第2話 ナニをしてるのっ!?



 早くもゴールデンウィーク半ばを過ぎた、練習登校日の午後。中庭の銀杏の下で個人練習のロングトーンをやっていると、川棚かわだな芽衣めいがトランペットを片手にやってきた。

「美緒ちゃん、やっほー。元気ー?」

「ううん、最悪」

 けらけら笑いながら、芽衣が花壇のブロックに腰を下ろす。屈託のない顔でこちらを見上げてくるおかっぱ頭を、美緒は眩しそうに見つめた。

 二人は同じ西小のトランペット鼓隊部出身だ。腕前は多分同じぐらい。なのに、美緒は問答無用でチューバに配属され、芽衣は希望通りトランペット。

「やっぱり、芽衣、ずるい」

 つい、余計な一言が漏れてしまう。友情の根っこにも関わる微妙な発言を、けれども芽衣は軽く受け流した。

「美緒ちゃんこそ、いきなりレギュラーじゃん。そっちの方が羨ましいよ」

「私は補欠でいいからペット吹きたかったの! あーもう、絶対移ってやる」

「移るって、ペットに?」

「コンクールが終わる頃には、他の一年生も吹けるようになってるでしょ。男子とか。また配置換えだってあるはずだし、そん時に直訴する」

「そーお? 『チューバの美緒ちゃん』って、結構かっこいいと思うけど」

 あながち口先だけでもなさそうに、芽衣が言った。内心ではありがたいお言葉だと思う。これが非礼千万な男子どもになると、やれ「加津佐がチューバなのは太ってるから」だの「チューバ並に重たいから」だの、いちいち気に障る解釈を広めているのだ。ちょっと小太りかな、と言う自覚があるだけに、その情報は美緒を甚だしく傷つけた。

「……こんなはずじゃなかったのになー」

 ぼんやりつぶやく美緒に、芽衣が何かを言いかけた時、背後で足音がした。いつからそこに立っていたのか、唐津貴之たかゆきが楽譜を小脇にこちらをじっとり眺めていた。ひゃっと悲鳴を上げたのは芽衣の方だった。

 唐津が決してワルではないことは美緒も芽衣も早くに納得していたが、陽性のキャラには見えないし、細くて白光りしている目は、どうしても爬虫類を連想してしまう。とは言え、怖がることが失礼なのも分ってるので、芽衣は何も言えずにただオタオタしてしまった。

「あ……わ……そ、その……」

 対する貴之は、芽衣に向かってクールに親指で右手の方を差し、

「深江もじきに来るぞ。戻ってた方がいいんじゃないか」

 陰気に忠告した。トランペットのパートリーダー――面倒見もいいけれど厳しいと評判の深江亜実――の名前を聞いて、芽衣は弾かれたように駆け出した。

「じゃ、じゃあまたね、美緒ちゃん! お幸せに!」

 目をつぶって眉根を寄せる美緒。最後の一言が余計だよ、もう……。

 芽衣に多分悪意はない。ただ、美緒には条件が揃いすぎているのだ。パートが二人っきりで、先輩が男子で、指導が一対一で、という妄想ネタになっちゃう条件が。実際、こういう形でカップルが出来てしまう話はよくあるらしく、この時期はギャラリーの噂話も加熱しがちなんだそうだ。

 とは言え、チューバパートがそんな空気でないことぐらい、彼女なら分かってくれそうなものだ。

 ――芽衣ちゃんマイナス五十点ねっ。とにもう。

「……じゃ、ヘ長調音階、四拍で」

 電子メトロノームをセットしながら、淡泊に貴之が言う。短くも緊張感あふれる個人レッスンの、今日の分が始まったというわけだ。

 本来、二、三年生達はコンクール曲の練習に忙しい。だから、美緒や芽衣みたいにそこそこ音が出る一年生へは予め課題を与えておき、一日に数回、自分の休憩がてらにチェックして回ってる――という習わしだと、美緒は聞いている。

 音階は無難にクリアできた。貴之は合間に短い注意を挟みながら、次々に課題を出してくる。テンポを上げた音階。連続タンギング。ロングトーンのクレシェンド、デクレシェンド。

 悔しいことに、端嶋はしじま先生の予言通り、チューバにはすぐ慣れた。部員の中には、小柄な美緒がチューバを吹くのは物理的に不可能だとの説を展開する者さえいたが(楽器に押し潰されちゃうっと本気で心配する女子部員もいた)、先生達が楽器庫の奥から一回り小さいタイプのチューバを引っ張り出し、ホムセンで楽器台代わりの汎用スタンドも見繕ってくれたおかげで、とりあえず楽器を構え、音を出すのは苦にならなくなった。一度音が出ると、簡単な演奏をこなすまではすぐだった。ヘ音記号を何本もはみ出すほどの低音になるとまだ出しづらいものの、もう合奏にも参加できるぐらいのレベルにはなってる、と思う。

 慣れないのは、この先輩だ。

 この二週間ほどずっと間近に接しているのに、毎日が初対面みたいだ。他のパートの三年生みたいに、親しげに近づこうとする気配が全然ない。美緒の立場からすれば、最初無遠慮に突っぱねた気まずさなんかもあるから、上級生がちゃんとリードしてくれないと困る。何て言うか、そう、美緒が金魚で、唐津がそれをただ上から観察してる人間であるみたいな、そんな遠さを感じる。

 時々、貴之の注意も意味不明だ。多くは姿勢とか呼吸とかに関するものだったけれど、横隔膜おうかくまくがどうとか、へその下三センチに意識を集中してとか、なんだかヨガの極意みたいなことまで言われたりもして、ますますやってられない気分になる。他のパートじゃ、こんな複雑怪奇な指導はしてないはずなのに、なんでチューバだけこうなんだろう。

(まあここはどうせ秋までだし、それまでの我慢だけどね)

 ちらっと貴之を見る。一瞬、目が合った。ずっと動物学者みたいだったのに、珍しく感情がその瞳に浮かんでいた。ちょっと戸惑ってるみたいな、どぎまぎしてるみたいな。

(え、何? 私、何もしてないし喋ってないし真面目に吹いてたし。何にそわそわしてるの、この人?)

 貴之は一度目を逸らし、相変わらず手入れの悪い芝生みたいなぼさぼさの髪の毛を何度かなでつけ、それから別の指示を出した。

「真ん中のBフラット、八拍吹いて二拍ブレス、これをずっと繰り返して」

「はあ」

 言われた通りにヘ音記号の下から二線目の音をロングトーンする。目の隅で貴之がますます落ち着きなく首を回したり腕組みしたりしているのが目に入る。

 何か変だよこの人、内心でそう首を傾げた、その時だった。

「! ひゃあああっ!」

 首の根っこに何かがふわっと触れてきたような感触が走って、美緒はあられもない悲鳴を上げた。とっさに振り向くも、その急な動きのせいで、一瞬楽器の角度が崩れる。

「あああーっ!」

 倒しそうになったチューバをつかもうと腕を伸ばす。が、それよりも早く、背後からざざっとダッシュした貴之が、美緒の正面足元に跪くやいなや、楽器を受け止めるようにして事なきを得た。ちょうど、体を折り曲げた美緒とは、チューバを挟んで抱き合うような形になる。

「!!…………」

 五秒か十秒か、頭が真っ白になったまま、美緒は固まっていた。貴之の方はと言えば、例の三白眼でしばし美緒を眺めてから、ぜんっぜん何事もなかったかのようにチューバを押し戻し、「気をつけろ」とだけ言って、そのまま練習を続ける構えに入った。

(な、なに、今の? 何が起こったの? この人何したの?)

 お見合いの件は……とりあえず横に置いといて。

 問題なのは、その前。

 なにか虫か鳥が首筋に止まった、などということではない。錯覚でもないはず。だったら、と考えるのだけれど、その先がどうにも言葉にしづらい。「触りにきた」という言い方でいいのだろうか? でも、何のために?

 小学校のいつだったか、体の大事なところを守るとか何とか、よく分からない授業を受けたことがあった。未だにあれが何の話だったのか、美緒は理解できないでいる。何となくこれはそういうのとつながることなんだろうか? けど、「大事なところ」って首筋じゃなかったような――。

 その後は一応、何事もなかったようにレッスンが続いた。けれども、斜め後ろから貴之がずーっと美緒の首元を見つめているような気がして、ひどく落ち着かなかった。

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