第34話 そのハイCは僕が支える。


 水曜日の昼休み。美緒は音楽室に続く階段を一人で上っていた。

 樫宮中の吹部に昼休み練習はない。ついでに言うと朝練もない。防犯上の理由もあって、部活の時以外は楽器庫に鍵がかかっているので、自主練習すら不可能。だから、この時間に音楽室へ来ても、部員は何もすることがない。ひいては、昼休みに音楽室近辺で騒ぎ立てる生徒などは出ないはず。

 ……というのは、しかししょせん大人の理屈なんであった。

「ほんとにいたんですね」

 美緒が立ち止まったその先、音楽室前の廊下で、深江亜実は一人自主トレに励んでいた。マウスピースになにやら管をつけて、やかましい草笛みたいな感じの音をびぃびぃ出しながら、何かの曲の練習をしてたようだ。

 窓に向かって音を鳴らしていた亜実が、ガラスに映った美緒を認めて振り返る。

「誰に聞いたの?」

「滝野先輩です」

 むろん、昼休みにこの場所にいることを、である。昨晩の電話で美緒は、亜実がほとんど毎日のように、昼休憩をトランペットの修練に振り当ててきていたことを知った。

 普通に考えれば、練習のしようがない、と諦めそうなところを、亜実はできる限りの工夫をして、楽器こそ使わないものの、それなりに内容の濃い自主トレ方法を編み出していたのだった。

 でも、今はそのことについて語り合ってる場合じゃない。

「美緒ちゃんも自主トレを試す気になった……って感じじゃないよね。返事、考えてくれたんだ?」

「はい」

「どっち?」

「ごめんなさい、チューバに来てもらうのは、ムリです」

 少しだけ、亜実の眉が不快な形に曇った。

「滝野先輩がファーストにふさわしいかどうかは、私はなんとも言えません。でも、そう主張するためにチューバへ移るっていうのは、何か違う気がします」

 なんだかいい子ちゃんが正義の主人公やってる、メジャーどころのマンガみたいだなあ、と内心では思う。こういう優等生気取りなことは言いたくないんだけど、この場合は正論を持ってくるしかないようだから仕方ない。

 亜実の口元がくいっと嗤う形になった。こっちはこっちでなんだか学園マンガの悪役みたいだ。

「美緒ちゃん、そんなこと言っていいの? 一応私、先輩なんだから、機嫌損ねないほうがいいよ?」

「……亜実先輩は、そんな人じゃないって信じてます」

 実は信じてないけど、ここは演技だ。こういうテンプレの応酬をやっていたら、必ず最後に善玉が勝つはず……と美緒は勝負に出たのだった。

 のだけれど。

「あそう。じゃあ、美緒ちゃんのペットに移る件は、私の権限で握りつぶすってことで」

「えっ!?」

 まとっていた正義のオーラが、綿ぼこりのごとく消し飛んだ。宇宙一おめでたいとか言われても仕方ないのだけれど、今の今まで美緒は、亜実がその手で来ることを全く考えてなかったんである。

「そ、そ、それは」

「それは、何?」

 ソンナコトシタラ、まっくすガ許サナイ。どこかからそんな声が聞こえた気がした。

「そんなことしたら、マックスが許さないんだからっ」

「マックス? ああ。例のぬいぐるみさんが、私に何をしてくれるの?」

 余裕で問い返す亜実。言葉に詰まった美緒の耳に、再度声が届いた。一生、虫歯デ苦シムデアロウ。

「亜実先輩は、一生虫歯で苦しみます!」

「え、マジ? ちょっとそれシャレにならないんだけど」

 イヤナラ、今スグ美緒チャンヲはぐシナサイ。

「それがいやなら、今すぐ私をハグして……って、はぁっ!?」

 闇の声の怪しさにようやく気づいた美緒が、慌てて後ろを振り返る。廊下の一角に古いテーブルが置いてあって、その下で何かが動いた。手を突っ込んで引っ張り出すと、「きゃん」とか悲鳴を上げながら、浪瀬三砂がまろび出てきた。木目のフロアに転がりつつ、しかし三砂はメモとシャーペンを手放さない。

「やっぱり……」

「あんたか、ミサミサ」

 でへへへ、と笑いながら、立ち上がった三砂がスカートの汚れを手ではたく。

「何してんですか、こんなとこでっ」

「え? もちろん、二人の息づまる対決をこの目で見ようと」

「どこでネタつかんできたっ、キサマ」

「いやあ、タイミング的にこの昼休みは何かが起こるなと。物書きの勘ってやつ?」

「他人事だと思ってっ。だいたい三砂先輩、亜実先輩がパート移るって聞いて大騒ぎしてたじゃないですかっ。一緒に説得してくださいよっ」

「ああ、それね。もういいの。ストーリーの方はちゃんとつじつま合わせておいたから」

「ストーリーって何!?」

「あんた、まだアレ書いてたの?」

「うん、なんか今頃になってPV数が増えてきちゃってさあ〜。これは継続かなと」

「あのですね、今話してるのはっ」

 キレかけた美緒がつい声を荒らげそうになった時、階段の方角からぶいぶい音をさせて、新しい誰かが近づいてきた。

 マウスピースに、やはりなにかの管をくっつけて、歩きながら吹き鳴らしている、ちょっと冴えない男子部員。トロンボーンの白木部浩太であった。ぽっちゃり型の顔を上げ、美緒たちを認めると、

「あれ? 今日はみんな集まってるんだ。じゃあ一緒に……」

 言いかけた浩太の足がぱたりと止まる。見るからに何か揉めてる様子の美緒と亜実、その横でメモ帳を手にしてる三砂。触らぬ神に祟りなしと判断したようだ。

「あ、ごめん、今日はやめとくわ。じゃあ部活で――」

 急いで百八十度方向転換したその背中へ、間髪を入れず三人分の手が伸びる。

「ちょおーっと待ってもらえますか、先輩!?」

「なんで逃げるの、コータンっ」

「いやいや先輩、ここはぜひ……え、コータン?」

 美緒たちと一緒に浩太の襟をひっつかみながら、三砂が亜実を問いただした。

「アミン、白木部先輩と付き合ってるの?」

「え、なんで? コータンは練習友達だよ」

「友達って……」

 美緒が強引に浩太を振り向かせてがなりたてる。

「白木部先輩、一緒に自主トレ付き合ってるぐらいなら、先に説得してくださいよ! 亜実先輩にはずっと隣で一番吹いててほしいんでしょう!? そう言いましたよねっ!?」

 きわどいセリフの暴露で、三砂がいっぺんに目を輝かせた。

「えっ、いつの間にそんなラブコメな展開がっ」

「ええええっ、い、いやあ、僕は――」

「このまま亜実先輩がチューバに移っても平気なんですかっ?」

「へ、平気じゃないけど、まあ、チューバならチューバで一緒にカルテットできるなあと――」

 このヘタレがっ、と美緒の中で何かが弾け飛んだ。

「妥協してどーすんですかっ。先輩がそんなんだから、亜実先輩も勘違いして滝野先輩に告ったりしちゃうんですよっ!」

「わっ、い、今そんなことを――」

「ちょっと待って、勘違いって何?」

 低い声で亜実が割り込んだ。急に眼の前の不審者に気づいたように、眉を寄せて美緒を見てる。

「私は本気で悠介先輩に好きですって言ったつもりなんだけど」

 こうなったら、もう引けない。美緒は小さく息を吸い込んだ。

「亜実先輩、それ」

 最後の最後に、今一度言葉の選択を考える。いちばん穏やかな表現は? もっとも傷つかない言い方は? ノーアイデアだ。諦めて美緒は、ストレートど真ん中なセリフをそのまんま放った。

「それ、恋じゃないですっ」

 全員の動きが止まった。ずっと向こうでボールか何かで遊んでる生徒の笑い声が微かに聞こえる。美緒を見る亜実はまばたきもしないで、なんだかキツネにつつまれたような顔をしている。

「ど、どういう……意味?」

「そのまんまです。あの、失礼ですけど、亜実先輩……何かから逃げてませんか?」

「な、何の話? わけ分かんないんだけど。私はほんとに滝野先輩が好きで――」

「手を握ってほしいって思います?」

「……え?」

「ベタベタ甘えたいって思います? 朝から晩まで電話とかメールしたいって思います? 一日中相手のこと、考えたいって思います?」

「え? え?」

「思わないですよね。そうじゃなくて、一緒にペット吹いていたいんですよね。ずっと。それはでも、恋って言うのとは違うんじゃありませんか?」

 言い募りながらも、不安がないでもない。何しろ恋の形は様々。全然甘えたりせずに楽器を通じてだけで気持ちのやり取りをするようなつきあいがあってもいいはずだし、もし亜実がそんな開き直り方をしたら、美緒の人生経験なんかじゃ太刀打ちできない。

 でも、美緒にはささやかな確信があった。砥宮慶奈みたいなタイプならまだしも、亜実の中身はごくごく分かりやすい人間のはずだ。

 少なくとも難解な人ではない。有り体に言えば、つじつま合わせもできないままむちゃくちゃをやっている、ただの中二女子――長くはない付き合いながら、美緒は大胆にもそう判断したのだった。

「よおく考えてください。相手に1stを吹いてほしいってことと、恋してるっていうのとは全然別モノですよ?」

「……で、でも……」

「だいたい亜実先輩が好きなのは、滝野先輩の本体じゃなくて、音でしょう?」

「……いや、そんな……そうなの、かな?」

 美緒は浩太を見た。落ち着いた表情で亜実を見つめている浩太の目元には、若干申し訳なさそうな色が見える。いいかげん、この先輩にも何か言ってもらわないといけない。

「ほら、白木部先輩も」

「えっ、な、何?」

「見てて見ぬふりしてたんでしょう? 『音プレ』の」

 うっと浩太が喉の奥を鳴らした。

「誰かが言ってやらないといけないんです。だから」

 亜実を目で指して、あえて美緒はきっぱりと言い切った。

「これだけは先輩が言ってやってください」

 今度は何の話だろうと、戸惑ったように美緒と浩太を見比べる亜実。浩太は覚悟を決めたようにきりっと唇を引き締めると、背筋をまっすぐ伸ばして、言った。

「やっぱりあみーはペット辞めちゃダメだ」

「なんでそんなこと言うの? 私――」

「ハイCが怖かったんね? だから一番降りるって言い出したんしょ?」

 亜実が大きく息を呑んだ。声を返すのも忘れて浩太をじっと凝視する。

「音楽祭のプレリュード」、その最終部分。トランペットパートはその部分で曲中もっとも高い音のフォルテッシシモが要求される。1stの音は金管で言う「上の上のド」。プロのオーケストラでもしばしばコケる、そしてコケても「まあ仕方ないねえ」とぬるくスルーされがちなほどの、難度の高いハイノートだ。

 それを疲労のピークで、八拍のロングトーンで。

 中二にしてパートリーダーをそつなくこなしてきた亜実でも、相当なプレッシャーであるはずだ。これまでそんな素振りはほとんど見えてなかったけれど、実はこれまでの合奏では、彼女はほとんどハイCを出せていなかったのだ。2ndの音であるソの音に落として、コケた音にならないよう体裁を整えていた。そのように妥協する中学生は多いし、端嶋先生もムリならそれでいいと言っている。

 けれど、それじゃダメだ、という焦りはどんどん高まっていたのだろう。実際、出せるから。練習では何とか出せている。合奏でも挑戦すればいいと、他のペットの部員は内心で思っていたはず。それが分かっているだけに、ますます焦る。

 美緒が、1stのハイCに関する内輪の話を聞いたのは、昨日の滝野先輩との電話でのこと。正直、そんなことで亜実先輩が挫けそうになってるなんて、半信半疑だったけれど、さっきの、窓に向かってマウスピースで一心に練習してる姿を見て確信した。

 この人も音楽バカだ。

 それも、塔野とかに近い、単純一直線なタイプのバカ。

 だから、一人で勝手に、絶対ハイC出したいって思ってたはずだし、それで逆に追い詰められてパニクったりすることって……すごくありがちなことに思える。

 それは、隣で見ていた浩太も、美緒以上によく分かってたことのはず。

 浩太は口元にだけぎこちない笑みを浮かべて、

「ハイCなら出せる。あみーなら吹けるよ」

「わ、私……でもっ」

「僕がいる! 僕があみーのハイC、隣で支えるからっ!」

 ついにキメのセリフが出たっ……と美緒が内心でぐっと拳を握りしめた、その瞬間。

 糸が切れた操り人形みたいに、くたっと亜実が床へ崩れ落ちた。

「あみーっ!?」

「あ……あれ? いや、大丈夫……だいじょぶ、だけど……」

 亜実の意識ははっきりしているようでも、体に力が入らないようで、立ち上がれない。どうしよう、と美緒と三砂が顔を見合わせていると、浩太が思い切ったように、亜実の肩と膝の下を抱えて持ち上げた。

「「うわおっ」」

 噂に名高いお姫様抱っこ、それもリアルで、である。美緒たちが目を輝かせていると、でも中学生同士のそれは無理があったようで何秒ももたず、すぐさま床に軟着陸してしまう。

「危ないっ」

「うううううう、こ、これはなかなか」

 重たいものだね、とは口に出せないのだろう。がっちりした体格の大人じゃないんだから、そうやすやすと持ち上げられないのは分かるけど……うーん、ヘタレだ。

 結局、先生を呼ぶことになって、大人の手で亜実は保健室に運ばれていった。

「大丈夫かな?」

「案外、ただ気が抜けて脱力しただけじゃないんですか?」

 我ながら無責任な言い方かな、と思ったけれど、実際に美緒の言葉通りだったことは、保健の先生の無神経さもあって、ほどなく学校中に広く知れ渡ったのだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る