第6話 誰も助けてくれない…。


 土曜日。そろそろ夏のコンクールを意識しだす五月半ばとあって、この日は朝から夕方までの一日練習態勢になっていた。

 結局あれから芽衣ちゃんの家にお邪魔する機会はなく、去年のコンクールの話も大したことは聞けないまま、週末まで美緒は黙々と練習を続けたのみだった。

 先輩達からの謎の襲撃はその後途絶えているものの、何となく危険な気配を感じることはある。そのたびに、美緒はトイレですと言って席を外したり、じりじりと壁際まで後退したりして、牽制を続けてきた。おかげで日々無事に過ごせてはきたけれど……あれは何なのかということについては、依然不明なままだ。

 昼食に一度帰宅し、午後からの練習に少し早く音楽室入りした美緒は、楽器庫の中ほどで、あれ? と足を止めた。

 奥にあるのはチューバのハードケース。それも、美緒が使ってるミニサイズの方じゃなくて、フルサイズのでかいケース――が、横倒しになって開いている。中身がないということは、貴之が楽器に触れているのだろうか? それらしい音は聞こえなかったし、楽器庫も音楽室も無人なのだけど。

 そのケースが開いているのを見たのは、四月末に数回だけ触れて以来のことだ。あの頃は毎日がアップアップで、チューバ本体はもちろんのこと、楽器を取り出したあとのケースの様子なんて、いちいち気に留める余裕はなかった。

 でも今は違った。

 改めて美緒は、ハードケースの内側の、チューバの形に凹んでいるクッション部分を観察した。赤くて短い毛が一面に生えている高級そうな生地に、目が釘付けになる。

 ――すごく触り心地が良さそう……。

 何のためらいもなく、美緒はケースの横にしゃがみこんで、ふわふわの毛並みを撫で回し始めた。なにしろチューバである。ケース内側の表面積もかなりのものだ。それこそ、ちょっとしたぬいぐるみ並みに。

 すっかり緩みきったでれでれの顔で感触をひたすら楽しんでいると、このままこのもふもふに埋もれて寝ていたいっ、なんて思ってしまう。

 ……いや、もしかしたら、ほんとに寝られるんじゃ?

 改めて辺りを見回す。音楽室の近辺三十メートルに人の気配はない。そろそろと上靴を脱いで、そっとケースのいちばん大きい空間――ベルの部分に足をおろしてみる。そのまま縦長の凹みに合わせて横になって、卵みたいに体を丸め、楕円のカーブの辺りに頭が来るよう身じろぎする。一応寝られはするものの、最も浅いところに上半身が来るので〝埋もれた〟感じが今ひとつ。

 それならと、反対向きになって、ベルの空間に頭を置いて、ちょうどチューバの形状に添う形で体を丸めてみる。うん、ちょっといい感じ。頭が斜め下に落ち込むのはいい寝心地とは言えないけど、すっぽりくぼみに入り込んだ感覚がなんとも言えない。

 さすがにフタを締めて完全に身を隠すのは無理だろうな、と思っていると、急に近くから人の声がしたもんだから、美緒は大いに慌てた。

 即座に外に出てしまえばいいものを、パニクったあまり、フタ部分を引っつかんで無理やりケースを閉じてしまう。当然、隙間ができる。近づかれたらバレバレだろう。でも、やってきた面々は口の字型になっている楽器庫の通路の、反対方向に集まってくれたようだった。そのまま自分の楽器を出すでもなく、なにやら内輪の相談をやり始めた。

「で、加津佐の件はどうするんだよ」

「うん、だから……」

 いきなり自分の名前が飛び出して、ビクッとする。ケースが音を立てて揺れたんじゃないかと、一瞬肝を冷やした。

「とにかく、時間がない。そろそろヤってしまわねえと」

「だな」

「ひと騒ぎありそうだけど……早くボクらの中に入ってほしいしね」

「でも、ヤるったって、ホントにヤれるの? あの子、なんだか変なところで勘が鋭い……」

「や、あれは単にのったりしすぎて失敗しただけでは? 一気に片をつければ良いのだよ」

「じゃあお前やれ」

「えっ? それはっ、ほら、警戒されにくいモンの方が」

「つまり、誰にやれと?」

(なんなのっ、この会話!?)

 どう好意的に解釈しても、美緒を背後から襲撃してきた、一連のあの件を相談してるとしか思えない。時間がないとはどういうことだろう? ヤるって何? ボクらの中って――

 声からすると、集まっているのは金管の三年生達のようだ。貴之の声も聞こえたが、話の中心になりそうな立場なのに、あまり発言していないようなのは、なんでだろう? って言うか、さっきの「お前やれ」と「ホントにやれるの?」の声はホルンの二人、あのハーレム王子とハーレム女官長の二人ではなかったか。先日は光一ひとりのアホなイタズラだったみたいに取り繕っていたのに……やっぱりみんなグルだったんだ……。

 不意に、楽器庫の向こうから別の声が、集まっていた面々に呼びかけた。

「あっ、ちょっと、三年全員集まれだって。センセが準備室で」

「準備室ぅ〜? こっちに来ればいいのに」

「急いでよっ」

「へいへい」「ほーい」

 あれは部長の曽田先輩かな、と当たりをつけつつ、ちょっとだけフタを開けようとしたその時。美緒は思いがけないほど間近な距離で、足音がするのに気づいた。

 ひたり。

(えええっ!? 誰っ!?)

 ひたり、ひたり。

「んんんん?」

 貴之の声だ。あからさまに何かを怪しんでいる。

 当然だろう。自分が放置した時は両開きになっていたはずの楽器ケースが、いつの間にか閉じられているのだ。人の出入りは少なかっただろうし、不審に思うに決まってる。

 それも、ぴっちり閉じているならまだしも、ケースのふたは不自然な隙間を開けたまま宙に止まっている。見る者が見れば、十分怪奇現象である。

 生きた心地がしない、とはこのことだ。とっつきにくい人とは言っても、美緒は今まで貴之を怒らせたことはない。イラついた顔ひとつ見てない。でも、さすがにこれはキレる。怒り狂うはず。

 平謝りで済めばいいけど、誰もいない楽器庫の中で、こんなバカやってる一年生を見たら、この人は果たしてナニを――

「おいどうした? みんな集まってる」

 ペットの滝野先輩と思しき声が、貴之を呼んだ。足音の気配は、ケースからほんの四、五歩の位置だ。

「ん、いや、ちょっとな」

「急げ。手入れなら、後にしろよ」

「――そうことじゃないんだが」

 言いながら、貴之の声は楽器庫の外側へ流れていく。間違えようのない足音が、たんたんたん、と隣の音楽室へ、さらにその向こうの準備室方面へ去っていった。

 美緒がケースから這い出た時は、全身汗まみれだった。ケースに汗が染み付いてないのを確認して、はぁーっとため息をつく。もうこんなことやめよう……。

 いつも使っているミニサイズのチューバのケースを引っ張り出し、重たすぎるから中身を一旦取り出し、そろそろ顔を見せ始めた他の一、二年生の部員と挨拶を交わしつつ、三階と一階とを何度も往復し、重たい足取りでいつもの中庭の外れに練習場所を確保する。とりあえず黙々とデイリートレーニングをさらいながら、頭の中では美緒なりにさっきの出来事の分析を進めていた。

 はっきり分かったことは三つある。

 一つ。少なくとも三年生の金管セクション全体が共犯であること。さっきいた面々は、チューバとホルンだけじゃなく、ペットもボーンもいた。これからは、ラッパ吹き全員が敵だ。

 二つ。なぜだか美緒に〝ナニか〟を仕掛けると、それはあの場にいた人達全員の利益になるらしい。加えて、その瞬間に美緒自身もあの人達の仲間になっちゃうようだ。

 そして三つ。これもどういうわけか、連中には時間がない。また美緒を襲うとしたら、今日明日中にでもやるだろう。

 こうしちゃいられない。ここまで証拠があれば十分だ。急いで誰かに相談して――と、立ち上がりかけてから、美緒は行き詰まった。誰に? 木管の先輩? 端嶋先生? 一応は頼れるかも知れない。でも、もし話が吹部全体に関わることだったら? 実は全ての黒幕が顧問の先生、なんてことはあり得ないなんて、どうして言い切れるのか。

 ならば他の先生に訊いてみる? どんな言い方で? それはなんだか筋が違うみたいな気がする。

 一年の他の部員は……巻き込んでいいんだろうか? というより、すでにその一年生が〝仲間〟になってたりしたら?

 そもそも、この問題の範囲が全然つかめない。これは世界の存続に関わる何かなのか? 樫宮中吹奏楽部有志の範囲に収まる小事なのか? とてつもない陰謀劇の渦中にいるようで、実はすごくしょうもないイタズラである可能性も捨てきれない。そもそも、いったい私は何について悩んでいるんだろう?

 いいかげん考え込むのにも疲れてぼーっとしていると、少し先で「美緒ちゃーん」と呼んでいる声がする。ユーフォのおねーさんこと、浪瀬三砂がひらひらと手を振っていた。

「今日はこれから、ずーっと合奏だって〜。音楽室に戻ってきて〜」

「なんですと……」

 気がつくと、周囲にレギュラークラスの部員は誰もいなくなっている。三砂もさっさと上がってしまった。ついさっきセッティングしたチューバとケースと譜面台とイスと即製楽器スタンド合計二十キロの荷物を見回して、美緒は泣きそうになった。

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