第9話 そんな、ドキッとすること…。


 最後の和音が、バスドラムのうつろの中で、しばしこだまを続けていた。その名残が静まるのを聞きながら、端嶋先生がようやくにして笑みを見せた。

「よおっし、初めてにしちゃ悪くない出来だが……ちょっとDのテンポの切り替えがな。えーと、Dの四小節前から」

 竹の棒を再度目の位置に持ってこようとする指揮者に、貴之が呼びかけた。

「すいません、先生、ちょっと休憩入れてもらえると」

「え? どうかしたのか?」

「その……加津佐が」

「なんだ? 具合が悪いのか?」

「いや……これは多分」

「美緒ちゃん、感動で放心状態になってます〜〜」

 三砂の能天気な報告に、部員全員が、はぁっ!? とチューバの席を振り返った。

 気を利かせた(?)貴之が楽器を床に立ててやると、件の新人チュービストの姿が露わになる。ちょっとだらんとした感じで、片手を口元にあて、潤んだ目でぼうっとしながら、一筋のしずくを頬に流している美緒の姿が。

「あ、なんかほんとっぽい」

「え、なんでこんなに感性が豊かなの、この子?」

「って言うか、免疫なかったせいだと思う。この曲の音源、まだ聞いてないって話だし、全体合奏も初めてで」

「うわあ、じゃたった今が、まともな吹奏楽初体験だったってわけ? 『音プレ』で?」

「それは幸せだねー」

 まるで生まれたてのネコの赤ちゃんを見守るように、部員達がほんわかした視線で美緒を眺めている。端嶋先生は、しょうがないな、と小さく苦笑して、

「では、十分休憩」

 言い置くと、準備室へ引っ込んでしまった。

 一方の美緒は、実は百パーセント感動で放心状態、というわけではなくて。

 半分は酸欠だった。もう半分は……もちろん音楽自体への感動もある。けど。

「どう、美緒ちゃん、マックスには会えた?」

「うん、いた……マックス、いっぱいいた」

 なぜだか目を爛々と輝かせて尋ねる三砂へ、うわ言のように美緒が返す。

 どこからだろう、喩えようもなく胸が一杯になって、多幸感にとろけそうになったのは。周りじゅうマックスがいっぱいいて、その暖かさ、柔らかさを一身に感じながら宙をたゆたっているような気分になったのは。

 やはりトランペットを間近で聞いたからだろうか。金管の中低音とは何度も合わせてきた一方で、今までペットと合わせたことはなかった。音の断片は時々聞こえてはいたけれど――こんなにも熱い、ふわっとした響きだったなんて――

「マックスって何?」

 フルートの席から、当然ながらの質問が飛ぶ。休憩時間が短いせいで、立ち歩いている部員は少ない。少なからぬ視線が、美緒と三砂に向けられていた。

「あ、知りたい? とても感動的な愛の物語なんだけどね」

 そう言いながらスケッチブックを取り出し、ページを開いて部員たちに見せつける。絵本みたいな物語の表紙部分らしい。

「これは今から半年前に、この町のある小さな女の子の身に起こった、奇跡のようなファンタジーで」

 ぴくっと美緒の肩が震えた。周囲のメンバーは、うわあ、とうんざりした顔で、

「待てっての。誰があんたのイカれたメルヘンなんか聞きたいっつったよ」

「いやまあ、いいけどさ。暇つぶし程度なら」

「あたし、パス」

 なんだかんだで十人少々がユーフォの周りに席を寄せてくる。三砂がスポットライトの真ん中なら、チューバの席は舞台袖ぐらいの位置関係だ。つまり、美緒も見世物の一部である。

「じゃあ行くよー。昔々、ミオちゃんという女の子がいました。ミオちゃんは赤ちゃんの時からマックスというぬいぐみと一緒でした。ミオちゃんはマックスと話ができたのです。二人は深い絆で結ばれていて――」

「うわあああああ」

 真っ赤な顔で美緒が三砂に飛びつこうとした。が、すべて予想の範囲とばかり、三砂は軽く身をかわし、ギャラリーの一人を指名した。「チナッちゃん、お願い」。即座に、一人が美緒を後ろから抱きとめ、悠然と引っ張り戻して、イスに戻った自分の太ももの上に美緒を座らせ、おなかをがっしりホールドした。

「肝っ玉母さん」こと、二番トロンボーンの茅葺かやぶき知夏ちなつである。体重が美緒の倍……はないにしろ、歯が立つ相手ではない。

「うううううう」

 唸り声を上げる美緒に、同情の空気は乏しい。なけなしの娯楽を求める女子部員達は、無慈悲に三砂をけしかけた。

「いいよ、続き行って」

「でも半年前って前置きしたのに、昔々って何よ」

「細かいこと気にしないで。じゃ二枚目ね。さて、ミオちゃんのお母さんはマックスが嫌いでした。ぬいぐるみと話ができることも、もちろん信じませんでした。ある大掃除の日、お母さんはマックスをゴミ捨て場に持っていって、ひどいことに焼き捨ててしまったのでした」

 ああ、そういう話ね、と何人かが頷いて、共感したような視線を美緒に向ける。美緒はとりあえず仏頂面で三砂のイラストを見つめていた。嫌で悲しい場面だけど……もう人前で泣き出すほどじゃない。

 それよりも、母親の顔がやたらと実物に似ているのが気になった。三等身のコミカルなイラストで、割合に上手。でも、浪瀬先輩はうちの親と会ったことないはずなのに――と考えて、ああそうかと思い直す。単に、美緒の顔を大人にしただけだったのだ。

 そうか、私、ママとおんなじ顔だったんだ……。

「ミオちゃんは家を飛び出し、泣きながら雪の中を一人で歩きました。あてもなく、ただ長い長い道を歩き続けました」

 ざわっと、今までと少し違う種類のどよめきが起きる。

「あ、ちょっと泣けてきたかも」

「これ実話? 全部が?」

「……雪は降ってなかったです」

 美緒の絶妙な返事で、リアリティ度が一気に増したらしい。ギャラリー達の目にはっきりと熱がこもってきた。まずいことを答えてしまった、と美緒は内心で舌打ちをする。

「ミオちゃんが町の真ん中までやってくると、音楽が聞こえてきました。町の高校生たちが、演奏会をしていたのです。暖かいトランペットのハーモニーにじっと耳を傾けていると、不意にマックスの声が聞こえてきます。ミオちゃんは驚いて顔を上げました。『ミオちゃん!』『マックス!』」

「マックスは言いました。『ボクは人を癒やすものに宿る精霊だからね。ミオちゃんがトランペットに癒やされるんなら、トランペットの音の中に、ボクはいつでも現れるよ』」

「『ああマックス、だったら私、これからずっとトランペット吹く! きれいな音楽、いっぱい鳴らす!』『うん、また音楽の中で会おう』。二人はそう約束し合い、そしてマックスは空に上っていきました。ミオちゃんは、マックスが消えた夕日の向こう側を、いつまでもいつまでも見つめているのでした。   おしまい」 

 やや戸惑った沈黙が続いた。最初の一人が「えーと」と口を開く。

「雪が降ってたのに、夕日の向こう側っていうのは……」

「そこはどうでもいいんだよっ。で、結局どういうこと!? この話のオチは!?」

 よく見ると食いついているのはバリサクの宝寺丸ほうじまる法子のりこだ。さっきは一人で部全体をシメていたというのに、今度はこんな他愛のない話の中で真面目なクレームをつけている。

 いっそ優雅に微笑んでから、三砂は言った。

「これは進行中の物語だから。これから美緒ちゃんがマックスに会えるか否かっていうのが、ハラハラドキドキのサスペンスで」

「あんたさっき、『おしまい』って言っただろっ。終わってないのかよっ」

 ぐだぐだな言い争いをしている先輩達を前に、美緒は脱力感に耐えていた。自分が喋ったこととは言え、改めてストーリーにすると、気恥ずかしいことこの上ない。なんだか微妙に筋が通ってない気もするし……。

「つまりペットの音が、ぬいぐるみみたいな、ほわ〜んとした感じに聞こえたってことだよね?」

 だしぬけに、耳元で声がした。茅葺知夏が、美緒をお人形さんのように膝に乗せたまま、割と真面目な声で話しかけている。美緒は少しだけ考えてから、頷いた。

「そう、ですね」

「うーん、なんかそのへん、よく分かんないんだよね〜。ペットの音がねえ」

「でもさっきも、真ん中のペット出てくる辺りから、すごくあったかい気分になって」

 言いながら、美緒は微かにあれ? と思う。それはほんとにペットの音に感動したんだっけ?

「そう。じゃあよかったじゃん。美緒ちゃんこれから、毎日マックスに会えるね」

 やり手の保母さんのような話術に、聞いていた周りが、おーと感心の声を上げる。美緒はなんとなくモジついたまま黙っていた。ほんとにそうなのかな? なら、とても嬉しいけど――。

「でもお母さん、ちょっとヒドいよね。いきなり捨てるなんて」

「うちはまだ置いてある。親の方が愛でてるね、むしろ」

 雑談のように話し始めた何人かの横で、輪の外側にいた一人が、爆弾のような一言を投下した。

「それはその母親の方がまともなんじゃない? 捨てて正解だよ」

 みんながぎょっとして振り仰ぐと、アルトサックスの砥宮とみや慶奈けいなだった。

「毛足の長い、でっかいぬいぐるみだよね? 美緒ちゃん、だっけ? トランペット鼓隊に入ってたって言うけど、それって喘息ぜんそくの治療で楽器やり始めた、なんて事情があったりしない?」

「えっ」

 驚く美緒の横で、またもバリサクの法子が苛ついた声を上げた。

「慶! っとに! なんでこんなとこまであんたはっ!」

「大きいぬいぐるみって、色々と健康には悪いの。ほこりアレルギーになったり、ダニがついたり。そりゃ母親も、心を鬼にして処分するんじゃない? ちゃんとした母親ならね」

「でもっ、私は……!」

 知夏の膝から下りて大声を出した美緒に、その場の部員達が思わず顔を向ける。美緒自身もつい気後れしてしまい、慶奈から目を逸らしながら切れ切れに言葉を継いだ。

「私は喘息じゃなかったです。……なったこともない、し……」

 なんでこんなに弱気な言い方になるんだろう? そう自分に戸惑いながらも、その先が何も出てこない。疑問を呟きつつ、無理やり自分の心にフタをしてるみたいな。

 慶奈の方は美緒の返事に深読みする様子もなく、

「そう。そういう話じゃなかったらごめんね」

 それだけ言うと、背中を向けて自席で淡々と楽器の音出しを始めた。たった今の会話などなかったかのように。

「たくもうっ、この女はっ。ごめんな加津佐、気にすんじゃねーぞ」

 吹部のヌシのような人からじきじきに言葉をもらって、美緒は慌てて一礼した。そろそろ休憩は終わりのようだ。あちこちで楽器を鳴らす音に紛れて、つかの間の紙芝居劇はなし崩し的にお開きになった。微かに感じた美緒の疑問も、淡いもやのように自然と散ってしまった。

「よぉーしっ、そろそろいいかなっ。じゃあさっきの続き、Dの四小節前から――」

 端嶋先生の明るい声と竹のべしべし鳴る音が、指揮台の上から聞こえてきた。

 ふと、横を見ると貴之が胸の上あたりを押さえてイスにもたれている。楽器は構えていない。

「先輩?」

 小声で聞いた美緒に、貴之は何かを言いかけてやめ、結局短い指示だけ返した。

「この先は一人で吹いててくれるか。俺は聞き役に回るから」

「……はい」

 ちらっと見ると、何人かと、先生もが貴之の様子を窺っているように見えた。が、美緒が構えると、すぐに体勢を戻し、練習が再開された。

 努めて真剣に吹きながら、美緒はもしかして、と今までにない不安を感じ始めていた。

 もしかして、唐津先輩って――。

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