第35話 たまにはメロウなひとときも。
「えー、このたびは、うちのパートの深江が大変お騒がせしまして、申し訳ありませんでした」
そう言って、深々と頭を下げる滝野悠介。その横では、ちょっとぼーっとした感じで亜実が突っ立ったままだ。見なくても分かるのか、悠介は体を折ったまま器用に亜実の肩をつかむと、引き倒して自分と同じように頭を下げさせた。
その日のミーティングの冒頭での出来事だ。いつも通り曽田部長が連絡事項を読み上げようとしていたら、亜実の手を引いた悠介がつかつかと前に出てきて、いきなり謝罪会見が始まってしまったのだ。
みんなしんとして、突然の椿事に見入ってしまっていた。例によって先生は会議とかで不在。
「なんで悠介まで謝ってるの? いや、別に謝るなとは言わないけどさ」
クラの三年生の一人が言った。謝罪のそもそもの理由を訊く人はいない。ここ数日の深江亜実のお騒がせ行動は、部員全員にあまねく知れ渡っていることだったし、今日の昼にあったこともだいたいの部員に伝わっているようだった。
(SNSって怖いなあ)
美緒は一人で微妙にズレたことを考えていた。みんなが美緒みたいにケータイも何も持ってない時代だったら、こんなことは金管パートの一部だけで収まることだったのに。
なんも考えないでライン上で告白なんてしてしまったから、事態の結末まで全部細々と公表しなきゃならなくなったのだろう。プライバシーも何もないなあ、と思う。でも……後からあれこれ憶測広められるよりは、マシなんだろうか?
「悠介はむしろとばっちり受けた方でしょ? まあ、あんたが頭下げるのは大いに結構なんだけど」
他の三年生からも声がかかる。女子部員たちは、どうも亜実の不始末がどうこうと言うより、悠介が自分たちの面前で謝っていることが嬉しくて仕方ないらしい。
だいぶん長い間低頭してから、やっと頭を上げて悠介が答えた。
「ま、副部長として、目の前のトラブルにうまく対応できなかったわけだから……半分は俺の責任ということで」
「できなかったんやのうて、しなかったんじゃろが。わざと」
冷めた声を投げかけたのは、エスクラの桐香だ。イスの背に片ひじを置いてふんぞり返り、飲み屋かどこかで若手を説教する会社のおやじと言った感じ。ヒヨコ声のおやじがいれば、だけど。
「ほんで、最後だけ一緒に泥かぶっときゃええと高をくくりよって」
「さすが、御大は全てお見通しで」
バカモンが、と不機嫌そうに吐き捨てる桐香と、卑屈に頭を掻いてみせる悠介。何を言ってるのかよくわからないけど、滝野先輩は先輩なりに考えて、この件に直接乗り出そうとしなかった、ということのようだ。ほっときゃ美緒が何とかしてくれると思った……わけじゃないのだろうけど、少なくとも自分が介入したら却ってこじれると判断したのだろう。それよりは遠回りでも第三者に頼るべきと考えたのか。まあ実際、結果的に短時間で収拾のめどはついた。
全ては元通り。亜実はペットに残留。もちろん一番のまま。確認してはいないけれど、美緒が夏以降にペットに移る件は有効だろう。一応は、めでたしめでたし、と言えるんだろうか?
「あの、前で謝るのは結構なんですけれど、それだけなんですか?」
クラの真ん中から声が上がる。ちょっとトゲっぽい言い方。悠介が黙って顔を向けた。
「このことで金管の人たち、練習日程が三日ぐらい遅れたんじゃありませんか? その責任はどう取るつもりなんですか?」
「不祥事と認めるなら、今後の対策をどうするつもりかまで訊きたいんですけど」
「木管のスケジュールにも一部影響してます。その件については?」
どうもクラとフルートの二年生たちらしい。トゲっぽいと言うよりは、単純に怖い。本人たちは真剣に練習の話をしてるようなんだけど、なんだかあまり一緒にいたくないタイプと言うか。桐香の顔を見ると、やや決まり悪そうに口の周りをなでまわしている。自分が強い態度を取ったことで、格下が勘違いして言わんでもいいことを言いよるわい、とか心で言ってそうな。
してみると、この人たちが桐香先輩の言う「うちの跳ねっ返りども」ってやつか……。
「だいたい深江さんも自覚が足りないっていうか」
「恋愛禁止にしてる学校だってあるんですよ?」
「プレッシャーは分かるけど、それでファースト降りるとか言い出すなんて」
「ちょっと真剣さに欠けるんじゃないの?」
あ、と美緒は思わず身構えた。これは誰かが黙ってない。事実、その直後に美緒の周りで立ち上がろうと足をざざっと引く音が一斉に上がりだして、何人もが叫びだす直前みたいに身じろぎしてる。うわ、また全面戦争かな、と思った瞬間。
「滝野先輩は、今年が最後なんです!」
亜実が大声で叫んだ。不意をつかれて一瞬みんな動きを止めたけれど、すぐに「はぁ?」と反感だらけの声があちこちで上がる。正直、美緒も同感だった。三年生が最後なのは当たり前だ。それを言い立てても……と。
でも、次の亜実のセリフで、みんな引っくり返りそうになった。
「滝野先輩のお家は、貧乏なんです!」
それが何なんだ、というリアクションは、しかし困惑の色一色だった。何が言いたいの、この子?
「だから、樫高に上がっても、吹部に入れないんです! 高校の吹部はお金がかかるから。だから――」
「おい、深江っ」
慌てた悠介が、今さらのように亜実を止めようとする。肩をつかもうとする悠介の攻撃を器用にかわしながら、亜実はさらに声を張り上げた。
「だから、滝野先輩が一番でステージ踏むのって、これが最後なんです! もう一生ないんです!」
「いや、一生ってのは」
さすがに言い過ぎだろう、とはみんな思ったけれど、真に迫った亜実の訴えは、中学生の胸を突くものがあったようで、それ以上ツッコむ部員は誰もいなかった。
「信じられますかっ? これだけの音が出せる人が、ですよ? もうチャンスはないんです!」
「深江っ、もうやめろっ」
悠介の声も、だんだん悲鳴に近いものになっている。年下の女の子にこんなことを大声で叫ばれたら、そりゃ三年生で副部長で陰謀大好きクールガイの立場がないってもんだ。
それにしても、全部言い分は聞き出したと思っていた亜実先輩の胸の裡に、まだこんな思いが残ってたなんて。
「私はっ、確かに、ハイノート出すの怖くてっ、それは認めますけどっ」
なおもつかみかかろうとする悠介の腕を両手でがしっと受け止めた亜実は、そのままがっぷり組んだ姿勢で、小揺るぎもしない声のまま、言い切った。
「それ以上に滝野先輩に1st吹いてほしいって気持ち、今でも変わりません! おかしいですかっ? 間違ってますか!?」
「深江さん……」
ものの一分程度で、その場の空気は全く別のものになっていた。木管のメンバーたちは、ある者は祈るように両手を組み、ある者は手で口を押さえて、すでに目を潤ませてるのも多数。
「そうなんですの、滝野?」
ピッコロのノノが静かに尋ねた。あえて感情を押さえたような声で。
「お? 俺の家が低収入なんてのは、秘密でも何でもねえだろうがっ」
ノノも、他の三年生たちも何も言わない。先に負けたのは悠介の方だった。
「……ああ。ま、そういうこった。お前らも知ってるだろ? 樫高は、そりゃそんな金満吹部ってわけじゃないが、高校の部費はバカにならねえ。正直、今の部費だってキツい。中学の間だけってことで、なんとか出してもらってるぐらいだからな」
「そんなのって……」
どうも、人によっては結構ショックな話だったようだ。お金の話は、中学生自身にはまずどうしようもないことだから。ここにいるみんながみんな、高校も吹部を続けるつもりでないにしろ、情熱があっても最初から選択肢がないんです、とはっきり知らされるのは、なんだかすごく悲しい。
もちろん、美緒自身も衝撃を受けていた。というか、大ショックである。
(え、今のここの部費っていくら? 高校のって? 私の家じゃ無理……なの?)
今はまだ一年生の二ヶ月目だけれど、もちろん美緒は高校に上がっても吹部を続けるつもり満々だったし(きちんと入試に合格しないと樫高に行けないのだということは先日知った)、それははるか先まで続いている舗装道路を歩くように、ごく当然のことと思っていた。それが――
足元の道がガラガラと音を立てて崩れていくような、っていうのは、こういうこと? 正直、亜実の訴える中身とかよりも、そっちの方に気持ちを全部持っていかれてる。どうしよう。もう、練習とかそういう気分じゃない……。
「でも、別にペットやめるわけじゃねえ」
え? とみんな悠介を見た。割とすごい告白をした直後だと言うのに、深刻な様子は全然なく、むしろいつも通りの、ちょっと人を食ったような顔つきそのまんまだ。
「ジャズ研作ろうと思ってさ。樫高に。……ああ、練習日は週三回ぐらいで。バイトと並立できるようにな」
それは、吹部を諦めるということをひっくり返したわけじゃない。亜実の言ったことはそのままなんだけど、なぜだかはっきりと、シリアスな空気が緩んだような気がした。
「むろんジャズ専門でいくが、何なら吹部と共演してもいいし、臨時でペットに入ってくれっていうんなら、考えてもいい」
まだ立ち上げてもいない、そもそもまだ入ってもいない高校での大風呂敷を派手に広げる悠介。みんなちょっと呆れて、でもそれはそれで面白そうな話に思えて、微かな笑いの気配さえ戻ってきている。
「だから、お前がそこまで俺の花道用意してくれなくてもいいんだ」
悠介が亜実の肩を叩いた。
「俺はやりたい時にやりたいことやってるし、これからもやる。深江も自分の音楽、やればいい。パートリーダーとしてな」
「で、でもっ」
まだ納得しきれないでいる亜実が、もうひとゴネしようと口を開く。仕方ねえなあ、という顔でそれを制して、悠介が後ろを振り返った。
「曽田部長、率直に頼みますよ。『音プレ』のトランペットの音、仮に
「和音にならないと思う」
ためらいもなく即答する雪乃。
「音程は合うだろうけど、音質が違いすぎる。パートとしてまとまり切れないんじゃないかな」
「伊軒はどう思う?」
悠介が視線をパーカッションに投げた。睦海が小さな目を少しの間見開いてみせて、微かに唇を緩める。その様子を見ていた能田文子が、明解に通訳した。
「お話にならない、だそうです」
普段なら色々とツッコミの入る場面だけれども、みんな神妙な目で三年生たちのやりとりを見ている。
「もういいだろう。お前もいいかげん分かってるはずだ。……俺の音は、『音プレ』みたいな分厚い金管のトゥッティの中だと、どうしても浮くんだよ。気ままにソロ吹いてる時はいいが、合奏向きじゃない。でも、お前はその逆だ」
ただでさえ柄じゃない真面目なキャラをやっている悠介が、ひときわシリアスな目を亜実に向けた。
「もうこれ以上、音楽に嘘はつくな」
一度、顔を上げて悠介と視線を合わせた亜実は、ゆっくりとうなだれて、胸の底から絞り出すような声で言った。
「…………は、い」
たくさんのため息が、一斉に音楽室の中に響いた。ようやくにして、やっとのことで、それは一人の女の子の幻の恋が、終わった瞬間だった(by ミサミサ)。
「深江、おどれ、過去に囚われすぎじゃ」
相変わらずの飲み屋のご意見番みたいなふんぞり返った姿勢で、桐香が傷心の亜実に声をかけた。
「去年の敵を討ちたいとか思うとったんじゃろ? 違うか?」
「……かも、知れません」
また何の話をしてるんだろう? 去年って、やっぱりコンクールのこと?
「あれはもう、とっくに終わった舞台じゃろうが。今年の舞台は違う」
「おお、さすが御大がおっしゃると、貫禄が違いますな」
「ふん。おどれとは気合の入り方が違うわい」
悠介と桐香の会話も、だんだん普段の他愛のないジャブになってきている。美緒自身も、さっきのショックからある程度立ち直れてきたような気はする。まあ、今考えても仕方ないことだし、とりあえず目先の目標に集中するしかない、と思う。でも……亜実先輩の過去って?
「去年の敵を討つってなんですか?」
隣にいた貴之へ、まともに質問をぶつけてみる。ちょっとだけ答えにくそうな色を見せた貴之は、でも今回はごまかしたりはせず、
「深江は……去年、二番吹いてたから」
ちょっと感慨深そうに答えてくれた。
「あいつは知ってるんだよ。去年の、あのステージを。だから……」
何が「だから」なのか。そこは言葉にならなかったようで、貴之はそれ以上説明してはくれなかった。
毎度ながらくすぶった気持ちが残って、でもいつになく部員たちの真面目な一面を見たような気がして、これはこれで貴重な体験をしたなあと、美緒もちょっとしみじみしてしまう。
ふと、何かを忘れてるような気がした。亜実先輩のこれは、今度こそ一件落着のはず……なんだけど、何かまだ……。
何気なく右方向を見ると、茅葺知夏が何かを言いたそうに美緒の方をチラチラ見てる。ん? と目を合わせると、知夏が体を引いて、さらにその右隣りの人物を小さく指さした。
まるで三日三晩立ち尽くして意中の人を待ち続けているかのような、諦観と郷愁に満ちた姿で、白木部浩太が亜実をぼんやり見つめている。
二、三度瞬きして、ようやく美緒は頷いた。
「あー…………」
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