第1話 なんで私がっ!

「チューバ!? 私が!?」

 頭から水でもかぶったみたいに、加津佐かづさ美緒みおはイスから飛び上がった。すっとんきょうな悲鳴が音楽室の隅の方で、うわわわんってな残響になっている。二、三年生の部員がびっくりして顔をいくつも振り向けてきた。過去十日間の猫かぶりが全部パーになった一瞬だけど、もちろん今の美緒はそんなこと気にかけてられなかった。

「何でですか!? ペット、空いてたんじゃなかったんですか!? 言ったじゃないですか! 私、西小でトランペット鼓隊やってて、だから――」

「うんうん、でも、トランペットはとりあえず足りてるんだよねー」

 美緒の前で淡く微笑んでいるのは、吹奏楽部顧問の端嶋はしじま先生だ。白髪交じりの頭を指揮棒代わりの竹の切れっ端でくりくりと掻きながら、すまなそうに首を傾げる。縁なしメガネの中のタレ目は全然すまなさそうじゃなかったけれど。

「それよりか、一人しかいなくて困ってるチューバに入ってもらった方が、ずっとありがたい。トランペットの経験があるんなら、すぐに音は出るでしょう?」

「そんな! そ、そりゃ、初めて楽器触る子よりはましかも知れないけど、ペットの方がずっとまともに吹けます! なんならコンクールの曲だって今すぐ――」

「それは頼もしい。なら、チューバに慣れるのだってすぐだよ。いやあ、助かったなあ。四月から使える一年生なんて、そう入ってこないからなあ」

「いやっ、あのっ、だから先生っ!?」

「じゃあ後頼んだよ、唐津からつクン」

「うす」

 唐津と呼ばれた男子部員が、うっそりと頷いた。丸刈りヘアから長髪に変える途中みたいなぼさぼさ頭の、無愛想な三年生だった。壁にもたれて、だらしなく奥の壁際のイス――チューバの指定席だ――に腰掛けたまま、三白眼に近い細目で美緒をねめつける。急に不安と訳の分からない怒りが押し寄せてきて、美緒は顧問に手を伸ばした。

「ちょっと待って! 私、まだやりますなんて言って……先生!?」

 すでに遅く、音楽室から脱出していた先生は、そのまま小走りで去っていった。美緒はどこどこと床を踏んづけながら、顔を真っ赤にして叫んだ。

「もうっ、何で私がチューバぁ!?」




 たいていの吹部すいぶがそうであるように、ここ市立樫宮かしみや中学校の吹奏楽部でも、四月の新入部員加入時にはゴタゴタが多い。その筆頭が、楽器の割当を巡るトラブルだろう。

 もともと顧問の端嶋はアンチスパルタの方針で生徒たちとわいわいやるのが好きだし、生徒間での上下関係もそれほどでもないから、わがままの加減がわからない新一年生が、なまいきにぶーたれることは毎日のようにある。

 けしからんことだ、と美緒は思っていた。小学校時代からアンサンブルの何たるかを知っている(つもりになっている)美緒からすれば、つまらないエゴで先輩方に楯突くなど、まさに幼児が床の上でジタバタ泣き叫ぶが如し。同じ新一年生でありながら、私はあんなのとは違う、と腹の中でせせら笑う余裕さえ感じていたものだ。

 つい五分前までは。

「なんでっ。なんでこんなバカでかい楽器なんかを私がっ。ずっとペットだったのにっ。ペット吹くために入ったのにっ」

 新一年だけのスタートアップメニューでは、トランペットのパートリーダー・深江の下にずっとついていたし、ミーティングの時でも金管セクションの端に席を与えられていた。誰も何も言わなかったけれども、金管パートに入るのは間違いなさそうで、それならば当然経験のある楽器を任されて当たり前、と、なんとなく周りも見ていたような節がある。

 なのに、まさかの急転直下。

「こんな重たいの持てないっ。吹けるわけないじゃない、私小さいのにっ。こんなにいっぱい息なんか出ない〜〜〜っ」

「最初はみんなそう言うんだよ」

 いつまでも壁に向かってぶつぶつとグチを垂れ流している美緒の背中から、冷めた声がふりかかってきた。まさしくダダっ子そのまんまの新入りをあてがわれたというのに、唐津貴之たかゆきは別に困ったふうでもなく、かと言って暖かくもてなす感じでもなく、依然壁にもたれたまま、美緒が燃料切れで根負けするのを待っているかのようだった。

「新入り。お前、低音は嫌いか?」

「き、嫌いじゃないです、けど。吹きたいのはペットです」

「なんでペットがいいんだ?」

「……マックスが」

 言った途端にまずい、と思ったけれども、だめだった。じわり、と熱いものが目の裏からにじみ出てきたかと思うと、大粒のしずくになってボタボタと床にこぼれ落ちる。

 一旦泣き出すと、もう止まらなかった。わがままが通らなくて泣き出すお子様な振る舞いなんてとっくに卒業したはずだし、周りにそんな幼稚な子だと思われるの嫌だ。でも、どうやら自分で思ってるよりよっぽと色々たまっていたらしい。言い訳もなにも言えないまま、音楽室の床にしゃがみ込んで、美緒は本格的にえぐえぐと泣き始めてしまった。

「あーっ、唐津がさっそく一年泣かしてるぅ」

 ひやかすような男子の大声が、少し離れたホルンパートから聞こえてきた。俺は何もしてない、というように、貴之がジェスチャーで返した気配がした。

「しかたねーなあ。お前、女の子の扱いがまるで分ってねえって」

 そう言ってホルンを置いて、少年が立ち上がったようだった。途端に、その背中かどこかをスパンと派手にぶっ叩く音がする。

「アンタが世の中の何を分っとるっちゅうんか、コラ」

 同じホルンの女子だろうか、男子を引っ張り下ろして、元のイスに座らせたようだった。それからわらわらと女子部員だけが集まって、美緒の横で小声でのやりとりが始まる。しばらくして、柔らかい感触が肩の辺りにそっと置かれたのを感じた。振り仰ぐと、ふわふわしたセミロングの、おっとりした女子生徒が、慈母のような笑みを湛えて美緒を見下ろしていた。確か浪瀬なみせ三砂みさと言った。ユーフォニアムの二年生だ。

「ほらほら、おねーさんに話してごらん。そんなにチューバって嫌だったの?」

 涙でべたべたになった顔を手のひらでぬぐってから、美緒はようやく答えた。

「そんなんじゃ、なくて。その……マックスが」

「まっくす?」

 三砂が眉を寄せて貴之を見た。貴之は、だから俺に聞くな、というジェスチャーで、黙って首を振った。


 


 別に美緒は、チューバという楽器にことさら偏見を抱いているつもりはない。トランペットにこだわりたいのは、彼女なりの立派な理由がある。

 あれは去年の十二月、小学校時代最後のクリスマス週間のこと。美緒は立て続けの不幸に見舞われた。

 その一、友達同士で約束していたクリスマスパーティーが潰れた。それも、つまらない派閥争いや小さな誤解の結果という、やりきれない理由で。

 その二、クリスマス告白を狙っていた森山君が、友達に先を越されて売約済みになってしまった。

 そしてとどめのその三、幼稚園時代からの愛用のぬいぐるみを捨てられた。「マックス」と名づけられていたそれは、等身大の毛足の長いクマのぬいぐるみで、それこそ美緒の涙もため息も(母親に言わせれば汗もよだれも垢もフケも)染みこんでる親友だ。一生手元に置き続けるつもりだったのに、母親からするとマックスは〝不潔そのものの粗大ゴミ〟でしかなかったらしく、大掃除のさ中、美緒に無断で市のクリーンセンターへ運ばれてしまった。

 愛するクマの突然の臨終を知らされて、美緒は半狂乱になった。ちょうど姉の理緒が、難関私立高校受験に向けての模試やら何やらでぴりぴりしている頃で、心神喪失状態の美緒を、家族の誰も充分に構ってはくれなかった。

 樫宮高校吹奏楽部のクリスマスコンサートのチケットをもらったのは、そんなどん底のイブの日だった。

 中学ならまだしも、高校生に知り合いはいない。その時点で美緒自身、吹奏楽にことさら興味が向いていたわけでもない。とはいえ、友達とも気まずくなっているし、家にはいたくなかった。市民ホールに足が向いたのは、単なる消去法の結果だったと思う。

 けれどもその日、美緒は全身に震えが走るほどの感動を味わった。

 プログラムのトリだった「ディエス・ナタリス」という曲は、小学生が楽しむにはかなりハードルの高い音楽だったけれど、多分、美緒の胸の奥をダイレクトに揺さぶるものがあったのだろう。ラテン語のクリスマスを意味する曲名にふさわしく、フィナーレのコラールは力強い神々しさにあふれていて、気がつくと美緒は拍手も忘れて、顔面を涙でぐしゃぐしゃにしていた。まるで体ごと抱き寄せて包み込んでくれるようなトランペットの響きは、あまりにも美緒の寂しい心に共鳴しすぎたようだ。

 すっかり心を洗い清められ、美しく癒された美緒は、その暖かい感触が、マックスのおなかのもふもふに頬ずりした時の気持ちと同じであることに気づいた。難曲をやっとのことでものにした部員達が聞いたら、光栄と感じるか微妙なところではあるけれど、美緒が生で触れた吹奏楽の響き、とりわけトランペットの純度の高いハーモニーに、マックスのイメージは何の矛盾もなく結びついた。

 中学の校区が樫宮だったのは、運命のようにも思われた(よくある誤解だが、美緒は樫宮中の生徒がそのまま樫宮高に進学するものと思っていた)。その日のうちに美緒は誓いを立てた。入学したらすぐに吹奏楽部に入る。そして、ペットの腕を磨く。あの暖かい響きの中に浸れば、ずっとマックスと一緒にいられるかも知れない。ずっと安らかでいられるかも知れない――。

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