第16話 謎は解けた…んだけれども。

 踊るように駆け出していく晶馬の後ろ姿を見送ってから、悠介が改めて部員を見渡した。

 ちょっとヘンな光景だった。金管のメンバーは概してドヤ顔で、木管はどこをどう言っていいのか困ってるような、ふてくされているような。

 その時砥宮慶奈が、しごくまっとうなツッコミを入れなければ、その場面はぐだぐだのまま、半分意味不明で終わってしまったかも知れない。

「今のは一体何!?」

 クールキャラ寄りと思われていた慶奈が、鋭い声で叫んだもんだから、結構みんなびっくりした。

「何なの、あれ!? 唐津君、今何をしたの!? あんな、一つ二つのアドバイスで、吹き始めの一年生が高校生みたいな音なんて」

「んんとな、唐津の母さん、歌の先生なんだわ」

 返事をしたのは貴之でなく、やはり悠介だった。

「親戚なんかも音楽関係多くて、小せえ頃から歌の稽古っつーか、レッスンってやつ? 見ててさ。こいつは歌は今ひとつなくせに、いつの間にか変なスキル身につけちまったみたいで」

「スキルって……そういう言い方で説明できる話じゃ」

「すまん、ちょっと待ってくれ」

 そこで口を挟んだのは、当の貴之だ。

「実例見せといて言うのも何なんだが……俺のこれは、技術とかそういうもんじゃない。ただ、何となく分かるっていうだけで」

「分かるって何が?」

「んー……いちばん響きそうなところ……って言うか、姿勢? 腰をもう三センチ落としたら、いい感じに鳴るんじゃないかとか、そういうの」

「そんな……アバウトな感覚だけで?」

「それでもポイントを押さえた指摘をすれば、劇的に変わることはあり得るだろうね」

 感慨深げにかぶせたのは、端嶋先生だ。

「僕の知り合いの話だけど。その人は、とにかく他人のツボが分かるんだ。鍼医者が学校に通って何年もかけて勉強する体中のツボが、直感だけで分かるらしい。ただ分かるだけじゃなくて、鼻が詰まると言えばここ、胃の具合が悪いと言えばここ、というように、ほとんど治療の真似事までできる」

 急に始まった先生の話は、何かズレるようで、でもこの場の説明になってる感じもした。

「試しに鍼の先生に話したら、びっくりしてたよ。まるで超能力みたいな話だ、とね。ただ、その人の感覚は当たり外れがあってね。いつもキマるわけじゃない。それでも、下手なマッサージよりよっぽど効くって、仲間内じゃ評判で。まあ……理屈じゃなくて、そういう感覚っていうのはあるもんなんだろう。唐津君のこれも、それと似たようなものじゃないかと思うけどね。なんて言ったかな。――共感覚って言うんだっけ?」

 先生の話にオチがついても、慶奈はなおも、と言うかむしろ疑わしげに、

「ちょっとおかしいんじゃ……まるでオカルトみたいな話……」

「現実にそれで音が変わるんだから、仕方ないよ」

 含み笑いで、ホルンの席から光一が言った。横に手を伸ばして、やたら自慢げに、

「ボクのハーレム……じゃない、ホルンパートは、貴之のスキルでいっぺんに音量が跳ね上がったんだし」

「あんたが自慢してどうすんのよ」

 なぜだか横の席の小夜理が不機嫌そうに言う。

「それに〝いっぺんに〟なんて楽な話じゃなかったんだから。私達、どんだけ努力したか――」

「すげーじゃん、それっ」

 変に愚痴っぽくなった小夜理を完スルーして法子が声を上げた。

「いいじゃん、けっこーな話じゃん! なんだか知らんけど、いっぺんに音が良くなるんでしょ? どんどんやろーよ。これで今年は金賞間違いなしじゃん!」

 それなりにざわついていた音楽室が、急にしいんとした。法子は一人で周りを見回して、

「え? どしたの?」

「宝寺丸、お前、サックスはこの話聞いてなかったとか言ってたけど……」

 妙に慎重に一つ年下のバリサクへ問いかけたのは、ペットの悠介だった。

「うん?」

「ほんとに憶えてない? そもそもお前のその音、とっくに唐津から秘伝を授かったもんなんだけど」

「え、いつ!?」

「去年の六月ぐらい」

 目をすがめて、それでも全く心当たりがないのか、「う〜ん」と宙を睨む法子。いくつかのため息が、あちこちから聞こえた。主に三年生のようだ。

「……んで、お前みたいに、なーんも考えないで急にいい響きになった一年生がいるかと思えば、ほとんど効果なかった三年生がいたりして、サックスの中って一時期荒れてたんだけど、お前、ほんとーに記憶にない?」

 法子の目が天井付近に向けられたまま、微妙に泳ぎだした。マンガだったら、こめかみのあたりに冷や汗が何本か流れていたかも知れない。

「いや、急になんか先輩が態度悪くなったなーって記憶はあんだけど……」

「お前、基本、ヌケてるよな。……とにかく、これが唐津のスキルの欠点なんだわ。当たり外れがマジで大きいんだ。正直、それで人間関係がややこしくなったことも、去年はあったし……」

「いやあの、ちょっと待ってくださいってば!」

 急に苛つき気味の不穏な声が上がったので、周りは驚いて声の主を見た。でも、声を出した美緒本人はもっと驚いていた。なんでこんなに感情的になってるんだろ、私?

「すみません、説明してもらって、色々納得はできたんですけど……また少し解らないです。さっきの塔野……君、にやってたことって……私の時のとちょっと違ってて……」

 そう訊きながら横の貴之を見る。眉間にシワを寄せていた貴之は、ああ、と頷いて、

「そりゃ、人によってチェック入れるところはさまざまだから……塔野はたまたま背筋の、上の方だなって思ったんで」

「じゃ、私の場合は何だったんですか?」

「加津佐の場合は……えと、肺の底と言うか……背筋の真ん中と言うか」

「はい?」

「んーとな、なんか曲がってるんだよ。音の通り道がズレててラインになってないっつーか……だから、ちょっとだけびっくりさせてみたら、シャンとなりそうな気がした」

「…………」

 これはこのまま真剣に聞くべき話なんだろうか、と美緒は微かに迷った。貴之も、説明苦しさのあまりか、やたら言い訳がましい方向へ逸れていく。

「音が通ったら、その瞬間に自分で分かるはずなんだ。誰でも。だから、納得してもらうためにちょっと首の根本つつくぐらいはいいよな、とか思ったんだけど、その前に、お前なんかすごく気持ち悪がったみたいだから……」

 そうじゃなかった。美緒はそんな小さな不快事について問いただしているんじゃない。

「その時点で俺はもうダメだと思ったんだけど、鳴野とか三福とか、延長戦やりたがったから――」

「いえ、そこはもういいんですけど……え、今ダメって言いました?」

「言った。……いや、加津佐の音がダメって意味じゃなくて……俺はもう手を出せないな、という意味で」

「どうして? あの、もう私納得しましたから、今すぐでもその、さっきの塔野みたいなの、先輩にお願いできたら――」

 さすがにそれは節操がなさすぎるんじゃ、と頭の隅で呆れる声がする。でも美緒は本気だった。何と言われようと、今ここで必死にならないと、せっかく手に入りかけたものが全部崩れ落ちてしまうような気がした。

 けれども。

「ごめん、だから、それもう無理」

「なんでですか!?」

「だってお前、もうびっくりしないだろ? 多分今の話で色々意識変わってるし……これまで通り、無防備な姿勢で吹いてって言っても、できないだろ?」

「で、でも」

「悪いけど、俺は加津佐の昨日までのフォームじゃないと、ひらめかないと言うか、手の出し方がわからないと思うんで」

「…………」

「だから、地道に練習積んでいってもらうしかない。当面は」

「…………そんなの」

 それは当たり前のことだ。誰しも日々の練習を積み上げ、大変な努力の果てに技術を磨いていく。美緒だってその覚悟はあった。だけど。

 ぱあぁぁ、ぱあァァァァァっと、伸びやかなトランペットの音が、窓越しに聞こえてきた。どこの手練の大人が冷やかしに来たんだろうと、つい錯覚したくなるようなサウンドだ。その瞬間、美緒の中で何かがぐらっと溢れ出た。

「そんなの……ズルいじゃないですか!」

「ええっ!?」

「ズルいです! なんであの塔野みたいなのがあんなにいい音出せて、私が――」

 いけない、それ以上言ったらダメっ、と声が聞こえて、美緒ははっと口をつぐんだ。

 なんて情けないことを口にしたんだろう、私は? ズルいとかズルくないとか、そういう問題じゃないのにっ。謝らなきゃ。今すぐ言ったこと取り消して、先輩に――

 と、世にも殊勝なことを思った時には、もう遅かった。

「そうだよっ、ズルいよ!」

「塔野だけいい音ってのはないですよっ」

「先輩、俺にもさっきのやってくださいよっ! あいつでも鳴らせるんなら、俺だって」

「なんか許せない、塔野のくせにっ」

 羨望なのか逆恨みなのか分からない言葉の数々が、マグマのごとくダバダバと音楽室全体へ吹き出したのである。ほとんどは一年生だ。それにしても、どんだけ人望ないんだ、塔野……。

 ああ、私の失言がこんなことにっ、と美緒は青ざめたけれど、一方で変な安心感もあった。そう。みんな気持ちは同じなんだ。うまくなりたい。いい音出したい。早くレギュラーになって楽しく合奏やりたい。

 でもそれはすぐに実現できることじゃない。

 美緒みたいに小学校から一応合奏やってる子とか、二年三年の先輩は十分わかってることだけど、そのへんの距離感がつかめてない一年生は、一足飛びにレベルアップしたさっきの塔野の例なんか見てしまったら、もう大混乱してしまう。あげく、楽器決めの時みたいにダダこねてグズり出して――まあ気持ちはすごく分かるんだけど……。

 貴之も悠介もちょっとこの展開は予想外だったようで、どう対応したものか、ただただ戸惑っている。今までおとなしくしていたけれど、一年生全員がごね出したらさすがにやかましい。貴之達がいい返事をしてくれないと分かると、反乱新入生どもは直接の先輩達に直訴し出した。

「ノノ先輩〜、私もレベル上げてドヤ顔したいです〜」

「鳴野先ぱーい、ここってハーレムなんですから、一年の教育も責任取ってくれるんですよね〜?」

「曽田部長っ、金管ばっかりズルいです! 私らにもレベルチャージしてくださいっ」

「あーもうっ。だからやめろって言ったのに!」

「滝野ォーっ。おんどりゃてめえでてめえのケツぐらい拭けやっ」

 しまいに三年生まで怒鳴り始めて、もうどうしようもない。これはまた、パーカス部隊の出動か、と思ったけど、どうもあちらにも何人か無職同然の一年生がいて、無体なことを言ってるようだ。宝寺丸先輩は……あ、何も見えてない振りしてる。

 だけど、この手の混乱を止めさせるのは、結局のところ、でかい音しかない。そして、そういう音の出し方を知ってるのは、なにもパーカスの部員だけじゃなかった。

 パッシャーンっ、と、突然とんでもない落雷のような音が音楽室のまっただ中で響いて、部員全員揃って度肝を抜かれた。

 サンダーシートというらしい。一メートル四方のアルミの薄い板をスタンドに吊るした、落雷の音を出す楽器……というか、道具。それが最大音量で鳴り響いたのだ。一瞬パニックにまでなりかけた中学生たちを、パンパンと手を鳴らして即座になだめ、端嶋先生はどこか楽しそうに、手際よく話の収拾をつけた。

「はい、いいかな? みんな存分に議論できたね? ではそろそろこれからの話につなげないといけないんだけど」

「「「でも先生っ、私達――」」」

 たちまち直訴のやり直しを生徒達が始めようとすると、先生は大きくマレットを振りかぶって雷をもう一発落とす素振りをする。根本的に苦手な子が多いのか、騒ぎはぴたりと止まった。

「やれやれ。去年を思い出すよなあ、曽田さん」

 部員代表に小さく笑いかけ、指揮台へ戻る先生はなぜかゴキゲンだった。

「ま、ここまで話が膨らんだら、このまま自然鎮火を待つってわけにはいかんよな。明日から一応テスト前週間で短縮練習だね。水曜日、少しだけパートリーダー会議をやりましょう。それまで、各パートで意見をまとめておくように。さて、残り時間が少しだけあるね。『コンチェルタンテ』と『音プレ』、通してやろうか。さあ、準備準備!」



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