ミラクル☆SOS
小野寺かける
ミラクル☆SOS
りん、と軒下の風鈴が風に揺られている。透き通った音に誘われ、榛弥は視線を手元のノートから窓の外に向けた。気持ちよく晴れた青空には入道雲が浮かび、耳をすませば庭の木にいるであろうセミたちの鳴き声も聞こえてくる。
大きく伸びをして、こり固まっていた肩を大きく回す。腕時計を見て、勉強部屋代わりの離れにこもってから二時間が経過していたと気づいた。そろそろ休憩時間にしてもいいだろう。
「ハル兄」と声が聞こえてきたのは、そんな時だった。
窓の向こうで小さな頭がひょっこり覗いている。鍵を開けて顔を出すと、六歳年下の従弟がほっと安堵したような表情で立っていた。タンクトップや短パンから露出した肌はこんがり小麦色に焼けている。
「壮悟。どうした」
「おやついっしょに食べへんかな思て、呼びに来てん。ついでに夏休みの宿題教えてほしいなって」
「……小学生の宿題なんて僕に分かるか」
「高校生なんやで分からへん方がおかしいやろ」
「僕が得意なのは国語と社会だけだぞ」
ぶつぶつ言いつつ離れから出ると、やけつくような暑さに襲われた。空調の効いた室内にずっといたものだから、本家に移動するほんの数秒の間でぐったりしてしまう。榛弥の手を引いている壮悟はそうでもなさそうだが。
壮悟は二階の座敷で勉強をしていたようだ。「先に行っとって」と彼は台所に飛びこんでいく。おやつの調達をしに行ったのだろう。
涼しい部屋を求めてさっさと座敷に入ったが、まったく涼しくなかった。扇風機が首を振って懸命に空気をかき回しているだけだ。よくこの暑さを扇風機だけでしのいでいたものだと感心とも呆れともつかないため息を漏らし、榛弥は開け放たれていた窓や襖をしめてエアコンのスイッチを入れた。
ふと外を見下ろすと、よく手入れされた日本庭園が目に入る。離れにいたときよりもいっそうセミの鳴き声が増した。
毎年、正月や盆などの時期になると母方の実家に帰省するのが恒例になっている。二階の座敷は同じく帰省した壮悟たちの一家が使うため、榛弥はめったに二階に上がらないが、ここから見える景色は好きだった。
さっぱりとした緑色がまぶしい山々と、そのはざまに潜むような村。奥に見えるため池は青空と日光を反射して輝き、それを遮るように行きかうのは白鳥のボートだ。家が高台にあるため、どれもよく見える。
「ハル兄、ふすま開けてや」
次の間で立ち往生していると思しき壮悟に訴えられ、榛弥は言われた通りに開けてやる。壮悟は両手で丸い盆を支え、その上には麦茶の入ったコップと白い饅頭が乗っていた。どちらも二人分ある。
「お前な、これだけ暑いのになんでエアコンつけてなかったんだ。室内でも熱中症になるんだぞ」
「そんな暑ないやん。二階やで窓あけとると風入ってくるで涼しいし。あ、ハル兄、机の上の宿題ちょっとどけて。これ置きたいねん」
「持っててやるから自分で片づけろ」
ひょいと壮悟の手から盆を奪う。壮悟はちゃぶ台の上に広げていたノートやらプリント類を乱雑に脇によせてスペースを作り、さあどうぞとばかりに畳に正座した。はみだした宿題は落ちているが気にしていないらしい。
「やけに静かだが、母さんたちは?」
榛弥は壮悟の向かい側に腰を下ろし、麦茶を半分ほどあおった。集中しっぱなしで疲れていた体に冷たさと香ばしさが沁みていく。
「出かけてった。晩ごはんの材料買いに行くんやって。お父さんたちもいっしょに行った」
「お前はついていかなかったのか」
「だって宿題やりたかったんやもん。分からへんとこあったらハル兄に教えてもろたらいいって叔母さんとか、リカ姉とリア姉も言うとったし」
榛弥の双子の姉たちだ。自分で教えようとしなかったのは面倒だったからか。
家には現在、祖父母と叔父、その娘である従妹が残っているようだが、そのほかの面々は昼過ぎ頃から出かけたという。昼食後すぐに離れに引きこもった榛弥には一切声がかからなかったが、あらかじめ受験勉強をすると言ってあったからだろう。
「……それに出かけるん怖いし……」
壮悟は饅頭に手を伸ばし、少しうつむいて口をもごもごさせていた。
怖い、とはなにが。首を傾げかけて、榛弥は「あれか」と心当たりを口にした。
「昨日の夜のテレビの影響だろ。怖い系の」
「…………」
「図星だな」
「ち、
「まったく説得力がないぞ」
にやにやと笑っていると、壮悟はさらに「違うってば!」と耳を赤くして反論してきた。
昨日の晩、居間のテレビは榛弥の姉たちが占領していたのだが、彼女たちが選択した番組は夏の夜にちょうどいい恐怖番組だった。心霊映像や写真の紹介だとか、幽霊が出るとうわさのスポットに最近有名なタレントが訪れたりしていた気がする。
姉たちや壮悟の妹はきゃーきゃー言いながら怖がるというより楽しんでいたが、そういえば壮悟は終始静かだった。
「そんなに怖かったなら見なきゃよかっただろ。部屋は一つじゃないんだし」
「一人でどっか行くんはイヤやったもん。ハル兄だって居間に居ったし。ハル兄はああいうの平気なん」
「まあな。テレビで紹介されるのなんてたいがい作り物だろうし、仮に幽霊やお化けが存在するとしても僕には見えないから関係ない」
不可視の存在を信じていないわけではないが、目に見えないものを怖がるほど榛弥は子どもではない。壮悟もいずれそうなるんだろうなと感じながら饅頭を手に取った。
ぽってりとした求肥は白く、表面にうっすらと黄色い粉で星の模様が描かれている。変わった饅頭だなと思いながらかぶりついて、榛弥は一瞬だけ眉間にしわを寄せた。なんとなく餡子の甘さを予想していたのだが、舌に広がったのは別の甘さだったからだ。
「……カスタード?」
「あ、このお饅頭な、昨日ここに来る途中で
「和洋折衷?」
「それや。今注目やーとかでテレビで紹介されとって美味しそうやったからてお母さんが言うとった。どう? 美味しい?」
「まずくはない」
饅頭の中にはカスタードのほかにメロンも入っている。それらに敷かれるようにしてちゃんと餡子もあった。味が喧嘩することなく調和しているところは見事だが、榛弥としては普通の和菓子が食べたかった。
一方の壮悟は美味しそうに食べていたが、なぜか急に榛弥を見て目を丸くして体をこわばらせた。
――いや、僕を見ているんじゃなくて。
壮悟の視線は榛弥ではなく、そこから少し横にずれた先に注がれている。虫でもいたのかと振り返ってみるが、床の間と亀をかたどった置物があるだけで特になにもない。
「……あのな、ハル兄」
壮悟は食べかけの饅頭を皿の上に戻し、おずおずと榛弥と目を合わせてきた。
「テレビで紹介されるんは作りもんやて、さっき言うたやんか」
「言ったな」
「ほんなら、あれはどうなんかな」
「あれ?」
こく、と壮悟は控えめにうなずいて、榛弥の右あたりを指さした。
「そこに居る女の人も、作りもんなんかな」
「…………は?」
榛弥はもう一度振り返ってみるが、見えるものは先ほどと変わらない。
なにかの冗談かと思って壮悟に向き直るが、彼は相変わらずなにかを指さしたままだ。ふざけている気配もない。
「なにも居ないぞ」
「ハル兄にも見えてへんの? やっぱりオレにしか見えへんのかな。お母さんたちも分からへんみたいやったし」
「一応聞くけど、本気か? 知らない間に熱中症になってて、それで幻覚が見えるとかじゃないよな?」
「でもそこの女の人、昨日からずっとオレについてくるんやで」
「昨日から?」
壮悟は再びうなずいた。
――からかっているわけじゃなさそう、か。
嘘をつくと目が泳いだりすると聞いたことがある。しかし壮悟の目は真剣そのもので、でたらめを言っているとは思えない。
「その話、詳しく聞かせてくれるか」
榛弥が身を乗り出して訊ねると、壮悟はどこか安心したように柔らかな笑みを浮かべた。
「子どもの頃にな、神社でな、蝶を踏んづけてしもてん」
いつから幽霊だとか見えるようになったのかという問いに、壮悟はそう答えた。
今もじゅうぶん子どもだろうが、というつっこみはさておいて、榛弥は麦茶をすする。
――神社でってことは、祭りの時にでも踏みつけたか。
このあたりでは毎年三月の終わりごろ、神社で一年間の吉凶を占う神事が行われる。それに用いられるのが蝶であり、ゆえに人々は蝶を神聖視しているのだが、壮悟はそれを踏みつけてしまったというのだ。
「わざとじゃないんだろ?」
「みんなと遊んどったから、気づかんかってん。気づいてから謝ったよ。けど許してもらえやんかったんやと思う」
その日を境に、壮悟の目にはこの世ならざるモノが映るようになったそうだ。本人は「呪われたんやと思う」と肩を落としているが、果たして本当に呪われたのだろうか。疑問は残るが、否定すると傷つかれる可能性もある。ひとまず榛弥は「そうかもしれないな」とおざなりに同意して、現在見えている〝女の人〟についての詳細を求めた。
「昨日のいつからついてきてるんだ」
「最初に見かけたんは……あれや、お饅頭売ってたお店や。なんか困っとるみたいやなと思って声かけたら、幽霊やってん」
「明らかに生きてる人間じゃないって分からなかったのか」
「分かる時と分からん時とあんねん」
「相性みたいなものか」
「多分そうやと思う。けむりみたいにゆらゆらしとったら幽霊やなって一発で分かるんやけど。そこの女の人はほんまにふつうの人みたいやったから」
「なるほど」
自分に見えないもの、知らないものについて知るのは興味深いし、楽しい。壮悟も榛弥が一切否定することなく聞き入れているためか、すらすらと話してくれている。
「初めは後ろ向いとって、どうしたんって聞いてこっち向いたら、えっと……」
「?」
「その、ここがな」と壮悟は己の胸をさすった。「このへんが、血まみれで」
そこで初めて、女性がただものではないと気づいたそうだ。
血まみれの女が立っていれば誰だって騒ぐだろう。しかし店内にいた客は誰も慌てていなかった。壮悟はとっさに母親に自分が見たものについて訴えたが、からかうなと一蹴されたという。構われたいがための冗談だとでも思ったのだろう。
「そんでお店出るまで知らんふりしとったんやけどな、ここ着いたら、その人が居ってん」
「店からここまでついてきたってことか」
「多分……なんでか分からへんけど……」
「困ってるように見えたんだろう? お前が話しかけたから、『この子なら力になってくれるかも』って思われてたりして」
「えっ、そうなん?」
「あくまで僕の予想だから本当のところは知らないぞ」
女性は壮悟がどこへ行くにもついてくるという。風呂やトイレにもついてこられて、寝ていた時もずっと近くにいた。起きれば消えているかと思ったけれど、結局女性は消えることなく、ずっと壮悟のそばにいたようだ。
胸のあたりが血まみれということは、刺されでもしたのか。自分で刺したのか、事故で刺さってしまったのか、あるいは。
――誰かに刺されたか。
この世に未練を残したものが幽霊となって現れるといくつかの小説やマンガで読んだことがあるから、女性もなにかしらの未練を抱いているのだろうか。
「声は?」
「声?」
「姿ははっきり見えるんだろう。声とかは聞こえないのか?」
「うーん……聞こえへんなあ」
でも、と壮悟は半分ほどまぶたを閉じて女性がいるであろう位置に目を向けている。直視するのは恐ろしいようだ。
「口はぱくぱく動かしとるから、なんか話そとしてんのかも」
「どういう風に動かしてるか分かるか」
「ちょっと待ってな」
壮悟は怖々と女性の観察を続け、やがて彼女が動かしている通りに己の口を動かして榛弥に見せてくれた。榛弥は壮悟にそれをくり返させ、女性がなにを訴えているのか探ろうとする。
しかし唇の動きだけで言葉を特定するのは、慣れているならともかく、今までそういった経験がなかったため容易ではない。疲れたんやけど、と壮悟はうんざりし始めたころ、かろうじて手がかりくらいは掴めた。
「四文字の言葉じゃないか? 口の動きから考えて母音は『あうええ』だと思う」
「あうええ……?」
「問題はそれがどういう単語か、なんだが」
「ウクレレとかそう違う?」
「仮にそうだとして、なんでずっとウクレレって言い続けてるんだよ、その女の人は」
「そんなん知らんわ」
「それにウクレレだと『ううええ』だからちょっと違う」
しばらく考えてみたが、答えらしい答えは出なかった。
このまま部屋で考え続けていても埒が明かない。榛弥は饅頭の残りを口に詰めこみ、麦茶で流しこんで立ち上がった。
「じいちゃんは家にいるんだよな。車出してもらおう」
「? どっか行くん?」
「饅頭売ってた店に寄ってからついてきてるんだろ、女の人」
だったら、と続けながら、榛弥は女性が立っているであろう位置を一瞥した。
「そこに行ってみよう。なにかヒントが転がってるかもしれない」
祖父の運転は母のそれによく似ている。安全第一だと言いながら、たまにスピードを出したりよそ見をしたり、思い出したように荒っぽくなるところだけ少し苦手だ。
「二人は本当に仲がええなあ」と運転席で笑う祖父に、後部座席の左側に座った榛弥は「ちゃんと前を見て運転してくれ」と何度も促した。
「昨日の饅頭の店な、じいちゃんもばあさんとテレビで見てたんだわ。その時に羊かんの紹介もしとってな、あれが美味そうで気になっとった」
祖父は目じりのしわを深めて笑う。饅頭の店は正確には〈
明治時代から続く老舗らしく、最近になって建物の老朽化を考慮して建て替えたという。テレビでの特集はリニューアルオープンに際したものだったようだ。なかでも話題になったのは商品ではなく、後継ぎの青年の容貌だったそうだが。
「壮悟。女の人は?」
榛弥は声をひそめ、隣に座る壮悟に問いかける。壮悟は周囲を探るように視線を巡らせたあと、首を横に振った。
「車が走っとる時は見えへん」
「信号待ちの時は?」
「気ィついたら外にぼんやり
「ふうん……車に乗ってきてるわけじゃないのか。走ってついてきてるのか?」
「なにその都市伝説みたいなん。怖いわ」
「そうか? じいちゃんの運転よりは怖くないだろ」
「ん? 呼んだか?」
ルームミラーを通して祖父と視線が合う。ということはつまり前を見ていない。榛弥は内心ひやりとしながら「前見てくれって」と何度目か分からない注意をした。たいして祖父はからから笑っていた。
「そういえば壮悟。今年の運動会はいつだ? ばあさんと観に行くつもりなんだが」
「九月やと思うよ。あんな、オレな、
「おお、それは見つけやすくていいな。楽しみにしとるよ」
「鼓笛隊?」
壮悟が通う小学校にはそういうものが存在しているようだ。四、五年生はリコーダーで、六年生は太鼓や簡単なアコーディオンなどを使い、運動会や地域の行事などで演奏しているという。
「大太鼓ってお前、大丈夫か? 背低いのに」
ふっと榛弥がからかうように言うと、壮悟はむすっと唇を尖らせた。
「みんなと同じこと言わんでもええやん」
「なんだ、周りからも言われてるのか」
むっつりと不満そうなまま、壮悟はうつむくようにうなずいた。かと思うと鋭い目つきで榛弥を睨んでくる。
「中学生んなったらハル兄やって追いこしたるからな。見とけよ」
「ほー、楽しみにしてる」
「榛弥は最近どうなんだ? 大学はどこ受けるか決めたのか」
「一応」
初めは県外に出ることも考えたのだが、遠出をするのが面倒で名古屋方面に決めたのだ。名古屋近辺なら家から通えるため楽だが、時期を見計らって一人暮らしをする予定でいる。もし家が見つからなければここから通えばいいと祖父に提案されたが、丁重に断った。
「着いたぞー」
家から車に揺られることおよそ二十分。和菓子屋〈金烏〉は隣町にあった。
敷地としてはよく見かけるコンビニと同程度だろうか。テレビの影響か、「甘味」の旗が並ぶ駐車場は満車と言っても過言ではない。店先には飲食スペースもあり、複数の客がかき氷やあんみつを楽しんでいた。
店の入り口からは順番待ちの列が並び、待機している客の多くは若い女性だった。前面がガラス張りであるため中が良く見え、榛弥は列に並ぶのを祖父に任せ、壮悟とともにそっと店内の様子をうかがう。
「接客してるのが例の後継ぎとやらか」
「よう見えへん。そんなかっこええ人なん?」
「女子から見たらかっこいい類なんじゃないのか。
「誰それ」
「僕の彼女」
店の入り口にはご丁寧に「テレビで紹介されました!」と大々的に書いたポスターが写真付きで貼られている。携帯で写真を撮って彼女に「かっこいいのか?」とメールを送信すると、一分もしないうちに「榛弥くんの方がかっこいいけどみんなに聞いたらかっこいいって言ってた」と返信があった。
並んでいる客の多くは商品よりも後継ぎが目当てなんだろうなと見当をつけたところで、壮悟に憑いてくる女性もそういった一人なのかと考える。
――幽霊になってまでわざわざ見に来た……? そんな馬鹿な。
それにまだ女性が訴えている「あうええ」の意味も分かっていない。余計な考えごとを増やしてしまっただけだった。
「壮悟。女の人の様子はどうだ」
「お店ん中ずっと見とるけど、たまにあっちも見とる」
「あっち?」
あそこ、と壮悟が指さしたのは、道路を挟んで向かい側にある建物だ。
道路以外の三方を住宅に囲まれたそこは、小ぢんまりと可愛らしい雰囲気をたたえている。手前には車が三台停められる程度のスペースがあるし、歩道との境目には看板も立っているため、なにかしらの店なのだろう。
和菓子屋だけでなくあちらにも目を向けるということは、なんらかの関係があるのかもしれない。ふと列に並んでいる祖父を見ると、後ろに並んだ同世代の男性と談笑していた。お互い名前を呼びあっているため、知り合いなのだろう。
「じいちゃん、ちょっと壮悟連れて向かい側の店行ってくる」
「おう。分かった。中入れたら電話するで」
車の往来が多いし、このまま道路を突っ切るのは少々危険だ。あたりを見回すと少し離れたところに歩道橋があったため、榛弥は壮悟を連れてそこに向かう。壮悟は軽い足取りでさっさと上っていくが、榛弥にそんな元気はない。
「ハル兄って全然体力ないんやな。ずっと柔道やっとったん違うの」
「あほか、こんな暑さで走れるか。倒れても知らないぞ」
「こんくらい大丈夫や」
五分ほど歩いて、榛弥たちは目指していた店に到着した。看板を見ると「手作りケーキの店・リュヌ」と書かれている。
店内に電気が灯っているし、営業はしているのだろう。中に入ると、榛弥たち以外に客は一人だけで、その客も会計が終わるとさっさと出ていった。ショーケースの向こう側にいた男性が、榛弥たちを認めると「いらっしゃいませ」と口にする。どことなくくたびれた様子だが、彼がこの店のパティシエだろうか。
向かい側の〈金烏〉に比べると、ずいぶん静かだ。店内に流れるオルゴール調の曲は落ち着いた雰囲気を演出しているが、どちらかというと今は切なささえ感じさせる。
「なあハル兄! これおいしそうや!」
壮悟がショーケースに近づき、きらきらと目を輝かせながら商品を指さした。キウイとぶどうのタルトだ。
「これ食べたい。買って」
「はあ? なんで僕が。じいちゃんに頼めばいいだろ」
「またあっちまで戻るんイヤや。めんどくさい」
「えぇ……」
榛弥はまだアルバイトなどしていない。毎月母からもらった小遣いでやりくりしている。ちょっと覗きに来ただけなのにと思わなくもないが、店に入っておいてなにも買わずに出るというのも気が引けた。
念のため持ち合わせを確認して、榛弥は壮悟が望んでいたものを注文した。どうせなら自分と祖父のぶんくらい買うか、とシュークリームも追加する。
「リカ姉たちのぶんは買わへんの? ハル兄だけ買うてずるいって絶対言うで」
「えー……じゃあ適当にどれか選べ。安いやつ」
「ほんなら、それは?」
壮悟が示したのはカップに入ったケーキだった。中にはスポンジやフルーツのほかわらび餅が入っていると商品紹介に書かれている。生クリームの上に振られているのは抹茶だろう。
会計を済ませて品が箱に納められるのを待つあいだ、榛弥はショーケースの右手側に見える工房に目を向けた。冷蔵庫やオーブンなどが並んだそこを、作業中の若い女性が行ったり来たりして忙しそうだ。
「ハル兄、ちょっと」
壮悟の声に振り返ると、なにやら店の出入り口付近で手招きしている。どうしたのかと近づくと、「あれなんやけど」と壮悟は壁の一点を見つめていた。
ちょうど榛弥の目線の位置にあったそれは、額縁に入った一枚の写真だ。コック帽をかぶった女性が金のトロフィーを片手に満面の笑みを浮かべている。工房にいた女性かと思ったが、別人のようだ。
それに写真にはもう一人写っている。女性とそろいの服を着た青年だ。しかしこれも店にいる男性とは違う。
――これに写ってる男って、もしかして……。
「お客さま、ご用意が出来ましたよ」
男性に呼ばれ、榛弥は商品を受け取りに再びショーケースに近づいた。
「あの、すみません。あそこの写真に写ってる女性って?」
なんとなく聞いてみたのだが、男性の表情がくもった。
「ああ、私の姉なんですよ。この店の店長でもあります。……それがなにか?」
「いえ、少し気になっただけです。ありがとうございました」
軽く頭を下げ、壮悟とともに店を出る。だが壮悟はまだ店の中が気になるようだった。
「もしかして、あれか。お前に見えてる女の人の幽霊って、あそこの写真の人か」
「……やと思う。髪型とか服は違うけど、顔はいっしょやった」
壮悟はなにもない空中を見つめている。恐らくそのあたりに女性がいるのだろう。
彼女はこの店の店主で、パティシエールだった。素性が分かったのは大きな進歩だろう。しかし、だ。
――知り合いとかならともかく、初対面の僕がいきなり「お姉さんは亡くなられましたか?」って聞くのもな。
間違いなく不審がられるだろう。女性の弟だという男性は「店長は姉」だと言っていたのも気にかかる。
――女性が亡くなっていたんなら、店長は別の人……それこそ弟に代わっていそうなものだけど。
まさか。
「……亡くなっているのを知らない、のか?」
「え?」
「壮悟。ちょっと場所を変えるぞ。いつまでも駐車場で喋っていたら迷惑がられる」
〈金烏〉に並んでいる祖父はまだたいして進んでいない。もう少し時間はあるだろう。
榛弥は歩道橋の影が落ちているあたりまで移動し、ケーキの箱を壮悟に預けて「さて」と携帯を取り出した。
「なにしてんの?」
「調べもの。すぐ終わる――あった。これか」
画面に表示されているのは、某スイーツコンテストのニュース記事だ。数年前に国内で開催されたもので、「優勝者は手作りケーキの店・リュヌの石月ナツメさん」と書かれている。写真も掲載されており、店内で見かけたそれに写っていた人物と同じと思われた。壮悟にも見せたところ、何度も目をしばたたいて「この人や」とうなずいていた。
次いで榛弥は検索欄に〈金烏〉と打ちこむ。ホームページが表示され、職人紹介のページを見ると、現在の店主に続いて例の後継ぎの写真が出てきた。
「僕の見間違いじゃなければ、店の写真にこの人も写ってた」
「え、和菓子屋の人? なんで?」
「さあ……和菓子と洋菓子っていう違いはあるけど、修行でここに来ていたのかもな。今はそれを終えて本業に戻ったのかもしれない。それにほら、両方の店に和と洋を取り入れた商品があっただろ? 二つの店が無関係とは思えない」
「ていうか、ようそんなん調べれたな」
「店名とか入力したら意外と簡単に出てきた。で、次の問題だが。壮悟、女の人はこっちの言うことに反応するか?」
「え? どうやろ……やってみんと分からん」
「試してみろ」
壮悟はしばらくあれこれと女性に声をかけていたが、反応は芳しくないようだ。なにかを訴えてはいるものの、こちらの言葉は通じないのか。反応してくれるなら一気に事が運びそうだったのに、と残念さを覚える。
気を取り直して、榛弥はもう一度考えこんだ。
――ケーキ屋の店主なのに、女の人が現れたのは和菓子屋の方だった。ってことは、心残りはそっちにあるのか?
いったん〈金烏〉に戻ろうかと思ったところで、携帯が鳴った。祖父からだ。そろそろ店に入れそうだという。急いで戻ると、祖父は壮悟が抱えるケーキの箱を見て「向こうで買って来たのか」と残念そうに言った。
「じいちゃんは羊かん欲しいんだろ? 中に入ると邪魔になるかもしれないから、僕たちは外で待ってる」
「ゆっくり選んできてええよ」
「けど、ここだと暑いだろう。車のエンジン付けてくるから、エアコンつけて中で待ってるか?」
「気にしなくていい。近くのかげで涼んでるから」
それじゃあお言葉に甘えて、と店に入っていった祖父の背を見送り、榛弥は店の壁にもたれかかった。
もう少しで真実が分かりそうな気はしているのに、まだなにかが足りない。こちらの言葉が通じないのなら、頼りになるのは女性の視線と口の動きだけだ。
「壮悟、女の人は今どこを見てる?」
「えーっと……」と壮悟は榛弥の左あたりに目を向ける。「あのへん、かな」
壮悟が示したのは店内ではなく、店の後ろあたりだ。
さっそく行ってみると、表と違って裏側は静かなものだった。従業員の車が並んでいるほか、プレハブ小屋や大きなごみ箱が置かれている。
ここになにがあるのだろう。榛弥が首を傾げていると、「ハル兄」と壮悟に腕を引かれた。
「女の人、あっち行った」
「あっち? ……プレハブ?」
小走りでそこに近づいてみる。どうやら倉庫として使われているらしい。窓からのぞいてみると冷蔵庫か冷凍庫か定かではないがそれらしき白い箱も見受けられ、使わない道具をしまっておくほかに食材の保管にも用いているようだ。
女性はプレハブ小屋の入り口でしきりに「あうええ」とくり返している、と壮悟が言う。
今一度、彼女の口の動きを自分で再現してみる。ひたすら悩んだ末に、榛弥の頭に一つの単語がひらめいた。
――あうええ……〝たすけて〟か?
その時、壮悟が「んー……」と小さく唸った。
「どうした」
「……なんか変なにおいせぇへん?」
榛弥にはよく分からなかったが、壮悟ははっきり嗅ぎとっているようだ。眉間に深いしわを刻んでいる。
店の方からは確かに様々なかおりが漂ってきている。しかしそれらは良いにおいに分類されるはずのもので、壮悟が感じている変なにおいはまったく別物だという。さらににおいは店からではなく、プレハブ小屋から漏れているそうだ。
――……まさか。
〝たすけて〟と訴え続ける血まみれの女性の幽霊と、壮悟が嗅ぎとった異臭。そこから導き出された結論に、榛弥は表情をこわばらせた。
「君たち、こんなところでなにしてるんだ?」
不意に背後から声が聞こえた。振り返ると、そこには男が一人いる。
後継ぎの男だ。端正な顔立ちには困惑が浮かんでいる。
「お店の入り口はこっちじゃないよ」
いたずらでもしにきたと思っているのか、男はやれやれと肩をすくめていた。だが榛弥は正面から彼を見すえ、ぐいっと壮悟の腕を引いて耳元に口を寄せる。
「え、なに?」
「お前が見たもの、感じたものをあいつに言ってやれ。今しかない」
「……女の人のこと話すん?」
信じてくれるわけがない、と壮悟の目は揺れている。しかし榛弥には確信があった。
――この男は壮悟の言葉を信じるに違いない。
ほら、と背中を押してやると、壮悟も心を決めたようだった、男は困ったように「ほら、向こうに行って」と二人をプレハブ小屋からどかそうと近づいてくる。
「……あのな」と壮悟はケーキの箱を抱きしめ、静かに、けれどしっかりと言葉をつづけた。「女の人がな、お兄さんをずっと見てんねん」
「……は?」
「胸のとこが血まみれでな、怖い顔でお兄さんのこと見てんねん。なんか言うとるみたいやけど、オレには分からんくて。お兄さんなら分かるん違うかな思てんけど」
「……君、なにを言ってるんだ? ふざけているなら人を呼ぶよ」
男が警戒を露にしたからだろう。壮悟は一瞬言葉に詰まったが、榛弥が肩に手を置いてやったことで自信を取り戻したらしい。
「ここからも変なにおいすんねん。これってなんのにおい?」
「君たちには関係ないだろ。ほら、早くどいて。材料の補充をしなきゃいけないんだ」
男は強引に榛弥たちを押しのけ、しっしっと追い払うごとく何度も手を振る。仕方なく榛弥は壮悟の手を引いて去る――と見せかけて、店の横を通ってプレハブ小屋が視界から失せたあたりで、壮悟にはここにいるよう告げて駆け足で戻った。
男の姿はないが、プレハブ小屋の扉は開いている。中にいるのだろう。足音を極力消しながら弾むように走り、榛弥は入り口の脇で身をかがめ、こっそりと中の様子をうかがった。
「においなんてしてない、はずだ。うん。大丈夫、大丈夫……」
男はぶつぶつと呟きながら白い箱のふたを開けている。中から大量の白いもやが出てきているところを見るに、冷凍庫だろうか。
「そこに入ってるんですか」
榛弥の声に、男の背が明らかにびくりと震えた。動揺していて榛弥が戻ってきたことに気づいていなかったらしい。慌ててふたをしめようとしていたが、一足跳びに近づいた榛弥が寸前でそれを阻止した。
やめろ、と叫ぶ男を無視して、榛弥は白い箱の中を覗きこむ。
そこに納められていたのは食材ではなく、衣服を身につけたままの女性だった。
「ハル兄、どっちが線香花火長いことつけとれるか勝負しよ」
面倒だと言ったところで拒否権はないだろう。壮悟はすでに線香花火を一本差し出している。縁側に座っていた榛弥がしぶしぶそれを受け取ると、隣に腰を下ろした壮悟が祖父から預かったであろうライターでそれぞれの花火の先端に火をつけた。
ぱぱぱ、とささやかな音を立てて火花が弾ける。じっと息を殺して数秒間見守った結果、勝利したのは壮悟だった。
「やった! オレの勝ち!」
「良かったな」
「もっかいやろうや。またオレが勝ったら代わりに宿題やって」
「勝負するのは構わないけど宿題は自分でやれ。教えるくらいはやってやるから」
姉たちは派手なススキ花火などを楽しんでいるが、壮悟は線香花火での勝負が好きなようだ。最終的に四回勝負をして、榛弥は三敗した。
「もう女の人は見えないか」
「うん」と壮悟は足をぶらぶらと揺らしながら、かたわらに置いてあった皿からスイカを取って口に運んでいる。
和菓子屋の裏手にあったプレハブ小屋で、榛弥が女性の遺体を見つけたのは昨日のことだ。見られたからには、と男は榛弥にも手をかけようとしたが、思い切り背負い投げをしてやった。
その後、異臭がしたという理由で警察に通報し、男は連行された。
遺体はケーキ屋の店主の女性だった。一か月ほど前から行方が分からなくなっていたのだという。和菓子屋の後継ぎの男とは師弟であり、交際もしていたとのちのニュースで報道されていた。
きっかけは些細な口論だったという。喧嘩はどんどん過熱して、男は思わず包丁を振り回してしまい、運悪く女性に刺さってしまった。しかし男にはテレビ取材が控えており、店を守るためにも過ちを隠し通したかった、と供述していたのは記憶に新しい。
「居らんようになったってことは、成仏したってことやんな」
「だといいんだけどな」
壮悟が見つけるよりも前から、女性はきっと助けを求め続けていたのだろう。安らかに眠れているようにと願わずにはいられない。
「そういえば壮悟。お前、幽霊とか怖いって言ってたわりにめちゃくちゃ騒いだりはしなかったな」
「だって騒いだら『うそつき』って言われるんやもん」
しゃくしゃくとスイカを頬張って、壮悟は仏頂面をした。種を噛みつぶしてしまったようだ。
「嘘つきって、誰に?」
「クラスのみんな。そんなん居るわけないやろって馬鹿にされるから、前までは幽霊がおるって言ったりしとったけど、今は我慢できるようになった」
「もしかして、あれか。背が低いのに大太鼓なんてって言ってきたのも、クラスの奴か」
「うん」
ふむ、と榛弥もスイカを一切れ食べて、少し待っているよう壮悟に言いおいて居間に置きっぱなしのリュックを取りに行く。通学にも使っているもので、現在は着替えや受験勉強用のテキストがたっぷり詰めこんである。
榛弥はリュックのポケットから取り出したものを、「やるよ」と壮悟の手の上に落とした。
「? なにこれ、指輪?」
「茉莉にもらったやつ。修学旅行の体験学習で作ったんだと」
壮悟は己の指より大きな指輪を眺めて、不思議そうに首を傾げていた。次いで「大事なもんと違うの?」とたずねてくる。せっかく彼女がくれたものを壮悟がもらってしまっていいのか不安なのだろう。
「あいつも作りたくて作ったわけじゃないみたいだし、別にいいだろ。自分で持ってても邪魔だからって寄こしてきたんだが、僕も要らないしな」
「そんなんオレに渡してくんなや」
「まあ聞け。指輪に小さい石がついてるだろ。紫色の。一応アメジストらしいんだけどな、石の効果として〝魔除け〟ってのがあるんだと」
要するに、と榛弥は壮悟の手のひらの上におさまる指輪を横目で見やった。
「さすがに指につけて学校行くわけにはいかないけど、ボールチェーンとか通してランドセルにぶら下げとけばお守り代わりになるだろ」
「そうなん? 幽霊とかも見えやんようになる?」
「さあ。どこまで効果があるか分からないからなんとも。石の説明も茉莉の受け売りだし」
ひとまず気休めにはなるだろう。すでに壮悟の目は期待に輝いている。
「今度の登校日からつけてくわ。見えやんようになるとええな」
「もしまだ見えるんだとしても、騒がないのが賢明だと思うぞ。誰もが僕みたいに理解があるわけじゃないだろうから。かと言って我慢し続けるのもしんどいだろうし、僕でよければいつでも話は聞く」
「うん。分かった。ありがと」
「榛弥ぁー」と上の姉からお呼びがかかった。「居間にもう一つ花火のパックあるから、持ってきて。せっかくだし全部やっちゃおうと思って」
「……あいつらどれだけ花火買ってきたんだ?」
「四袋くらい買うて帰ってきた気ィするけど」
早くしてよ、と急かされて、榛弥はため息をついて花火の袋を手に取って立ち上がった。お徳用パックと大きく書かれたそれには線香花火も入っているため、また壮悟に勝負しろと言われるだろう。
「そういえばさ」と壮悟も腰を上げ、問いかけながら榛弥を振り仰いでくる。「ケンカして殺してしもたって言うとったんやろ? どういうケンカやったんやろ」
「ああ、そのことか」
ちょうどそのあたりについてニュースキャスターが述べていたとき、壮悟は風呂に行っていたはずだ。知らなくても無理はない。
「聞くだけ馬鹿らしいぞ」と前置きをして、榛弥は嘲笑まじりに続けた。「『目玉焼きにかけるのはソースか醤油か』って理由で口論になったらしいからな」
完
ミラクル☆SOS 小野寺かける @kake_hika
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