第24話 怒涛の日々とバラ肉。


 梅雨が近い天気は、晴れ間なんてろくになくて、何となくじっとりしていた。雲ひとつない青空か、せめて本降りの雨だったら雰囲気が出るんだけど、なんてことを思いながら、美緒ははっきりしない空模様をぼんやり眺めている。

 毎度の中庭の定位置で、美緒は一人っきりのパート練習に取りかかっていた……けれども、あまり気が入らなくて、ちょっと吹いては止め、吹いては止め、を繰り返している。

(口説かれてしまった……二歳も年上の女の先輩に)

 なんとなくこんな結末になるとは思っていた。とは言え、あんな風におだてあげるのはずるい、と思う。乗せられたつもりはないのだけれど、ああいう場面で強く断ることなんて出来ない。

 いいかげん、ぼんやりするのにも飽きたので、タンギング練習の入った音階をアップテンポで吹き始める。

 それにしても、あの先輩、何となくまだ裏があるような気が。だいたい、一年生にプレゼン一つやらせるのに、何をあんなに真剣になっているんだろう? 何かもう一つ二つ、言いたかったことをこらえてたようにも見えたのだけれど。気のせいかな?

(まーでも、あんなところ浪瀬先輩に見られなくてよかっ――)

「あ、美緒ちゃん、聞いたよー。今度は曽田部長とラブラブなんだって?」

 ぶふぉーっと美緒のチューバから怪獣の咆哮のようなフォルテシモが轟き渡った。声をかけてきたのは、もちろんユーフォ片手に現れた浪瀬三砂である。

「あ、今の結構いい音」

「なんですか、いきなり! って言うか『今度は』って!?」

「え、この前はもちろん小夜理先輩との……あ、ごめん。その件は美緒ちゃんに言ってなかったね」

「言ってなかったってっ!? 私が聞いてない私のラブラブな話ってなんですかっ!?」

「んーと、気にしないで。ただのフィクションだから。あ、そか、伊軒先輩とのコレもあったんだよね」

「そっちはいいんでっ! そのフィクションとやら、ぜひ詳しく説明していただきたいんですけどっ」

「いやいやいや。あれはちょっと失敗作で。小夜理先輩もなんだか入れ込みすぎちゃってた感じだったから、途中で止めたのよね〜」

 美緒の大脳皮質の一角で、何週間か前の小さなシーンがフラッシュバックする。なんか変だな、と思いつつ、その場はスルーしたことだったけれど。

「もしかして、私の首をつかもうとしてた時の」

「うんそう、あの時期。どうも小説と現実リアルが下手にシンクロしたみたいで、私もちょっと困ってね」

「……まさか、小夜理先輩って、波瀬先輩の隠れファンだったりします?」

「えー? ファンだなんて、そんな、いやでも、そうなのかな〜。チェックはしてくれてるみたいなんだけどね〜。色々意見くれるし〜」

「意見って言うと、色々リクエストみたいな?」

「そうそう。このキャラもっと可愛く描いて、とか、この二人くっつけようよ、とかね〜。そうやって夢の世界一緒に広げてくれると、私も嬉しいし〜」

 意外にも照れまくって真っ赤になる三砂。確かこの人の作品は、聞いた範囲だとリアルからネタを取ってきた暴露話的な妄想小説ばかりのはず。それで「可愛く」とか「くっつけて」とか相談し合うと言うことは……そりゃ、現実認識がゆがんでいくんじゃないだろうか?

 この人たち、絶対ダメになる、と美緒は思ったけれど、とりあえずその件にそれ以上は何も言わないでおくことにする。

「で、何か御用でしょうか?」

 そう訊いてから、ようやく三砂の少し後ろに人影がずっと佇んでいるのに気づく。見覚えのある顔だ。いや、覚えどころじゃない。できれば意識の外に追いやりたい顔だ。

「塔野……あんた何してんの、そんなもの持って」

 一日にしてペット一年生の下馬評トップとなったはずの塔野晶馬である。なのに、体の前でぎこちなく抱えているのは、三砂と同じユーフォニアムだ。

「ダメじゃん、人の楽器で遊んでちゃ」

「今日からこれ、オレの楽器だから」

「はぁ?」

 何秒間か空白を置いて、言葉の意味に思い当たる。慌てて三砂を見ると、ニコニコしながら頷いて、

「そうなの、やっとユーフォに一年生が来たの〜。もう嬉しくて」

 三砂のユーフォは名人級ではないにせよ、そこそこ鳴り響く音をしている。一人でも十二分に存在感があるから、あまり周囲も気にしてなかったようだけれど、本来なら五十人弱の編成にユーフォは二人はいるものなんだそうだ。だから今年の一年生から一名繰り入れるのはまっとうなことではある。塔野ぐらい鳴らせる一年なら、もう完璧だろう。

「いやでも、塔野はいいの? ペットに未練はないの?」

「あるよ。だから、ユーフォはコンクール終わるまで」

 目をパチパチさせている美緒に、晶馬がじれたように説明を重ねた。

「加津佐と同じってことじゃねえかな。ちゃんとユーフォ吹けたら、ペットに戻してくれるって滝野先輩が」

 あ、だまされてる。そう思ったけれど、もちろん口には出さない。そうなんだあ、と言うように、目を大きく見開いて、ただただ頷いてやる。

「ペットにいても、二、三年の先輩たちで枠が埋まってるし、でもせっかくいい音鳴らせるようになったし、本番の経験積んどいたらいいだろうから、よそのパートに修行に行ってこいって言われて」

「へえ」

 そのへんは本当かも知れない。まあ、ユーフォが浪瀬先輩一人だけというのも何かあった時に具合が悪いし、念のためのバックアップを兼ねてということだろうか。

「もう、このままずっとユーフォでいいじゃない。おねーさんと並んで吹くの、そんなにイヤ?」

「ええっ、あっ、いえっ、そーゆー、わけじゃ……」

 三砂が一年男子の肘の隙間に自分の腕を絡めたのを見て、美緒は、うわあ、と思った。なんて罪作りな。あれ、塔野にとっての初体験だよね。これはオチる。絶対こいつ、八月過ぎてもユーフォ吹いてる。

「あ、じゃあこの先は、ユーフォのお二人だけでどうぞごゆっくり――」

「お見合いじゃないってば。美緒ちゃん、今日からどういう練習になってるか、やっぱり分かってないでしょ」

 ん? と振り返った美緒に三砂は説明した。部長の言ったエンチャントモードとは、分かりやすく言い換えると強化練習期間。いつもと同じなのは最初の個人でのウォームアップぐらいで、その後は全部「限界に挑戦する」メニューばかりなんだとか。

「でも今日は初日だから、とりあえずパート練習のハイパーなやつ、やってみようか。あ、この練習って、一人や二人じゃ練習にならないから、この期間のチューバとユーフォは合同で一パートになるの。憶えておいてね」

 今ひとつ言われていることが分からなかったけれど、配られた楽譜を引き出して音を出し始めたらすぐに分かった。

 ハーモニー練習の割合が、圧倒的に多くなっているのだ。和音を合わせる練習なんて、美緒は今までほとんどやってなかった。これは確かに一人二人じゃできない練習メニューだ。

 たとえば音階。これまでは合奏の時でも、「ハ長調音階」と言えばドーレーミー……と全員で同一音を鳴らしていたのが、示された楽譜を見ると、全部和音になっている。つまり、一人がドレミファソラシドと吹けば、もう一人はミファソラシドレミと三度ずらして吹き(三度四度という音程の数え方も同時に覚えさせられた)、さらにもう一人はソラシドレミファソと五度離して吹く。すると、「ドミソ」「レファラ」「ミソシ」「ファラド」……という三和音の塊が音階の形になるというわけだ。

 もちろん、それだけで終わりではない。そもそもそのメニューは、一つ一つのハーモニーをきれいに合わせる技と耳を鍛えていくためのものなのだ。

「完璧な音程で音階の音そのまま吹いても、正しく合ったハーモニーにはならないの。たとえばここに並んでる音、それを一つ一つチューナー使って、正確な高さで吹けるようになったとするよね? でも、何人か集まっていざ合わせてみたら、全然きれいな和音にならない。なぜだと思う?」

 美緒も晶馬も分からない。元より、言われていることの半分ぐらいしか分かってない。三砂はネコのようにフニャーと笑って、

「これねー、実はすごく難しい話なんだって。はっきり言えることは、チューナーでバカ正直に音程チェックしまくっても、きれいにハモることは絶対にないってこと」

「じゃ、どうすれば……」

「合わせ方は一つ一つゆっくりやっていくから。まずは、合ってるか合ってないかだけちゃんと判断できる耳を訓練して」

 三砂は簡単に言い切ったけれど、それもまた難しかった。結局、その日の予定時間は五度音程の合わせの練習を延々とやっただけで終わり。しかも、最後まで美緒は自分の「合ってる・合ってない」の判定に自信が持てなかった。

 中庭の隅で合わせていると、他のパートの練習ぶりもある程度聞こえてくる。美緒たちみたいによれよれなところもあるけれど、大体のところは惚れ惚れするほど完璧なハーモニーを初日からものにしている。

「最初はこんなもんだよ」

 やや自信喪失気味で暗くなってしまった美緒と晶馬に、三砂は励ますように言った。それからすぐに美緒だけに聞こえるよう声を潜めて、

「一応これって、パートリーダー用のアンチョコに全部載ってることだからね。美緒ちゃん、全然目ぇ通してないでしょ?」

 ちょっと睨むような顔だったもんだから、美緒は思わず肝を冷やした。

「す、すみません……」

「今日だけ叱ってあげる。今日だけだよ。次からはパートリーダーとして、なるべく対等に振る舞ってね。慣れないところはフォローするから。いい?」

「がんばります……」

 美緒がそう言うと、三砂はいつものふわあっとした笑みに戻って、うん、よしよし、と少しだけ美緒の頭をなでた。

 嬉しいような悔しいような恥ずかしいような、なんとも言えない気分。

「じゃ、休憩してから、次、曲の練習ね」

 言われて中庭の時計を見ると、まだ一時間少々しか経っていない。怒涛のパート練習はまだまだこれからだ。

「練習の優先順序、確認しといてね。さっそく今日合奏に入る曲もあるから、そこからやっていこう」

「ひいぃぃぃ」

 新しい曲。それも、一曲二曲じゃない。演奏会とかコンクールとか視界に入ってるはずなのに、なんで今から新しく練習始めるんだろ。途方に暮れた顔で美緒が三砂を見ると、妙に満足した顔で、どうだ、と言わんばかりに、

「これがエンチャントモード」



 曲の練習順の指示は、今日の最初に受け取ったスケジュール表に目立つように書かれてあった。受け取ったプリント類を、美緒は本当にまるっきり見てなかったのだった。

 それによると、最優先で仕上げるべき曲はオリヴァドーティの「バラの謝肉祭」という曲とのことだ。浪瀬いわく、すごく素朴でわかりやすい曲だから、ほとんど初見でいけるよ、だそうだけれど、今日のチューバは一人だけだし、読み間違いを指摘してくれる人はいない。いったん個人練習に戻った形の美緒は、少し念を入れて楽譜を読み込んでいった。

 例によってチューバの楽譜は、長い音とか単純な連続音ばかりではある。数少ないメインメロディーを受け持っていると思しき箇所を、先にやっつけることにする。こういうところは間違えたら恥ずかしい。

 実質、二つしかない短いフレーズをリズム通り吹けるように何度かさらっていると、不意に横から誰かが話しかけてきた。

「すみません、端嶋先生はどちらにいらっしゃいますか?」

 中年の男性だった。中年の男性、としか言いようのない、あまり特徴のない、スーツを着て黒いカバンを下げてメガネをかけたおっさんが、礼儀正しく愛想笑いを浮かべて美緒を見ていた――見下ろしていた、という感じがしなかったから、悪い人じゃなさそうだ、と美緒は思った。

「多分、音楽室か、準備室にいると思いますが」

 そう答えると、「ありがとうございます」と、これまた礼儀正しく一礼して、中庭の奥へと歩いていく。何かのセールスの人かな、と見送っていると、はた、と足を止め、振り向いて言った。

「そこは、慣れるまでは十六分音符の頭にアクセント置くつもりで吹いたら、やりやすいですよ」

「はい?」

「では」

 再び一礼して、今度こそ奥に消えた。やり取りを見ていた三砂が同じように見送りながら、

「あ、思い出した、あの人ここの二十代前だかの部長さん」

「えええええーっ!?」

 全然吹奏楽なんかと関係なさそうな人なのに。ましてや、「バラの謝肉祭」なんて音楽と関わりがあるとはとても思えない雰囲気なのに。

「これから色々おもしろい人たちが来るからね〜。いっぱい知り合いになって、たくさん話聞かせてもらったらいいよ〜」

 曽田部長の話とはだいぶん雰囲気の違うことをふわふわと口にして、三砂はいたずらっぽく目で笑った。

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