第30話 右も左も恋の季節。

 月曜日。美緒は昼休みに二年生の教室を訪ねた。亜実に会って、今日中に返事をするのは難しいことをいったん断っておこうと思ったのと、できればちゃんとした話を聞こうと思ったからだ。

 けれども二年三組に行くと、本人は不在だった。たまたま居合わせたトロンボーンの茅葺かやぶき知夏ちなつが言うことには、昼休みはいつもいないし、行き先を知ってる者もいないとのことだった。

「あの子、ちょっと変わりモンだから。何の用? ああ、ペットから移りたいって話でしょ?」

「え? はい、そうですけど……」

 ただでさえ美緒の倍近くある体格が、夏服になってさらに一回り大きく見える知夏である。ぶっとい腕を組みながら教室の入り口に立っていると、他の生徒が通る余地がない。迷惑そうな目を向けながらも、何も言わずに(言えずに?)体を横にして出入りする男子生徒が数名。一緒にいる美緒の方が申し訳ない気持ちになる。

「一年なのに大変だねぇ。人のコイバナに振り回されて」

「? コイバナ?」

「あ、ラインやってないんだ?」

「はい。ケータイとか、持ってないんで」

 そのままじっと次の言葉を待ってる様子の美緒に、知夏はちょっと迷ったようだったけれど、そのまま帰すのも悪いと思ったのか、

「本人がラインで言ってることなんだけどさ。要するにアミンは悠介先輩に一番ファースト吹いてほしいってことらしいのね。でも悠介先輩は一番はアミンしかいないって言ってて。つまり、それの抗議としてペット辞めるって言ってるみたいなの」

「えええ〜? それってパートの中でケンカってことですか?」

「そう、それ。つまりそれが、ズバリ恋だろうって」

「どういうことです?」

「だって、要するに二人で並んで一番を吹きたいってことでしょ?」

「……そうなんですかね?」

 ちょっと違うような気がする。

「どこからそういう説が出てきたんですか?」

「本人がラインで言ってたもの。『滝野先輩、好きです』って」

「ええええええーっ!?」

 なんだか話についていけない。一晩でいったいどんだけ話がねじくれたんだろう、と美緒は途方に暮れた。

「いやっ、でもっ、おかしくないですか? 好きだから滝野先輩に一番になってっていうのもヘンだし、自分がペットを降りるっていうのも――」

「まー、おかしいっちゃおかしいんだけど、元々あの子ヘンだし」

「うううううう」

「現に告白はしてるし、同じタイミングでチューバにも移りたいって言ったんでしょ? だったら、その両方はくっつけて考えるしかないんじゃない?」

「そうなのかなあ……」

 頭を抱えながら、ちらっと教室の時計を確認する。その様子を見て知夏が、

「まだ時間はあるよ」

「あ、はい。でも、三年の教室も回っておこうかなって」

「何しに? ああ、唐津先輩にも相談しようって? ライン見てるだろうから、事情は全部分かってると思うけど、あの人、多分大したことは言えないんじゃないかな」

 遠慮のかけらもない人物評価に、美緒は苦笑すらできなかった。

「ああ……そう思います?」

「思う思う。それよっかさ。特ダネ教えとこうか? これ、多分あたししかつかんでないことだと思うけど」

 つい緊張した顔を向けてしまう。中身の質はともかくとして、この手の好意をタダで提供するはずがないのだ、うちの部の先輩たちは。

「警戒しなくても、美緒ちゃん相手にあこぎな真似はしないよ〜」

 手のひらをパタパタさせてにんまり笑う。「肝っ玉母さん」の海千山千な顔でそんなこと言われても、到底信用できない。

「ま、いっか。あのさ、実はアミンのこの件って、三角関係なんだよね。もう一人いるの」

「ほぇっ? それって、つまり、滝野先輩狙いの人が別に……」

「違う違う。アミンに恋する男が実は一人いてってパターン」

「……なんで知夏先輩がそんなこと知ってるんです?」

「だって……」

 まさか、さらにその男に知夏が恋をしていて、という四角関係なんでは……とまで想像してしまい、美緒はちょっと怖くなった。でも知夏はなんだか素敵な映画の予告編を語ってるみたいな、切なくも感極まったような表情で、しまいには自分で自分の腕まで抱いて、

「いやでも気づかざるを得ないよ〜。あたしの隣りでずーっと人知れずアツい視線を送り続けてるんだからさ〜」

「知夏先輩の隣って……」

「そーだよ」

 はん、と急につまらなさそうな顔になって、鼻先で笑う。

「うちのヘタレリーダーだよ。一番ファースト同士、隣り合って一年近くだってのに、まったく意気地がないったら」


 トロンボーンパートリーダー、白木部しらきべ浩太、三年生。

 何も知らない人が練習風景を見たら、十人中八人が、二年生の知夏をパートリーダーと間違えるほど、謙虚で物静か。まあ、他の金管の先輩たちに交じってバカをやる時はやるし、ひとたび音を出せば、誰もトップを間違えたりはしないのだけど。

 本来トロンボーンは、他のどの楽器よりもチューバと縁が深いパートである。でも、美緒本人は未だにそんな印象はなくて、下手するとバリサクとか、あるいはこの前ちょっと揉めたけどバスクラとか、さらにはパーカッションなんかの方がまだしも一体感が得られる相手だと思ってしまう。

 これは練習してる曲のせいもある。「コンチェルタンテ」は斬新この上ない音楽で、テンプレ的な連携を意識するどころじゃないし、「音プレ」のトロンボーンはむしろトランペットとセットになってる形が多くて、ことさらチューバと仲良し、という感じではないのだ。

 最近になって手がける曲の幅が広がり、一般的にはむしろボーンとチューバが組む形の方が多いんだなあと、ようやく実感できているところ。でも、練習にかこつけて白木部先輩といきなり親しく会話をするというのは、さすがに無理がある。

 と言うか、なんで私が白木部先輩の恋の面倒まで見てやんなきゃならないの?

「だからさあ、さっさとくっつけてすっきりしたいの、あたしが」

 知夏の説明に、美緒はますます首を傾げた。

「それはやはり、知夏先輩自身が白木部先輩への思いを断ち切りたい、という?」

「なんでそういう解釈になるの」

「いや、普通そうじゃないですか」

「見ててイラッとするじゃん。それだけだよ。あたしは面食いなの。あんな坊っちゃんタイプの弱っちいの、むしろ弟ぐらいにしか見えないよ。いいとこパシリだね」

 上級生相手にすごいことを言う。

「だったら先輩の方で焚きつけるなりなんなりやってくださいよ。私は亜実先輩一人で精一杯なんで」

「あたしがドついても言うことなんか聞きゃしないよ、あのボンボン。でも、美緒ちゃんが二人をくっつけたら一石二鳥でしょ? どこの問題も全面解決じゃん」

「えー? そうなのかなあ」

 予鈴二分前まで待っても亜実は戻ってこなかった。微妙に荷物を増やした気分で、美緒はそのまま撤収するしかなかった。



 放課後。吹部の雰囲気は明るかった。唯一影を落としていたようだった唐津母の問題がいっぺんに解決して、少なくとも美緒の周囲では、三ヶ月遅れで春が来た、という雰囲気が満ち満ちている。

 とは言え、普段は飛ばないピンクのハートが多数舞い踊っている状態は、さすがにいかがなものか、との思いを禁じ得ない。

「貴之ぃ〜、練習スケジュールの修正プリント、仕分けするの手伝ってくれるぅ〜?」

「日曜のアレ、準備これでいい〜? 貴之、チェックしてぇ〜」

「曽田部長、ちょっと」

「ねー貴之、夏休みにさぁ〜」

「曽田先輩っ、おイチャツキのところ、すいませんがっ!」

 美緒が声を張り上げて、ようやく雪乃が胡乱な目を返す。練習時間の合間に部長を訪ねたのに見つからず、あちこちでたらい回しに遭った挙げ句、見つけたのは出発地である唐津先輩の隣。空き教室で練習していたバリチューバの縄張りに臆面もなく入ってきただけでなく、美緒以外のメンバーまで雑用に使役しているのである。チューバのパートリーダー代理としては、ええかげんにせいと怒鳴る理由は十分ある。

 って言うか、なんでこんなふしだらな……もとい、積極的な展開に? 昨日まで呼び方も「唐津」だったはずなのに。

「いーい? 美緒ちゃん」

 雪乃がいかめしい顔で真正面から美緒を見据える。いつもの苦労性の顔を数倍大真面目にしたような。

「私たちはね、長い長いトンネルの中にいたの。それが昨日ようやく外に出て、新世界を謳歌しているところなの」

「はあ」

 なんとなく、「私たち」というのが雪乃と貴之の二人のことだとは分かった。

「しなくてよかった別れ話も、これでチャラなの。これから全部やり直すの。今日はその一日目」

「えっ」

 横で聞いていた貴之が、びっくりした声を上げる。すぐさま雪乃は振り向いて、

「何。他に好きな子でもできたの?」

 剣呑な声で訊いた。

「いや、そういうわけでは」

「じゃあ、決まりね」

「き、決まりって……」

「お母さんの許可は取ってあるから」

「聞いてねーぞ!?」

「とにかく美緒ちゃん、そういうことだから。私たちは今、楽しいことや安心できること以外は聞きたくないの」

「……それって、国が滅びる時に皇帝とか国王が言ってフラグが立つ場面の」

「縁起でもないこと言わないでくれるっ!?」

 横で聞いていた三砂や晶馬がケタケタ笑った。仕方ないなあ、という顔でいつもの、相談を受ける時の姿勢になる雪乃。しょせんは傾国の姦婦などにはなりきれないマジメちゃんである。

「で、何?」

「急いで相談したいことがあるんですけど」

「ああ……その件ね。うん、もうそんなに気ぃ張らなくてもいいんだけどね。貴之も秋までは続けるんだし」

「あ、じゃあ断るってことでいいんですか? でも、それだけだと解決にならないような」

「うん、だからせめて美緒ちゃんが気の済むようにやってくれたらいいんだけど」

「って言うことは、えーと、たとえばですけど、亜実先輩を別の誰かとくっつけちゃうなんてことにしても?」

「はい?」

「え?」

 雪乃の動きが止まった。ケーキを受け取るつもりでタワシを手にした人のような思考停止した顔で、結構な時間を置いてから、あ、と慌てたように理解の様子を見せる。

「あ、あ、亜実ちゃんの話ね!? うん、ええと、美緒ちゃんの気の済むように――ってわけにいかないか。え、でも誰かとくっつけるって?」

「しばしお待ちを。いったい何の話だと思ってたんです?」

 一歩距離を詰めながら、目を細めた美緒がゆったりと訊く。雪乃は口元だけで笑いながら、じりっと後退しながら、

「何って、だからペットの中で滝野と亜実ちゃんが」

「プレゼンの話だと思ってましたね?」

 そう、明らかに雪乃は思い違いをしていた。でもそれはいい。問題なのは、さんざん人を熱っぽく口説いて引き受けさせたプレゼンが、いとも簡単に「気ぃ張らなくてもいい」イベントの扱いへと落ちたのはどういうことかという、疑惑の真相であって。

「……あ、そ、そろそろ私、戻らなきゃ」

「いえいえどーぞごゆっくりっ。なんでそんなに逃げ腰なんです!? 私のプレゼン、もうテキトーでいいってことですか!? どうして!」

「えええっ? な、なんだか怖いよ美緒ちゃん! もう、貴之ぃ〜」

「あー、加津佐、そうムキになるな」

「急にか弱いふりして男の影に隠れる女と、頼られてまんざらでもなさそうな男。これはこれで見てるとなんだかムカつく美緒だった」

「こいつも悪気はなかったんだって。その、俺が七月までしかやれないかもって思ってて、一つはそれで気ぃ回してくれたみたいでさ。俺はマジで加津佐がその気になるなんて思ってなかったんだけど」

「そういうまとめ方はズルい、と美緒は思った。三年生でよってたかってきれいな話ばかり。私の苦労はどうなるの? と」

「ちょっとミサミサ、勝手にナレーション創作しないでくれる?」

「え? 創作じゃないよね? 美緒ちゃんの心の声、この通りでしょ?」

 ああもうっ!

 なんでここの先輩たちは、どいつもこいつも! 話が全然進まないじゃない!


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