第28話 なんでオマエがこの場面で!?
思いがけないところでの大ピンチ。でも、美緒本人にはミスの自覚はない。何と言っても、貴之と一緒にこのパッセージは、これまで何度となく吹いているのだ。
やっぱりボリューム不足かな、と思ったので、がんばって三割ほど音量を上乗せして、ソロを披露する。ミスなく吹いた美緒に、先生はいささか困った顔で、
「音は合ってる……けど、何かが……えーと、他の低音パートとアクセントがズレてるみたいだから、合わせて――」
「でもあの、楽譜通りだと思うんですけど」
思った通りをそのまま返した美緒の言葉で、えっと先生がスコアに食らいついた。老眼で見えにくいのか、大判の冊子を両手で掲げて少し離し気味にし、目を眇めて音を確認している。
「いやでも、その切り方変でしょ。なんでそんな吹き方するの?」
小バカにするような声で美緒を振り返ったのは、バスクラの二年生、
「前のとことおんなじ吹き方しなきゃ。最初のソロの繰り返しだよね、ここって? 妙な数え方したらダメだよ」
「でも、ここって、その」
自分の考えをうまく言えないまま、美緒が口ごもっていると、紫帆はさらに畳み掛けた。
「そこは『すみませんでした』でしょ。言い訳なんかしないで、ちゃんと合わせなよ」
「そこ、美緒ちゃんの方が正しい。間違ってるのは他のパート」
いきなり冷え冷えとした反論が差し込まれて、紫帆はもちろん、部員全員がぎょっと声の主を振り向いた。砥宮慶奈はアルトサックスの席から楽団全部を
「私のパートと直接関係ないから黙ってたけど……アクセント、縦向きと横向きと二種類あるよね。それを吹き分けたら、ちゃんと美緒ちゃんみたいな音になるはずなんだけど」
今さらのように、自分の楽譜を覗き込む該当パートの部員たち。それでも紫帆は納得できないように、
「でもっ、これ、前のとこでそんな吹き方――」
「ここはもう前の部分と違う音型なの。ストレッタ入ってるから」
「あ、そうか」
先生が間の抜けた声を上げた。確認するように、慶奈に指を向ける。
「テーマを圧縮してるから、ここは真ん中で切らなきゃダメなんだ?」
「そういうことです」
「しまったな。これは僕の見落としだった。うん……加津佐さんが正しい」
えええーっと、小さいながらも複雑な声音のさざなみが、音楽室全体に行き交う。先生はようやくにして指揮台から顔を上げて、美緒を見た。
「いったいなんでそんな吹き方ができたの? ネットか何かで調べた?」
「いえ、その……こう吹かなきゃおかしいって思ったから」
「おかしい? なんで?」
「だってバスドラが――ドンって入るでしょ。だったら当然」
美緒の言葉が全員に分かる日本語に翻訳されるまで、しばらく時間がかかった。
つまりはこういうこと。美緒たちが吹いていた部分は、バスパートにテーマの繰り返しのような音型があって、でもその真ん中でバスドラムがドンと一発強打を入れている。普通なら、つまりそこで音楽が大きく切れる形では……と、みんな考えるし、その切れ目を意味するアクセント記号も一応入っている。とは言え、何しろ「コンチェルタンテ」は全パートの音が錯綜している無調音楽。自分の音を譜面通り鳴らすのに精一杯な部員たちは、そんな基本的なお約束ごとなんて全然意識できず、自然、穴だらけの理解の範囲でしか音楽を作れなくなっていた――ということ。
ふと気づいたように、先生が後ろを振り返った。
「唐津君はここ、どう吹いてたっけ?」
訊かれた貴之は、ちょっと曖昧な笑みを浮かべて、
「適当っす。正直、音だけ並べてたっすね」
「加津佐さんの音には気づいてたの?」
「なんか変なことやってるなーっとは思ったんすけど、何やってるのかまでは分からなくて。本人もあんまり自覚ないようだし、音が固まってからいっぺん訊いとこうかな、ぐらいのつもりで」
「……なるほどね」
それからなんとも言えない顔で貴之と先生が美緒を見た。当の美緒はどんな顔をしていればいいのか分からなくて途方に暮れた。この状況は誉められているんだろうか、それとも問題児であることがバレて暗に咎められているんだろうか?
それまで見ないようにしていた唐津母に、ちらっと視線を走らせてみる。一瞬で美緒は石になったかと思った。
唐津母は何の感情も表していなかった。ただじいっと美緒を見ている。その皮膚の下の肉の中の骨の奥まで、果ては魂の底までイメージにとどめておこうとでもするかのように、ひたすらに目から怪光線を発し続けているのである。
初めて美緒は悲鳴を上げたい気分になった。こんな合奏、もう早く終わって――
早く終わって、と祈ったところで、合奏の時間が早送りになったりはしない。その後も緻密で丁寧な合わせ練習は続き、その間じゅう美緒は唐津母からの強い視線を意識しなければならなかった。
もやもやした気分の中で、さっきの金管だけでの緊急ミーティングを思い出す。唐津母が理不尽な主張をしている、と聞いて、三福小夜理がぼやき気味にこう言ったのだ。
「だったら、いっそ歌の講習なんてチャラにしたら?」
意外にも、みんなそれには反発した。どうも、今問題になっている身体共鳴のレクチャーというのは、二年越しで部内を荒らしてきた内戦に終止符を打ち、かつ部員全員にまんべんなく有利で平等なレベルアップの魔法をもたらしてくれる(と信じ込まれている)、希望の星みたいなイベントの扱いになっているようなのだ。過大妄想を抱いているのは木管の人たちだけかと思っていたら、ここにきて金管も、なんだかひどくふわふわした期待を意識するようになっちゃってるらしい。
だから、ここで唐津母の説得を諦めるわけにはいかない。もちろん、貴之を辞めさせるわけにもいかない。
もちろん、そんなこと、わかっちゃいるんだけど――
最後の「音プレ」では、だいぶん凝視の強烈さが落ち着いていたようだったとは言え、こんなに精神的に負担を感じた練習は初めてだ、と美緒はへろへろの気分である。ああ、音楽会とかコンクールとかでこんな目つきのお客が何人もいたらどうしよう……なんて気の早い心配までしながら、半ばやけになりながら最後のコラールの長い音符を、一音ワンブレスで吹いていく。
「音プレ」のエンディングの数小節、金管がとどめの厚いハーモニーを鳴らすところは、格別長い音が続いているわけではない。他のみんなは二小節ごとにブレスを入れている。でも、美緒がそんなことをしたら全然フォルテシモにならない(管楽器を吹く時の音の強さと長さは反比例するのだ)。一小節ブレスでも音が薄い気がして、今では半小節ごとに息を吸っている。体格の小さい女の子が、大口開けて空気を取り入れては吹き、取り入れては吹きをせわしなく繰り返している姿は、ひどくコミカルか、いっそ悲愴に映ってることだろう。
なんで私がこんな苦労を、と、長らく抑え込んでいた鬱屈が黒い煙を上げ始めているのを感じる。そもそもなんで私がチューバを。こんな、ラッパのお化けみたいな、楽器って言うより何かのエンジンか大砲みたいな、ぜんぜん可愛くない
だめじゃん、もっと大きく……いっぱい吸って大きな音で……あれ、でも先輩はいつもどおりって……何も気負わなくていいって……どういうこと?
それは、つまり……大口開けて薄い音しか吹けない私を見てもらうってこと、かな?……何も吹けてない私を……使えない音、を……
「加津佐!」
至近距離で叫ぶ声がして、美緒は目を開けた。浅黒い肌でちょっとギョロッとした目の全然ハンサムじゃないこの顔は、塔野晶馬だ。最初同じトランペット候補生同士だったのが色々あって、今は結局同じバリチューバパート。
うん、お互いずいぶん遠くに来たねえ。
「寝ぼけてんじゃねえっ! 大丈夫か!?」
何が?
「酸欠でひっくり返るとこだったんだ、お前は!」
「え?」
身を起こして周りを見回す。いつの間にか美緒は教室の壁に背中をもたせかける形でそっくり返っていた。チューバは横倒しになって膝の上に乗っかっている。U字型の太い管を、妙にがっちりと晶馬がつかんでいるということは、取り落としかけた楽器を支えてくれたんだろうか?
「ちょっとどいて」
晶馬の横から、真剣な顔のおばさんが割り込んで、美緒の額に手を当て、手首の脈を取り始めた。保健の先生ってこんな顔だっけ? と少し考えてから、唐津先輩のお母さんであることにようやく思い当たる。
「……軽い貧血みたいね。気分は悪くない? 吐き気とかは? じゃあ」
一瞬視線を外してから、何かを恐れるような目をまっすぐ美緒に向けて、訊いた。
「胸は痛くない? どこか一箇所だけ、じんわりするような。それか、針で突いたような」
「それは……ないです」
はっきり答えると、安心したように唇を緩め、急にそそくさと美緒から身を離した。
「加津佐……大丈夫?」
晶馬と唐津母の一歩外側に、貴之と曽田部長が立っていた。こちらを心配げに覗き込んでいる。美緒は慌てて、大丈夫です、と答えたかったのだけど、それを口にする前に、唐津母が先生へ強い調子で声を上げていた。
「失望しましたわ、先生。貴之の件で少しは意識を改めた活動をなさっておいでかと思ってましたのに。これでは、また肺を傷める生徒が何人も出てきたりもするんじゃありませんか?」
いやそれは、と貴之や美緒が反論しようとしたけれど、それを抑えるように先生は手を上げて、指揮台から下りると深々と頭を下げた。
「全くおっしゃる通りで、面目次第もございません」
「ちょっと待ってください、これは決して――」
色をなした雪乃が、すかさず唐津母の真横から割り込んだ。なんか本気で怒ってるっぽい。でも、唐津母はそんな雪乃にぐいっと体ごと振り向くと、
「あなたにもがっかりよ、雪乃ちゃん」
「何がですか!? おばさん、貴之の何がわかってるんですか!?」
「おい、やめろ」
食ってかかる雪乃を、貴之が立ちふさがる形で抑え込もうとする。けど、多分これまでの知られざる経緯の中で、曽田雪乃にも積もり積もったものがあったのだろう。雪乃は貴之を振り払うように横へやり、唐津母に一歩近寄ると、
「私たちの部活動のこと何も知らないのに、上辺だけでうちの吹部を判断しないでほしいんですけどっ」
なんだかドラマみたいなセリフを真正面から言い切った。一方の唐津母は、いささかむっとしたように、
「あなたにうちの何が分かるっていうの?」
「分かりませんけどっ、わ、私たちも……家の人ほどじゃないにしても、それなりの……き、絆があるんですっ。この上、もし貴之まで辞めさせるっていうんなら――」
「なら、何?」
胸を反らせて平然と問い返す唐津母。さすがに貫禄が違う。気圧されて黙り込んだ様子の雪乃に、唐津母が何かを言いかけた。とその時、思いがけない部員が声を上げた。
「オバサンっ」
なんだか品のないアクセントに唐津母がすごく嫌そうな顔を向けたその先で、緊張した面を晒していたのは、晶馬だった。
「お願いです、オバサンっ、こいつに、加津佐に、音の鳴らし方、教えてください! 歌のこと、しっかり教えてやってください!」
うわあっ、と美緒は頭が真っ白になった気分だった。なんでこいつが!? 何を言う気だ、塔野!?
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