からまた合奏し始めていた。慶奈はやはりルバート全開で、悠介はヴィブラートだらけ。過剰表現バージョンの完全版を作るつもりで吹いてるようだ。
「あの曲はああいうふうに吹くなって作曲家が言ってるんだけどねえ」
苦笑しながら先生が窓外に目を向けている。曲の名は「フェリスタス」。例によって四十ン年前の課題曲だそうだ。
「注意しに行かないんですか?」
「なんで? 課題曲として吹くわけじゃなし、表現は自由だ。あの子たちがこうやってみたいと思うんなら、僕は黙って聞くだけだよ」
「じゃあ、次の合奏でもあんなふうに?」
「いや。全体合奏になったら、それは僕がまとめ役だからね。指揮者の好きに解釈させてもらう」
意地悪なんだか、思いやり深いんだかわからない。でも、近頃になって美緒は、端嶋先生のそんな、放任とほどほどな統制とを絶妙にブレンドしたやり方が、何となく肌に合ってきたなあと思う時が多くなってるのだ。
不意に、何かイタズラを思いついたような顔で先生が言った。
「じゃ、あの曲を使ってやってみようか」
「はい?」
「プレゼンの構成方法、聞きに来たんでしょう? 『フェリスタス』ならちょうどいい。僕はあの曲、何百回と振ってるからね。お、ちょうど楽譜もある」
習慣的に練習中の曲を持ち歩いていたのか、「フェリスタス」の二種類のスコアを傍らから取り出して、美緒の目の前で広げてみせる。
「曲は頭に入ってる?」
「いやまあ、一応、ですけど」
「当たり前だけど、プレゼンにも色々ある。初めてやる曲を一から紹介するタイプのものもあれば、すでによく知ってる曲を改めて見直そうとするタイプのものとね。今回の加津佐さんのは見直すタイプ」
「はい」
それはすでに曽田雪乃からも伝えられていたことだった。実は「音プレ」のプレゼンは三月に一度やったらしいのだ。その時に、普通の楽曲紹介で出ていそうなことはあらかた紹介し終えているとのことだった。
「毎日音を出してると、つい惰性で吹く癖がついてしまって、いつのまにか空っぽな音楽になってることが多いから。新鮮な言い方で目の前の曲を捉え直すようなプレゼン、やってほしいんだなあ」
「…………」
そういうのはどこかの教授でも呼んで勝手にやってください、という言葉が喉元まで出かかっているのを、大変な努力で腹の中に戻す。
「で、そうだね、仮に『フェリスタス』でその手のプレゼンやるとしたら……この曲、形式はどうなってると思う?」
「えと、形式って言うと、二部形式とかソナタ形式とかの?」
ごく最近詰め込みみたいな感じで本から覚えた言葉を並べてみる。
「そう。曲全体の構成。これ、普通の解説だと、やっぱり三部形式って説明ばかりなんだけど、実はこの曲は」
「変奏曲ですよね、これ?」
その一言を聞いた時の端嶋先生の動転ぶりは、ちょっとした見ものだった。イスに座ったまま飛び退いてガタガタっと後ろに下がる、ドリフのコントか何かで見たアクションそのまんまを生で見て、美緒は呆れると言うより感動してしまった。
「な、なんで分かったの!?」
先生の声からすると、どうやらジョークじゃなくて本当にびっくりしてたようだ。逆に美緒の方が驚いて、
「何をびっくりしてるんですか?」
「何をって……」
なんだか怖いほど真面目な、でも変に気が抜けたような顔で美緒を見る。最近、どっかでこういうの見たな、と思う。ああ、あの時だ。唐津先輩に、「なんで私の音なんかを聞いてるんですか」って訊いた時の。
また何かヘンなこと言っちゃったんだろうか、私?
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