第20話 ふぁいなる・あんさー。


 ――そもそも唐津君は、歌のレッスン見ててそういう技を身につけたんだよね? でも歌は上手ってわけじゃないんだって? おかしくない?

 ――おかしいも何も、現に身につけてるんだから仕方ないじゃないか。

 ――そうじゃなくて。歌とは別の何かがその技のルーツになってるんじゃないかなって話で。

 慶奈の問題提起に、先輩達があーでもない、こーでもないとやり合っているのが、すごく遠くから聞こえる。一応会議に参加してるつもりの美緒は、目をつぶったまま自分なりに考えを組み立ててみた。

(おかしくはない……よね。鳴らせる人じゃないと鳴り方の良し悪しは分からない、なんて話でもないし……)

 ぼんやりと想像してみる。幼い貴之が小奇麗なレッスンルームで、じーっと歌のレッスンを眺めているところだ。

 たくさんの人の、たくさんの歌を見聞きしているうちに、小さい貴之は自分もレッスンの真似事を始める。手にしているのは小さなクマのぬいぐるみだ。ぬいぐるみは貴之につつかれるまま、調子っ外れの声で歌い出す。その様子を見ながら、貴之がクマの肩を押さえたり、背筋を伸ばしたり、はたまた体ごと横にしたりひっくり返したりしながら、音の響き方を色々試して遊んでいる。

 ……頭がふわっとする感覚があって、美緒は上半身が横倒しになるのを感じた。床にぶつかった感じはない。誰かがふんわりとひな壇の横板に寝かせてくれたようだ。と思ったら、すぐにまっすぐ座る形に戻されて、それでもズルズルと体が崩れるもんだから、結局何か柔らかいものの上に横にされた。

(そうそう、こんな感じに縦にしたり横にしたり)

 もちろん頭の隅では、マズい、起きろっと焦る声がしてるのだけど、何しろ強烈に眠いのと、なんだか妙な安心感があって、美緒はされるがままになっていた。

 ――ねえ、ちゃんと起こした方が……。

 ――いいじゃないか。しばらく置いとこう。

 夢うつつの中で、美緒は貴之と一緒に、歌うクマのぬいぐるみをひっくり返して遊んでいる。時々ひっくり返されてるのが美緒自身になったり、歌じゃなくてチューバを抱えて飛び跳ねたりしてる。流れてるのは昨日の映画のシーンの音楽そのままだったり、「音プレ」だったり。

 いつしか、ぬいぐるみはマックスになって、しかも大量のマックスが色んな姿勢で声を出している光景が広がっていた。万華鏡のように無数のクマの歌手が音を響かせている中で、時々貴之が現れては、一つ一つのマックスの横に立って、肘を直したり、肩を引いたりする。そのたびにどんどん音が良くなっていき、やがて響きは宇宙いっぱいに鳴り響くファンファーレとなって、巨大な一体のマックスがトランペットを吹いている姿が大写しになった。

(ああ、マックス!)

 なんだか猛烈に泣きたい気持ちになって、美緒はマックスに飛びついた――つもりだったけど、マックスは虹のように山向こうへ逃げてしまって、遠い峰の彼方で同じ格好でペットを響かせていた。

(私、この音ほしいっ! ねえ、どうしたらこんな音が出せるの?)


 ――問題は唐津君の技が誰にも真似できないということでしょう。ということは、仮に今年成功しても来年再来年には全部元通りに――


 虚空の彼方で喋っている誰かの声へ、マックスがかぶせるように言った。

(歌ってごらん。ボクと同じように声を出して。そしたら、ラッパもいっぱい響かせられるから)

(歌う?)

 そうか、唐津先輩は歌を見て育ったんだから、歌から入ればいいんだ。あれ? でもそんなとっかかり方でいいのかな? 誰も歌のことなんて言ってないんだけど。

 ああでも。この音。あったかでモフモフで世界全体を包み込むような響き。

 これはマックスのトランペット? マックスの歌声?

 それとも――

 急に世界が暗転した……というか、なぎのように光と音がしぼんだ。起きる直前みたいな、目をつぶった時の薄暗がりの中に、美緒はいる。

「マックス……どこ?」

 眠っていた手足を無理やり動かして、辺りをまさぐる。いつも足元で美緒を待ってるマックス。手を伸ばすと、確かに何かがそこにはあった。でも、期待した柔らかさではない、なんか木像のような、というか、筋肉人形のような硬い感触しかない。

「違うぅ……どこぉ? マックス……」

 ――ちょっと、どうすんのよ、アレっ。

 ――あーあ、貴之、残念だったな〜。

 ――……別に、そんなことは。

 ――あ、桐香先輩、動いちゃダメです! ほら、これ前につけてっ。

 ――え、ええーっ!? ここ、この子ヤバくないっ? ねえっ!

 妙に世界がやかましい。けどママの声じゃないから寝ててもいいよね? あ、ママじゃなくて目覚まし二つ鳴るはずなんだっけ? でもなんでママじゃないんだっけ? まあいいや。とにかくマックス抱いてもうちょっとだけ……ん? 枕元にもいない? あ、これかな?

 手先がふわっとした毛並みを探り当てる。触り慣れた柔らかさと何か違う気もしたけれど、いつもと別の角度でマックスを触ってるせいかも知れない。そろそろと手繰り寄せ……あれ、動かない。仕方ないなあ、じゃあ美緒の方からハグしてあげよう!

 ――ぎゅえっ。

 ――あー、いいなあ〜。私も、私も〜。

 ――ギブギブっ、ちょっ、この子、腕力が……

 ――引き離しちゃかわいそーですよ。ちゃんとハグし返してあげましょうよ。

 ――…………。

 ――…………。

 ――おいおい、このまま熟睡するつもりじゃね!?

 ――ちょっと、加津佐さん、いいかげん――

 ――いけません、部長。もっと優しくっ。こんなメルヘン、リアルでなんてまず見られませんよっ。

 ――いや、メルヘンってね。もういいから唐津、あんたがチューバ代表で発言しなよ。

 ――これは加津佐の仕事だ。

 ――仕方ないですね。では不肖私めが……あーあー、んん。美緒ちゃん美緒ちゃん、マックスだよ〜。

 それは嘘だ、と割合はっきり判断できたけど、美緒は目をつぶったまま、一応顔だけ上げた。

「んんん?」

 ――ねえ、考えを聞かせて。吹部で、なるべく多くの人が立派な音を出すためには、どうしたらいいと思う?

 ――今の議題はそういう質問じゃないと。

 ――部長は黙っててくださいっ。メルヘンにはメルヘンの言葉遣いが――

「歌ったらいいよ……」

 数秒間、間が開いた。その少しの時間で、美緒は再び微睡まどろみの中に沈んでいきそうになる。今度はたくさんのマックスが、歌っていながら同時にラッパを吹いててクラリネットも鳴らしている、ピカソか何かの概念芸術みたいなことになってたけれども、美緒はそれを当たり前としてただ眺めていた。マックスは別のマックスの真似をし合っていて、音はますます澄んだ、純粋なものへと昇華しつつある。

 ――え、寝言? だよね?

 ――えと、美緒ちゃん、それは楽器できれいにメロディーを吹けってこと?

「んーん、声出して歌うの。そしたら、みんな、先輩とおんなじこと、分かる」

 ――……みんなで、歌の練習、するの?

「歌で遊ぶの。……んで、みんなでえ、横にしたり転がしたりするの」

 ――……??

「そしたら、どんどん、響くように、なるの……そんでみんな真似っこしてえ、マックスもマックスの……真似してえ……もっともっと、おっきな音……増えてえ……」

 そこで美緒はふわっと意識が浮かび上がるのを感じた。なんだかとても安らかな境地を得たような気がして、今度こそ何にも煩わされず、ぐっすり眠れそうな気がした。

 ので、直後に桐香から、フォルテ五つの大音声で吠え立てられた時は、心臓が止まったかと思うほど仰天した。

「何じゃあ、そらあぁぁっ!」

「うわあああああああああああっ!」

 目を開けたら、ゼロ距離ですごい形相の三年生が自分を睨みつけているんである。世にも穏やかな夢の境界からいきなり引き戻されて、である。美緒が感じた恐怖はトラウマ級だった。

「加津佐ぁぁっ、おどれが言うとるのは、まさかっ……あれ? ちょっと?」

「いやああああああああっっっっ!」

 弾け飛んだように桐香から身を離して、床を二転三転する。正気に帰って見回すと、美緒は周囲を十数人の部員達に取り囲まれていることに気づいた。正確には、座っているみんなの真ん前へ勝手に転がり出ただけなのだけれど、生涯最悪の目覚めを経た直後だけに、その時の美緒は被害者的な感覚しかなかった。

 自分でも訳のわからないことを喚きながら、パニックの中でなりふり構わず逃げ回って、気がついたらもっちりした感じの誰かに抱きついていた。さすがにそれがマックスじゃないのは分かった。え、誰? という疑問を無理やり横に押しやって、とにかく振り払われないように腕に力を込める。誰でもいいから、しがみつく相手がほしかった。

 でも、飛び込まれた先の部員は、美緒を振り払ったりせず、しばらくするとおずおずという感じで背中をなでてくれさえした。

「えー、ズルい」

「美緒ちゃん、ひどーい……私の方が近かったのに」

 のほほんとした外野からの声が聞こえてきて、ようやく美緒は顔を上げた。困った顔でこちらを見返しているのは、誰あろう、パーカスリーダーの伊軒いのき睦海むつみだ。シンバルの勇ちゃんつながりで関係があるとは言っても、美緒自身話をしたことはない(というか、睦海と生で会話の経験がある部員は五指に満たない)。なのに、なんでこんな人の胸に飛び込んだんだろう、と一瞬思って、すぐに美緒は赤面した。

 伊軒睦海はクマ体型だったんである。

 そう大柄ではないにせよ、ちょっと猫背でやや小太りで、もっさりした感じがいかにもクマのお母さん、という感じなのだった。

 もしかしたら、美緒はとてつもなく失礼な行動を取ったのかも知れない。そう思って、慌てて身を離そうとする。体はまだ震えていて、指がうまく動かなかった。

 睦海が微かに笑みを浮かべて、もういいから、というように、美緒を抱き寄せた。却って申し訳無さが倍増したのだけれども、もう美緒はそこから離れられなくなってしまった。

「伊軒先輩……なんてよくできた人格で……」

「残念だったな、貴之」

「……逆にマズいだろう、そうなったら」

「もう、みんな、バカなことやってないでっ。先生も、こんな時は何か言ってくださいよっ」

「いや、面白くて」

「っとにもうっ、話が全然進まないじゃないのっ。えーと、どこからだっけ――」

「待てや、雪乃。もう話が見えたやないか」

 桐香がいつになくきりっとした顔つきで言った。その時になってようやく美緒は、桐香がヘンなものをエプロンみたいに体の前へ垂らしているのに気づいた。毛皮の敷物だ。たぶん、ひな壇をベンチ代わりに使う際の、座布団用で置いてあったもの。

 ようようにしておぼろげな記憶が蘇ってくる。確か夢の中にマックスが出てきて……ぼさぼさの毛並みに触れたような気が……え、まさか、それがアレ?

「ん、見えたって?」

「さっき加津佐が言うたやないか。そうじゃ、わしも何で今まで頭に浮かばんかったんか。ヤキが回ったのう」

「それは、つまり?」

「歌、か……」

 慶奈が短く答えて、さらに考え考え、言葉を紡ぐ。

「そう、結局歌だったんだ。みんな、ずっと自分の楽器で考えてたから、噛み合わなかったんじゃないかな? 最初から歌で考えれば……あれ、歌っていうのとは違うのかな? 何て言えば――」

「ちょっとわりぃ、歌が何だって? もう少し説明してくれると――」

 頭をかきながら、悠介が間に入る。桐香がこれ以上ないと言うほど尊大に、顎で美緒を指しながら言った。

「全く、うちの男どもは使えんのう。三年が雁首揃えて、言うてることは一年坊主以下やないか。……加津佐、説明したれや」

 全員が美緒を見た。コアラの子供のように睦海に抱きかかえられた格好で、美緒は今にも再び泣き出しそうな顔で言った。

「すみません…………さっきから何の話してるんですか?」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る