第17話 新たなる試練…ですと?

 月曜日。楽器庫で美緒は貴之を待っていた。今日は一時間のみの個人練習で、建前上は自由参加だから、少々のったりしていても文句を言う先輩なんかいない……と思っていたら、みんな妙に気合が入ってる。ぼーっと突っ立っていたら、一年生同士でも「さっさと練習しなよ」とか言われそうだ。

 え、急な本番の予定でも入ったのかな、と不安にかられたほどだ。でも、様子を見ていて分かった。部員達はやる気満々で楽器を取りに来てると言うより、なんだか練習しないではいられないような、切羽詰まった焦りを抱えているように見える。

 これはやっぱりアレだ。昨日の後遺症だ。一年生に限って言えば「塔野なんかに負けたくない!」という一心なんだろう。にしても、二年生や三年生まで目の色が変わっているというのは――。

 待つほどもなく、貴之が現れた。改まった様子でチューバのケースの前にいる美緒を見ると、黙ってその前に立ち、促すように視線を合わせる。

 それなりに部員の出入りがある楽器庫の真ん中である。何をやっているんだろうとこちらを窺っている顔もいくつか見える。ちょっと恥ずかしい。でも、人気のないところへわざわざ貴之を引っ張って行ったりすると、もっと恥ずかしい噂が広がるかも知れない。

 小さく深呼吸して、美緒は準備していたセリフを一息で言った。

「先輩、昨日はすみませんでしたっ。私がバカなこと言ったせいで、変な騒ぎになってしまいましたっ」

 頭を深く下げて、その姿勢を保つ。

 何となく、これだけはけじめをつけておかなければダメだ、と思った。ほんとは昨日のうちにやっておきたかったのに、練習が終わった時は部全体がなんだか騒然としてたし、気がついたら貴之もいなくなっていて、機会を逃した。

 もっとも、一日空いたおかげでリハーサルはできた。一応、である。なにしろ、こんな改まった形で目上の人に謝るのは初めてのことで、セリフも振り付けもマンガとかの丸パクリだ。こういう形でいいのかな、という戸惑い半分、マジメな気持ち半分で、美緒は貴之の言葉を待った。

 十秒ほど経った。相手は動かないまま、返事もない。

 あれ? と頭を下げたまま、眉根を寄せる。こういう場合、いつまでこうしていないとダメなんだろう?

「貴之っ、お前、一年に何やらせてんだ!」

「美緒ちゃんも、ほらっ」

 バタバタと足音がして、美緒は誰かに抱きかかえられるようにして、上体を起こされた。毎度のホルンのハーレム王子と女官長である。光一が貴之と美緒の間に入るように割り込んで、小夜理が後ろから美緒を支えている。

「何があったのか知らないけど、こういうやり方はお前らしくないっ」

「あーいや、俺は何も言ってない……んだけど」

「あの、すみません、私が自分から謝ってただけなんで」

 目をぱちくりして、え? と顔を見合わせるホルン二人。

「そうなの? 謝るって何を?」

「昨日、その、なんか私の一言で、いっぺんに大混乱になったみたいだったから……」

「ああ、それは」

 なるほど、という感じで二人とも頷いた。え、てことは、やっぱりあの件って、みなさんそれなりに私の責任だと思っていらっしゃる?

「それにしたって、こうまで深々と頭下げさせなくてもいいだろうがよ」

「いや……ちょっとびっくりして」

 美緒は思わず貴之の顔を見た。いつも通りの、ただ愛想のないむすっとした顔に見えるけど、心なしか……目が泳いでるような。

「いきなり頭下げられるとは思わんかった。こっちに謝れとか言い出すんじゃないかって逆に思ったぐらいだし」

 耳を疑う気分だ。え、なんで先輩が。私って、そんなに怖い後輩とか思われてたわけ?

 なんだか生ぬるい笑みを浮かべながら、ホルンの二人は去っていった。「ああ、まあ、じゃあ二人でよく話し合って」とか言いながら。

 微妙に気まずい空気の中で、二人は再び見つめ合……違った、目を逸らしながら向かい合った。

「ええと。加津佐が責任を感じることは何もない……と思う」

 ぽつりぽつりと貴之が話し出す。

「これまで色々怪しいことしてたのは俺らの方だし……それに、あれはあれでよかった……んじゃないかな」

「どういうことですか?」

「ん、まあ……色々と、な」

 また曖昧な言い方になってる。そういう秘密っぽい態度がちょっとイラッと来るんですけど、と、喉元まで言葉が出てきたところで、先に貴之が別の話を切り出した。

「その件は今はいいから。それよりも昨日のこと、意見を聞いとかないといけないんだけど。加津佐はどう思う?」

「え? 思うって……」

 そう言えば昨日の終わり際に、何やらパートごとに意見をまとめておくように、とか言ってたんだった。それは憶えているけど……

「あのう、そもそも何に関して議論してるのか、今ひとつわかんないんですけど」

「ん? ああ、そうか。一年は、昨日が初めてだったしな」

 どうも二年以上と一年生とで、何かが噛み合ってないような気がする。他のパートはちゃんと議論になっているんだろうか?

「つまりその、昨日やったみたいな練習メニュー……というか、指導方法を、これからも続けるべきかどうかってことなんだけど」

「そういう話でしたっけ?」

「おかしいか? 俺達の間で去年から揉めてるのはそういうことなんだが」

 また〝去年から〟だ。そう言いながら、ここまでの事情を詳しく説明してくれる気配はない。

「私はもう、どうでもいいです」

 何となく投げやりな気分で言う。

「どのみち、今の私には関係のない話ですよね? だったら、どちらでも」

「つまり、昨日の塔野みたいな例がこれからゴロゴロ出てきても、それはそれでいい?」

「そ、それは……」

「そんなのは許せないっていうんなら、反対になるんじゃないか?」

 そう、確かに昨日の美緒はそういうことを口走ってた。でも、とさすがに我が身の行為を振り返ってしまう。

「自分が下手なままなのは嫌だから、反対っていうのは、心が狭すぎるんじゃ?」

「そうは言っても、これだけの人数がいるクラブだからな。気分的にトラブルの元になることだったら、一見良さそうなことでも、避けるに越したことはない」

「……そういうもんなんですか?」

「加津佐、お前、今二年か三年で、下に何人か面倒見てる子分がいるつもりになってみろ。昨日のあのやり方を正式に始めりゃ、その子分の何人かが、必ずつらい思いをする。お前、そいつらに対して、我慢しろ、とか受け入れろ、とか言えるか?」

「…………」

「コンクールで金賞狙うために仕方ないんだ、とか言い方はあるだろうけど……そう簡単に割り切れないもんじゃないのか?」

 問題の深刻さが急に迫ってきた感じがした。一つの指導手段を入れるか入れないかで、泣かなくてもいい子がいっぱい泣くかも知れない。確かにそんなのはいい話じゃない。まして、自分の身近なところで泣かれたりしたら。

 一方で美緒は感銘も受けていた。こんな話をこんな風に考えてるなんて。私ははなっから自分のことしか考えてなかった。やっぱりこの人、先輩なんだなあ――。

 いや、ちょっと待って。

「えっと、じゃあなんで、先輩は私にそんな技を使おうとしたんですか?」

「えっ!? いや、そりゃまあ、加津佐の場合は……不可抗力だろ」

「どこがですか?」

「俺がこういう状態なんで、早いとこ一人前のチューバになってもらわないといけなかったし……加津佐以外チューバは他にいなかったから、うまくいってもダメになっても悪くはならないと思った」

 それはその通りかも知れない、と美緒は思った。とは言え。

「とは言え、こういうのを部全員でやるっていうのは、だいぶん話が違う。だから昨日みたいな荒れ方にもなったわけで」

「じゃあ先輩自身は、この話って反対なんですか?」

 貴之は答えなかった。顎に手をやったまま、美緒の前で考え込んでしまう。

 ちょっと不思議な気分だ。自分から始まったことなのに、この人は他の金管の先輩みたいに、全面推進派じゃないみたいだ。でも全面反対でもない。ほんとはどうしたいんだろう?

 なんだか袋小路に入ったような気がして、美緒が手持ち無沙汰に身動みじろぎしてると、廊下から足早な靴音が近づいてきた。

「おお、ちょうどいい。唐津君と加津佐さん、ちょっといいかな?」

 現れたのは端嶋先生だった。

「あ、二人っきりの青春の会話はもう終わったの?」

 反射的に美緒が喚き立てた。

「なんですか、それっ。誰がそんなこと言ってるんですかっ」

「え? あちこちで」

 まあ他の部員が見てる前で話を始めてしまったんだから、多少の話題になるのはしかたないと思ってた。告ってるとか言われるよりはましである。しかし、それにしても。

 ちらっと見ると、貴之は押し黙ったままだけれども、耳元が微かに赤らんでいるような気がする。これはさすがにそっちの理由で赤くなってるんじゃなくて、単に気恥ずかしいだけのようだ――にしても、この先輩、こういう場面で黙り込むのはやめてほしい。

「……で、何の御用でしょうか?」

 美緒が訊くと、先生はちょっとした厚みのプリントの束を差し出した。

「はい、これ」

「? なんですか?」

「パートリーダーになった人の責務とか、最低限の、えーと教養って言うか?」

「はあっ!?」

 そうだ、その話があった。なんで美緒がそんな役職に就かなければならないのか。

「なんで私がそんな仕事をやらにゃならん、て顔してるね」

「当然です」

「唐津君、今からでもちゃんと話、できる?」

「え? はい……いや、ええと」

「いいや、僕から話そう」

 貴之がちょっと傷ついたような目になった。案外この人、言葉足らずなところを日常的に見透かされてたりするのかな、なんて美緒はつい想像した。

「加津佐さんは今まで気づかなかったかも知れないけど、唐津君は例の肺気胸の診察とかで、結構早退が多いんだ。この先も、検査で一日二日抜ける予定が決まってる。まあ、そう長期で抜け続けることにはならないと思うけど、色々と先行きが読めないところもあるし、加津佐さんには早いうちに代理の役をこなして、慣れてほしい」

「え……と、代理って、正式なパートリーダーの半分の仕事とか?」

「いや、全部」

「なんでっ!?」

「こういう場合は、むしろ元のパートリーダーが形だけのものになるからね。実質は代理が全権を握るってこと。あ、でも、唐津君にもちゃんと連絡入れてほしいから、普通より仕事、多いかもなあ」

 なんてこった、と美緒はしかめっ面で宙を睨む。

「でも、唐津君がいる時は、仕事も分担できるよ。三年の引退まで色々と訊けるし、いきなりリーダー任される普通のパターンよりは、ずっと恵まれてると思って」

「いやあのっ、私、できればトランペットに移りたい……んですけど」

 何も考えないまま、先に言葉が出てしまっていた。

 言ってから、さすがに後ろめたさが湧き出てくる。貴之は美緒の顔を思わず振り返り――と言うより上から覗き込み、先生は腕組みをして、しばし動きを止めた。

「えと、今すぐ、とは言いませんから……せめてコンクール終わった時に……いえ、もちろんもっと早かったらいいな、とは……思ってるんですが」

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