第10話 そして三回目はこの方。
帰宅して夕食を食べてお風呂から出ると、父親が例によってテレビを独占していた。また何かの洋画を見るつもりなのだろう。
小学生の一時期、スケジュールを決めてテレビに夢中になっていた時期もあったけれど、今の美緒は映像にはあまり興味がない。周りの友人達もテレビ派は少数で、その代わりに好き好きにネット動画を見ているようだ。グループ派閥別に見るものの傾向が違うし、どのみち自由に動画を見られる環境じゃなかったから、美緒はその手の話題から往々にして閉め出されている。
話によると、姉の理緒は高校からパソコンを支給されていて、いずれ美緒も自分のパソコンを持つだろうとのこと。そうなると美緒のメディア生活は一変するはずだが、それはずっと先の話と思っている。今のところは、時間がある時はコミックなり本なり読んでる方がいい。
だから、その日の夜、美緒が父親の横で長イスにちょこんと腰を下ろしたのは、ほんとにたまたまだった。
いろいろ考えたい気分だったのだ。今日一日で本当に色々あった。チューバのケースに隠れて、三年生達の秘密の会話を盗み聞きして、変なプレゼンを聞いて、初めての「音プレ」全体合奏にちょっと泣いちゃって、浪瀬先輩の紙芝居のネタにされて、それから――
砥宮先輩との会話は……今は置いておいて……。
その後の唐津先輩の様子。あれは何だったんだろう。あの場面が気になったせいなのか、初めて聴いた先輩の音がどんなだったか、今ひとつ記憶に残ってない。
その後の合奏にしろ、心の片方では気持ちいいハーモニーを存分に楽しめたものの、もう片方でどうしても先輩が気になって。
具合を尋ねたかったんだけど、どうも触れられたくないような気配だったので、結局聞きそびれたまま。
少し痛そうだった。胸のあたりを押さえてたってことは……心臓?
と、キーワードを頭に浮かべたちょうどそのタイミングに、目の前の画面で、髪を振り乱した俳優が、バカでかい帽子の男へ、やたりと説明調のセリフを叫んだ。
『貴様のその心臓を、これで串刺しにしてやるぞ!』
どうやらホラーアクションらしい。バカじゃないの、と思った。余計なこと宣言してる間があったら、もっとマジメに戦ってほしい。
「怖くないのか?」
不意に、父親が尋ねた。映画に集中しているふりをしつつも、娘が物怖じせずエグい画面を凝視しているようなのに、ちょっと感銘を受けているようだ――いや、実はろくに視てなどいないのだけど。
「別に。どうせ作り話じゃない」
「……そうか」
そう、作り話だ。世界は作り話に満ちている。人の微妙な気持ちを、原色だらけのわかり易すぎるファンタジーに描き変えて喜ぶ中学生作家とか。
「作り話の中にも、真実はあるもんだぞ」
なおも顔を合わせることなく、父親が言う。何か人生訓みたいなものを語ってるつもりなんだろうか? 珍しいことだ。会話が二往復するのも珍しいけど。
「それは、分かってるよ」
何の気なしに言ったつもりだけど、妙に実感がこもってしまった。なんで? ああ、あれだ。浪瀬先輩のイラスト。なぜかママが上手に描けてた。全部ダメ出ししたい先輩の創作物の中で、あのイラストだけはなんだかリアルだった――。
多分勘違いしている父親が、またまた感銘を受けたように美緒を横目で見ているようだ。とりあえず放っておいて、ちょっとだけ家の中のことも考える。
母親は今日も夜勤のパートだ。帰ってくるのは十時過ぎ。この映画の終わりまでここにいても、すぐに部屋に戻れば顔を合わせることはないだろう。今日も仲直りすることなく。
他人から見たらひと目で親子と分かるらしいママと私。浪瀬先輩がここにいたら、「性格もそっくりね」なんて言うんだろうか? じゃあママがマックスをクリーンセンター送りにしたのは――。
「うわっ、なんてもの見てんのっ。グロっ」
いきなり、背後から理緒の悪態が降り掛かった。たまたま通りかかったら中一の妹が本格ホラーを見てるもんだから、衝撃を受けたようだ。ちらっと姉を振り返り、努めて淡々と美緒は返した。
「ただの作り話だよ」
「んなこと言っても! 怖いもんは怖いよ!」
「怖いように作ってるだけだよ」
「スカしたこと言ってるんじゃないよっ。世の中に怖いものってのは、確かにあるんだから」
「そうかな」
「そうだよっ。美緒はまだ子供だから分からないんだよっ」
なにか言い返そうとして、ふと美緒は妙な気分になった。何か見逃しているものがある。何か、今抱えている疑問に応えるかけらみたいなもの。
ぼんやりと画面に目を戻すと、おなじみの展開でモンスターの配下になっちゃったモブが、主人公たちに牙を剥いて襲いかかろうとしてるシーンだ。「みんな人間なんだぞ!」「諦めろっ、奴らはもう――」、そんな不毛な会話に時間を取られて、自らピンチを拡大する頭の悪いヒーロー達。
あ、と美緒は思った。もしかして……いや、まさか?
翌日の日曜日。中間テスト前に練習時間を確保する、ということで、吹部は今年度初めての休日練習を実施した。ただし、午後からの半日だけ。
前半が個人練習、後半が合奏だと言うので、美緒は昨日と同じように中庭の外れに場所を確保し、一人で黙々とトレーニングに励んだ。
それが現れたのは、ロングトーンがそろそろ終わろうかという時だった。
美緒はその時、壁を背にはしていなかった。なんとなくうっかりしていた、という風を装って、実は誘っていたのである。
それまでそのことに気づかなかったのは、我ながら不覚だったと思う。でも、相手の方も美緒がそういう知恵をつけていると思わなかったのだろうから、お互い様だ。
実際、これはチューバか、せめてユーフォの経験者でないと分からないだろう。大型金管楽器の表面、それは、ちょっとしたコツさえつかんでしまえば。
ほとんど後方モニターとして機能するのである。
ベルの突端あたりに映る黒い影が、背後五十センチの距離まで近づいたところで、美緒はさりげなく、ほんとうにさり気なさを装って振り返った。
あまりに自然な動きだったからだろう、三福小夜理は美緒と視線が合っても、まだ両手を首筋へ伸ばそうとしていた。
二秒ほど遅れて、気づいた小夜理が凍りつく。無言のまま、美緒はゆっくり周囲を見回した。ホルン、ユーフォがいて、少し離れたところに貴之が黙然と立ちすくんでいるのが見えた。どうも上の部屋にペットやボーンもいるようだ。みんな明らかにこの状況をそれと認めていて、でも何も言えずにただ動きを止めている。
「え? え? 美緒ちゃん……」
もはやどんな言い訳も通じない状況で、小夜理はなすすべもなく、あたふたしている。
「い、いや。そんな目で見ないでっ」
話ができるんなら訳を聞こうと思っていたのに、先方の方がパニックになってしまった。そんなに〝ヤッてしまう〟ことに失敗したことがショックだったのか。
「違うの、私、私はっ」
様子を見ていたハーレム王子が飛んできた。美緒じゃなくて自分の女の子が心配だったらしく、小夜理の肩を気遣わしげに引き寄せる。小夜理はいつかみたいにハイキックを食らわすのかと思いきや、そのままべったり光一の胸にしがみついたかと思うと、泣き声まで上げ始めた。
「あああん、美緒ちゃんがあたしを虫けらみたいに見てる〜〜〜」
いくらか険のある目つきになっていたかも知れないけど、虫けらはないだろうと思った。でも、小夜理はすっかり駄々っ子みたいになってしまってる。甘やかす光一も光一だ。
って言うか、誰もこの状況を説明する気はないわけ?
なんだか猛烈にバカバカしくなってきて、美緒は楽器をケースに収めて席を立った。
「あの、美緒……」
「少し席外します。しばらくしてから戻ってきます」
三砂が手を伸ばして呼びかけたのに、ぴしゃりと言い返してから、美緒は渡り廊下から校舎の中に入った。追いかけてきたりする者はいなかった。
少し大人気なかったかなと思いつつ、靴を履き替えて一旦音楽室を目指した。のに、目的の音が聞こえてこないようなので、向きを変えて二階の教室を一つ一つあたり始める。
さっきのよれよれな状況から見て、相談相手は部長や端嶋先生でも大丈夫なのだろうけど――念には念を、だ。
教室のドアから中を窺って回りながら、美緒は小学校時代のあの〝謎の授業〟のことを思い返していた。あの日、一通り話が終わってから、何人かがふざけ半分にこう言ったのだ。
――先生、変質者ってなんですか?
その生徒たちは絶対その答えの中身を知っていたと思うのだけど、質問は質問だ。さんざん呻吟した挙げ句、先生は言った。
――あんた達が、今いちばん怖いと感じるものを思い浮かべなさい。変質者ってのは、それよりも気味悪くて、怖いものよっ。
それでも想像がつかなかったのだろう、あどけない顔の何人かが聞いた。
――狼男とかフランケンシュタインよりも?
鼻を鳴らしながら、先生は言い放った。
――あんなもん、どこが怖いのよ。そのへんにいるちょっと変な生きものってぐらいでしょ!? 変質者は、そんなもんじゃないんだからっ。
先生の言ってることに、おかしなことはなかった。ただ、純真無垢な小学生相手にそういう言葉を使ったら、結果としてどんな印象が残るのかということは、もう少し配慮してもよかったかも知れない……などと美緒が考えられるようになるのは、ずっとずっと後のことだったけど。
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