第32話 ブルース・ザ・ブルース。

 その夜の九時きっかり、加津佐家のキッチンで電話が鳴った。

 出ようとした父親を制して、美緒はレシーバーをひったくって自分の部屋に移動した。

「もしもし、加津佐ですが」

『あ、樫宮中学吹奏楽部の深江って言いますけど、美緒――』

「はい、私です」

『え〜、美緒ちゃん? へえ、すごいね、なんか電話慣れしてるねえ』

「え? そうですか?」

『うん、してるしてる。もう、今どきの中学生なんてさー、自宅番号は知らない、電話のとり方も知らない、何かの連絡で私の家にかけてって言ったら、怖いからヤダとか、訳わかんないこと言うしさー』

 先輩、今おいくつですか、と訊きかけて、やめた。言いたいことは一応分かるし、それに、三砂経由で「自宅の電話番号を教えて」という一文を受けた時から、なんとなくこういう会話を今晩することになるんだろうなという気はしていたのだ。

 美緒が電話慣れしているのは、ただの成り行きだ。父親はともかく、母親が自分の端末を持ち始めたのが結構遅かったので、学校や親戚からの連絡など、どうしても固定電話を通じてになり、けれども当の母親はパートで家を空けることが多かったから、いきおい応対は娘たちの役割になった。

 一方で、最近は電話の使い方を知らない若者が増えている、なんて話題がよく取り上げられるせいで、たまにどこかからかかってくるたび、この手のどうでもいい会話が発生する。正直、誉められても別段嬉しいことじゃない。

「でも亜実先輩も使い慣れてる感じですけど」

『あ、それは滝野先輩がいるから』

「え?」

『知らなかった? あの人も、美緒ちゃんと同じなんだよ。スマホもケータイも持ってないの。そんな余裕はないんだって』

 ああそうか、となんとなく納得する。実は、滝野悠介は美緒と同じ公営住宅の住人なのだ。棟は別でも、距離的にはご近所さんで、学校の行き帰りだってしょっちゅう姿を見る。

 もちろん、ここの住人イコール貧乏人だとは限らないけれど、もしかしたら中流未満かなとは思っていた。やはり、うちといい勝負らしい。

『緊急の時は家に電話するしかないの。おかげで、なんか私も電話慣れしちゃってさ〜』

 そこはかとなくわざとらしいきゃぴきゃぴした声が、急にトーンダウンして、真面目一本な響きになった。

『で、私のパート替えの件なんだけど』

「あ、はい」

『返事はいつもらえそう?』

「えっ!? わ、私としましては、その、せめてもう少し事情を聞いてから、考えたいな、と」

『事情って? 変更を希望する理由ってこと?』

「まあ、そうです」

『ラインにはありのままに書いたつもりなんだけど。あ、もしかして、まだ見てもらってない?』

「いえ、三砂先輩のスマホ借りて、一応見ましたけど……」

 見ないわけにはいかないだろう、と思って、調査のつもりでライン画面を読んだ美緒は、卒倒しそうになった。大騒ぎになったらしい亜実の書き込みとは、こんな文章だったのだ。


  Trpの深江です。

  今度、チューバに伝染りたいです。

  りゆうは、滝野先輩が1stファースト吹いてほしいです。

  滝野先輩、好きです。


 短さもさることながら、内容的にひとつながりの文章とはとても思えない(美緒の感覚では、中学二年生の日本語だとも思えなかった)。

 当然、他の部員からの反応が質量ともにすさまじかったけれど、その発言以降亜実は沈黙を守り、有り体に言えば謎の怪宣言扱いになっているのだった。

 困ったことに、本人はあの四行で言うべきことは全て言ったつもりになっているらしい。

 入部当初に深江の下で指導を受けていた時は、ことさら変な人だとは思わなかったけれど、こうして同じパートリーダーの立場で見てると、確かにこの人はヘンだ、と思わざるを得ない。

「あの、あれだけだと、ちょっと納得しかねると言うか」

『え、どこが?』

「どこって……ええと、どうしてチューバなんですか?」

『人数が足りてなさそうで、私がすぐに音出せそうだったから』

 合理的な判断である。

「でもそれって……他のパートに移らなくても。ペットの中で『自分がセカンド吹くから』って宣言すればいいだけでは?」

『だから、それだと滝野先輩も本気で取り合わないって。ほっときゃ本番はなんとかするだろ、みたいな。他の楽器に移るぐらいのことやんなきゃ、一番ファースト吹いてくれない』

 なるほど、筋は通っている。と言うか、せめてそれぐらいの説明はラインでやっておいてほしかった。

「じゃあ後は……なんで滝野先輩にトップを吹いてほしいのかってことですけど」

『え、分かんないの?』

「えっ!?」

 ちょっと慌てた。自分に何か失礼な見落としがあった? それか、とんでもないうっかりミスが?

『美緒ちゃん、トランペット吹いてたんでしょ? だったら……あ、でも最近の曲じゃわかんないかなあ』

「え? え?」

 亜実の声は決して悪意まじりのものではなかったけれど、あんまりにも分かってて当然、みたいな言われ方だと、猛烈な不安に襲われる。

『でも美緒ちゃんが分からないってことは、他のみんなもそうなのかな? そうか、それでか……』

 なにか勝手に納得したようだ。美緒が何も言えないまま、亜実は気を取り直したように、

『ん、じゃあそこからだね。わかった。明日、さっそくやろう』

「な、何をですか?」

『何をって、滝野先輩がいかに1stにふさわしいか、みんなに納得してもらうための……えーと、プロジェクト? そうだね、じゃあ――』

 もとよりツッコめる立場ではないけれど、対等に話ができる相手だったとしても、美緒はその段階で何も言えなくなっていただろう。

 なんだかどんどん妙なことになっていってる。おかしい。今は六月で、樫宮中の吹部はコンクールに向けて練習に打ち込んでいる最中のはずで、あと一ヶ月もすれば本番だってあるのに。

 いったい私は何をしてるんだろう? エーストランペッターのご機嫌取り?

 いっそ、先輩のリクエスト通り、移籍をさっさと認めた方がいい。部長もそれでいいって言ってる。美緒個人としても、都合がいいことこの上ない。

 でも……と、そこで美緒は止まってしまう。それだけはやっちゃダメだ、と、頭のどこかで叫ぶ声がするのだ。最終的に亜実の希望を受け入れることはあるにしても、今それをやってはいけない、と。

「……はい、了解です。ではまた明日に」

 亜実からの指示を手元のメモに書き留め、美緒は電話を切った。無意識のうちに、今やすっかりおなじみとなったセリフが口をついて出てくる。

「何で私がこんな苦労を……」



 翌火曜日。美緒たちは曇り空の下、いつものように中庭の一角に陣取っていた。

 個人練習からパート練習にとりかかったタイミングで、美緒は貴之にさりげなく話しかけた。

「そう言えば先輩、パート練習用のこの楽譜なんですけど」

 樫宮特製の、ハーモニーパターンの練習で使っている楽譜集を差し上げる。

「これの後半ってリズムパターン集になってるんですけど、やったことないですよね。実は私、ずっと気になってました。音出してみませんか?」

 微妙にわざとらしいセリフ回しのせいだろう、貴之がいぶかしげに美緒をじっと見た。さすがにちょっと赤面してどぎまぎする。こういうお芝居は好きでもないし、得意でもない。

「……まあ、たまにはいいか。浪瀬はどう?」

「え〜、これ? どうしよっかな〜」

「うわっ、何じゃこら。すんません、俺、こんなリズム読めないっす」

「あ、そう? んふふふ。じゃあ練習しよっか〜」

 晶馬が悲鳴を上げたもんだから、却って三砂がやる気になったようだ。美緒は内心でほっとした。これでひとまず亜実への義理は果たしたことになる。正直、こんな練習を中庭でおっ始めて何の意味があるのか見当もつかないけれど、とにかく「リズムパターン集の最初の楽譜をみんなで吹いてほしい」というのが〝プロジェクト〟の中身とのことだ。

 かくしてその日のパート練習は、いきなり未知の領域に突入することとなったのだった。

 何が未知かと言って、そのリズム。

 リズムパターン練習というのは、大雑把に言うとポピュラー音楽の基礎パターン集みたいなものだ。ワルツとかマンボとか盆踊りとか、色んなジャンルのリズムの特徴がつかめるよう、各楽器用に四声部十二小節程度でまとめたアンサンブル譜になってる。それで一つのパターンになってるんで、リピートすれば延々と練習ができる。実はフル編成の全体合奏もできる。

 あくまでリズムパターン集なんで、メロディーはない。例えばタンゴその1だったら「ちゃ・ちゃ・ちゃ・ちゃちゃ/ちゃ・ちゃ・ちゃ・ちゃ」というリズム打ちだけで音符が並んでる。コード進行はちゃんとあるから、その上に適当なメロディーを載っけたら即席のタンゴにはなる。でも、逆に言えば伴奏部分だけの譜例集でしかないので、どうしても退屈そうな練習に見えてしまう。

 なので、せめてノリのいい曲からということなのか、一ページ目はいきなりブルース。バスが上がって下がってを繰り返し、残りの声部がシンコペーションのハーモニーをスタカートで鳴らす。

「加津佐、下やってみるか? 4ビートだからいけるだろう」

 貴之に促されて、美緒がゆっくりしたテンポでバスパートを吹き始めた。もちろん美緒はブルースなんて初めてだったけれど、吹いてみたらどこかで聞いたことのある音のパターンだ。


  ド・ミ・ソ・ラ/シ♭・ラ・ソ・ミ/

  ド・ミ・ソ・ラ/シ♭・ラ・ソ・ミ/

  ファ・ラ・ド・レ/ミ♭・レ・ド・ラ/

  ↓ド・ミ・ソ・ラ/シ♭・ラ・ソ・ミ……


 リズムが読めなくてオタオタしてた晶馬は、何回か繰り返すうちに耳で覚えたらしく、数分もすると一応アンサンブルの形になる。それじゃあとパートを交代したりして、だんだんテンポも上げていく。すぐに飽きるんじゃないかなと思ったのに意外と続く。というか、だんだん楽しくなってくる。

「こういうの、ウォーキング・ベースって言うんだ」

「働くベース?」

「それはワーク。ウォークは歩く。ごきげんに歩きながら、ぼんぼん音出してる感じ」

「お、なんかピッタリの名前っスね」

 なんだか本当にみんなごきげんになってきて、ここのリズム、こんなふうにしようかとか、今度はヘ長調でやってみようかとか、口でパターンを提案し合うようにまでなって、「ブルース」がいつまでも終わらない。

 そのうちに、恐れていたことが起きた。いや、期待していたことだろうか?

「あ、なんか面白いことやってる」

 サックスパートが乱入してきたのだ。リズムパターン集の譜面だと分かると、楽器だけ持ってきて美緒たちから耳コピーさせてもらう形で合奏が始まった。最初は同じ音を二パートで重ねていたのが、じきにアドリブでメロディーが入る。この手の音楽にも手慣れた慶奈が、一人で気持ちよさそうにぴらぴらと細かいパッセージを鳴らし始めると、みんなそれに絡もうとして、めちゃくちゃな響きになってきた。

「フリージャズじゃないんだからさあ」

 じゃあこうしよう、と、慶奈が短いフレーズを吹いて、一小節または半小節遅れでそれをエコーのように真似る、という形が提案された。美緒と貴之と法子はウォーキングベースを交代で吹き続ける。ハーモニーを入れたい者は入れる。これだけのルールでも、結構ちゃんとした音楽になってくる。

 みんなすっかり上機嫌で、じゃあそろそろ止めようか、という空気が見え始めた、その時だった。

 新たな乱入者が現れた。真打ち登場みたいな感じで、渡り廊下の果てから登場してきたトランペッター。さして上等でもない、学校備品のシルバーの安物トランペットを駆って、いきなりのハイノートから、滝下りみたいな高速のパッセージをブルースパターンに載せてくる。

 滝野悠介その人であった。

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