第22話 休日も波乱万丈に。


 日曜日。美緒は昼から芽衣の家にお邪魔していた。

 川棚家は、加津佐家のある集合住宅地域とは少し離れたエリアにあって、閑静な住宅地の中の一戸建てである。美緒から見れば「きれいで立派なお家」で、でも芽衣本人は「みすぼらしいボロ屋」としか思ってないようで、こんな家でよかったらいつでもおいで、というスタンスだったもんだから、美緒は幼い頃から足しげく芽衣の部屋に出入りしていた。

 とは言え、二人はもう中学生で、いつまでも子供の遊びばかりやってるわけにはいかない。何しろ明日から中間テストである。定期考査なるものを初体験する美緒からすると、何をやったらいいのかまるで分からない。塾で模擬テストを解いたりしている芽衣の方が、その点は要領をつかんでいて、早々にその場は芽衣が美緒を一方的に導く展開となっていた。

 そして、たちまち挫折した。

「これは……何という……」

 クイズ感覚でやってみた単語テストの結果を前に、芽衣が深刻な顔で固まっている。美緒はややふてくされたように、頬杖をついて斜め上を見ていた。

「美緒ちゃん……私たちって、小学校で英語、習ったよね?」

「うちのクラスは聞いて話せればそれでオッケーって主義だったの」

「いや、でも……少しは書くテストあったでしょ?」

「ほとんど◯×式だった。書かせたら0点ばかりになるからって」

 しばらく沈黙が続いた。やがて、芽衣がスマホを取り出して、なにやら文字を打ち込んだ。調べごとでもするのかなと思ったら、すぐに端末を置いて「何か飲む? それとも何か聴く?」などと、いきなりの休憩タイムを宣告した。よくわからないけどラッキー、と美緒は軽く受け止め、しばらく部を中心にしたよもやま話などに花が咲いた。

「にしても、唐津先輩と部長とのあれは面白すぎたね」

「そっか、美緒は知らなかったんだ」

「え、芽衣ちゃん、先輩達の話、どこから聞いたの?」

「いやえーと、部の一部有志によるライン連絡ってやつでね……」

「ああ」

「べ、別に美緒に隠してたわけじゃないから」

「いや、そこは気ぃ遣ってくれなくていいんだけど」

「え、部長に先輩取られてもいいの?」

「だから何でそういう方向に話が流れるの!?」

 ピンポーン、と呼び鈴が鳴って、そそくさと芽衣が席を立った。家の人がいるはずなのに変だな、と思って待っていると、なんだか聞いたような声が束になって玄関から近づいてくる。

「おじゃまーっ」

 扉を押しのけて現れたのは、おなじみのサックスパートの面々だった。三年の慶奈を先頭に、二年の法子と鹿目かなめ愛弓あゆみ。上級生ばっかりだ。

「ど、どうしたんですか、みんなして」

「いや、あたしらもつるんでテスト対策やってたんだけど、途中で後輩からSOS入っちまったからさあ」

 あっけらかんと法子が答えた。ずかずかと部屋の真ん中まで入ってくると、中を物珍しそうに眺め回し、そのうちにガバッと倒れ伏してベッドの下を覗こうとして――

「何やってんのよっ、アンタは!」

 慶奈に脇を蹴飛ばされた。

「女の子の部屋で家探しなんてやってないでっ。で、緊急のヘルプコールって何!?」

「これです」

 芽衣が美緒の赤だらけの英単語テストを見せる。その時になって、ようやく美緒はこのお客さんたちがやってきた意味を理解した。慶奈たちも一瞬で事の深刻さを見て取ったらしい。

「一年生の英語っていつ?」

「火曜日です……」

「不幸中の幸いってやつか。じゃ、ちょっと美緒ちゃん、こっちおいで」

 小さなテーブルを挟んで三対一みたいな感じでやり取りが始まった。先生役が三人もいると混乱するんじゃないかと思ったけれども、そうでもなく、三人は代わる代わる美緒にあれこれと質問して、内輪で何ごとか相談すると、やがて鹿目愛弓一人を残して、法子と慶奈は自分の勉強に戻ってしまった。

「一応訊くけれど、美緒ちゃん、自分が解ってないのは何なのか、分かってる?」

「……いいえ」

「だよね」

 ニコッとして、それから愛弓は説明した。美緒ちゃんはね、英語のスペルのルールが解ってない。例えばだけど。「ea」っていう綴りは、「エ」にも「エイ」にも「イー」にもなるの。head はヘッド、great はグレイト、read はリード。三つもあるの。こんな風に、同じ綴りなのに読みが違うっていうルールがあること、まず憶えて。これ、日本語にはあまりないことだし、ローマ字とも違うルールだからね。

 とんでもないって思うでしょ? でも、とんでもないという事実をまず知らなきゃダメ。なんだか訳がわからないなあで、考えを止めてちゃダメなの。何かおかしい、解りづらいと思ったら、何がおかしくて解りづらいのか、全部言葉にすればいいの。言葉に出来たら、それはもう「解らない」ってことじゃないからね――。

 それから愛弓は、二通り以上の読みがある主なスペルをさらさらと書き出して、発音も交えながら単語の特訓を美緒に施した。その記憶量にも美緒は驚いたけれど、それよりすごいと思ったのは、「解らないことは言葉にすれば『解った』ことになる」というご託宣だった。もしかして、人生で最大の知恵を、今日は教えてもらったんじゃないだろうか?

「師匠と呼ばせてくださいっ」

「やめてよ」

 手を振って愛弓が苦笑いした。

「こんなの、うちの部で一年も揉まれてたら、自然と身につくよ。こういう、筋の作り方とか、解決法とか」

「そうなんですか? でも、うちの先輩みんなそうってわけでも――」

「カナメは端嶋チルドレンだからさあ」

 冷やかすように法子が言う。チルドレン? と美緒が首を傾げ、要するに、端嶋先生大好きっってことだよ、と法子が笑った。すかさず愛弓が抗議した。

「何っ、人を愛人みたいに」

「先生の愛人になったら、勉強が出来るようになるってことですか?」

「美緒ちゃん!」

「いや、まーあの先生のやり方とかね。確かに間近で言うこと聞いてたら、成績はともかく、他人を教えるのはうまくなりそうだよね。人の動かし方を知ってるっつーか」

「えええ?」

「一年生はちょっと分かんないかな。あたしらはいやでも毎日のようにあの先生から授業受けるからね。カナメに至っては、担任だし」

 それからしばらく話題は顧問の先生の話になる。意外にも国語の担任であること。学生時代は弦バスが担当楽器だったこと。吹奏楽だけじゃなくて、管弦楽部やジャズ研にもいたらしいこと。県内の吹奏楽関係者の中でも、一目置かれてる存在であること。

「結構名物先生らしいのに、何でうちは金の代表になれないんですかね?」

 芽衣があけすけに問いただした。法子がそれ以上に露骨な言い方で、

「あの先生に獲る気ないからでしょ。あれだけは何とかしてほしいよね」

「そう? そこがいいんじゃない」

 慶奈が涼しい顔でそう言ったもんだから、法子が嫌そうな顔で美緒達に目配せして回る。

「もう、慶はまた。アンタもそこだけは何とかしてくれないかな」

「法子の前向きな気持ちは尊重するけど、私はここが金にこだわらない吹部だから転校してきたの」

「え、そうなんですか? そんな理由でわざわざ?」

「いや、親が別居始めちゃって。無理に引っ越さなくてもよかったんだけど、この機会に樫宮もおもしろそうだなと」

 深刻な話のはずなのに、慶奈の口調はあくまで軽い。いきおい、それを受ける法子も遠慮がない。

「ヤな奴だろう? ね、美緒ちゃんもそう思うよね? うちのパートがずっと荒れてたのって、あたしのせいじゃないっしょ?」

 鼻にしわを寄せてそう言う法子だったけれど、さらに空気が険悪になりそうな雰囲気はなかった。日曜日にパート内で集まって勉強したり、まだサックスは日が浅い芽衣のコールに即座に応えてやってきたり、美緒からすると、理想の人間関係を築いているようにさえ見える。

「イヤな奴っていいながら、パートリーダーを譲ったんですよね、宝寺丸先輩は」

「あ、それ違う。単にこいつがリーダーやりたがらなかったの。あたしらなんかよりバリバリに知識とかあるくせに」

「は?」

「あれは面白かったよ。落語でそういうのあったよね、譲り合ってケンカになったって話」

 他人事のように、愛弓が二人を指さして笑う。

「なんだか礼儀正しく美しい話やってるなーと思ってたら、ほんとに大ゲンカになってさー」

「それを眺めて大笑いしてたカナメもカナメだ」

「だって、らくしたかったんだもの」

 なおもしれっと身もフタもない言い訳をする慶奈に、法子は救いようがねえ、という顔で、

「これだよ。ほんとにおかしいよ、こいつちょっと」

「もういいじゃない。受けた以上は、冬までちゃんとリーダーやるって」

「え、冬?」

 愛弓が胡乱な目で慶奈を見た。

「三年の引退って、文化祭だから秋でしょ?」

アンサンブルコンテストアンコン出たいもん。もしかしたらソロコンも」

「えっ!? なに、その積極性っ。夏のコンクールは消極的なのにっ」

「夏休みが上からの命令で練習漬けになるっていうのがイヤなの。自分の意志で音楽やるのはいいの。やる以上は全国狙いたいしね」

「「おおおーっ」」

 法子と愛弓が全く同じタイミングでのけぞって、バネのように上体を振り戻すと、ぶつけそうにまで顔を寄せ合わせ、嬉々として声を上げる。

「すげーな、このメンバーは来年の春までアツイぜっ」

「最高じゃん、あたしら」

「芽衣っ、あんたも覚悟しなよっ、あたしら、カルテットでてっぺん取るよ!」

「えええええーっ?」

 よくわからないけれど、どうやらサックスだけ色々と前向きな計画がどんどん決まっていってるらしい。羨ましい……と思う以前に、美緒は塔野風情に負けない音作りをしなければならない身の上であって、それ以前に明日明後日のテストを無事に乗り切らねばならんのである。

(まあ、芽衣ちゃんが先輩達と仲良くやっているのを見れたのはいいことだよね)

 努めて前向きに捉えつつ、このままそっと帰ろうか、みたいなナルシスティックな演出まで考えていたら、不意に慶奈が言った。

「そう言えば美緒ちゃん、テストもだけど、プレゼンの方は大丈夫?」

 一瞬、テストをプレゼントする、なんてバグった日本語が脳裏を走って、美緒は目を白黒させた。

「はい?」

「曽田さんから聞いたんだけど。ライン、見てないの?」

「あ、美緒はラインやってないんで。スマホ持ってないから」

 芽衣のフォローを聞いて、じゃあ週明けに連絡するつもりかな、などと慶奈が小さく呟く。美緒は急に不安になって、

「えっと、すみません、部長が何て……」

「あ、うん。そのうちちゃんとした話が来ると思うんだけど」

「……どんな」

「私が聞いた話では、『音プレ』のプレゼン、今度美緒ちゃんにやらせる、みたいなことを」

「……プレ……プレ?」

「プレゼンってほら、この前『コンチェルタンテ』で唐津君たちがやってたみたいな」

「……タンテ……やってた?」

「だから、音楽の構造とか演奏の解釈とか、分析とかを、ね」

「…………」

「発表するわけ。資料作って。前に出て。美緒ちゃんが、だよ」

「…………は」

 むちゃ振り、という言葉は、とっくに知っている。その日、美緒のボキャブラリーに、「理不尽」という言葉が新たに追加された。

「はいいいいいぃぃぃぃぃぃぃーっ!?」


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