第29話 バカとブルータスと母の心。


「こいつがちゃんとチューバ吹けるようにしてやってくださいっ。こいつがまた酸欠でぶっ倒れねーように、それと、その排気なんとかってのにもならねーようにっ」

 多分漢字間違いのような気がしたけれど、切々と訴える晶馬の声はなんだか胸の中まで届くものがあったようで、一座はしんとして聞き入っていた。美緒本人は背中がむず痒くて、本当なら羽交い締めにしてでも止めさせたかったのだけど。

「どうか俺らに、オバサンの力、貸してください!」

 そう言って、深々と頭を下げる。さっきの先生の真似か、どっかのドラマの真似か。

「君、名前は?」

 いくらか興味を持った声で唐津母が尋ねる。

「塔野晶馬です!」

「晶馬君は、そのお嬢ちゃんとはどういう関係?」

「え? 同じ部員……ですけど?」

 真顔で答える晶馬。唐津母は、困惑したように、

「いや、その……つきあってる、とかじゃないの?」

「あ、それはないです」

 素の声で手をひらひらと振って否定する。つい美緒も一緒になって、手をひらひらさせてしまった。唐津母はちょっと混乱して、

「え、じゃあ、なんで君は、そのお嬢ちゃんのために頭下げてるの?」

 きょとんとした顔でそれを聞いた晶馬は、当然というように、

「なんでって、こいつはすげーけど残念な奴だからです! こいつの音があと一センチ抜けりゃ、すげー音になるんです!」

 なんでだろう。とても嬉しいことを言われてるはずなのに、ひどくイラッとくるような気がする。でも、唐津母には効果が出てるみたいなので、我慢した。

「ええと、その子の音がすごい音になったら、君は嬉しいの?」

「そりゃ嬉しーですね」

「どうして?」

「どうしてって……こいつの音が派手に抜けりゃ、俺らの音もまとめてすげー音になるじゃないですかっ。そうなったら、すげー音楽できるじゃないですか。んで、すげー音楽できたら」

 美緒は晶馬の顔を見た。どこかで見た顔だ。不細工で全然ときめきようもない、バカ丸出しの顔なのに、どことはなしにキラキラした、そう、これは音楽バカの顔。

「すげーおもしれーじゃないですかっ!!」

 目を丸くして晶馬を見つめていた唐津母が、不意に口を上げて笑いだした。美緒の見たところ、それはおサルさんの上手な曲芸に手を叩いている観客の笑い方そのままだったけれど、不思議と邪気の感じられない笑い声だった。

「ああもう。しょうがないなあ」

 涙を拭きながらそのまま元の席に戻り、パイプ椅子の上のポーチなど手にしてから、唐津母は言った。妙に楽しそうな声で。

「いいわ。これで負けといたことにしてあげる。そこの、無自覚な君のスピーチと、チューバのお嬢ちゃんの音に免じてね」

「え、それじゃ……」

 小さく声を上げた雪乃には何も言わず、唐津母は端嶋先生に軽く会釈しながら尋ねた。

「先生、準備室でお待ちしていてもよろしいですか? グループレッスンの件、この後で詰めさせていただきたいのですが」

「分かりました。では後ほど」

 全く意外そうな様子もなく先生が答えると、唐津母はいったん部屋を出ていきかけて、急に自分の息子に振り返り、

「あんた。責任はちゃんと取んなさいよ。その子、あんたのせいで今日はひどい災難だったんでしょうからね」

 美緒を指さして言う。まるで全部見抜かれてたような言われ方に、美緒はどきっとした。

「きっちり面倒見てやんのよ。あんたみたいな病院通いにならないように」

 それから美緒にだけニコっと微笑んでから、そのまま音楽室を出ていった。

 しばらくの間、沈黙が降りた。

「成功、したのか?」

 ぽつりと呟いたのはペットの滝野先輩。曽田部長もまだはっきりしない顔で、

「話、通ったんだよね?」

 少しだけやれやれ、という顔で、端嶋先生が明晰に言い切った。

「全部キミらの希望通りだよ。講習は開かれるし、唐津君は退部はしない」

「お……」

 おおおおおーっと、やっとのことで大きな歓声が沸き起こる。事情を聞いてなかった主に木管の部員たちが、え、つまりどういう話だったの、と困惑顔で周りを見回している。貴之は悠介や光一や、もちろん雪乃にも囲まれて、祝福の言葉を受けていた。貴之自身は嬉しそうと言うより、ほっとした表情だったけれど。

 先生がパンパンと手を叩いて、声を張り上げた。

「はい、ちょっと終わり方がイレギュラーになったけど、もう時間もないし、練習はここで終わりにしよう。しっかり後片付けして、戸締まりだけは僕がやるから、さっさと帰るように。お疲れ様でした!」

「「「ありがとうございました!」」」



 部員たちの立ち話はなかなか終わりそうになかった。市吹の人たちは早々に自分たちの練習へ向かったようだけれど、後はただ帰るだけの生徒たちはのんきなものだ。校舎から出たところでたむろしたまま、どのグループも一向に校門に向かおうとしない。

「なんでうまくいったんだろう?」

「それはやっぱり塔野の捨て身の直訴が効いたんだろ」

「よかったな、塔野。お前、きっとかっけー主人公役で小説書いてもらえるぞ」

「マジっすか、それすげー!」

「んじゃあ、タイトルは『氷結の黒魔女とユーフォ使いのショーマ』ってことで」

「すげー、すげーっ」

「クライマックスは、そうねーやっぱり、幼なじみの剣士ミオンを救って黒魔女と対決するシーンね」

「おお、すげーっ……え、ミオン?」

「じゃあ、カバーイラストはミオンを腕にかばって黒魔女とガン飛ばし合ってる場面とか、どうかな?」

「え? 浪瀬先輩、あの、それ……」

 例によってバカだらけの会話に興じている金管の面々を横目で見ながら、美緒の顔は晴れない。とにかく疲れた。心身ともに。

 例によって訊きたいことはいくらでもあるんだけど、貴之も他の三年生たちも、もくろみとやらが達成できて余韻に浸ってるみたいで、あまり質問攻めにできる雰囲気じゃない。もういいから芽衣ちゃん連れてさっさと帰ろう、と思って親友の姿を探す。

 川棚芽衣は、バカどものど真ん中にいた。

 あんたもかブルータス、と覚えたての歴史名言を心中で呟いて、今際いまわきわのカエサルもかくやの、憂いに満ちた目を友に注いでしまう。周囲の影響でハイになってるらしい芽衣は、三年生たちから強引に塔野を引き離して、今しもろくでもない誘導尋問を始めたばかりだ。

「ほらあ塔野〜、いいかげん白状しろよ〜、美緒ちゃん抱きとめた時、どんな気分だったんだぁ〜?」

「だだだっ、抱きとめてなんかねーし! 俺はっ、チューバつかんだだけで!」

「おやあ、そうだったかぁ〜? チューバごと抱いてなかったかぁ〜?」

「せ、先輩までっ! んなわけないっしょっ。楽器つかむの、ギリギリで……あっ、加津佐! お前からも何とか言えっ!」

 芽衣と法子に絡まれて往生している晶馬をまじっと見てから、美緒はそのままきびすを返して校門に向かった。

「あああーっ、てめぇーっ、この薄情もんがぁー!」

 一応「ありがとう」ぐらい言っておこうと思ってはいたんだけど、あんな面倒なシチュエーションはイヤだ。さっさと帰って少し寝っ転がりたい。もらったテープ聴いて……と考えてから気がついた。カセットテープ、音楽室に忘れてきた!

 慌ててもと来た道を駆け戻る。何をやってるんだろう、と芽衣たちがヘンな目でこちらを見てる。先延ばしにするのも億劫だったから、すれ違いざまに晶馬へひとこと声をかけておく。

「さっきはありがと」

 微妙な顔で美緒を見送る晶馬。無理やりという感じで芽衣たちが冷やかしているのが聞こえる。帰りはどこか別の出口を探したほうがいいかも知れない。

 靴下のまま三階まで駆け上がり、照明がまだついてる音楽室へ向かう。確か先生と唐津母が話し合いをしているはずだ。つい忍び足で部屋を覗くと、誰もいない。いちばん奥の棚に置きっぱなしだった荷物を回収すると、さっさと引き上げようと廊下に戻る。

 小さな笑い声が聞こえてきたのは、その時だった。隣の準備室からだ。

「ほんとに? 偶然にしては出来すぎなんじゃありません?」

「いいや、ほんとに。唐津先生にそんな美しい思い出がおありとは、微塵も思っておりませんでしたとも。まあ部員たちが、トップにあの曲を吹きたい、と言って来たのは事実ですけどね」

 何の話だろう? ついつい細く開いているドアの横まで近寄っていってしまう。

「『カドリーユ』は……あの曲だけは特別なんです。たぶん叔父の大学バンドか何かの定演だったんでしょうけど、幼い私はすごく気に入ってしまったようなんですね。聴き覚えたメロディーで何ヶ月も歌って踊ってたらしいんですけど」

「小学校前でしょう? すごいですね」

「いえいえ、お恥ずかしい。ほんとに、あの子もどこから聞いてきたのやら。多分実家の誰かからなんでしょうけれど」

 ああ、と美緒は思い出した。「カドリーユ」で唐津先輩と唐津母の間に妙な空気があったようなのは、こういうことだったのだ。数少ない母親のお気に入り吹奏楽曲で好印象を得よう、という。

 要するにゴマすりだったわけね。

「まあ、先生ぐるみでなかったのならいいんですけど……でもあの女の子は……あの、チューバのちっちゃい子のことは、もちろん先生もご承知だったんでしょう?」

 明らかに自分のことだ。ちょっとドキッとして、つい前のめりで聞き耳を立ててしまう。

「ご承知、というと?」

「お人が悪い。貴之の後輩がああいう子だと知っていれば、私も色々と納得できたんです。……どのみち、直に見るまでは信じられなかったでしょうけどね」

 んんん?

「どうやら貴之は、あの子さえ見せれば話が通じると踏んでたみたいですし、事実そうでした。あんな子がいたら……加津佐さんって言いました? それは、いくらでも欲が出てきますよね。ああいう子って、これから台風の目になったりするんじゃありませんか?」

「さあ、どうでしょう」

 曖昧に笑う先生。なんだか、そんな質問を受けること自体が楽しくてたまらない、というような声の響き。

「お分かりでしょうけど先生、私はね、怖かったんです。命に関わらない疾患とは言っても、息子が音楽にのめり込んで体を壊していくのがね」

「よく分かります」

「だから、去年の繰り返しみたいな雰囲気を感じて、これは止めないとダメだ、と思いました」

「親御さんとしては当然だと思います」

「でも」

 また含み笑い。なんだかとてもウケるネタが、さっきから二人の間で成立しているらしい。

「ああいうことだったなんてね。あれなら、少なくとも去年と同じことになったりはしないでしょう。貴之がそのことをもっときちんと説明してくれればよかったんですけど、まああの子には無理かしらね」

「親子で理性的な話し合いは難しいですよ。まして、あの年齢ではね」

「全くね。――私は今でも怖いです。でも、なんだか楽しみな気分にもなってるんです。あの子たちがどんな音楽を作るんだろうってね。それに気づいてしまった以上は……もう、子供たちをけしかける方に回るしかありませんね」

「けしかけるまでもなく、あいつらはもう突っ走ってますけどね」

 イスのきしむ音と書類をまとめる音。そろそろ会談も終わりだろうか。

「去年、あれだけの経験をしたんですから、今の部員たちの思いは痛いほど分かる。私も一度通った道だし……去年の件では私にも大きな責任がありますからね。でも、唐津先生がお手伝いいただけるのなら、とても心強い」

「いえいえ、どこまでお役に立てますか――」

 二人が立ち上がった気配がした。いくらか混乱気味だった美緒は、はっと気づいて、大慌てでそのまま廊下をひた走る。見つかっても大目玉を食らうことはないだろうけど、何となく、聞いていたのを知られたくなかった。というより、自分が何を聞いたのかよく分からない。何の話だったの?

 なんだかすごく楽しみなことを話し合ってるようにも聞こえた。美緒自身が、その重要な材料であるみたいな。

 私はいったいこの吹部の何なんだろう? 先輩と母親が口論になった、私がその理由の一部みたいなことも言ってたっけ。でも、「去年の繰り返し」って? 「あれだけの経験」って? それは私とどう関わるの?

 これは先輩たちに訊かないとどうしようもない、と思って一階の出口にたどり着くと、もう誰もいなかった。あれだけの人垣がいつ動いたのやら。

 芽衣も晶馬も先に帰ってしまったようだ。ま、顔を合わせたら面倒そうだったからいいんだけど――と思って脱いであった靴に足を入れると、かさりと音がした。何かの紙切れだ。ノートの切れっ端に、なぐり書きみたいな文字で何かメッセージがある。


  明日は必ず返事ちょうだいね!  アミン


 深江亜実からの書き置きだ。これがあったか〜! と美緒は額に手を当てた。大騒ぎがようやく一件落着したばかりなのに……この吹部は、いったいどんだけトラブルの種が芽吹き終われば平和になるんだろう……。



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