第15話 何のミラクルですか!?
「これが彼の病気……じゃない、えーと、疾患、て言えばいいかな? まあそういうもの。肺の一部の壁が薄くなって、大きく息を吸い込んだりすると、こう」
黒板の文字の横に、下手なイラストが現れた。最低限の肺の輪郭があって、その上の方にちょっとしたコブみたいなのが付け足される。コブと言うより、たこ焼きみたいだ。
「膨らんでしまうんだね。……いや、笑い事じゃないよ? ま、実際にここまで膨らんだりはしないだろうけどさ」
チョークを置いて、再び指揮台に上がって身を乗り出す先生。
「肺がんとか肺結核みたいに、命に関わる疾患じゃない。普通に生活はできる。あと、これはよく理解してもらいたいんだけど、伝染することは絶対にない」
喋り方はユーモラスでも、じわじわと事の深刻さが胸に染みてくる。ああやっぱり、と美緒は思った。やっぱり唐津先輩は余命幾ばくも――いや違った。なんだか健康を害してるらしい。でも、だからって私を背後から襲撃する理由にはならない……よね?
「ただ、一度症状が出ると、完全に治すことは難しくて、しばらくは安静にしないといけない。一年生は唐津クンの音をほとんど聴いたことがないよね? それはそういう理由。ようやく最近吹けるようになったそうだけど、まだまだ本調子じゃない。それで……加津佐さん」
「はい?」
「立って」
言われるままに立つ……けど、周りから見るとほとんど変化がない。失笑の中、ちょっと不機嫌そうに口をとがらせる美緒だった。
「改めて紹介しよう。加津佐美緒さん。唐津クンが本調子じゃないんで、一年生にしてチューバのパートリーダー代理を務めている」
「えええっ!?」
寝耳に水、とはこのことだろう。いつの間にそんな話になったのか。先生は、あれ?という顔をしながら、美緒に座るように指示して、
「聞いてなかった? ああ、それでか」
何が「それでか」なのかは聞かなかったけれど、なんとなく見当はついた。
「まあ、代理の話は今はいいや。とにかく、今のこの部で低音域を担当しているのは、加津佐さんと、あとは木管が一人二人。曲によってはチューバ一人だけの部分もある。正直、響きが足りない」
ちょっと話を切った先生に、砥宮慶奈が手を挙げて尋ねた。
「すみません、バスが足りないのなら、人間を増やせばいいだけでは? どうしてチューバの一年は加津佐さん一人なんですか?」
「いい質問だね。確かにそうすることも出来たんだが、はっきり言ってうちの部は今、人数に余裕がないんだ」
何人かの部員が、つい周囲を見回してしまう。一年生も入った状態の音楽室には、一応部員全員が揃っているはずだけれども、それほどぎゅう詰めという感じではない。六十人に届くかどうかというところ。
全日本吹奏楽コンクールの中学校部門の定員枠は五十人だ。これはつまり、標準的な吹奏楽には五十人程度の奏者が必要だということでもある。でも昨今の少子化で、定員いっぱいのレギュラーを舞台に上げるのに、四苦八苦してる学校は多いって話だ。今年の樫宮中も、多分五十人は揃えられないだろうとのこと。
そんな少ない人数で、全パートが後継者不足にならないよう生徒を割り振らなければならず、でも一年生の半分以上は技量不足なもんだから、この手のやりくりは色々と頭が痛いのである。
「こう言うと加津佐さんには不本意だろうけど、適性の怪しい部員を埋め合わせで何人もチューバへ放り込むよりは、やってくれそうな一人に期待したってこと。あと、唐津クンが復帰したら、チューバ三人だと絶対に多すぎる。それは間違いない」
「…………」
納得できたからか、できないからなのか、慶奈は無言のままだった。
「そういうわけで、うちは今、一時的にバスが薄くなってしまってるってわけ。で、間の悪いことに唐津クンの復帰のペースも想定よりやや遅れ気味なんで……もちろん本人の責任じゃないよ? でも、無い袖は触れないってやつで……そこで金管の先輩達は、加津佐さんのレベルを一度に底上げしようとして、ある手段を試した。そういうことだよね?」
「はい?」「そうです」
首を傾げる美緒、うっそりと答える貴之。美緒は思わず隣を見た。貴之の表情にブレはない。大マジらしい。でも、レベルを底上げって何?
先生は美緒に何度も頷きながら、
「一応、指導の一環だったんだよ。まあ僕も現場を見てたわけじゃないけど、察するに唐津クン達は……ええと、なんて言えばいいのかな?」
「先生、その話、俺らから加津佐に説明してやりたいんですが、いいですか?」
手を挙げたのは、トランペットの滝野悠介だった。事実上の金管セクションの世話役みたいな立場の先輩だ。
「ふん、どんな風に?」
「実例を見てもらえればいちばん早いです。うちのパートの一年生を使って」
ほお、と感心したように先生が眉を上げた。けど、間を入れず、曽田雪乃が強い調子で切り込んでくる。
「ちょっと待って。そういうの、もうやめようよって言ったよね? もしも――」
「問題ない。それほど長くやるわけじゃないし、加津佐が納得できるまでの、まあ軽いデモンストレーションだ。曽田が心配するようなことは起こりようがないだろ」
「え、でも」
「五分とかからない。お前らもなんか、色々と誤解してるところもあるし、ちょうどいいんじゃないのか?」
「私はただ、唐津がっ」
すっと雪乃の前に先生が手をかざした。「五分ぐらい、時間をやったらいいじゃないか」。そう言って、悠介に頷いてやる。
頷き返した悠介は、今さらのようにチューバの席に向かって、
「いいよな、唐津?」
そう確認した。貴之は、どうも本音では気乗りしないようなんだったけど、とにかく「任せる」とだけ言った。この人が話の中心のはずなのに、どうなってるんだろう、と美緒は未だに話が見えない。でも――どうやら今度こそ、何もかもがはっきりするようだ。音楽室全体が、いつになく戸惑いと、ささやかな緊張感で静まり返っていた。
少しの間、金管パートリーダーの間で何やらやり取りがあって、おもむろに悠介が隅っこにいた一年生を立たせた。もちろん、美緒も知っている顔だ。昨日、荷物を運んでくれた一人。その意味では恩義がないわけじゃないけど、それ以前には「加津佐がチューバパートになったのは体重のせい」などとけしからんことを言い広めていた一人であり、もっとさかのぼれば小学校時代にトランペット鼓隊そのものをバカにしていた一人でもある。どの面下げてペットに志願してきやがった、という思いは、今も消えない。名前は
何をするんだろうとみなが注目している前で、悠介は晶馬に楽器を持たせて、音楽室中に聞こえる声で言った。
「おっし塔野、ちょっとロングトーンやってみろ。ソの音で八拍。いくぞっ、さん、し」
ふおお〜〜〜っと、と微妙にカビが生えたような、いかにも残念な音が響き渡る。一秒で、ああこれはダメだ、と判る類の音だ。音に芯はあるのだけれど、安定してないし、とにかく音色がハスキー過ぎる。
悠介は何回か繰り返しFの音を吹かせてから、一度止めた。まあ一年生ってこんなもんだけどね、そんな曖昧な表情で見ていた部員達に、世間話のように問いかける。
「今の音聞いて、こいつをレギュラーに推したいってやつ、いる?」
手を挙げる者は誰もいない。というか、この言い方だとイジメすれすれでは? と眉をひそめる人もいる。
晶馬本人は、訳がわからないままに、言われた通り素直に吹いているのが、バカっぽいと言うか、哀れと言うか。やっぱりこの先輩、人が悪いなあと美緒が見ている前で、悠介は再度、晶馬にロングトーンを指示した。ただし、今度は横からあれこれ口出ししながら。
「ちょっと足の指に体重のせてみろ。……うん、傾きすぎないで。もう少し足開いてみ。……どっしりしてろ。タマ降ろせ。ケツの穴閉めろ! ……あと少しタマだっ。タマ引きすぎっ」
露骨過ぎる言葉の連発に、女の子達はいやでもざわついてしまう。ツートップの桐香とノノなど、嬉しそうな顔を隠そうともしてない。金管の女子部員は、慣れているのかちょっとにまっとしているだけ。曽田部長は、ただ赤面してうつむいてしまってるのが、いかにもこの人らしい。
体を張った(?)指導のたまものか、晶馬の音はだいぶん安定してきた。でも、それだけだ。
「これでレギュラーに推せるか? 誰か?」
数人がパラパラと手を挙げた。木管のお姉さんからの同情票というところだ。
なぜか悠介は満足そうに笑みを浮かべ、貴之に合図した。それから、また同じように晶馬にロングトーンを指示する。「いいって言うまで、黙ってそのまんま吹き続けてろよ」と言いながら。
横から呼ばれた形の貴之は、ぐるっと晶馬の演奏姿勢を確認してから、一度バックステップして全身を見、それからなぜか美緒の方へ視線を投げた。
見てろよ。そう言われたような気がした。
一心にロングトーンを続けている晶馬の斜め後ろに立ち、新しい音を吹き始めた直後のタイミングで、ブレザーとカッターシャツの襟の真後ろをぐっとつかむ。
「かかとつけてろっ」
貴之がそう言って、わずかに襟を上に引っ張り上げた、その途端。
晶馬の音が、劇的に変わった。
「ふぉー」が「ぷぉー」に、さらに「ぷぁあああー」に。響きの温度がみるみる上がり、はっきりとトランペットらしい輝きのある音色になる。
「後ろに倒れるなっ。かかとだけ軽く意識してっ。……そう、それで、あともうちょっと伸びるイメージで吹いてみろ。首から上だけ背伸びして。……いいぞ。そのまま、たっぷり息使っていけ!」
いまや、晶馬の音は「ぱぁあああああーっ」という、おなじみのペットのサウンドそのものだ。メロディーを吹いたりリズムを刻んだりがどこまでできるのかはともかくとして、トゥッティで和音を吹くだけなら充分務まりそうに聞こえる。はっきり言ってその時、美緒は顔色をなくしていた。
トランペット鼓隊の時の、私のいちばんいい音でも、負けてるかも。こんな、吹き始めて一ヶ月の駆け出しヤローに――
「どうだ?」
ひとしきり吹き終えた晶馬に、悠介が訊いた。尋常ではない体験をした一年男子は、どこかぼうっとしつつも目を輝かせて、興奮を抑えられないようだ。
「なんか、すげーです。音がこう、すげー感じで。何つーか……ほんとすげー」
いかにも頭の悪そうなコメントに、よしよしと頷いて、悠介は窓の外を指した。
「その感覚、今日中に体に染み込ませてこい! ロングトーンだけでいいから、気の済むまで吹いてきな!」
「うっす!」
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