黒き鏡の玉兎。

尾八原ジュージ

手鏡

 田代家の月子お嬢さんにお会いしたのは、あたしが十六のとき、たしか春のことでした。

 田代さんのおうちはその当時、近隣の村でも有名な分限者でした。お屋敷も大変なもので、人手が足りないなんてことはしょっちゅうでした。それですからあたしが、お嬢さんの専用の女中として、住み込みでご奉公にあがったのです。

 お嬢さんのお姿を見たのはそのときがほんとに初めてでした。なにしろお嬢さんときたら、葬式だのお祭りだの、そういう場合にもおうちに引きこもっておられて、まったく外に出ることがないのです。ただ田代さんのおうちにはわかい娘さんがいらっしゃるという噂だけはありましたので、あたしはそのお嬢さんに特別に会えることになったのが誇らしいようなおそろしいような、初めてお会いするときにはもう、緊張で心臓がやぶれてしまいそうでした。

 月子お嬢さんは離れをおひとりで使っておいででした。離れといっても普通の一軒家みたようなもので、お嬢さんのお座敷の横には女中部屋がありますし、御不浄もあればお風呂もついているといった次第でたいへん立派なものです。また床の間の花器ですとか、欄間の飾りひとつとってみても、たいそうお金をかけているということがよくわかるのでした。

 お嬢さんはあたしよりもふたつばかり年上でしたろうか、小さい女の子のような細くてかわいらしい声であたしに挨拶をなさいました。何でもうまれつき身体が弱いので、なにかと人の手を借りねばならない。そのために専用の女中を雇ったのだということでした。

 あたしはそれまで勝手に、「お姫さまみたいに大事にされておられるお嬢さんは、どんなに美しいかただろう」と思っておりました。ところが実際お会いしてみると、お嬢さんは古風な御高祖頭巾みたようなものをすっぽりとかぶって、口元が少々見えているくらいで、どんなお顔をなさっているのかさっぱりわかりませんでした。なんでも、どうしても人前にお顔を晒したくないということなのです。あたしはお嬢さんにお目通りしたあとで、田代のお屋敷の女中頭さんに「お嬢さんのお顔を見ようなんて、妙な気を起こしちゃいけないよ」ときつく言われたものでした。

 もっともしばらくするうちに、月子お嬢さんの見た目はあまり気にならなくなりました。お嬢さんはごくやさしい性で、何かとあたしに気を遣ってくださいました。そうであれば頭巾をかぶっていても、自然と親しみやすい姿に見えてくるものです。お嬢さんはとても大人しいかたで、ひっそりと離れに閉じこもってお花を活けたり、本を読んだり、あたしとお話をしたりして過ごすのが常でした。


 さて、あたしにはひとつ気になることがありました。それは、月子お嬢さんがよく手鏡を覗き込んでおられるということでした。

 手鏡を覗くお姿がどことなく悲しげなので、あたしは、それはきっとご自分のお顔を他人に見せたくない気持ちとなにか関係があるのだろうと思っていました。きっとお顔に怪我をされたとか、あばたができたとか、そういったわけがあって隠しておられるのだろうと、通り一遍のことを考えておりました。ですが、それよりももっと重大な秘密を、お嬢さんはお持ちだったのです。

 幾月かそうやって過ごすうちには、察しのわるいあたしにも、月子お嬢さんが(離れに閉じこもってはおりますけども)こんなに大事にされている、そのわけがわかってくるようになりました。というのも、ときどき田代の旦那さまが離れを訪ねてこられて、お嬢さんに来年の夏の気候はどうなるかだの、小豆の相場はどうだのと、たいへん難しいことを聞いていかれるのです。お嬢さんはまた、そういった問いにすらすらと淀みなくお答えになるのでした。どうも田代の家が栄えているのは、お嬢さんのそういった助言が大いに関係しているようなのです。

 あたしはすっかり感心して、お嬢さんにお話に呼ばれたときに「お嬢さんはたいへん賢くて、よくものを御存じなのですね」と言いました。するとお嬢さんはあたしを見て、ちょっとさびしそうな声でお答えになりました。

「それは私の頭がよいのではないのです。私は鏡を見ると、少し先の未来がわかることがあるの」

 すぐには何をおっしゃっているのか飲み込めませんでした。きょとんとしているあたしの前で、お嬢さんは手鏡を取り出して、その縁を両手でさすりながら「梅子の兄さんが足を怪我するから気をつけなさい」とおっしゃいました。ええ、その三日ほど後に、あたしの長兄が荷車にひっかけられて、ほんとうに左の脚を挫いたのです。

 兄さんの怪我の一報が入ったとき、あたしはすぐに月子お嬢さんの言葉を思い出して、背中につめたい水をかけられたような心地がいたしました。月子お嬢さんはその後もときどき、いとこの家に男の赤ん坊が産まれるだの、あたしに縁談があるがよい相手ではないから断った方がいいだのと、あたしに予言を聞かせてくれるようになりました。そしてそれらは悉く当たったのです。

 あたしはお嬢さんのことが少しこわくなりました。お嬢さんは相変わらずやさしく大人しく、お花を活けるのがお上手で、愛らしいお声のかたでした。それでもあの頭巾の下でどんな目をしてあたしを見ておられるんだろう、お持ちの手鏡にどんなものが映っているんだろうと考えると、足元の方からぞわぞわと冷たい何かがのぼってくるような、いやな感じがしたのです。

 お嬢さんはそんなあたしの気持ちを知ってか知らずか、ある時「おじいさまが昔、私のことを月から来たのだとおっしゃった」とおっしゃいました。

「あたしが皆とちがうのは、生まれた場所がちがうからだというの」

 そのときのお嬢さんは大変さびしそうで、いつもよりもっと小さく、心もとないように見えました。あたしは急にお嬢さんのことを怖がったのが申し訳なく、また恥ずかしくなってきていたたまれず、

「お月さまから来たのなら、お嬢さんはうさぎさんなのでしょうか」

 と、ついふざけたことを申しました。

 さいわいにもお嬢さんはそれを気に入ってくださって、それから床の間に焼き物のうさぎを置いたりなさいました。愛らしいいきものにたとえられたのが嬉しかったのかもしれません。そういえば、月のうさぎのことを玉兎というのだと教えてくださったのもお嬢さんでした。

 あとになって思えば思うほど、月子お嬢さんは邪気のない、かわいらしい方でした。ですからどうしてあんなさびしい星のもとにお生まれになったのか、いっそ悔しいような気持ちがいたします。


 月日が経ちまして、あたしがお暇を出されたのは、十九の春のことでした。

 それまであたしは変わらず、月子お嬢さんのお世話をしてまいりました。少しも気味が悪くないと言ったら嘘になりますけども、その一方でこの方はここに引きこもっているよりほかない、気の毒な方なのだと同情してもおりました。

 お嬢さんの予言の力が明るみに出たら、おそらく大変なことになるでしょう。表へ出て行かず、こうして隠れているのは、おとなしいお嬢さんが生きていくためにはもっともよい方法なのだとわかってきたのです。ですからお嬢さんがあたしをお使いになる限りは、こちらで一所懸命仕事をしてお役に立ちたいと思っておりました。

 ところがある日の午後、お使いに出ていたあたしが離れに戻りますと、お嬢さんが半狂乱になってあたしにしがみついてきたのです。そして、

「梅子、鏡が真っ黒になった。私はじきに死ぬでしょう」

 なんて、不吉なことをおっしゃるのです。

 なんでもお嬢さんがいつものように手鏡を覗いてみると、そこには何も映らず、ただまっくろい闇が広がっていたのだというのです。それは自分の死を暗示しているのだといって、お嬢さんは泣き出してしまいました。

 あたしはお嬢さんをなだめながら、そのおそろしい予言に自分自身も震えていました。なにせ、月子お嬢さんの予言は一度だって外れたことがないのです。あたしたちはしばらく抱き合って泣きました。それでも月子お嬢さんは芯のつよいかたで、やがて涙をふきながら頭巾をかぶったお顔をあげて、あたしに暇を出すと言いました。

 あたしは「お嬢さんのところに最後までいさせてください」と頼んだのですが、お嬢さんはそれはいけないと譲りませんでした。「私が死んだときに、梅子に落ち度があったように言われるかもしれないから」というのがその理由でした。あたしが今後暮らしていくのに困ることのないように、いい具合に都合をつけてくださるというのです。

 あたしはさびしいやら悲しいやら、お嬢さんが泣き止んだというのに、ひとりでまだ子供のように泣いておりました。どうしてこんな善い方が若いみそらで死なねばならないのでしょう? あたしがそう言いますと、お嬢さんはあたしの手をとって「きっと死んだらお月さまに還るのよ」とおっしゃって、うっすらと笑うのでした。

 さあそれからはもう大忙し、さっそくあたしに暇を出すというので、お嬢さんの働きの早いこと早いこと。あっという間にあたしの荷物がまとめられまして、そのうえにお古で悪いけどと言いながら、きれいな着物や帯などもいくつか譲ってくださいました。それから例の手鏡もあたしに「形見に」といってくださるので、ここを去るのが名残惜しいことといったらありませんでした。

「梅子からは何か欲しいものがないかしら。どうせとっておいても仕方がないから、何でも言ってちょうだい」

 ふたりきりになった時にお嬢さんがそうおっしゃったので、あたしは「お嬢さんのお顔が見たい」と申し上げました。それはもう本当に失礼かとも思いましたけども、でもお嬢さんのほんとのお顔を一度でいいから拝見しておきたい、それは今でないと叶わないと思ったのです。

 お嬢さんはちょっと戸惑ったようでしたけども、思いがけずすぐにうなずいて、ご自分の手で頭巾をお取りになりました。

 なるほど、お嬢さんがお顔を深く隠しておられた理由はあきらかでした。それは異形の姿でありました。お嬢さんの目はひとつしかなく、それも眉間のところに常人の倍ほどもある目がぱっちりと開いているのです。その赤みがかった大きな大きな瞳にあたしの顔が映っておりました。あたしは不思議と怖ろしいとは思わず、むしろとても美しいものを見たと思いました。

 お嬢さんはすぐにまた頭巾をかぶってしまわれました。それから「さぁ、私が生きているうちに早く」と言って女中頭をお呼びになり、早々にあたしを外に出しておしまいになりました。それが、あたしがお嬢さんのお姿をお見かけした最後になったのです。

 お嬢さんはその次の日に亡くなられました。原因はわからないが急に心臓が止まったのだという話を、あとから聞きました。葬列に加えてもらって歩きながら、あたしはお嬢さんにいただいた手鏡をこっそり胸元に入れておりました。折しもその日の夜は大きな満月が出て、うさぎの形がよく見えたのを覚えております。

 田代の家はそれから急に衰退しまして、今ではあの立派だったお屋敷も残っておりません。きっと月子お嬢さんの命が消えるときが、家運の尽きるときだったのでもありましょう。

 いただいた手鏡はしばらくしてから、どういうわけか鏡面が煤けたように黒くなってしまいました。ですからもうなにも映らないのですが、今でもこうして大事に持っております。

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黒き鏡の玉兎。 尾八原ジュージ @zi-yon

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