第23話 そんな顔で迫られたら…。


 火曜日。テストが明け、部活が解禁になる。昼からの樫宮中は、校舎の中も外も生徒たちの過剰な熱気で溢れかえり、むせ返りそうなほどだ。

 午後がまるまる使えるということで、吹部も土曜日みたいに盛り沢山なメニュー構成で、まずはミーティングから始まった。

「中間テストも終わって、いよいよこの部もエンハンストモードに入ります」

 やや緊張した面持ちのまま、曽田部長が変な言葉を口にしたものだから、美緒たち一年生は揃って「はんすと……?」と呟いた。

「エンハンストモードというのは、まあ見ていればわかります」

 ちょっと面倒そうに、でもどこかおもしろがるように雪乃が付け加える。見ると、他の二、三年生の先輩たちも、同じような表情で周囲の一年生を見やっている。――なんだかあまり嬉しい気分にはなれない。

「なお、今回のエンハンストモードは七月の十六日まで。十七日の日曜日は市の文化ホールで恒例の夏の合同演奏会があります。この日は都合が悪いという人はいますか? いたら大至急連絡するように」

 うわあ、とも、おおお、とも言えないどよめきが、上級生の間に起きる。部の方で何かのコンサートに連れていってくれるのかなあ、なんて能天気なことを考えていた美緒は、次の一言でひっくり返りそうになった。

「私たちの出演順は、中学生の部の最後だそうです。真打ち登場みたいな出方になるんで、覚悟して臨むように」

「……な」

 なんですか、それ、と言いたかったのに、雪乃のセリフはよどみなく続き、重量級の連絡がさらに積み重ねられていく。

「合同演奏会の案内は後で渡します。家族の人にも読んでもらって、一人でも多く引っ張ってきてください。入場は無料ですけど、録画とか録音は禁止ですんで、親御さんにもよくよく言って聞かせてくださいね」

「さてその先、十八日からはコンクールモードに入ります。県大会は二十七日なので、順調にいけばその日で終わり、二十八日からは夏休みモードに――」

「おいおい、『順調にいけば』ってのはないだろう」

 黙って部長のアナウンスを聞いていた端嶋先生が、珍しく話途中でツッコんだ。

「支部大会の可能性だって一応あるんだよ? せめて、その日を目指して、とか言えないの?」

「それは、先生にそのつもりがあるんでしたら、言わないこともないですけど」

「失礼な部長だなー」

 口先だけで毒づいてから、もういいから次行って、と先生は手まねで雪乃に指示した。どうやら、うちの先生はいまいちコンクール対策に熱心じゃない、との認識は部員全体に広がっているようで、曽田部長も内心色々と思うところがあるようだ。とは言え、夏休みじゅう練習に明け暮れるというのも、みんな本音では避けたく思っているらしく、この手の皮肉はあくまでジョークでしかないのもまた、樫宮の吹部だった。

「あと、この時期は歴代の吹部の先輩方が迷惑な冷やかしに……じゃなくて、ありがたい指導に多数いらっしゃる時期ですので、みんな失礼のないように。挨拶ははっきりと」

 今の、絶対にわざと間違えてたよね、と誰かに訊きたかったのだけれど、二、三年生は薄く笑いながら「うぃーっす」なんて返すだけで、いちいち取り上げる人はいない。……よっぽど迷惑な先輩たちなんだろうか?

「最後に、先週末に話し合った、声楽の先生を呼ぶ、という件ですが……まだ交渉中です。もう少し時間をください」

 妙にシンプル過ぎる報告で、違和感を感じた部員たちが顔を見合わせかけたけれど、その空気もうっちゃるように雪乃がさっさとミーティングを締めてしまった。

「では、各パートに分かれて練習開始。あ、パートリーダーは案内とスケジュール表を取りに来て。それから、新曲の楽譜と。誰か楽譜配るの手伝ってくれないかな? じゃあクラの二年生、楽譜棚の前に――」


 貴之は検査のためにさっさと帰ってしまっているとのことで、今日の美緒は最初から最後までパートリーダーである。つまり、合わせの時間以外は美緒の好きに動いていいということだ。

 新曲の楽譜の束と、七月十七日の案内とスケジュール表とやらを受け取り、人波が引くのを見はからって、美緒は改めて雪乃に声をかけた。まずは砥宮先輩から聞いた件をさっさと確認しておかなければならない。

 切羽詰まった顔で美緒が「プレゼン」の一言を口にすると、雪乃は、ああ、と曖昧に頷いた。

「うん、後で言いに行こうと思ってたんだよね。そうか、聞いてたんなら話は早いや」

「いやでも、私、そんなハイレベルのことなんて――」

「いつがいい? 土曜か日曜が基本なの。次の週末はさすがに無理? あんまり延ばしたら今度は期末テストがあるから、じゃあ六月の二週目にしようか?」

「あの、半年後でも多分無理ですから、他の人に――」

「ただ、二週目は例の歌の先生呼ぶ話とぶつかる可能性があるから、三週目に延びることも考えておいて。でも、準備は二週目のつもりでね」

「聞・い・て・ま・す?」

「聞いてるよ」

 それからなぜか雪乃ははあっとため息をついて、美緒に座るように手先で促した。音楽室はほとんどのパートが出払った後で、今は約五十人分の空のイスが座り放題だった。残っているのはパーカッションだけだ。移動が困難なこのパートは、平素優先的に音楽室で練習することが認められていた。

 例によって二年の能田文子がきびきびと基礎練習から仕切っているのをしばらく眺めてから、雪乃は言った。

「正直、私は早すぎるんじゃないかって言ったんだけど……この時期にぜひ美緒ちゃんにって、とある筋から強い圧力がかかってきてね」

 イスの背に片手を乗せ、ゆったりと足を組みながら、これ以上聞いたら後悔するよ、と言いたげに、流し目で美緒を見る。

「でその、とある筋、とは?」

「聞きたい?」

「ぜひとも」

 こんな脅しに屈するものか、と美緒は目元に力を込めた。ほんの数秒、雪乃と美緒とでにらめっこの形になる。規則正しい十六分音符ばかりを練習台で叩いていたパーカスが、急に全員でロール練習を始めた。だらららららーっと、いやが上にも二人の緊張感が高まっていく。

 先に目を逸らしたのは雪乃だった。ドンッとバスドラが鳴って、ロールが一斉に止まる。

「ちょっとっ。誰もBGMやってくれなんて頼んでないんだけどっ」

「いえ、たまたまです。どうぞお気になさらず、部長殿」

 睨みつける雪乃へ、慇懃無礼に文子が返す。いや、この声の出し方は、水鳳寺麗華だろうか。

 唇を噛んで笑いを噛み殺している美緒に――ほんとに、どうしてこの部はこういうバカな小技ばかりうまいんだろうと思う――こちらはやたらと真面目な顔で雪乃が念を押す。

「聞いたらもう断れなくなるけど、ほんとにいい?」

「はいもちろん……って、え? そ、それは――」

「まあどうせ断れないんだけどね、美緒ちゃんは」

「何で!? おかしいでしょ、私、まだ一年なのに――」

「唐津なんだよ。これ、提案してきたの」

 ダーンっとヴィブラフォンの半音クラスターが、劇的に重々しく鳴り響いた。絶妙なSEに反応すべきか、セリフに反応すべきか、ちょっとの間、美緒の視線は雪乃とパーカスの間を激しく行き来した。

「やめろっつってるでしょっ」

 雪乃が一喝して、ようやくパーカッションは自重することにしたようだ。全員でまた一から練習台をカタカタ叩き始めた。でも、ラバーベースの樫宮特製練習台は音が小さくて、打楽器のメンバーがそのつもりでなくても、二人の会話はあらかた聞かれてしまいそうだった。

「……場所、移そうか。私もそろそろ楽器出さなきゃだし」


 楽器庫でめいめいの楽器を準備しながら、切れ切れに会話が続く。他に誰もいない部屋の楽器棚越しに、声だけで二人はやり取りを続けた。

「――多分ね、唐津は今のうちに美緒ちゃんを鍛えたいんだと思う。だって、八月にはトランペットに移るつもりなんでしょ? そうなったら、もう美緒ちゃん、パートリーダーじゃなくなるし、プレゼンなんて体験できるチャンス、当面ないもんね」

「そんな理由……何も私を今無理に鍛えなくても……って思うんですけど」

「こういう言い方って自分でもどうかと思うんだけど……美緒ちゃんは特別なんだよ」

「何がですか!?」

「あのね……唐津とか………滝野とか鳴野とか、砥宮さんみたいな人でもいいんだけど……どう思う?」

「どう……と言われましても」

「バカでしょ、あいつら」

 急に雪乃が目の前に現れて、美緒はちょっとドキッとした。いや、驚いたのは雪乃の表情だ。今まで見たことがないような、穏やかで晴れ晴れとした顔つきをしていて、えっと思ってしまったのだ。

「吹奏楽バカなんだよ。多分、睡眠と食事の時以外はずっと音楽のことばっか考えてるんじゃないかな。まあ、私も人のことは言えないんだけど」

 楽器を持ち、楽譜の束を小脇に挟んで、ちょっと乱暴に譜面台をつかむ雪乃。美緒の分も入れて二つを持ち上げ、楽器庫から廊下に出る。すみません、と礼を言って、美緒も続いた。

「で、ぶっちゃけた話、美緒ちゃんにも今のうちにバカになってもらいたい、とそう思ってるわけ。バカがいないと、こういう部活って回っていかないからね。正直、バカは多ければ多いほどいいし」

 つい美緒は、隣を歩く曽田先輩の顔を見上げた。

 こんな風に。こんなことをこんな楽しそうな顔で語る人だとは思わなかった。こんな話を聞くとは思わなかった。もっと融通の利かない、強引な説得でもするのかと思ってたのに。

「悠介が……滝野が言ってたんだよ。加津佐は何かを持ってるって。ああいう一年生は大事に育てなきゃいけないって。あの滝野がだよ」

「……そんなこと……」

 二階まで階段を降りたところで、雪乃は美緒の分の譜面台を置いた。今日のクラリネットは、この先の被服室に練習場所を確保しているようだ。腰をかがめ、美緒と同じ目の高さに顔を持ってきてから、雪乃は言った。今まで見たことがないような、真剣な顔で。

「プレゼン、受けてくれるよね?」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る