第4話 この人までっ!?


 後から割り込んできたサックスとトロンボーンが、楽器と譜面台だけを持って、渡り廊下にゾロゾロ横に並び始めた。美緒達と九十度角度をつけて、立奏の構えを取る。そこから改めてチューニングもやり直し。結局、終わるまで五分以上かかった。

 正直、美緒はいいかげん気疲れしていた。軽い気分転換ぐらいに思ってたのに、さっきから待ってばかり。だいたいが、合わせと言っても中低音パートが集まっただけだ。曲の不完全な形をなぞるのが関の山だろうに、ぐらいしか思えないし、他の部員たちがやたら楽しそうにしているのも、冷めた目でしか見られない。

(どうせ全音符ばっかだし)

 非旋律楽器を蔑むつもりはないけれど、メロディーがふんだんにあるトランペットなどと比べれば、チューバの楽譜は地味極まりない。せいぜいロングトーンだけしっかり吹けばいいんでしょ、みたいなやさぐれた気分に、いやでもなろうってもんだ。

「じゃ、五小節目から」

 ようやくにして、曲の合わせが始まるようだ。貴之が右手を目の高さに掲げた。美緒は今までこなしてきたレッスンと全く同じように、何の気負いも期待もなく、淡々とチューバを構えた。

「さん、しっ」

 二拍の前振りのわずかな間に、美緒はその場がぴりっと帯電したような気がした。

 瞬間、十三本の楽器が一斉にフォルテの変ロ長調トニックを轟かせる。

 たったそれだけで。

 美緒はざわっと半身が総毛立つのを自覚した。

(えええっ!? なに、これっっ)

 飛び上がりたくなるのを抑えて、必死で楽譜を追う。続くフレーズ。多分ファンファーレの後半部分。曲の輪郭なんて全然分からない。アルトサックスとトロンボーンとホルンとユーフォが旋律の断片をリレーしていってる下で、チューバは基礎練習みたいな長い音がつながってるだけ。

 なのに、なんだろう、この感じは。音に。響きにオーラがある。なんてハッピーな和音。今にも最高のお楽しみが始まりそうな、駆け出したくなるようなパワーと高揚感。

 貴之が手の振りから手拍子に変えた。暗に、しっかりタイミングが合ってないと訴えているのだ。複付点音符があるクレシェンドでは、ホルンはポロポロ音を外していたし、美緒自身も何度か音が裏返りかけた。

 なのに、楽しい。

 練習番号のCの最後まで通してから、貴之が止めの合図をした。美緒以外はみんな苦笑いしてる。

「ダメだなこりゃ」

 光一がマジメな声で言った。

「まだ全体合奏は無理だ」

「最初はこんなもんでしょ」

 頷きながら、横で小夜理が言う。

「むしろ、悪くないんじゃない? タイミングは、まあ合ってるし、一応ハモってるし」

「去年を思えばね」

「あんなのと比較したらダメでしょ。今年は地道にいかないと――」

「だいたいボントロが音外れっぱなしで――」

「え、どこが? ちゃんと吹いてるって――」

 わいわい言いつつ、後発組のサックスとトロンボーンが引き上げる様子を見せていた。

「なんだ、もういいのか?」

 光一が首を巡らせながら訊いた。

「うん、問題点は見えたから、後は僕らだけで」

「うちら、まだここまでしか合わせらんないし」

 トロンボーンは生真面目そうに、サックスはちょっと自嘲混じりに答えて、それぞれ散っていく。どうやら、ほんとにできるところだけ刹那的に合奏したかっただけらしい。

 後には、元々のホルンとユーフォとチューバだけが残った。

「美緒ちゃんスゴいねー。バッチリだったじゃない」

 落ち着いた雰囲気が戻ってから、浪瀬三砂が心からの賛嘆の表情で美緒に笑いかける。やや放心状態だった美緒は、ちょっと慌てた。

「ん、え? あーいや、そんな……ついていくの、精一杯です」

「ええ? でも、なんか嬉しそう」

「あ、ホントだ。カワイイ」

 三砂につられて、小夜理が、さらにはその場の一同が美緒に注目する。戸惑った美緒が、え? え? と首を回していると、貴之と目が合った。いつも無愛想な先輩が、この時は「へえ」というような目で、ちょっと興味深そうにしている。

「そうだよねー、合わせたの初めてだもんねー。どう、感想は?」

「え、はい……そうですね」

 少し気分が高ぶりすぎたのか、本当に思ったまんまの感想を漏らしてしまっていた。

「マックスがいるみたいな……気分で」

 不意に訪れた微妙な間に美緒が顔を上げると、三砂が笑み崩れそうな顔を両手で挟んで美緒を見つめている。今にも感極まって抱きついてきそうな。

「美緒ちゃん……! なんて、ファンタジーな子っ」

「マックスって誰?」

 小夜理が誰にともなく聞いた。ホルンパートはみんなして、さあ? という顔を見合わせる。

 あの日、チューバへの配属を言い渡されて泣いちゃった日、美緒は三砂と貴之にはマックスのことを話していた。というより、ぐずる一年生がうわ言のような言い訳を口走っていたその場に、三砂と貴之だけが最後まで居合わせていたと言うべきか。

 美緒自身、半分忘れていたことで、どうせ二人ともまともに聞いちゃいないと思ってたから、三砂がいたく感激しているのを見て、美緒は唖然とした。

 憶えてたんだ。真に受けてくれたんだ。って言うか、気に入っちゃった!?

「マックスっていうのはね、美緒ちゃんの魂の友達」

「え、どこのクラス? てか、日本人?」

「ちょ、ちょっと、浪瀬先輩?」

 ちらっと貴之を見ると、困ったような視線を三砂に注いでいる。止めるに止めかねている、というような。

「もうこの世界にはいないの。だけど、美緒ちゃんは音を通じてマックスと触れ合えるの」

「なにそれ。ヤバい話?」

「あの! そういう紹介の仕方は!」

 でも仕方ないなあ、というように、貴之が目をつぶって天を仰ぐ。何もかも分っていて、一応美緒には同情しているような、そんな仕草。

「マックスと会い続けるために、美緒ちゃんはチューバを吹き続けることを決心して」

「そこ! 違いますっ。チューバじゃなくてトランペットでっ」

「ごめん、何言ってるんだか全然分からんわ」

「うーん、そだよねー。じゃ、今度イラスト入りでストーリーまとめとくから」

「イラストって何ですか!? あの、もう、マックスのことなんて言いませんから――」

「何を言うのっ!?」

 三砂が一息で距離を詰めるやいなや、美緒の両肩をガシッとつかんで、真剣極まりない顔でドアップに迫る。

「心の宝物なんでしょう!? 美緒ちゃんがそんなことでどうするの!」

 大マジである。笑いを取ろうとか、そんな素振りは微塵もない。美緒はほとんど恐怖に近いものを感じ始めていた。

「自分の心に嘘をついちゃいけないの! たとえ周りがどれだけ心ない騒ぎ方をしてもっ!」

 それはアンタやっ、と突っ込みたいのを必死で我慢して、美緒はかくかくと頷いた。小学校時代から「三歳児趣味」とか「ロマンチック美緒」とかさんざん言われてきたというのに、どうやらこの浪瀬三砂という二年生は、そっちの方向で美緒の上を行くらしい。

 満足した様子の三砂が席に戻ると、不自然なまでに表情を消した面々が、何事もなかったように楽器を構え直した。いちいち突っ込んでも仕方ない、と言いたげな空気が、中庭一帯に満ちている。

「……じゃ、続きから合わせてみるか。Dから」

 努めて平板そうな声で、貴之が言った。そのままさっさと手を広げ、拍を取る。

 続く箇所は、ややテンポを落としてホルンとユーフォが対旋律を豊かに歌い上げるところで、さっき以上に感動的な部分のはずだが、美緒は技術的なことに気を回すのに精一杯だった。タンギングなしで上下する音程をなめらかにつなぐのは難しい。まして、低音楽器のチューバであれば、なおのこと。

「合わせきれてない。もういっぺんやってみようか」

 八小節の区間をもう一度。それぞれの楽器はそれなりに鳴っているのだけれど、パート同士で聞き合うのは初めてだから、合わせ方がどうしてもぎこちなくなっている。芝居で言えば、一人ひとりのセリフは大丈夫でも、通し稽古してみると、タイミングとかつながりとかが全然なってない、そんな状況だろうか。

「もういっぺん行こう。加津佐、そこの音、ただのバスラインじゃなくて、れっきとした対旋律だから、もっと歌って」

「うう、はい……」

 トランペット鼓隊でもよく言われたフレーズだ。求められていることは何となく分かる。でも〝歌う〟っていうのは、まず息に余裕がないとできないことだ。四、五拍吹き続けるのも精一杯なのに……。

 四回目に繰り返した時で、ようやくブレスの要領がつかめた程度。音楽以前の段階だ。五回目。少し呼吸に余裕ができてきたかも、そんな手応えを感じる。

 よし、このままクレシェンドをつけてみようと、少し前傾姿勢になった、その時だった。首筋に羽毛がかすったようないやらしい微電流が走ったのは。

「!!」

 練習していたわけではないけれど、美緒の動作は完璧だった。一瞬で音を止め、今度は楽器を取りこぼさないようにホールドしたまま、おしりをきゅっとずらして上半身を左にねじる。

 触れようとしていたのは、美緒の首か、肩か。ミイラのように両手を差し出した姿勢で硬直していたのは、はたして鳴野光一その人だった。悪いイタズラの途中みたいに、ちょっとにやけ顔になっている。その目が、驚きでまん丸になった。

「え」

 全員が音を止めていた。美緒が見回すと、他の部員はただ絶句している。不審がるとかびっくりしているというより、何かしら白けているみたいな。心なしか、貴之までそんな視線だ。

「あ、いや、ボクは、別に」

「あんたねえっ」

 しどろもどろで後退あとずさりする光一を、真っ先にどやしつけたのは三福小夜理だった。素早く楽器をイスに置くと、やまんばのように同級のパートリーダーへと襲いかかった。

「なんてことしてくれたっ。てめえはホルンの恥だ恥っ。思い知れ!」

「待て待て待て、話せば分かるっ。話せばっ!」

 猛ダッシュで逃げる光一。続く小夜理。ギャグマンガのように中庭周辺を目まぐるしく追いかけっこしていた二人は、やがてどこへともなく消えていった。

「あ、美緒ちゃん、気にしない……でね。あの……ただの、イタズラだった……と思うから」

 いかにも歯切れ悪そうに、三砂が美緒の顔色をうかがっている。美緒はそれには答えず、黙って貴之を見る。一度目と目を合わせた貴之は、視線をそらして言った。

「ん、ちょっとした悪ふざけだ。すまんな、加津佐」

 そう言われてしまうと、美緒の立場では何も返せない。それからしばらく経ってから二人が帰ってきて、何事もなかったかのように練習は再開されたのだけれど、じっとりと漂う気まずさは、終わりまで消えなかった。


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