第26話 吹部に死す!?
あえてオーバーに言うなら、深江亜実は天才型のトランペッターである。
彼女は東小の出身だ。つまり、トランペット鼓隊の経験はなく、楽器を手にしたのは中学に上がってから。
なのに、その秋にはパートリーダーとなり、まだ三年生たちがいた文化祭で、すでに一番ペットの席に座っていた。
それが何かの嫌がらせやえこひいきでないことは、誰もが了解していた。亜実の音を聞けば分かる。ああ、この子がトップなんだなと、素人でも納得する。
美緒も、一瞬で亜実の音に魅了された。マックスを思い起こさせるような響きとはちょっと違うけれど、華があって深みがあって、かつ他との協調性がある。みんなに気配りしながら力強く率いていく旗手、そんなイメージの音だ。
当然、亜実はトランペットをずっと吹き続けるのだろうと思っていた。いや、違う。単純に、そうでない事態なんて想像の遥か彼方だったのだ。
「チューバって……あのチューバ、ですよね?」
数メートル先でケースの中に横たえられている、キンキラの大型金管楽器を指さして、美緒が訊いた。亜実はちょっと眉根を寄せて、
「他にどんなチューバがあるの」
ごもっともなことを言う。
とは言え、これは一大事だ。
確かに美緒はチューバのパートリーダー代理で、移籍を望む亜実へイエスかノーかを返事できる立場にいるのだけれど、これはもう身の丈を超える問題である。
大慌てで美緒は貴之を呼ぼうとした。いない。美緒を探して出かけていってしまったのか、なにか別の用だろうか?
仕方ないので、三砂に事情を説明した。この人なら、こんな事態にも冷静に対処してくれる、との期待があった。
のに。
「なんですって〜〜〜〜〜っ!?」
いつでもおっとり、がトレードマークのユーフォのおねーさんこと浪瀬三砂は、かつてないほどのパニック姿を露呈した。美緒の肩をつかむと、乱暴に揺さぶりながら問い詰める。
「なんでっ!? アミンがペットやめるって、どーいうことなのっ!?」
「いや、あ……の、本……人に訊……いてほ……しいん……です、けど」
頭で長楕円軌道を描かせられながら切れ切れに答える美緒。ドップラー効果、という単語が脳裏に浮かぶ。なおも美緒を相手に横向きの腕立て伏せをやっていた三砂は、唐突に横の亜実へ飛びついた。半ば放り出される形で引っくり返りそうになるのを、美緒は何とか踏みとどまった。
「亜実ちゃん、なんで!? 一緒にユグドラポリスの天下一コンクール出ようねって約束したじゃない!」
「小説から戻ってこいっ。ってか、別に部活やめるわけじゃないってば」
「でも、アミンがいないペットなんてっ。私たち、これからどうやってルシファーと戦えばっ」
「だから戻ってこいっつーてんだろーがっ。ミサミサには直接関係ないってのに、取り乱してどうするっ」
「にしても、どうしてそんな突然?」
目をまんまるにして、晶馬が尋ねた。案外、一年生の方が落ち着いて事態を見られるものらしい。亜実は一度何かを説明しようとして、けれどもすぐに思い直したように、
「ちょっと、色々あって」
とだけ答えた。到底納得できず、三砂も美緒もつい口を開きかけた、その時。
本部棟の方向から、新たなパニックの元が出現した。滝野悠介が、こちらもめったにない慌てぶりで、美緒たちを見るや、駆け寄ってくる。
「おい、お前ら、緊急事態だ! 大至急パートリーダー……いや、金管全部集まってくれ! どっかの教室確保して――」
「何があったんですか?」
美緒が訊くと、ついっと目の前まで近寄り、ぽんっと美緒の肩に手を置いて、妙に静かな声で、
「落ち着いて聞け、加津佐」
「はい」
「大声で泣いたりするなよ」
「え? ……はい」
「唐津が今日で辞めるって話だ」
急遽、適当な教室を占拠して集まった金管セクションだったけれども、話の中身がいたって要領を得なかった。
どうやら、今現在貴之の母親が端嶋先生と話をしているようで、それは当初、例の歌の講習の打ち合わせか何かの用件だったはずなのに、途中から貴之本人も呼ばれた。本部棟の談話室の前までついていった悠介は、そのままドア越しに会話を立ち聞きしていたらしい。その中で、お母さんがはっきりと「今日で辞めさせます」と宣っていたとのことだ。
「もっと聞きたかったんだが、ちょうど教頭がふらふら歩いてきやがって、離れるしかなかった」
悔しそうに悠介が言う。当然のごとく、いくつもの懐疑論が吹き上がった。
「じゃあまだ確定じゃないんだろ? だったら――」
「けど、そんな話全然なかったよね? 何かそれだけのことが起きたってこと?」
「いや、直前まで本人は普通通りでしたよ? おばさんが血迷ったってことでしょ? じゃあ――」
意見というよりは憶測と希望的観測をぶつけ合っていると、乱暴な足音を立てていきなり曽田雪乃が入ってきた。話では端嶋先生と一緒に会談していたはずだから、最新情報を持っているはずだ。なのに何も言わず、猛烈に不機嫌そうな顔で前の方の席にどっかりと腰を下ろす。悠介が訊いた。
「……どうなってるんだ?」
「あんのババァーっ!」
熱風のような雄叫びを間近から浴びて、部員たちがビクッと震えた。こんな部長を見るのは、三年生でも初めてだろう。
「唐津のバカタレぇーっ!」
続く絶叫を聞いて、みんなの間に微妙な視線が行き交った。これは、あんまり深く訊かないほうがいいの? いやでも。
「あのお、曽田さん?」
もう一度悠介がこわごわと声をかけると、雪乃は深々と、それはもう深々とため息をついて、ぽつりぽつり事情を話し出した。
どうも貴之と母親は、周囲が思っているほどには、十分に意思疎通のできている仲良し親子ではないようで、母親の方は元々吹奏楽部というものにあんまりいい感情を持っていなかったようだ。音大時代に管弦打楽器専攻生と色々と確執があったことが尾を引いているようなんだけど、それはともかくとして。
節目になったのは、何と言っても貴之が肺気胸になったこと。このあたり、部長も他の三年生も具体的な話を避けているような話し方で今ひとつ不明確ながら、母親としては「吹部のせいで息子がキズモノになった」という感覚があるようで、その点は貴之本人もいくらか親に負い目を感じているとのこと。
「でも、だからって早々に部を辞めるなんて話にはなってなかったはずなのに。何を思ったかあのババァ、今回の講習を受ける代わりに、唐津に引退しろって言ってたみたいで。……唐津も唐津だよ。そんなこじれ方してるなんて、私、聞いてなかった」
しぱらく場が沈黙に包まれた。話の続け方に困ったような悠介があちこち見回して、ふと、美緒と目が合った。
「加津佐はずいぶん冷静じゃねーか。お前、何か聞いてたのか?」
言われて初めて、美緒は自分の状態に気がついた。確かに、それほどショックと言うほどのものはない。なぜ? うん、それはもちろん。
「先輩は何も言ってくれなかったですけど……なんだか最近、色々とフラグが立ってたなあと思って」
「え、それは何?」
「最近影が薄いなあと。なんか、自分から薄くしてる印象で。音も薄いし。それに、なんだか急にほめ言葉が多くなったんです。何と言うか、こう、余命一ヶ月の人がすごく優しくなったような、そんな雰囲気で」
「ほめ言葉?」「唐津が?」「余命一ヶ月?」「影が薄い……」
言ってから美緒は、あ、マズい、と思った。けど、どうやら思ってた以上に美緒の報告はツボにはまる箇所が多かったらしく、二、三年生がみるみる悲観一色に染まっていくのが分かる。いや、妄想の崖を転がり落ちていく、と言うべきか。
「あの、すみません、余命一ヶ月ってのは、あくまでたとえですんで、そこはお間違えなく――」
慌てて上げた美緒の声は、すでに人数分のうめき声にかき消されて、誰の耳にも届かなかったようだ。
「そういう……ことだったの。あいつ、ずっと黙ってて……」
「なんてこった。それで、全部説明できるじゃないかっ」
「おいよせよ……最後だけいいやつなんて、そんな柄じゃねーだろ、あいつはよっ」
「最後まで無愛想な陰キャラでいてほしかった! 陰キャで生き続けてほしかったのにっ!」
「やだよう、唐津ぅ、イかないでよーっ」
てんでに好き勝手なことをわめきながら、全員では見事に統一された「悲嘆の群像」を演じる部員たち。なんだか騒ぎの渦がじわじわ拡大していってるような。
困ったことになった。ここには宝寺丸法子もいなければ、パーカスの面々もいない。途方に暮れた美緒が曽田部長に目を向けると、真っ赤な目で口元を押さえ、早々と〝残された恋人〟の役を熱演中だ。隣りにいる浪瀬三砂に至っては、涙をこらえつつ、猛烈な勢いで何かのメモを書きなぐっている。この期に及んでひらめく限りの物語ネタを全部回収して帰るつもりらしい。
なんか以前にもこういうことがあったなあと、美緒の一言で制御不能になってしまった集団に強烈なデジャブを感じつつ、美緒はいったん部屋を出ようとした。誰か冷静な人を呼んでこないことには、集団パニックになりそうだ。
と、その美緒の前に、ぬっと制服シャツの壁が立ち現れる。上を見上げて顔を確認し、美緒は叫んだ。
「唐津先輩!!」
「ん、どうした?」
ぶつかりそうになった美緒を押し留めながら、貴之が教室を見回す。
「金管だけ集まってるって聞いたんだけど、何してんだ、お前ら?」
「「「唐津ぅぅっっ!」」」
雪崩のように集まる金管セクションの部員たち。貴之はびっくりし過ぎて、ほとんど逃亡寸前だった。
「何ごとっ!?」
もちろん、誤解は瞬時に解けた。
という展開になれば万々歳だったのだけれど、そうすっきりと事態は解決しなかった。
「まあ、お前に死ぬ予定がないのは分かった」
頷きながらそうコメントする悠介に、貴之が毒づいた。
「当たり前だっ。ったく、誰がそんな無責任なことを」
私じゃないです、と率先して言おうかと美緒は思ったけれど、先に雪乃が口を挟んだ。
「じゃ、なんで唐津、急に後輩に愛想良くなったわけ? 美緒ちゃんベタ誉めしたりとか」
「えっ、いや、そ、それは……」
なぜか口ごもる貴之。そこで止まらないでほしい、と美緒は突っ込みたかった。そんなところで言い淀んだら、別のフラグが立ってしまう。
「それに、なんだか最近口数も少なくて、音も薄いって。それは私も感じてたんだけど。どういうつもりなの?」
まじっとした瞳で雪乃が貴之を見つめる。あくまで男に自白を強いる女の目。けれど、貴之はどこまでも歯切れ悪く、
「……それは置いといて、この後の合奏のことなんだけど」
「唐津!」
雪乃が語気を強めて迫る。貴之はなおも片手で抗議を遮って、
「後で説明する。……説明するから、今はもっと大事なことの話をさせてくれ。狙い通りなら、全部うまく収まるから」
疑い深そうに、でも一応一歩引いた様子で、雪乃が訊いた。
「収まるって、何が?」
「だから全部。うちのおかんが予定通り歌の講習開いてくれて、俺にこれ以上、部活のことであれこれ言わないようになるってこと。……加津佐」
「はい?」
その場の全員の目が美緒に集まった。同じく貴之も美緒をまっすぐに見ながら、指示の中身を口にした。不思議な熱気のこもった声で。
「次の合奏、お前一人でチューバやれ。何も気負わなくてもいいから、全曲やってみてくれ。最近やってる曲と、『コンチェルタンテ』も」
「え、あれって、コンクールの本番でも、私の受け持ちは半分でいいって――」
「でも、一応全部練習はしてあるんだろ?」
「さ、最低限は」
「それでいい」
今年のコンクール課題曲III、「吹奏楽のためのコンチェルタンテ」。総じて現代風な無調形式の曲で、各楽器によるソロが多く、そのどれもが高難度。今の美緒にはとても歯が立ちそうにない音楽だ。ソロは全て貴之が吹く、という分担で、なんとか合奏に参加できている。練習時に一応さらってはいても、到底人様に聞かせられる出来ではない。
「ちょっと待て。美緒ちゃんの演奏と貴之のこれからといったいどう――」
ハーレム王子が話に割り込もうとするも、貴之は即座に止めた。
「いいから。とにかくみんなは」
「美緒ちゃんを最大限バックアップすればいいってこと?」
深江亜実が首を傾げながら訊く。貴之は薄く笑いながら、首を振った。
「いいや。いつも通り、普通に吹いて合わせてくれ。手加減なしで」
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