第27話 一人でできるもん(ウソです)。


 つまりは、樫宮中吹奏楽部の名演を聞かせて、唐津母の氷の心を溶かしてみせよう――という……こと?

 そんなメルヘンな展開のはずはない、とは、美緒もみんなも思ったはずだ。けれど、どうもそれに近い状況が出来上がっているようなのは何となく察せられた。どのみち合奏の時間が迫っていたし、話の全容を確認してる余裕はなかった。

 とは言え。

(私が一人でチューバやったら、溶ける氷も溶けないんでは?)

 いつの間にか中心キャラに祭り上げられている美緒としては、そこのところどうなの、と引っ掛かって仕方ない。


 金管メンバーと音楽室に戻ると、市吹のメンバーとか訪ねてきた先輩方が〝来賓席〟に座っていた。黒板の前に並べたパイプ椅子のことである。言われてみれば、ホールの客席と同じ位置関係にある場所だけれども、客席と言うには近すぎるし、あんまりいい聴き心地ではないんでないかと美緒は思っている。

 で、その来賓席に、初めて見る顔のおばさんが一人いた。やや太り気味の、という言い方もできるけれど、多分ぜい肉はついてない。全身に精気がみなぎっていて、やり手の会社社長とか言っても通じそう。はっきり言って、座っているだけで迫力がある。マンガだったら登場場面に集中線つけて「ばあぁぁぁぁぁーん!」とかなんとか、手書きの擬音文字が入ってることだろう。

(あれが唐津先輩のママ――)

 それに間違いないようだった。というのも、貴之本人が、ごく自然な素振りで横に腰を下ろしたからだ。 一応、講習の下見に来た母親を息子がエスコートするという体裁で通すようだけど、何にしても本格的に美緒を放置するつもりらしい。先輩が隣にいないのは初めてのことじゃなし、まあいいけど、と思いつつも、一抹の心細さはどうしても感じてしまう。

 木管もパーカスも揃って席につくと、一部の部員が、あれ? という顔を来賓席に向けた。でも、チューニングが終わると、先生も何も言わずに合奏に入る構えを見せたんで、みんないったん詮索するのはやめて、指揮台に注目する。

「よーし、じゃ、過去のラインナップから、これ、行こうか」

 見慣れないお客の紹介も何もない。先生はこの件の当事者の一人であるはずだし、こういう態度でいるということは、貴之の怪しげな企みに乗ったということなのか、あるいは、もう自分は知らんと投げているのか。

 金管の面々とつかの間目を合わせてから、とにかく楽譜の用意をする。

「過去のラインナップ」というのは、吹奏楽コンクールの過去の課題曲のことだ。エンハンストモードに入ってから、今年のとは別に、美緒はもう五曲ぐらいの過去曲を練習してきた。何しろ「課題曲」というぐらいだから、技術的にはっきりした課題を設定して作った作品も多く、こういう曲を平素から手がけるのはバンド力の向上につながる、というのが、端嶋先生の持論らしい。

「これ」とスコアを掲げて示された曲は、美緒も結構気に入っている曲だった。

「カドリーユ」という。もう四十年前の曲だそうだ。合わせるのはこれで四回目ぐらい。

 先生がそっと腕を開き、指揮棒がふわっとスローな円を描く。と、雲海の向こうから夜明けの光が水平に拡がっていくような木管のロングトーンが静かに立ち上がり、サッシンのクレシェンドがヴェールのように重なる。そして、それにそっと寄り添うような七度下のベース音。

 不協和音から始まるイントロ。これを耳障りでないように決めるのは難しい。でも、そこがぴたりとキマって、続くハーモニーにふわんと乗っかれた時の優しさは、何度聴いてもうっとりしてしまう。

 この曲を、先輩のママはどう感じているんだろう――と思って、ちらりと前を見る。

 なんだか硬直している。

 え? と思って貴之の方を見ると、素知らぬ顔をしているけど、変に落ち着かなそうな感じだ。当てが外れたのをごまかしているような。

 唐津母が、少しだけ嫌そうな顔を端嶋先生の背中に向ける。続けて、貴之に何か一言二言言ったようだ。

 美緒はそれ以上見てられなかった。木管の問いかけのフレーズが終わって、次は金管がそれに応える番だったからだ。細心の注意を払って音の頭をみんなと揃え、寄せては返す波のようなゆったりとしたコラールのハーモニーを作る。語るようなモチーフを二回重ね、空へ舞い上がるように転調するところで、もう美緒の頭は半分がた先輩のことを忘れていた。再び来賓席に目を向ける余裕ぐらい、その後何度もあったけれど、一度曲の中に入ったら、とりあえず集中したかった。……唐津先輩も「いつも通りやれ」って言ってたんだし。

 ――「カドリーユ」は一度通しただけで、それでよしとなったようだ。コンクールで演奏するのならいくらでも細かいチェックが入っただろうけど、ある程度の演奏水準を維持するに留める、というのが過去作品の練習の流儀らしいので、四、五回も合わせたこの曲は、ひとまず仕上がったという扱いなんだろう。

 というか、多分これは唐津母に対する何かの仕掛けのつもりだったんじゃ? 一言も発しないで次の曲に移った先生の行動はちょっと異様だし、やはり先生も連携して……でも何を狙ってたんだろう?


 次の曲はマーチだ。行進曲「青春は限りなく」、こちらも四十年ぐらい前の課題曲。「吹奏楽はマーチが命」というのも端嶋先生の持論で、部の練習曲目の中にマーチは必ず入れる習慣らしい。

 チューバの立場で言うと、マーチは楽だけどしんどい。曲の八割近くは「ボン、ボン、ボン、ボン」という四分音符が続いているだけ。でも、途切れることがない。持久力がいるのだ。

 時々トロンボーンと組んで主旋律を吹くことがある。大抵はBメロのタイミングで、パワー感あふれる「ロッキーのテーマ」みたいな厳しい感じのメロディーが多い。どこから名付けたのか、端嶋先生はその手の部分を「風も嵐も」と呼んでいる。

「青春は…」には、まさにそういう感じのBメロが入っていて、今日はたまたまなのかチェックが厳しかった。

「『風も嵐も』から、金管だけで!」

「メインメロディー担当の楽器だけ、『風も嵐も』の後半から吹いてっ」

「拍の頭、はっきりっ。低音は普通に吹いても遅れて聞こえるから。『風も嵐も』の時だけ心持ち濃いめの音で」

 チューバ一人だけで、とは最後まで言われなかったけど、何となく集中攻撃を受けてるような気がして、美緒は防戦でいっぱいいっぱいだった。小休憩に入った時は疲労困憊して、わざわざ楽器を置く気にもなれなかったほどだ。それしてにも、「風も嵐も」とはよく言ったもんだと思う。

 改めて実感した。唐津先輩がいなければ、自分のチューバじゃ使いものにならない。

 単にバスのボリュームが激減すると言うだけじゃなくて、音楽的に使えないのだ。たとえばさっきの箇所。先輩なら、「心持ち濃いめ」という指示を即座に呑み込んで音にしただろう。二人のうち、一人が厚い音で発音すれば、もう一人の薄さはカバーできる。でも美緒一人だと、いつまでも非力な音で、みんなの足を引っ張り続けてしまう……。

 こんなのでペットへの移籍を認めてもらえるんだろうか? いや、ペットに移ってもやっていけるんだろうか? さっきの騒ぎ――唐津先輩の件で棚上げになってるけど、深江先輩が私と入れ替わりにチューバに移りたいって――いや、今すぐって言ってたんだっけ? っていう話が、実現したら、私は深江先輩のあとを埋める形になるわけで。でもとても深江先輩の代用なんて務まりそうにないし……こんなテクじゃ、周りもがっかりどころか――


 いじいじ考え事をしていたんで、唐津先輩と唐津母がどんな様子だったのか、美緒は全然見てなかった。今さら注目しても仕方ないから、残りも合奏に集中しようと気合を入れ直していると、休憩が終わった。

 次はいよいよ「コンチェルタンテ」だ。正直な話、美緒の目から見てもこの曲は「音プレ」より仕上がりが悪い。他の学校もひいひい言ってるから大丈夫、なんて先生は笑ってるけど、美緒のチューバはそれに輪をかけてマズい。

「じゃ〝黒のテーマ フガート〟から行こう」

 いつぞやのプレゼンで貴之が提案したネーミングは、その後制式採用となって、実際に練習で使われていた。砥宮慶奈の意見でフーガがフガートにはなったものの、曲のイメージ作りには貢献しているようで、みんなの評判もいい。つくづく「勇者ミオンがやってきた!」みたいな名前にならなくてよかった……と、聞くたびに美緒は思う。

 気を取り直して楽器を構える。が、初っ端から美緒はつまづいた。変拍子を数え損ねて、スネアのリードに乗っかり切れなかった。

「すみませんっ」

「いい。落ち着いて。スネアも今少し乗っかりやすい呼吸で叩いて」

「……了解です」

 その部分のスネアは能田文子である。ちょっとむっとした顔なのは、美緒の失敗のとばっちりで、受けなくてもいい注意を受けたという気持ちがあるからか。

「黒のテーマ フガート」の部分は、短いパーカスの前振りに続けてのチューバのソロから始まる。はっきり言って鬼畜なソロで、この夏はこのパッセージのために何千人のチュービストが泣くんだろうと思いたくなる激ムズの四小節である。

 二回目。やはり美緒はつまづいた。そもそもここは、個人練習でちんたら吹き飛ばしていただけの部分だ。いきなりインテンポの合わせはきつい――と訴えたかったけど、自分一人のためにテンポを落としてもらうわけにもいかない。

 ちょっとシラけた空気が漂った気がした三回目。今度は前振りのパーカスの音が途中で止まった。あれ、と思っていると、どうやらスネアの担当が変わるようだ。恐縮した顔の文子を押しのけてスティックを構えたのは、伊軒睦海だった。

 例によって全然会話のないやり取りを経て(先生にすら何も言わない)、睦海は指揮台と周りのパーカスに目で合図すると、さっきの文子とは明らかに違うアクセントで前座の二小節を打ち鳴らした。

 寸分の遅れもなく、美緒のチューバは譜面通りのテーマを響かせた。四小節のソロ、そしてボーンが三番から順次ソロで入り、ユーフォ、ホルン、ペットと重なっていく。

 よしよし、と一度先生が止めた。黙って文子と交代する睦海。スティックを受け取った文子は、なぜか感激してるような、ちょっと悔しそうな、変な顔。ちらっと美緒に顔を向けた時も、感謝してるような、文句を言いたがっているような。その一連の流れもまた、すべて無言で行われていたことは言うまでもない。

 仕切り直して再びパーカスの前段から。文子はパートリーダーの丸コピーを演じるように、正確に睦海のアクセントを再現した。美緒もきっちり譜面通りのタイミングで吹き始める。かなり怪しいヘタレたソロだったはずだけど、先生はそのまま先に進める。

 木管が加わり、次第に厚くなっていく平行和音がバックで響く。短い応酬の後、パーカッションと金管がフガートのクライマックスに向けてクレシェンドしていった。と、その中途で先生が竹の棒をばしばし譜面台に叩きつける。

「ちょっとちょっと。音が半拍ズレてる。Fの、えーと六小節前から」

 再びクライマックスのやり直し。でも、やはり先生はFの手前で棒を止めた。

「ズレてはないのか? おかしいな。いつもと何か違うような……じゃあ、ホルンとペットだけで」

 犯人探しが始まった。この展開は部員たちとしてもなかなかのスリルである。特にミスの自覚がない者ばかりの状態なら、なおさらだ。

 そして、ほどなく原因が判明した。

「ちょっとそこ……チューバ一人で吹いてくれる?」

 難しい顔で指揮者がそう言った時、美緒は、とうとう来るべき時が来た、と思った。古今東西の全ての吹奏楽部員にとっての針のムシロである「お一人様ご指名」、それが早くも巡ってくるとは。

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