第25話 何のフラグでしょう…。
色々おもしろい人たちが来る、という浪瀬先輩の予言は、早々に成就した。
六月に入ってからの吹部は、毎日のように様々なお客の訪問を受けた。一部のパートに顔を出してさっさと帰る人もいれば、長々と居座って顧問の代わりにタクトを振るような人もいる。高レベルの指導を気前よく振る舞って笑顔で送られる人もいたし、曽田部長の皮肉通り、迷惑な冷やかしとしか見えない、相手するだけ時間のムダのような人もいた。
何にしても、来客の応対係というわけでもなかったので、美緒はひたすら強化練習に打ち込んだ。ろくに読んでなかったアンチョコにも目を通し、昼休みは楽器庫の古雑誌や図書館の音楽書を開いたりして、理論面にもマジメに取り組んだ。
テスト期間とぶつかったせいで、全然使ってなかったパートリーダー特権も、積極的に活用した。練習の休憩時には中庭から準備室に駆けていって、ノートパソコンの音源を漁る。十〜十五分だと練習中の曲の模範演奏をチェックするのが関の山。それでも、そんなものを全然聴かなかった今までよりはずっとマシだ。
パソコンの扱いもかなり慣れた。先輩たちや芽衣や、時には塔野にまでバカにされながらも、文字入力の要領を覚え、ブラウザの操作の基本をマスターした。そうなってくると、分からないことをネットで調べる作業ぐらいは苦にならなくなってくる。
知識欲が一気に爆発した、というわけではない。多分三割ほどは「きちんと仕事しないとペットに移らせてもらえない」という焦りで、三割は迫りくるプレゼンへの義務感からで、残りは、日々の練習から置いていかれる恐怖感に煽られた結果、だったかも知れない。
それでも、その気になった中学生の学習能力というのは侮れないもので、三、四日もすると、たとえばハーモニー練習のキモのようなものも、だいたいわかるようになっていた。
要するに、和音を吹く時は根音が何なのか意識していればいいってことだ。その上で、自分が出している音はコード中のどの音なのか分かればいい。浪瀬先輩が話してたなぞなぞみたいな話は確かに厄介なんだけど、実は美緒たちが手にしている樫宮中の吹部の楽譜は、〝チューナー通りではない〟音高の音符にはあらかた指示が書き込んであって、それに従って高めか低めに音を出せば、きちんときれいなハーモニーが出せるようになっているんである(もちろん、その微妙な判断が耳でできて、かつ高さの加減が実際にできれば、ではあるけれど)。
美緒の成長ぶりをいちばんほめてくれたのは、意外にも唐津先輩だった。何が意外かと言って、わざわざ面と向かって言葉にして評価してくれたことが、驚きだった。そんな率直なセリフをくれる人なんて思わなかったのだ。
「もう、一人前のパートリーダーだな」
冗談はやめてください、と返したかったけれど、先輩の目つきがあまりにも真面目だったので、美緒は言葉に窮した。だけでなく、強烈な違和感と言うか、何かのフラグみたいなものまで感じてしまった。思い返してみると、ここしばらくの先輩は妙に影が薄い。美緒が隣の様子をいちいち気にしてなかったこともあるけれど、何となく自分から立ち位置を下げてきているような印象がある。言葉数も少なめに、音も必要以上に薄くしているような。
気にはなったけれども、直接問い詰めるのも何なので、美緒はそれ以上考えるのを諦めた。何と言っても、エンハンストモードの練習進行は日々タイトで、それ以上に充実したものでもあったのだ。
貴之、それに塔野晶馬と合わせて四人になったバリ・チューバパートは、人数配分的には安定したパート練習を進められるようになった。全体的な段取りが見えてくると、美緒もそうまごつくことはなくなっていた。色々慣れなくて四苦八苦している塔野をからかったり、時には親切心を発揮してアドバイスしてやる余裕もできた。
一見、軌道に乗った手応えを感じる反面、練習が進むにつれて、美緒はどうしてもある事実に気づかざるを得なかった。
響きが足りない。
絶対的な音量も、だけれど、それ以上に、なんだか響いてない――ような気がする。貴之が入るとそれなりのボリュームにはなるものの、美緒本人はいやでも自分の鳴り方の貧弱さを意識してしまう。
「バラの謝肉祭」みたいな、それほどバスパートが肩肘張らなくてもいいような曲をやっていてさえ、どこか薄い感じがする。レベル上げに失敗して以来、響きの少なさは長期戦で取り組むしかない、とは確かに言われていた。しかし、それにしても、だ。
貴之にそれとなく相談したら、「焦るな」としか言わない。
「仮にコンクールまで間に合わなくても、気にするな。加津佐の音は絶対に一人前になるから。それは俺が保証するから」
妙に気持ちのこもった言葉をくれるのはありがたかったのだけれど、ああそうなんですかと納得できるはずもない。
思い余った美緒は、訪ねてくる金管の先輩一人ひとりに、積極的にアプローチするようになった。とりあえず、率直な評価がほしかった。
が、これがまた思い通りにいかなかった。遠慮して無難なことしか言わない人もいるし、単純にそこまでのアドバイスができない人もいる。吹部のOB・OGが使いものになる人ばかりではない、という、至極当たり前のことに気づくまで、数日を要した。
美緒がようやくまともそうなコメンテーターを見出したのは、もう次の週末だった。スケさんと言って、市民吹奏楽団のトロンボーン吹きだそうだ。端嶋先生とも旧知の仲らしく、頼めば忌憚のないアドバイスもしてくれそうな人だった。
土曜日の練習がハネた後、あーだこーだと音楽談義を続けている大人たちに近づき、話の切れ目を見計らって、美緒はスケさんに助言を求めた。先生より一回り年下らしいのに、頭の上半分を景気よくテカらせながら、スケさんはいともあっさりと言ってくれた。
「響き? うん、全然足りてないね」
「えと、それって具体的にどれぐらい――」
「うーん、一年生ならそんなもんかなってぐらいだけど。チューバ二人だっけ? まあ唐津君が今後調子を上げるとしても……今の三倍ぐらいのボリュームはほしいかなあ」
思いの外厳しい評価に、美緒はどーんと落ち込んだ。五割増しにして、とは覚悟していたけれど、三倍にしろなんて……。
すごくわかりやすいへこみ方を見て、責任を感じたのだろう、スケさんが慌てたように言った。
「まあ毎日練習してりゃ自然と経験値も上がるし、音量は増えてくるよ。これから体も大きくなるだろうし――」
「ならなかったらどうするんですか……」
「えええ? いやそんな、思い詰めなくても。ほら、去年だって、ある日突然響きがよくなった子、いっぱいいたし」
「…………」
聞き及んでいる話から、ちょっとした地雷を踏んだことに気づいたらしいスケさんは、さらに慌てて、
「と、とりあえずイメージ作りから始めてみたら? 中学生にちょうどいい参考動画のリストがあるんだけど、よかったらメールで――」
「すみません、私、ラジカセしか持ってない昭和の中学生なんで。ご指導ありがとうございました。じゃあ」
ぺこり、と頭を下げて、そのまま廊下に出る。背後で市吹のメンバーが何ごとか囁き交わしているような気がしたけれど、振り向かなかった。
翌日の日曜日。午後のパート練習の合間に、また準備室で何か聴いておこうと早足で歩いていると、昨日と同じような顔ぶれの大人たちが、適当な教室を占拠して楽器を持ち込んで音を鳴らしている。大人になると、管楽器は練習場所の確保に苦労するのだそうで、市吹なんかの人たちが熱心に〝指導〟にやってくるのは、実はそういう事情も関係しているとか。
何かの派手っぽいソロの練習をしているスケさんもいたので、軽く会釈してその場を過ぎようとした。けど、美緒の顔を見た途端、
「あ、加津佐さん、ちょっといいかな?」
「はい?」
すると、他の大人たちも音出しを止めてこちらに注目した。戸惑っている美緒に、スケさんは慎重な口ぶりで、
「君、去年の樫宮高校のクリスマスコンサートに行ってた?」
「え……はい」
「一人で?」
「そうです」
「で、コンサートの終わりに、いっぱい泣いてなかった?」
「えええっ! ……な、泣いてました、けど」
「えーと、それは音楽で泣いてたの? それとも、何か別の事情があって?」
「いえ、ただ曲が……何ていうか、暖かくて、それで、もう心が震えて」
「震えて! うん、心が震えてっ。で、客が帰った後も、しばらく客席で泣いてたよね?」
「そそ、そうですけど、それがっ」
「ほら、やっぱり〜〜〜」
おおおおーっと中年(一部老年)の男女五、六人が驚きに目を丸くして美緒の周りに集まってくる。
「な、な、何っ!?」
「いや〜〜、みんないたく感銘を受けたんだよ。あの音楽にあれだけ感動してくれるお客がいるなんて、てね。きっとあの子は大物になるよって」
あまりのことに美緒が唖然としていると、トランペットを手にしていた、ちょっと若い感じのショートヘアの女性が、
「あの日、エキストラで一番ペット吹いてました。お会いできて光栄です」
と握手を求めてくる。「あ、ども」と握り返したら、今度はユーフォニアムのふっくらしたおばさんが、
「樫宮高校吹奏楽部OBOG会の副会長です。あのお嬢さんに再会できて、嬉しいです」
と、両手を差し出してきた。「ど、どうも」と握りしめたら、さらにごま塩頭の年配の男性が、
「樫高の前で文房具屋やってます。どうぞよろしく」
と、ハグを求めてくる。受けるべきかどうか迷っていると、「テっさん、それはやめろ」とさすがにツッコミが入った。男性がだははははと笑って、みんなも笑った。どうやら市吹もうちの部と似たようなノリの人が多いらしい、と美緒は頷き、曖昧に微笑を返す。
それから数分間、居心地が悪いほどに困惑しながらではあったけれど、美緒はつかの間のアイドル気分を味わうことになった。よもや、コンサートで泣いたことで、こんなにちやほやされる日が来るとは。
「で、では、そろそろ練習に戻りますので……」
そう逃げようとしたら、「あ、ちょっと待って」とスケさんに呼び止められた。内心のイラつきを隠して愛想よく振り返ってみると、テっさんと呼ばれた男性が、大きめの紙の手提げ袋を差し出してきた。持ってみると、ずしりと重い。何やらぎっしり詰まっている。これは……カセットテープだ。
「ラジカセしかないって言ってたでしょ? 実は古いカセットの置き場に困ってるじいさまがいてね」
「じいさまとは何だ、じいさまとは。……すまんね、これ、全部昔のエフエム放送の録音。『ブラスのひびき』って番組あったの、知ってる? 今は『吹奏楽のひびき』になってるんだけど、それを録りだめしたもの。流行遅れの曲が多いけど、今どきの動画じゃ聴けない曲なんかも入ってるから、絶対参考になるよ」
「え? いやでも、こんな――」
菓子折りをもらうのとはわけが違う。何より、初対面の大人からこんなものをもらうなんて、と思う。でも、市吹の人たちは、遠慮は却って迷惑だとばかりに「もらっときなさい」を連呼して、とうとう古いテープを三十巻ばかり、手みやげに持ち帰ることになってしまった。
なんだか不要品を押し付けられたような気もしないではないけれど――その日の出来事が、半分がたはその通りであることを美緒が理解するようになるのは、ずっと先のことになる――ほんのりと温かい気分になって、中庭へ急ぎ足で歩いていく。
ちょっと待ちくたびれた様子のバリ・チューバの面々を見て、さらにダッシュしようとした美緒は、再び誰かの声に呼び止められた。今度はよく知った声だ。でも、ちょっと意外だったんで、半ばびっくりして美緒は急停止した。
「ごめん、いきなり何だけど、美緒ちゃん、ペットに移りたいんだよね?」
トランペットパートリーダーの深江亜実である。入部してから最初の十日間ほどは、唯一の保護監督役という感じで面倒を見てもらっていた先輩ながら、チューバに移ってからはそれほど接点がなかった。面と向かって話すのは久しぶりという感じだ。
「はい、そうです」
そして、ペットに移籍する件も、直接話はしてない。とっくに先生から話が行っていて、了承してくれたんだろうなと美緒は思っていた。
「あの……ダメなんでしょうか?」
「ううん、それはいいんだけど……チューバ、欠員が出るんだよね?」
「はい……」
ついうなだれてしまう。次の候補を探しておきなさいと言われていたものの、そんな人材、全然見つからないのだ。もう最後は誰かを何かで釣るか、だまくらかすしかないのかなあ、なんて頭を抱える今日この頃なんである。
そんな美緒に、亜実はひどく申し訳なさそうに、声を潜めて言った。あんまりにも恐縮した言い方だったんで、美緒がその意味をつかむのに、しばらく時間がかかったほどだ。
「あのさ……これからすぐにさ……私、チューバに移っていい?」
「…………はい?」
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