第5話 ヒドいの、スゴいの?
アレはいったいなんだったのだろう?
さすがに家族に相談した方がいいかとも考えたけれども、ゴールデンウィークが明けると母のパートは結構忙しくなり、理緒は塾通いを始めたようで(格安で教えてもらえるところを探し当てたとのことだ)、家の中ではほとんど顔を合わせなくなった。
父親は……いるにはいるが、なぜか娘達とは心を通わせようという意志が見られない。運輸会社に務める父は、時に不規則な勤務シフトになることを除けば、おおむね朝出て夕方遅くに帰る生活だ。別に酒や競馬に溺れるような、困った父親ではないのだけれど、やや内向きに過ぎるところがある。黙々と家事をこなす時以外は、一人テレビで映画ばかりを見ている。話しかけようとすると、露骨に嫌な顔をする。
理緒とはぼちぼち会話が成立しているようなのに、今の美緒とは最低限のことしか喋らない。マックスのことで大騒ぎになった時だって、無関心そのものだった。男の先輩から変なイタズラを受けてるんだけど、なんてややこしそうな響きの話は――なんだかうまく相談できる気がしない。
八方手詰まりになった感じなんで、なけなしの手がかりとして川棚芽衣に探りを入れることにした。小学校時代の基礎がある彼女は、トランペットの一年生の中では順調な出世ぶりで、今は補欠争いをしているところだそうだ。手がけている曲も、美緒が練習しているものと変わらない。
人付き合いもいいし、美緒とはまた別の角度から金管セクションの隠れた何かに気づいているかも知れない、と思った。
ある日の練習の帰り道、いつもよりゆったりまったりと歩きながら、話の継ぎ目を狙って、美緒は切り出した。
「ねえ、トランペットの指導でさあ……先輩たちって、芽衣の体に触ったりする?」
なんとも言えない興味津々の目が、美緒の横顔をじいっと見つめた。
「美緒ちゃん、それ……欲求不満ってやつ?」
「よくわかんないけど、多分そういうのじゃないからっ。そのっ、たとえば深江先輩なんかがっ。姿勢とか呼吸のやり方とかで、手取り足取りみたいな? そういう感じで教えてくれたり、するのかなってっ。それだけっ」
用意してあったみたいなわかりやすい言い訳に、芽衣はなおも疑わしそうだったけれど(事実、用意しておいたセリフだった)、一応納得したふうで、
「そりゃ、最初の頃は肩とかあちこち触ってたよ。おなかも。逆に先輩のおなか触らせてくれたりさ。あ、深江先輩って腹筋スゴいから」
「そ、そうなんだ」
「男子は男子で滝野先輩なんかが似たようなことしてるみたいだけど……あーそうか、いくら二人っきりのパートでも、あの先輩とおなかの触りっこなんてできないよねー」
「べ、別にそういうこと言ってなんか」
「まあ、マチガイを起こすのが怖いんなら、美緒ちゃんの場合は浪瀬先輩と触りっこすればいいだけじゃないの?」
「なんだか響きがヤラシイよ! そんな話じゃなくて! 触られてびっくりとかしなかったってことっ」
「びっくり? なんで?」
「いや、なければいいんだけど」
「ちょっと、何があったの美緒?」
「何もない! ナニも起きてません!」
「嘘だっ! アンタは今嘘をついている!」
やむを得ず、美緒はポケットからチロルを二個取り出して芽衣に握らせた。これ以上何も聞いてくれるなと言う、暗黙のサイン。昔からの二人の約束事だ。世間的にはソデノシタと言うらしい。この方法によって二人の友情は、今まで大きな破綻もなく、無難に続いている。
芽衣は渋い顔で受け取ると、
「何かマズイことがあったんなら聞くよ?」
それでもちゃんと気遣いを忘れずに付け加えた。
「ありがと。多分そういうのじゃないと思うけど。……そのうち話すよ」
それから話はごく自然に練習してる曲の話に移った。のだけれども。
「『音プレ』? それ何だっけ?」
「何って、美緒、あんた自分が吹いてる曲の名前ぐらい憶えときなよ! 『音楽祭のプレリュード』だよっ。略して音プレ」
「それって、フェスティバル何とかって曲じゃ……」
「英語の名前なんて知らないよっ。……あ、でも、そう言えば原題は『フェスティバル・プレリュード』になるのかな? とにかく日本じゃ音プレで通ってるんだから」
「あそう」
そう言えば、先日の合わせで先輩たちが音プレ音プレと連発していたのだった。ようやく意味が分かった。芽衣はなおも呆れたように、
「曲の音源とか、唐津先輩、貸してくれなかったの?」
貸してくれたし、そう言えばこの名前で検索しろってメモももらった気はする。でも、いずれにしても、パソコンかスマホが自由に使えないと聞けない種類の音源だった。
家庭内冷戦状態で、リビングの家族共用ノートパソコンに触るのはどうも気が引ける。一応〝ママに断ってから使う〟ルールでやってきたし、実のところ、美緒のパソコンスキルは初心者未満なのだ。
では美緒個人の持っているオーディオ装置はと言えば、驚くなかれ、おじいちゃんにもらった古いタイプのラジカセ一台きりだったりする。
「カセットテープじゃないと聞けないって言ったら、頭抱えてた」
「昭和のばあさまか、アンタは!」
「うちは貧乏だし、仕方ないよ」
「じゃ、うちに聴きに来る?」
さらりとありがたいオファーを口にする、よくできた親友だった。
「おーいいねえ。じゃあお言葉に甘えて」
「あ、今日はダメだ。今から塾」
よくできた親友だけど、えてして詰めの甘い幼なじみだった。
じゃね、とそのまま別れかけた芽衣が、不意に立ち止まった。
「さっきの話さ。姿勢とか呼吸とか教えてほしいんなら、『手本見せてください』って頼めばいいだけじゃないの?」
「え、唐津先輩に?」
「他に誰がいるの」
「あの人……チューバ吹いてるところ、見たことない……」
「はぁっ!?」
一声掛けてからさっさと帰り道を急ぐ体勢と見えた芽衣が、思い直したように美緒の前に戻ってくる。
「見たことないってどういうことっ!?」
「いや、そのまんまだけど」
「先輩の音、聞いたことないのっ!? 一音も!?」
「うん、ない」
最初のうちは美緒が一人で吹いてるところに見回りに来るような現れ方だったので、いちいち重たい楽器を持ってくるのが面倒なだけなんだろうな、と思っていた。でも、そう言えば最近になって合わせ練習が増えたのに、貴之が美緒の横でチューバを鳴らしたことはない。移動の際に美緒の楽器を運んでくれたりもするから、それで身軽でいるのかも、なんて思ったりもしたけど、考えてみたら変だ。
何より変なのは、他の二、三年生が、手ぶらの貴之と一緒にいても何も言わないこと。
「実は吹けない、なんてオチじゃないとは思うけど」
「当たり前よっ! あの人の音、スゴいんだから!」
「え、なんで芽衣が知ってるの?」
「去年のコンクールの録音、聴いたもん。もうね、とんっでもない演奏だった。なんかマジで、この県内で伝説みたいになってるらしくて」
「ええっ、それは、唐津先輩がってこと?」
「ああ、じゃなくて全体的に。でも、確かにあのチューバは話題になってたみたいね」
「いったい何の曲やったの!?」
話がヒートアップしかけたところで、芽衣がちらっと腕時計を見た。
「あ、ごめん、もう時間だから。続きは明日ね」
「えーっ!?」
すたこらさっさと駆け足で去っていく、ドライな親友である。
しばらく美緒はその場に突っ立ったままだった。先輩たちの、背後からの謎の奇襲について手がかりを得ようと思ってたのに、それ以前のところで自分がとんでもなく情報難民になってるような気がした。
なんだか途方に暮れてしまう。うちの部って……あの先輩って……。
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