第3話 何が始まるの…?
その日美緒が帰ると、リビングでいきなり姉の理緒と鉢合わせした。日頃はそんな場合でも黙ってすれ違うのに、今日は違った。
「あんた、唐津って三年生の男子に習ってるんだって? 唐津
「え? うん」
「じゃ間違いないか」
「何が」
「うちの合唱部の先生の息子なんだって。先生っつっても、時々顔出すボイストレーナーの人なんだけど」
「へえ、そう」
意外な縁ではあるけれど、驚くほどではない。むしろ、こんなところでつながってるなんてね、みたいなことを、姉が美緒にわざわざ知らせてきたことの方が驚きだ。
理緒はこの春、ダメ元で難関私立の奨学金特待コースに挑戦したものの、見事に玉砕し、今は県立樫宮高校に通う身である。ずっと小さい時は、美緒と普通に仲のいい姉妹だったような記憶もあるんだけど、ある時期から好みも性格も微妙にズレるようになっていって、最近ではマックスの一件で全然味方をしてくれなかったことが、美緒の中ではちょっと大きなしこりになっている。
一応理緒も以前から音楽には関わってきていて、中学時代からクラブは合唱部。でも、あまり熱心なタイプではない。単に女の子同士でワイワイつるむのが好き、というように、美緒には見える。正直、吹部のことを話しても噛み合わないだろう。
いくらか男ギライっぽいところもあるし、この姉にはあのことは相談できないな、と美緒が思っていると、
「あんた、大丈夫?」
「え、何が?」
ちょっとドキッとして、それでも平気な振りで訊き返す。
「ついていけてるの? 聞いた感じじゃ、あんた、〝選ばれた人〟みたいな扱いじゃん」
「はあ?」
なんだか話がねじれてる。どこでそんな話が出てくるのか。
「なんでも、その唐津って子が、自分の後継ぎに、一年の中からいちばん有望な子を引き抜いて、それがあんた、みたいなことを聞いたんだけど」
「何それっ」
不機嫌丸出しの美緒の表情を見て、逆に理緒は戸惑ったように、
「え? 何? なんで怒るの?」
「怒っちゃいないけど!」
その先をどう説明したらいいのか分からなくて、黙って洗面所に足を向けると、どんぴしゃり、母親がパートから帰ってきたところだった。
「……ただいま」
「おかえり」
視線を合わせず、棒読みだけを返す。マックスの一件以来、母親とはずっと冷戦状態だ。四月になって最低限の会話を交わすところまで戻ったが、そこから変化はない。もともとが、娘と和解するために、わざわざ自分から歩み寄ってくるような母親ではなかった。いつまでも意地を張って、自分の過ちは認めようとしない人だ。その意味では、美緒自身、立派に母親似ではあったけれど。
「何かあったの?」
「あぁうん、コーラスの先生がさあ、実は美緒んとこのチューバの先輩のお母さんだったって話で」
「チューバって何?」
「そこから!? 金管楽器の、デカイのあるじゃん。大の大人が両手で抱えるような、キンキラの」
背後では理緒がぺらぺらと、自分の仕入れた話を母親に喋り立てている。なんだかいろいろ尾ひれがつきそうだけど、本来美緒が伝えるべき情報を代わりに口にしてくれると思えば、まあ大儀ではある。この姉が間にいるおかげで、美緒は母と今日もケンカを続けられるのだし。
早々に洗面を済ませると、美緒はそのまま自室に直行した。
ほんとうなら、ドアを閉めたその腕でベッドの上のマックスをハグするところだけれども、その空間には、今はもう何もない。腕を空振りしなくなるまで二ヶ月かかった。手を伸ばす前に止められるようになるまで、もう二ヶ月。今の美緒は、自然体で部屋に戻ってベッドの横を通り過ぎられるように、なってはいる。だけど今日は……マックスがほしい。
ねえ、マックスみたいなもふもふの感触がほしくて……ペットの音に浸りたくて、吹部に入ったのにさ……チューバだよ、チューバ。
おまけに、なぜか私はチューバがぴったりな人ってことになってるみたい。早くペットに移りたいのに。
マックス。すぐにそばまで行けると思ってたけど。なんだか遠いね……。
制服のままベッドに上がると、布団の足元のマックスのいたあたりに顔を埋め、そのまま美緒は動かなかった。夕食に呼ぶ声が聞こえてきても、しばらくそのままだった。
その次の練習日は、最初から貴之との間に、何やら張り詰めたものを感じる美緒だった。気のせいかも知れない、でも油断はできない、そんな気分が行動に出ていたんだろう、美緒は自然と、校舎の壁にぴったり背中をつける体勢で練習していた。これで死角はない。
午後も半ばを過ぎた頃になって、貴之がやってきた。まるで自ら退路を断って敵を迎え撃つ構えの戦国武将みたいな、美緒のピリピリした様子を見て、視線が微妙に動いた。けど、それだけだった。
いつも通り、しばらく音階やらタンギングやらの課題をこなしてから、おもむろに貴之が言った。
「……少し他のパートと合わせてみるか」
えっ、と美緒が驚いた顔を上げる。貴之は黙って美緒からチューバを取り上げると、美緒には譜面台だけ運ぶよう、手で指示する。移動した先は、ホルンとユーフォニアムが居並んでいる中庭の一角だ。
「おおっと、いよいよ愛弟子のお披露目かぁ」
ホルンで一人だけの男子が、イスの上で野次馬っぽい声を上げる。ホルンのパートリーダー、
「いいねえいいねえ。また一人女の子が増えたぜい。さあ、美緒ちゃんおいで。ボクのハーレムにようこそっ」
何を言ってるんだこの人は、と美緒が眉をひそめた途端、その光一の背中に、横の女子がどがっと回し蹴りを食らわした。光一と同じ三年生の二番ホルン、
「ごめんねえ、こいつ、根っからのスケベでぇ。勝手に女の子に囲まれた気分になってるだけだから、ほっといてやって」
「は、はあ」
「ったくバカなんだから。ホルンの中で三年間男一人だったからさぁ。ちょっと頭のネジ、緩んだままでぇ」
そう言ってからから笑う。その後ろでは、残りのホルンパートの人たちが、まだゲホゲホやってる光一のそばにしゃがんで、背中をさすったりしている。二人とも二年生で女の子だ。確かホルンの一年生も二人いて、やっぱり女子だったはず。で、みんなそこそこカワイイ系。
何となく、「ハーレム」という言葉の意味が分ったような気がして納得していると、横手で「美緒ちゃん、こっち〜〜」と呼ぶ声がする。ふわふわのユーフォのお姉さん、浪瀬三砂が、その横に置いた美緒のイスをぺしぺし叩いている。貴之がさっさとイスと楽器スタンドまで運んでくれたようだ。
「合わせるの、初めてだよね〜? 楽しくなるね〜」
「う、うん」
愛想よく迎え入れてくれるのはいいけど、イスの置かれた位置は、一メートル隣にユーフォがいるのを除けば、近くに壁も柱もない、空きスペースのど真ん中みたいな位置だ。後ろから奇襲を受けてもとっさには避けられない。
ちょっとだけ嫌そうな顔をしてみた。誰も何も言わない。
嫌そうな顔のままで貴之を見る。やはり何も言わない。
(もうっ)
抗議を言葉にするの難しそうだったので、仕方なく座って楽器を構える。せいぜい貴之を見張っといてやろうと思っていたら、当の貴之は弧状に並んだホルンとユーフォとチューバの前で、ただ片手を挙げている。
どうやら指揮者役を買って出るつもりらしい。
「チューニングいこう。Fの音で。加津佐、真ん中のソの音だ」
入りたての美緒にもわかりやすいように、金管楽器式の音名を添えてから、手を振り上げる。そう言えば、この場にいる一年生って私だけだなあと、ふと思ってから、教えられてきた通りに音を出す。ソーーーーっと、ほどよく整ったロングトーンが中庭に反響した。何度かそれを繰り返してから、今度はB♭、金管式で言うドのロングトーンを何回か。
こういう手順は小学校でもさんざんやってきた。もちろん練習のレベルはまるで違うけど、音合わせの要領なんて教えられるまでもない。貴之の指示なしで、手慣れたふうに音高の調整をこなしている美緒を見て、光一も三砂も、ほぉ、というような表情を向けている。
ちょっと面映い。
「それじゃ――」
貴之がそう言いかけたその時、不意に頭上から吠えるような叫び声が聞こえてきた。
「あーっ、合わせてる! ずるいっ! 『音プレ』でしょ!? ちょっと待ってっ、あたしらも行くっ、ねえ、行くよね、合奏するよね?」
ほとんど空を見上げるような形で振り仰ぐと、中庭に面した三階の廊下の窓から、何人かが顔をのぞかせて、内輪で何事か言い合っている。トロンボーンパートの面々らしい。
「もう始めてんだ。待てねえよ」
貴之が苛ついたように上に向かって叫び返す。なのに上からは一方的に「すぐ行くから!」と繰り返すだけ。仕方ないな、と小さく呟いて、貴之は腕組みをした。すると今度は、反対側の校舎の一階から別の声。
「ねーねー、『音プレ』だよね? うちらも混ざっていい?」
今度はサックスパートだ。一応見覚えのある長身の二年女子が、窓枠から首を突き出している。貴之はちょっとだけ胡乱そうな顔をしたけど、すぐ諦めたように、
「ああ、もう、どうぞご自由に」
「やったぁ、ほら、行くよ!」
積極的に声を上げた割には、サックスの面々が出揃うのはちょっと時間がかかった。どうもパートの中で意見が対立してたみたいだ。その一方で、トロンボーンは三階からほとんど駆け下りんばかりの勢いですぐにやってきた。
「まったく、
「仕方ないよ。『音プレ』」だもんね」
光一が、やれやれ、とこぼす横で、小夜理がしたり顔で頷いている。
(『おんぷれ』?)
美緒もしばらく前から取り組んでいる、この夏のコンクールの自由曲のことらしい。が、手元の譜面のタイトルは「A Festival Prelude」だ。どういうニックネームなんだろう?
ちなみに、作曲者の欄には「A. Reed」の文字。初っ端から英語の授業で躓いている美緒には、何と読むのか分からない。れえど? りーでぃ?
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