第33話 4ビートでいこう…ってどこに?


 敏感に反応したのは慶奈だった。上品にインストラクター役を務めていたところへ、横殴りにケンカ売られたようなもんである。悠介の滝下りに対抗するごとく、グリサンドでハイノートへと滝登りをやらかしてみせる。そこからはもうブルースなんだか前衛音楽なんだか分からない。押し問答みたいなパッセージのぶつけあいがあって、でもそのうちにだんだんまともなメロディーラインに戻り、いつのまにか古風なジャズっぽいきれいな競演になっていた。

(へえ、すごい)

 二パターンほど繰り返したところで、貴之がベースラインを吹きながら片手を上げた。そろそろ終わるよ、という合図。確かに、頃合いだという空気はあった。ところが、そんな流れに待ったをかけたい人々がまたも現れた。団体様である。トロンボーンが歩きながらシンコペーションをんぱんぱ鳴らして登場、さらにペットの他のメンバーたちもわらわらと。あ、だんだん収拾がつかなくなってきてる。

 吹き鳴らしたままじゃ文字通り話にならないんで、一部の人で基本の音をリレーしつつ、三年生たちが片手間におしゃべりを始めた。

「いや〜、これ久しぶりだね。おもしれー」

「そりゃいいが、こんなに集まってどうすんだ」

「いいじゃねーか。ここまま続けようぜ。音楽室まで歩いてってパーカスの連中巻きこんじまえ」

「乗るかな、あいつら」

「伊軒は乗るよ」

「そういや、ホルンはどうした」

「鳴野はこういうの、あんまり好きじゃないから。多分どっかでむくれてるんだろ」

「じゃあ仕方ないな」

 俺たち、こんなことしてていいんだろうか、とか、職員室から怒られないかな、なんて話をする先輩は誰もいない。お互いやめる気のないことを確認すると、エンドレスリピートでブルースを吹きながら、部員たちがゆらっと動き出した。どうも、本気で音楽室までマーチングやるつもりらしい。というより、チンドン屋?

 とは言え、美緒の体じゃチューバの歩き吹きなんて出来ない。あのう、私は、と訊く声も届かず、4ビートに浮かれっぱなしの人たちは去っていってしまった。

「もうっ」

 楽譜も楽器ケースもほったらかしだ。多分、他のパートもそうだろう。待ってたら帰ってくるんだろうけど、さてどうしよう、とあたりを見回したら、渡り廊下の校舎側の陰に誰かしゃがんでた。ぎょっとしてよく見ると、トランペット片手の女生徒が、ちょっといじけた風情で、コンクリの床にのの字を書き連ねている。

「あの……亜実先輩?」

 ちらっと美緒を見てから、またのの字に戻って亜実が言った。

「美緒ちゃんは行かないの?」

「いや、こんな重たいの持ってくのヤなんで。えと、電話の話ってあれでよかったんですか?」

「うん、これで成功。ありがとう」

「……じゃ、なんでそんなに暗い顔してるんです?」

 しばらく亜実は答えなかった。これはもう人生相談の領域かな、と美緒が思い始めたら、ぽそりと呟くように、

「うまかったでしょ、滝野先輩」

「え? ああ、そうですね。あんなこともできるんだなあと」

「私はあんなこと、できない」

 思わず亜実の目を見る。焦りのような、諦めのような、ひどく弱気な表情をしている。

「アドリブなんて無理。楽譜もらっても、多分無理」

「普通みんなできないと思います」

「でも悠介先輩はできた」

「それは、まあ滝野先輩は三年生ですから」

「じゃあなんで私がパートリーダーやってるの?」

「えっ」

 すがるような目で見られて、美緒は混乱した。それはむしろこっちが訊きたかったことだ。

「えっと、そもそも去年リーダー決めた時の理由って、どういう……?」

 シリアスに悩める主人公を演じていた亜実が、急に、ん? と素の顔で首を傾げた。

「さあ。いつの間にか決まってて」

「んんと、話し合いの場には、いたんですよね?」

「私? うん」

「その時、どういう話が」

「うーん、富海とどみうつわじゃないからって自分で言って、沖芳おきよし先輩は受験に力入れたいからって……」

 現レギュラーの他のメンバーを挙げながら、記憶を探り探り亜実が指を折る。

「滝野先輩は……なんか言ってたな。何だっけ? たしか裏のサンボーになりたい、とか?」

 それで副部長か。なんかあの人らしい。

「でも、トップはお前の方が向いてるからって、えらくマジな顔でそん時に」

「……それで、納得したんですか?」

「…………うん」

「じゃあ」

「でもっ! やっぱりさっきのなんか聴いてたらさ!」

 あ、なんか元の場所に戻ったような気が。どうも不毛なループに引っかかってるなあ。

 なんて思ってたら、だしぬけに亜実がマジな顔を振り向けてきた。

「で、どうなの。私、チューバに移れるの?」

「えっ!? 今、返事するんですか?」

「だって、見たよね? 滝野先輩、私なんかよりもファーストに向いてるよね?」

「いや、それは……」

 そうだと言えるんだろうか? 向いてないとは言わないけれど、何かが違う気がする。

「あみー、どしたん?」

 不意に、校舎の廊下側から、トロンボーンを持った人影が近づいてきた。顔を見て、あっと美緒は声を出しそうになる。白木部しらきべ浩太、あの亜実先輩に恋愛中という。

「顔が見えんから戻ってきた。なんで残ってるん? 面白れえのに」

「うん。……私はいいの。あれでみんな納得してくれたら」

「納得って何を?」

 微妙に言いにくそうな空気を察して、横から美緒が補足した。

「滝野先輩の方が、一番ファーストにふさわしいってことを訴えたいんだそうです」

「なんだ、まだ言ってるの、それ」

「だって」

「確かにあいつはジャズっぽいこと得意だけんど。それと、コンクールなんかでファーストが務まるのとは違うって」

「そんなことない」

「僕はあみーが一番吹いてる時の響きが好きだ」

 ドキッとして美緒は浩太の顔を見上げた。微かに力みのある硬さと、照れ隠しっぽいそらし気味の視線。間違いない。今の、すごく遠回しな告白だ。でも、タイミングとか言い方とか、ちょっとボケてない?

「私は、滝野先輩がトップ吹いてるとこで、一緒に吹いてるのがいいの」

 ごく平坦な声で亜実が返す。浩太が黙り込んだ。傍目には平然としてるけど、少し、いや、かなりがっかりしてるのが雰囲気で分かる。

 言わんこっちゃない、と美緒は内心で毒づいた。ムダにわかりにくい好意の示し方するから。

 なるほど、知夏先輩が密かにイラつくわけだ。にわかにいたずら心が頭をもたげる。ちょっとつついてやろう。

「お二人は仲がいいんですか?」

「えっ!?」

「うん、そりゃファースト同士だし」

 急に取り乱した浩太と、自然体で微笑む亜実。浩太はともかく、この亜実先輩の落ち着きは何だろう?

「ペットとボーンって、パートぐるみで付き合ってたりするんですか?」

「いやっ、まっ」

「うーん、そこまでの交際はないんじゃない? 私と滝野先輩とコータンが、まあよく話す方で」

 コータン?

「休みの日も一緒に出かけたり、とか?」

「そっそっ」

「そういうのはないかな〜。日曜とかは一人がいいよ。それか、ただ吹いてたい」

 思わず目を見開いた。見ると、浩太も同じタイミングで動きを止めている。なぜだかその瞬間に息がぴったりになった二人は、一度目を合わせ、改めて美緒が亜実へと問いかける。

「あの、亜実先輩は滝野先輩にラインで告白したって……」

「え? うん、そうだけど」

「付き合いたい、と思ってるんですよね?」

「うん、そう……かな?」

「仮にですよ、滝野先輩がオッケーしたとして……休日とかに一緒に何したいです?」

「え、一緒にいるとしたら、そりゃトランペット吹きたい……んだけど?」

 美緒と浩太がもう一度目を見合わせる。きょとんとした顔の亜実。なんとも言えない沈黙がその場に立ち込めた、その時。

 廊下の向こうからにぎやかな声が迫ってきた。あれ、もう帰ってきたのかな、と見てると、川棚芽衣がまっ先に現れて、言った。

「あ、今日はこのまま合奏だって。みんな音楽室に急げって」

「今日も? なんで?」

「だからあ。あんな、あたしらが音楽室に持ち込んだから、こりゃ全体で合わせるしかねえって先生が」

「怒っちゃったの?」

「違う違う。ノリノリで、弦バスの封印まで解いちゃってさあ」

「げっ」

 樫宮中の吹奏楽部に弦バスパートはない。楽器はあるのだけれど、何年か前に常設パートとして置くのは止めたとのことだ。曲によっては、超短期限定で希望者を募ることもあるとか。一つには、端嶋先生自身が弦バスの手練てだれだから、その気になればいつでも教えて復活させられると思ってるのかも知れない。

 その、当面お蔵入りになってるはずの弦バスが姿を見せた。これはもう、今日の後半はブルースが吹き荒れるのは必至のような気がする。

 やれやれ、と改めて移動の段取りにかかっていたら、亜実が美緒の半袖の裾をぎゅっと引っ張った。

「そう言えば返事、ちゃんと聞いてない。美緒ちゃん、納得してくれたの、くれてないの?」

 エンドタイトル間際で、振り切ったはずのゾンビに土の中から足首をつかまれた気分。何呼吸か、亜実と無言で見つめ合ってから、美緒はかろうじて答えを絞り出した。

「もう一日だけ……待ってください」

「分かった」

 もちろん一日で何とかできるなんて、美緒はかけらも思っちゃいなかったのだけど。



 夜。

 滝野悠介との電話を終えた美緒は、ふうっとため息をついて、リビングに出てきてソファに腰を下ろした。

 これまでの印象が印象なんで、悠介と一対一で話す気にはなかなかなれないでいた。でも、明日までに亜実先輩の件にケリをつける、なんてはずみで言っちゃったから仕方ない。腹をくくって電話を取ったのが三十分前。

 音声回線越しに話をした悠介は、普段より数段物分りのいい先輩に思えた。なんだか知的な感じすら漂ってた気がする。メール越しだとキャラのイメージががらっと変わるという話はよく聞くけど、電話もそういうところがあるらしい。結構活発な議論を交わしてた気もする一方で、じゃあこれからどうしようか、というあたりは妙に空疎だ。一体どんな結論だったんだっけ?

 ぼーっと考えこみながらソファから動かないでいると、いつの間にか父親の映画タイムに差しかかっていたようだ。成り行きで映画を流し見る体勢になってる。お、また見る気か、というように、父親がちらりと美緒の横顔を見た。

 今日の映画はホラーでもSFでもない。タイトルを見損ねたままぼんやり画面を眺めてると、どうも時代劇コメディみたいなノリだ。難破した外国船が東海道だかのどこかの岸に漂着して、三人の黒人がお城に連れられて、持っていた楽器の演奏を殿様の前で披露する、という筋。

 黒人が鳴らしたフレーズは、美緒が昼間吹いたのとどこかイメージが似通ってて――思うに、こういうのこそが本場のブルースってやつなんじゃないだろうか――まあそれはいいんだけど、そこからがむちゃくちゃで、クラリネット(かトロンボーンか、コルネットか)から始まったたった一つのメロディーにおさむらいたちがみんな夢中になっちゃって、笛とか太鼓とか引っ張り出して、頑強に抵抗してた家老のじいちゃんまで開き直って小鼓ポンポン打ち出して、全員でひたすらひたすら合奏を続けるって流れ。

 そのうちに戊辰戦争が始まって、世間は大騒ぎになってるんだけど、城の中はいつまでも合奏(こういうのはセッションっていうらしい)が続いてて、みんなほとんどヘロヘロになってるのに、でもやめようとしない。楽しくて仕方がないから。

「これ、今日、うちであった」

 つい片言みたいな日本語を口走ってしまう。父親が黙って美緒を振り返った。

「ブルースの、すごく短い曲みたいなの、やったの。そしたら、止められなくて延々と繰り返して、続けてたら他のパートもどんどん集まってきて」

 何年ぶりだろう。その日あったことを、こうやって父親に向かって面白おかしく報告する、なんてのは。隣の父親は、ただ黙って、でも少なくとも不機嫌そうではない様子で、美緒の話を聞いている。

「最後はお祭りみたいになったの。なんか、みんな大喜びで」

「そうか」

「ただのリズムパターンの練習みたいな楽譜だったのに、なんであんなに盛り上がったのかな」

「本来、音楽とかリズムってのはそういうもんだろう。楽しんだ者が勝つんだ」

 つい美緒は父親を振り返った。すぐに映画に戻って、もう口は聞かなかったけれど、なんだか妙に響く言葉を聞いた気がした。

 楽しんだ者が勝つ。

 そう、今日は楽しかった。置いていかれた時は腹が立ったけど、結局音楽室で仕切り直しになって、そこからは存分に楽しめた。まあ、木管は今ひとつノリが悪かったし、大人数をバランスよくセッションするってのは難しい。今後に課題は残ったものの、だいたいみんな楽しんでたんじゃないかな。そうじゃなかった人がいるとしたら――

 やっぱり亜実先輩か。

 アドリブが苦手、という子はいくらでもいた。というか、ほとんどそうだった。でも、だからこんなの面白くない、なんてダダをこねる人はいなかったように思う。

 あの人は……あの人も、本来ならセッションの渦の中で、率先して音を鳴らしまくるタイプのはずなんだけど。うまく出来るとか出来ないとか考えずに。

 あんな風に、縮こまった姿で一番ファースト下りたいなんてゴネてるのは、亜実先輩らしくない。

 じゃあ、どうしたら? 私ができることは何だろう?

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