流星ティーンエイジャー

舵名

流星ティーンエイジャー

「僕にはこれしかないんだ」

 三階への階段を走って上がった直後、誰かに向かってつぶやいた。それが引き金となったのか、雲がバラバラに引き裂いてしまったような青空から時雨が降り始めた。

つぎはぎの白日の下、僕は立ち入り禁止の看板を堂々と無視して廊下の先へと進む。

予定時刻はとっくの三分前に過ぎているというのに、周りの風景を肴にして感傷に浸る余裕はあった。

 校舎の中からは様々な金管楽器の音色が聞こえてきた。時折、その上に金属バットの軽快な打球音や掛け声が合わさって、新たな音楽が生まれている。

 伝言によると、今日の依頼主は三階の一番端にある空き教室で待っているらしい。待ち合わせ場所にこの教室を選ぶ人は少なくない。依頼される内容は、言った傍から後悔しそうなものや、おとぎ話のような無理難題まで様々だ。どうか今回の依頼主はそんなことを言わない人間であってほしい。

「……おい、………なんだよ。助けてくれよ!……」

 歩みを進めていると、どこからか野太い声の命乞いが聞こえた。僕はしばしの間立ち止まり、ここまでの埃臭い道のりを思い出してみた。多少厄介なことが待っているかもしれないが、あの声の原因を突き止めなければ元が取れない気がする。

 僕は教室側の壁から離れるように気を付けながら、少しずつ声の聞こえる教室に近づいていった。あんな場所に教室があったのを始めて知った。覗き魔をイメージしながら恐る恐る進むにつれて、男の声は大きくなった。

「俺は両手が銃剣でよぉ。まともに自殺もできないんだ。そろそろお前が俺を助けてくれるんじゃねえのか?」

 扉の前でははっきりと男の声が聞こえた。一体この教室で何が行われているのだろうか。依頼主は本当に両手が銃剣なのか。僕は大きく固唾を飲んだ後、勢いよく教室に入った。

「やあ、こんにちは。『水瓶』ですけど」

 合言葉を言った先には、一人の女子生徒と、複数のプロジェクターなどの機材があった。全方向からの明かりを遮断できるほど暗い教室の中で、薄汚れたカーテンに映像が映し出されていた。肩にかかる程度の長さの髪が揺れている。かなり洋画の世界に没入しているためか、こちらに気づく素振りは一切見せなかった。僕は続けて二度か三度ほど合言葉を言った。しかし、スピーカーが繰り出す音のせいで、その場にいない者として立ち尽くすしかなくなった。


 爆発。何秒かの合間を縫って大爆発。ずいぶんと忙しい映画だと思った。その割には爆発の合成が安っぽくて迫力がない。

 何十分も見ているうちに映画は佳境を迎え、僕はさらに怒涛の展開に見舞われた。なぜか主人公の周辺人物は爆風で吹き飛ばされても生きている。そこに安堵したのも束の間、後半の爆発は火薬の量がそれまでとは比べものにならないほど増えた。

 ふとスクリーンから目を離し、目の疲れを癒すことにした。味のない涙液が染み出てくる。二年前の秋ごろ、力に目覚めたばかりの僕がその力のせいでつまらない映画を見ることになる、と言われたなら、あの試行錯誤も七転八倒もすることがなかっただろう。

 前を見ると、女の子は未だにあのつまらない映画を見ていた。あの集中力を別のところに使うことができれば、きっとどこかの石碑に名を刻むような人間になるだろう。話しかけるタイミングを完全に失った僕は、切りのいいところまで黙っておくことにした。


「はあ、面白かったー」

 数十分の展開が終わってエンドロールが流れる中、ようやく彼女は独り言を言った。

「いやいや、何が面白かったんだよ。ほんとに同じ映画観てたか?」

 伸びをしている彼女に対して、僕は思わず声をかけてしまった。

「うわあ、びっくりした。あなた誰ですか? 私の両手が銃剣なら、あなた死んでますよ?」

 彼女は僕を視認すると、目を見開きながらも映画の真似をした。

「あなたの両手も銃剣だったら帰ってますよ。第一に、依頼したのはそっちじゃないんですか? あれです。『水瓶』です」

 僕は手帳に記されたスケジュールを眺めながら、依頼の確認を試みた。僕の勘違いか、冷やかしだろうか。

「ええっと、『願いを叶えてくれる』っていう人でしたっけ。本当にいたんですね。来ないと思ってました」

 来ないと思って人を呼ぶとは、なんとも肝が据わっている。僕は感嘆に限りなく近いため息をついた。それも意に介さず、彼女は教室の電気をつけた。

「まずは一つ目のお願いです。片づけ手伝ってください。あと二つまで大丈夫なんでしたっけ」

「だれがランプの魔人だ」

 かすかに点滅している蛍光灯の下、僕はさび付いたパイプ椅子をいくつか畳んだ。かれこれ一時間ほど立ちっぱなしだったため、ひどく足が疲れていることに気づいた。だが、今は疲労を無視して椅子を片付けるしかない。

「ありがとうございます、魔人さん。そういえば私の自己紹介がまだでしたね。私は二年一組の斎藤真弓っていいます。上田さんはなんて名前ですか?」

「なんで半分正解するんだよ。僕は二年三組の上田達也だ」

 自分の口から本名を言った覚えはないのだが。僕は口を少し開いたまま、次の一言を探していた。その間にも彼女は手際よくプロジェクターを直方体へと変形させ、布製の袋にしまった。

 互いに特徴がある名前でもなかったため、次第に気まずい空気が教室を埋め尽くしていった。

「片づけ終わったし、早く帰ろうよ」

 真弓は教室の電気を消してそう言った。僕は促されるままに扉を開けて廊下に出る。そこには少しだけ、春の匂いが残っていた。


 帰り道の、元号を二つほどは超えていそうなほどさびれた建物の前で、太陽が沈む頃になっても僕たちは話していた。すぐそばを車が通り過ぎていく。右から左へ急いでいるはずの車たちは、いつもよりゆっくりと走っている気がした。

「結局、まともな願いを一つも聞いてないわけだけど」

 僕はレモンティーを手渡しながら話しかけた。彼女は短く「ありがと」と言ってそれを受け取った。このタイプの人間は重苦しい人間関係の改善を求めてくることが多い。恋人、友人、パワハラ教師、家族、今度は何だろう。

「いやあ、結局呼びはしてみたけど、そんなに叶えたい願いなんてないよ」

 真弓は苦笑いを浮かべながらそう言った。僕は彼女の苦笑いが気になって、目の奥を見つめた。

 その目には光が灯っていなかった。人形の瞳が持っているような、精巧な黒だ。

「僕は他人の願いは叶えられるのに、自分の願いを叶えられないんだ」

 僕はその黒が怖くなり、願いについて追及するのをやめた。きっと、胃にのしかかる粘着質の重力は僕の思い込みだろう。

「それ本当? なんか可哀そうだね」

「つい二日前にも、近くに住んでる委員長の願いを叶えるのに失敗したし」

 彼女は空き教室にいた時のような、明け透けな受け答えをした。

「うわー。目も当てられないね。委員長ちゃんはどんな願い言ってきたの?」

「『余命一か月のおばあちゃんを助けてほしい』って言われた。でも、さすがに〈死〉までは捻じ曲げることはできないから、何度も断った」

 ああ、嫌な思い出が再び僕の心を不衛生にしていく。

「で? どうなったの?」

「今朝、『あんたのせいでおばあちゃんは死んだ』って言われたよ」

 あの時の委員長は目に涙を浮かべていたように見えた。願いが叶わないことも、もうすぐ祖母が死ぬことだって、委員長は理解していた。たぶん、行き場のない気持ちを僕にぶつけていたのだろう。こんな役回り、大嫌いだ。

「……ねえ、ちょっと。聞いてる? 願い決まったけど」

 肩をかなり強く揺さぶられて、ようやく現実に戻ってきた。やっと決まったのか。僕は「どうぞ」と言った。

「いやあ、晩御飯何にしようかな」

 この話の腰の折れようでは、名だたる医者でもオペの最中に逃げ出してしまうことだろう。僕は何食わぬ顔でシャッターに寄りかかり、見た目とは裏腹な堅さにありがたみを覚えた。出ていった名医には同情することしかできない。

「決まった! どこの国に遊びにいこうか! 上田君はなんか嫌なことあったらしいし」

「ただの遊びの約束じゃねえか。いや国単位で選べねえよ」

「上田君はどこか行きたいところとかある?」

 行きたいところ、と言われた僕は首をかしげて、何も答えられなくなってしまった。こんな質問でさえ、僕にとっては時間のかかる難問だ。ただ、「どこにも行きたくない」と言う勇気がないため、小さな僕が頭の中を必死に探し回るわけだが。


 歩きながら考えている間、真弓がカウンセラーのような口調で質問を繰り返してくれた。空は黒ずんでいるが、街灯が等間隔に揺らめいているおかげで心地よい。広く、真っ直ぐな歩道がどこまでも続いているようだ。

 その押し問答の五分後、それぞれの帰路の岐路に差し掛かった頃、ようやく僕は答えを出すことができた。

「ボウリングとかかな」

 僕がそう言っても、真弓は何も答えなかった。そして僕はほんの少し歩いたところで、彼女が後ろの方に立ち止まって俯いていることに気づいた。

 何か、異様な気配が流れている。鼓動だけが聞こえる。僕は血の気が引いていく感覚に陥った。

 先ほどまでの甘く、緩い風は止み、この町が夜の静けさを振り撒いている。

 もしかすると彼女も何かの能力を持っていて、僕はまんまとその術中にはまってしまったというのだろうか。こうなるのならもっと家族の言うことを聞いておけばよかった、とさえ思う。

 街灯がスポットライトのように真弓を照らしている。彼女はゆっくりと顔を上げて、こんなことを言った。

「え? あんなに何分も悩んだ挙句、ボウリング?」

 僕の身体に血が通うのを感じた。特に顔のあたりが熱い。

 だが僕ももうすぐ大人になるわけで、こんな言葉に動揺しているわけにはいかない。まずは目の前の小娘に対してさも紳士的に振る舞うこととしよう。

「はっはっは。僕の三連続ターキーを見た後でも同じことが言えるかな」

 苦し紛れに言葉を絞り出す。この調子ではスペアの一つでさえ取れる気がしない。

「やば、信号変わりそう。じゃあまた連絡するね」

 そう言った後、彼女は小走りで信号を渡っていった。その後ろで点滅している青信号がやけに眩しく感じて、僕も帰路を進めることにした。



 淡い色の一週間を終えた。週末の天気は曇りだった。かといって薄暗いわけでもない。きっと雲の向こうで太陽がほくそ笑んでいるのだろう。

 僕はというと、自宅から少し離れた場所の、古めかしいボウリング場の前に座っていた。厳密には、放置されているベンチに座り込んで遠くの方を見ていた。目の前にはボウリングのピンを模したオブジェがある。僕が縦に二人並んでやっと頂上に手が届くほどの大きさだ。噂ではこのボウリング場はバブルの頃にできた施設らしく、オブジェはその歴史を背負っているようにも見えた。

 すでに約束の時刻から一時間ほどが経過している。何度スマホを見ても彼女からの連絡は一切ない。再び近くのコンビニで暇でも潰そうかと立ち上がったその時、お気楽な音と共に一通のメッセージが届いた。真弓からだ。

『うわ! 結構遅れてる! ごめん!』

 そんなの百億も承知だ。独り言を音声認識で送ってきているのか。

 しかし、人との関わりが微々たる僕と言っても、乙女の支度に口を出すほど無粋ではない。僕は一息つきながら、さっきまで座っていた緑色の丸いベンチにもう一度座り直した。

「いやー。ごめんね! 上田くん。 やっと着いたよ」

 座り直したベンチの横で真弓がスマホをいじっていた。一気に周囲が彼女の雰囲気に染まり、先ほどまでの一時間は零秒に圧縮される。

 しかし一体どこから湧いてきたのだろうか。水色のスウェットシャツを着ていて、レトロな建物と合わせると人工知能が描いた絵画のような不気味さまで感じてしまう。

「うわっ! いつからそこにいたんだよ! 遅いのか早いのかどっちなんだよ!」

「え! すごい! そのキーホルダーって〈武士ネコ〉だよね? どこにあったの? いいなあー!」

 僕の手のひらの上にあるキーホルダーに、彼女は何度もシャッターを切った。ああ、さっき暇つぶしとして回したあれか。外装はお世辞にも新しいとは言えないボウリング場の前には、流行の最先端をも通り越してしまうようなラインナップのガチャガチャが鎮座している。僕がその中から引き当てたのは、リアルな三毛猫が眼帯姿で刀を握っている、というキーホルダーだった。流行というものは分からない。

「このキーホルダーいらないからあげるよ。それじゃあ、そろそろ行こうぜ」

 僕はベンチから立ち上がり、入口の方へ歩く。彼女もそれに続いた。休日だというのに、人の気配が全く感じられない。

「いやー。遅刻してごめんね。このままじゃ私、スーパー不快級チャンピオンになっっちゃうよ」

 言葉に反して、表情だけは一丁前に悲しそうである。耳を塞げば、優しい言葉をかけたくなるだろう。

「お前はとっくにベビー級チャンピオンだよ」

 入り口まで辿り着き、僕はドアを押し開けた。中はボウリング場とは思えないほど静かで、ドアに付いているベルだけが鳴り響いていた。

「うおー。涼しいね!」

 彼女は控えめな声でそう言った。確かに空調はよく効いていて、薄着の僕には寒すぎる。

「どこかにシロクマでも匿ってるのか?」

 僕は空調に向かって皮肉を吐く。冷たい風が強くなった気がした。

 すぐ左のカウンターで、老婆が座って新聞を読んでいた。情報の海に溺れているのだろう。

「あの、『休日ボウリングセット』を二人」

 その女性はお化け屋敷のギミックにも勝る勢いで顔を上げた。そして両端にチェーンのついた眼鏡の奥からこちらを睨んでいる。

「二名さんかい? どこでも空いてるだろうから好きなとこにいきな。一人五百円だよ」

 代金を払い終えた後、僕たちは貸し靴の自販機の前に立った。

「確かに靴の二十五センチは小さいのに、定規の二十五センチは大きいよね。どれにするの?」

「足の大きさは選べねえよ」


 ボウリング場の真ん中に位置している七レーンに陣取ることにした。他のレーンよりも比較的明るく、ボウリング場が有する独特な匂いに包まれている。

 真弓はブドウジュースを一口飲んだ後、準備体操を始めた。今の彼女と同じような表情はどこかで見たことある気がする。確かこの前のテレビ中継で映されていたオリンピック選手だろうか。

 僕もつられて伸びをしていると突如、戦闘機が空を切るような轟音が鳴り響いた。

 訳もわからずに天井から吊り下げられたモニターを見てみると、「ストライク」というネオンサインの表示がけたたましく輝いていた。

「見た? ねえ、今見た? やばくない?」

 振り返る彼女の笑顔もストライクの表示に負けないくらい輝いていた。その時にはボウリングのピンは一本たりとも残っておらず、すぐに僕のためのピンが用意されはじめた。

「へ、へえ。なかなか手強いね。まあ僕も決めてやるよ」

 十ポンドのボールを持ち上げ、イメージトレーニングを行う。フローリングの節目と同じように、ただ真っ直ぐと投げれば良いのだ。

「上田君はこの前三連続ナントカって言ってたよね」

 僕が持っているボールの二十倍は重いであろうプレッシャーが肩に乗っかってきた。そんなプレッシャー、ピンもろとも吹っ飛ばしてくれる。そう思った僕は、球を後ろに振り上げながらこう言った。

「任せろ。ストライキ出せば──」

 

 第一投目。ころん、という軽妙な音と共に倒れてくれたピンはたったの二本だけだった。僕がボウリングに何をしたというのか。

「ん? 見間違いかな? やり直してもいいよ」

 真弓は何度か目を擦るフリをした後、スタンディングオベーションをしていた。



 ツーゲームが終了して、僕のスコアは七十と八十五だった。鳴かず飛ばずのボウリングで、まるで今までの僕の人生をおさらいしているような気分になっていた。

 その一方で、真弓は八十五と百四十という奇々怪々なスコアを叩き出していた。ツーゲーム目で大差をつけられてしまった僕は少し惨めな気持ちになった。しかし、彼女の満面の笑みを見ると、そんな気持ちも馬鹿馬鹿しく思えて、ピンの向こう側に投げ捨てることにした。

 スリーゲーム目は、『休日ボウリングセット』の最後のゲームだ。三投目になって、僕はこの一週間で気になっていたことを聞いた。

「これは真面目な話なんだけど、真弓の願いを教えてほしい」

 鷹が獲物に向かって急降下するのと同じように、彼女が投げたボールはピンたちの真ん中を貫いていく。とうとう三回目のゲームで三回目のターキーが決まると覚悟した矢先、一番右端のピンだけが奇跡的に残ってしまった。

「うーん。あのピン倒してくれたら教えてあげるよ」

 含みがありそうな笑いを向けながら、オレンジ色のボールを僕に差し出した。僕は「わかった」とそれを受け取り、レーンの前に立った。ドラえもんの最終回を初めて見た時でもここまで緊張はしなかったはずだ。

 一つ息をついた後、ボールを振り上げて前へ踏み出した。フローリングの節目とボールの軌道は合致している。ボールと気持ちが通じたような気がした。このまま行けば、あのピンを倒せるはずだ。そう思ったが、ボールは気分が変わったとでも言うように、左へ曲がっていった。曲がるならもっと前から言っててほしいものだ。そうしてボールは廊下で誰かとすれ違うかのように、ピンの真横を通り過ぎていった。

「あらら、残念。今ツーゲーム連続ターキーでスペアチャンスだったのに。これは責任とって願いの枠一つ増やしてもらわなきゃ」

「そんな責任の取り方があるか」

 僕は椅子に座った後、紺色の床を見て考えた。今日はそこまで気温が高いわけではないはずだが、僕たちは額にうっすらと汗を浮かべていた。そして一つ、願いの代わりになるようなことを聞いた。

「お前の目的はなんなんだ? 他の人は願いを言ったらもう終わり。そのあとは何の関わりもなかったように振る舞うのに」

 彼女の動きがぴたりと止まる。ちょうど投擲の態勢に入る直前で、あと少しもすれば、かの有名な円盤投げの彫刻に似たようなポーズになるところだった。この場合はボウリングだが。

「目的って言っても、そんな大したもの無いんだけどね。まあ、楽しい人と一緒にいたら楽しいかなってくらい」

「じゃあ、願いを叶えたくないのか?」

「うん。今はね。今はただ、楽しみたい」

 つくづく変わったやつだ、と思いながら、なんとなく腹の中で蝶が踊っている気分になって、そうか、と返した。


「ありがとうございました」

 入った時と同じベルの音が鳴り、外に送り出される。受付のお婆さんは居眠りをしており、ベルの音でも起きる様子はなかった。この店は本当にそれで大丈夫なのだろうか。

「ひゃー。あったかいね。」

「さっきまでが寒すぎたんだ」

 頭上の雲に比べ、遠くの雲はオレンジ色に染まっている。もうすぐ今日も終わるようだ。特に近くで面白そうな場所もないため、僕たちは喋りながら帰ることにした。

「お前ボウリングめちゃくちゃ上手いんだな」

「うん、昔お父さんのお母さんに教えてもらったから」

「それを世間一般では『おばあさん』って言うらしいぞ」

 なんと祖母というのは人生の豆知識だけでなく、ボウリングの知識まで教えてくれるのか。そんなことを考えている間に一つ角を曲がって、下り坂に差し掛かった。

「本当に真弓は変わってるよな」

 この言葉を聞いた彼女は目を丸くしていた。無意識に吐いてしまった言葉だが、何かその裏にある心理がだだ漏れだったのだろうか。

「いやいや、上田君の方が変わってるでしょ。『願いを叶えられる』って人が何言ってるの」

 歩行者信号のボタンを押しながら、単刀直入に指摘をされただけだった。ぐうどころか何の音も出ず、僕は遠くの雲と同じように赤面してしまった。

「小さい頃に誰でも、超能力に目覚めたらって思うだろ。だからこそ今の自分の毎日が信じられないんだ」

「だよね」

 彼女はそう言って、笑みを向けた。前方では信号が青く光り始めた。だよね、という一言が何故か気になったが、その感情はすぐにカラスの鳴き声に埋もれて、奥の方に行ってしまった。

「もしよかったら、これからもどこかで遊ばない?」

 信号を渡り切り、もうすぐで岐路に差し掛かるところで、僕は沈黙をコンクリートで埋めるようにそう言った。

「いいよ! 次どこ行く? なんか山とか登りたいなあ。できればモンブランとか。釣りもいいし……」

「登山初心者にカタカナの山は敷居が高いだろ」

「え? おばあちゃんと一緒にアパラチア山脈とか登らないの?」

「登らねえよ。お前のばあちゃん何者なんだよ」

 そのあともだらだらと、ただただ他愛もない会話を続けた。彼女のとぼけた一言一句に対して毎秒十単語ほどの合いの手を入れなければならず、ものの数分ほどでボウリングよりも疲れてしまった。


「じゃあまたね。楽しかったよ」

 分かれ道の交差点を渡る前に、真弓はひらひらと手を振った。

「じゃあな。次行く場所の候補はメッセージで送るよ」

 僕も手を振りかえした。彼女が前を向いて歩いていく。何の取り柄もない僕に、かけがえのない友達ができた。彼女と話しているとそう思えた。頭上には一本、真っ白な飛行機雲がかかっていた。僕が深呼吸をすると、夏の夕焼けの匂いが胸のあたりを熱くした。


 その日から僕たちは何度も遊んだ。

 ある快晴の日は釣り堀に連れていかれた。真弓の策略で僕は危うく魚の餌にされてしまうところだった。


 夏祭りの日にも遊んだ。彼女のことなので、成人式に着るような着物を着てくるのかと思ったが、案外シンプルなものだった。

 大きな公園で行われる夏祭の目玉イベントとして、今年も盆踊りがあった。中央に建てられた櫓には太鼓が置かれており、その周囲を回りながら踊る、というものだ。

「お! 上田さんとこの息子くんだよね? 十六時から盆踊りだからさ、彼女と参加してみな!」

 知り合いの夏祭り運営委員会の人に見つかってしまったが運の尽き、あらぬ誤解を受け入れてしまうかのように僕たちは盆踊りに参加した。当然のように真弓は楽しんでいた。こういうところは尊敬する。


 ある平日の夕方、ただならぬ勢いで公園に呼び出されたかと思うと、「一緒にシャトルランをしてほしい」と頼まれた。

「いいよ。じゃあ僕はそこに座って数えとくから」

「違うよ。一緒に走るにきまってるじゃん。うちらの学校はシャトルランじゃなくて持久走させるようなつまらない学校だからさあ。上田君は分かってる? 青春にはシャトルランが不可欠なんだよ?」

 一回目でギブアップでもしてやろうかという考えもそのままに、僕は走り始めた。真弓は楽しそうに笑っている。その調子を乱さずに五回ほど往復を繰り返した頃、僕の脳内に当初の計画など残っていなかった。こういったものは案外、始めてみると気分がいいものなのだ。

「──百十二」

 大台に乗ってもなお機械的に数を数える音声が聞こえた。それと同時に僕たちは地面に倒れ込んだ。喉の渇きと強い拍動に邪魔されながら、呼吸が整う時を待つ。

「はあ、はあ……僕たちなんでこんなに本気で走ってんだよ」

 真弓は白砂に生えた雑草の辺りを見つめながら、こう答えた。

「すっごい疲れるけど、楽しいからかな」


 雨の日に、学校が終わってから映画を見に行ったこともあった。彼女は強面のキャラクターが好物を暴食するシーンで大爆笑していた。僕が理由を聞くと、腹を抱えながら「あんなに急いで食べなくてもいいよね」と言った。


 また別の日には観覧車に乗った。高所恐怖症の僕は、まともに下の景色を見ることができずに、隅に身体を寄せていた。さらにはいつ床が抜けてもいいように、床から足を少しだけ浮かせている。もうすぐ足が限界だ。

「ねえ、上田君。そんなに端に寄ってたら面白くないでしょ? 醍醐味はスリルなのに」

「高度が下がったら教えてくれ。その時まで寝る」

 その時、真弓は何か思いついたかのように、手すりに両手を添えた。僕の全身に冷感シートを張り付けたような悪寒が駆け巡る。

 彼女は全身の力を使い、あらゆる物理法則を味方につけて、観覧車を大きく揺らした。

「うわあああああああああああああああ!」

 僕は目をつむって叫んだ。バキリ、という音を立てて心が折れた。


 揺れる脳みその中で、僕に似た天使と悪魔が激しく議論を交わしている。

「そうだ! 恐怖のままに叫べばいいんだ!」

 悪魔は嬉しそうに口角を上げて、声を大きくした。それを聞いた天使はこう訴えた。

「だ、駄目だよ! ここで動じない姿を見せるんだ!」

 その忠告が僕に届くことはなく、天使は口から泡を吹いて卒倒した。


「あ」

 恐る恐る窓の外に目をやると、見下ろしていたはずの木が確かに近づいていた。先ほどよりも少しだけ高度が下がっているようだ。そして室内には、口を開けたまま静止した真弓がいた。手には一本、銀色のパイプのようなものが握られていて──

「それ何? どこで拾ってきたんだよ」

 まだ外を直視するには高すぎた。僕は左手を小高く挙げ、外の景色を視界から締め出した。彼女は鼻歌を歌っている。どこかで一度は耳にしたことがあるような、マジシャンを彷彿とさせる曲調だ。

「見て、上田君。今からマジックで、この何の変哲もない壊れた手すりを修理して見せましょう」

 なんて日だ。一体僕が何をしたというのだろう。こんなマジシャンに加担するくらいなら、償いとして百ヘクタールの草むしりを手作業で行う方がいい、と切実に思った。一方で彼女は焦りの一端も見せていなかった。そして手すりを元の位置に当てはめ、そこにワインレッドの布切れをかぶせた。

「こうやって手すりにマジックパワーをかけると……はい! 戻った!」

 銀色のパイプは元の位置に固定され、観覧者の手すりとして意義を取り戻した。高度が下がるにつれて、僕の意識がマジックに向いていく。試しに手すりを何度か叩いてみても微動だにしない。

「これどうやってやったんだ? 壊れたのは嘘?」

 さっきの心が折れる音は、もしかして手すりの破壊音だったのだろうか。彼女は深くお辞儀をすると、笑顔でこう言った。

「もちろん、種も仕掛けもございません」



 一生世間話には困らないほどの出来事が起こった。ただ、この数週間で、何度聞いても彼女が願いの内容を明かすことはなかった。



 色彩豊かな日々が終わった。週末は雲も休んでいるようで、家を出る際にはこの上ないほどに清々しい快晴に挨拶をした。

 僕は今、自宅から二キロほど離れた小高い山の、獣道を通っていた。決して迷っていない。これは高校生の自立心故の強がりではない。彼女はなぜか、「現地集合がいい」と言っていた。

「ああ、この辺だな」

 僕は彼女が送ってきたスマホの写真と周りの風景をきょろきょろと見比べながら、道なき道の答え合わせをしていた。いつもはうるさいとまで思ってしまうようなあの会話も、こんな時になると恋しくなってくるのが不思議である。

『この先 展望台』と書かれた黄色い看板の前を通り過ぎて、後ろを振り返る。やはり先ほどの場所でトイレに行っておくべきだったか。緊張という名前の臓器が一つ増えたのではないか、と思ってしまうほどに体が落ち着かない。でも僕は、今日こそ彼女に本心を告げなければならない。

 何も考えず、兎にも角にも先へ進むことにした。頂上の空気を吸えば、いくらかマシになるだろう。緩やかな上り坂を歩いた。いくらか鳥の鳴き声は聞こえるが、何の種類かなどということに頭は回らなかった。

 大きな石のアーチが見え、僕はそこが頂上に繋がっていることを認識した。


 アーチを越えた後、すぐ近くに展望台が見えた。床には茶色のタイルが貼られており、白い塗り壁とのコントラストが小さな感動のレシピになっている。

 展望台の中へ入り、螺旋階段を登る。手すりがなかったため、僕は白い壁に手を当てていた。

「上田達也君。十八秒の遅刻だよ」

 上から真弓の声がした。遅刻に怒っているわけでもなく、淡々と事実を述べる声色はひどく冷たく感じて、すぐに汗が引いていった。

 二階にたどり着いた。日差しから守ってくれる屋根の下で、彼女は木製ベンチの右端に座って真っ直ぐと前を見ていた。木々の擦れる音だけが聞こえて、植物たちの香りが立ち込めている。

 僕は何も言わず、隣に座った。目の前には黄緑の木々を額縁として広大な風景が広がっていた。手前には背の低い建物が所狭しと敷き詰められ、その中にいくつかビルが建っている。遠くの方には海と工場が見えた。大きな煙突は雲を生み出している装置のようだ。海の向こうに見える陸地は隣の県だろうか。

「ここ、綺麗だよね」

 穏やかなひとときを邪魔しないような声で、彼女はそう言った。

「ああ。本当にな」

 彼女の方に目をやる。彼女は白のワンピースを着ていた。


「「話がある」」

 静寂を破ろうとしたのは僕だけではなく、真弓の方もだった。再び、鍔競り合いのように張り詰めた静寂が訪れる。彼女の柔らかい表情には笑顔が灯っていなかった。初めて見たその奥行きが僕を不安にさせる。

「僕から先に話してもいいかな」

「私に先に話させてほしい」

「大事な話があるんだ」

「それは私もだよ」

 今までならば僕が引き下がっていただろう。ただ、今日はなぜか互いに譲ることはなかった。

「願いの話」

 彼女は言葉の隙間を突くように話を切り出した。僕は一本取られた、と思い、その話に耳を傾けた。

「どうした? やっと決まったのか?」

「いつから目覚めたんだっけ」

「えーっと、たしか二年前だ。ちょうど今日くらいの秋頃だった気がする」

 僕はようやく願いの内容が聞けると思って、無意識の内に体に力が入っていた。しかし、その必要もないことに気づき、再び背もたれに体重を預けた。


「そうだよね」


「え?」

 僕はするはずもない空耳を疑った。

「そうだったよね。文化祭の日からだよね」

 そんなこと僕の口から言ったことがあるだろうか。僕は怖くなり、彼女の方を見た。彼女はずっと前を見ている。

「何で知ってるんだ?」

 真弓はその時、初めて笑った。僕の一言一句まで見透かしているような、予想していたような余裕を感じる。


「その力、誰のものだと思う?」

「そ、それは僕のだろ」

 言葉に詰まってしまった。彼女の言動はいつも予想できないが、今日は何かが違う。


「全部ね、私がやったんだよ」

「何の話だよ」

「全部私が仕組んで、私の力の一つを君に与えたんだ」

 脳味噌が理解を拒んでいた。彼女は日本語を喋っているのに、別の言語のように感じてしまう。

「どういうことだ?」

「君の能力は君の中から生まれたものではなく、私が宿したんだよ」

 彼女のことだから、何秒か後に笑顔で「全部嘘」などと言うのだろう。僕は不安の中に一つ、その安堵を核として持っていた。

「じゃあ証拠出してくれよ。魔女さんよ」

「わかった」

 彼女は至極つまらなそうに右手を挙げた。その手には小さく光るものがあった。あれは、〈武士ネコ〉のキーホルダーだ。僕はそれまでに言われたことを端に置いて、心の中で小さくガッツポーズをした。

 そして彼女は空にキーホルダーを掲げ、右から左に一振りした。ネコの隣に付いている鈴が鳴った。その音に呼応するように昼の空が急速に流れていき、深い藍色の空が僕たちを包んだ。

「おいおい、なんだよ今の! 待ってくれ、どういうことなんだ?」

 目が慣れていくにつれて、星が見えるようになった。天の川のような星の連なりも見える。

「これで分かってくれたかな」

 僕は言葉が出なかった。星空は嫌いではないが、今はいらない。

 流れ星が一本の線を描いた。それを見つめる僕の中で、今まで何度も味わってきた苦い感情が浮かんでは消えていく。

「待ってくれよ。僕の人生にはこの能力しかないんだぞ」

 真弓は何も答えなかった。暗い中で表情は見えなかったが、こちらを見ていないことだけはわかった。もう一度真弓が鈴を鳴らした。

 どこまでも深かった濃紺の空は水平線の向こうから、急速に平坦な青色に染まっていく。気が付くと、辺りは文化祭の劇に使われる大道具のようになっていた。石の柱に手を触れてみると、発泡スチロールの感触がした。

そして真弓が息を吐くと、大道具にひびが入った。少し経って、ひびに従うように景色が崩れていく。

「お前は一体何者なんだ? 何をしてるんだ?」

 ひびの間から眩しい光と共に吹き込んできた熱波に押され、僕は地面に座り込んだ。なぜだろうか、先ほどよりも地面が流動的で柔らかい。崩れ去った瓦礫の向こうに視線を移すと、そこには砂漠が広がっていた。大道具とは形容できないような、広大な薄橙だ。

「答えてくれ。じゃあ僕が今までやってたことも全部、僕の力でも何でもないってことか? 町にいた訳のわからない集団に拝まれたのも、どんなしょうもない願いも叶えてきたのも、全部お前の掌の上だったってことか?」

 大きな声を出してしまった。照り付ける日射の中で、ベンチの上から真弓はこちらを向いた。

「だろうね」

 僕の顔を見てそう言った。

 その言葉を聞いた僕は今までの日々を思い出して、心が一段と重くなるのを感じた。

「この力は僕の唯一の長所なんだ! それまで何にもなかった僕の人生で、初めて自信を持てたことなんだぞ!」

 僕は立ち上がり、真弓の肩を揺すった。そうすると彼女は肩に乗った手を握り、こう言った。

「でも、そんな能力なくても上田君の価値は変わらないよ。君と話してそう思った」

 今まで見せて来た言動の反動が押し寄せているのだろうか。彼女の言葉には熱い意思が感じられた。その矢先、僕たちの間を風が通り抜ける。その風に運ばれた砂が目や耳、口に入ってきた。僕は腕で顔を覆い、風が弱くなるのを待った。

「君が明日歩けなくなっても、何も見えなくなっても、君は君だよ」

 彼女は前を向きなおし、再びキーホルダーを揺らした。薄橙の霧が濃くなっていく。

「おい! 待ってくれよ!」

 手を伸ばして、真弓の方へと近づいた。しかし、そこには何もない。


 視界の中央から、裂けるようにして霧が晴れた。先程とは打って変わって、頭上には穏やかな明かりがあった。どこにも真弓の姿が見当たらない。

「ただ、話がしたいだけなんだ」

 僕は近くにあった木製の柵に頼りながら立ち上がった。目が慣れてくると、穏やかな明かりは提灯に具現化していた。板が張り巡らされた地面からは勢いよく太鼓が生えた。ああ、ここは夏祭りの櫓なのか。

 呆然と硬直していると、遠くの方から声が聞こえた。

「こっちだよ。こっち」

 太鼓の向こうの、何メートルか離れたところにもう一つの櫓が見えた。そこには太鼓ではなく、真弓が座っている。うっすらと音頭や囃子が流れ始めたが、そのどれも聞いたことがないものだった。櫓の周りでは、人影が円を作って蠢いている。

「なあ、君は誰なんだ? 僕を踊らせて楽しかったか?」

 僕は柵から身を乗り出して、何度も声をかけた。もう喉は悲鳴を上げていて、全身にももうすぐ限界だ。それでも今はただ、解りたい。僕の感情はもう溢れそうだった。グラスが割れてしまうのが先か、感情が溢れるのが先か。

 すると彼女はベンチから立ち上がって、何も言わずに目の前からいなくなった。

「教えてくれ! 君は誰なんだ?」

 真弓は背後から僕の身体を抱き寄せた。これは瞬間移動、というやつなのか。

 蜘蛛の糸を掴むように、僕も彼女を抱きしめた。

「君が何もなかったことも見てたよ。それでも、君はいつも何もないところに何かを生み出そうとして一所懸命になってた。私はそういう君が好きになったから、君に力を与えたんだ」

 僕の中で、張り詰めていた糸が切れるような音が聞こえた。それは僕が生まれた時から縛られていた何かで、形容する言葉がすぐに浮かんでこない。僕は何も言えないまま、涙を流していた。

 今度は鈴の音が聞こえていないはずなのに、視界のあらゆる場所が割れ始めた。僕は身構えたが、彼女は動かない。

「私は魔女。本当の名前はもう覚えてない」

 風景の変化を無視して真弓は言った。崩壊が完全に終わって出てきたのは、あの日の、校舎の三階、その端にある空き教室だった。

「君への本当の願いは『私の人生をここで終わらせてほしい』ってだけ」

 それが誰しも抱く感情であるかのように魔女は語った。僕は、何も言葉をかけられなかった。

「君にそれができるかな?」

 プロジェクターが薄灰色のカーテンに映像を映し出す。せわしなく交差点を歩く人々。見たこともない生物の写真。流線形の建物の設計図。僕はスクリーンから目を離し、目の前の出来事に向き合った。

「僕の力だと〈死〉には干渉できない。そんなのそっちが一番知ってるだろ」

「ああ、それ人間だけだよ」

 僕の言葉を遮るように彼女は答えた。声色は無機質だ。

「できれば好きな人に殺してもらいたかったんだよね」

「僕は、でも………」

「何も言わなくていいよ。私のことは嫌いになってもいい。能力は返さなくていい。ただ、君といれた日々は楽しかった」


 僕はもう一度、強く彼女を抱きしめた。


 そこから何分かの間、僕たちはずっとそのままでいた。僕は少し落ち着き、「ありがとう」と言った。そして頬の水分を拭いながら、ベンチに座り直した。


「じゃあね」

 真弓はベンチの後方に回り、その場から去ろうとしていた。

「待ってくれ」

 必死で一言、一言と紡いでいく。


「僕も『大事な話がある』って言っただろ?」







 小さな道に面した小さなバス停には風避けがなかった。だからこうして僕はベンチの上で身を震わせなければいけないのだ。いつのまにか、白い息で遊ぶのにも飽きてしまった。

 いつまで経っても彼女は来ない。耳に入ってくるのは車が右から左に走行する音だけだ。

 僕は腕時計を見た。バスが到着するまであと一分。このバス停に着いてから、記念すべき三十回目の時刻チェックである。

「いやー、今日は間に合ってよかったー。遅刻で罰金を取られるとしたら、今頃達也は大金持ちだろうね」

 真弓はいつも予定時刻の一分前か五分後になると僕の隣に瞬間移動してくる。

「いつもギリギリに来られるとヒヤヒヤするんだよ」

「えー? そのヒヤヒヤが楽しいんでしょ」

「もし遅刻が職業として認められたら、今頃真弓は大金持ちだろうな」

 いつも通りの談笑をしていると、右側からバスが走ってくるのが見えた。僕たちはベンチから立ち上がった。

「ていうか、その便利な能力たち使えばバスなんかいらねえだろ」

 彼女はため息をつき、人差し指を振ってこう言った。

「わかってないなあ。趣ってものはないのかね。ワトソン君」

「なんだよホームズさん。僕だけバス乗るのやめて走ってやろうか? 能力のない凡人の底力ってのを見せてやるよ」

 僕は冗談のつもりで言ったのだが、彼女は何やら微笑みながら頷いていた。僕はものすごく嫌な予感がした。

 目の前にバスが到着し、空気圧の音とともにドアが開く。整理券を受け取った後、僕たちは一番後ろの座席に座った。バスの座席には僕たち以外に誰もいなかった。

「さっきの走るって言ってたやつ、ちょっと見てみたいなあ」

 真弓は駄々をこねる子供のようにつぶやいた。僕はそれを聞くや否や、こう言った。

「絶対やらねえぞ。ほら、もうバスにも乗ったし」

 再び空気圧の音がして、ドアが閉まった。

「それでは発車いたします」

 バスが走り出した。白と青を基調とした車体はゆっくりと僕から離れていく。ん?

「おいおいおいおい、マジで言ってんのかよ」

 気づくと僕はバス停に立っていた。バスの後方についた窓ガラスから、彼女がひらひらと手を振っている。あいつは何てことをしてくれたのだろう。とにかくあのバスに追いつかなければならない。


 黒いアスファルトで整備されたばかりの歩道の上を走り出した。太陽の光が澄んだ空気を悠々と突き抜けて、僕の背中を押してくれている。ただひたすらに、白い吐息を後方に置き去りながら走る。

 彼女がいつ僕の目の前からいなくなるのか、それは僕にはわからない。少なくとも、僕が真弓の願いを叶えるつもりはない。ただ、僕はできるだけ彼女と一緒にいようと思う。それは依頼のようであり、恩返しだ。僕が気づかなかった僕をくれた。


 目の前の歩行者信号が青に変わった。前を走るバスはさらに速度を上げて、僕との距離を離す。手加減でもしてくれなければ、追いつくのは不可能だ。


 でも、僕はこれでいい。僕には何もないから、がむしゃらに今を走り続ける。周りとどんなに違う道でも、どんなに遅れても。


 流星のように儚いティーンエイジを、駆け抜けていくだけだ。

                                 完

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流星ティーンエイジャー 舵名 @2021bungei5

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