明け方の逢瀬
@yotsuba-3987
第1話
目が覚めた。
バサ、と布団を退かし、顔を手で覆う。身体にはびっしりと小さな汗がつき、胸は上下していた。はあ、はあ、と息を吐き、目に溜まっていたらしい涙が頬を伝う。
纏わりつく服を焦れったく思いながら上体を起こす。すぐさまキッチンに向かって水を飲んだ。ゴッゴッと喉を鳴らしながら、コップに入っている水を飲み干した。
(また、あの夢か…)
コップをシンクに置き、目の前の窓を見やる。
窓の外は見事な藍色で、東に向かうにつれて白くなっていた。浮かぶ雲は濃い桃色に染まり、白い肌に点す紅のように、空を彩っている。雲の、陰で灰色に染まる部分が、空の白と美しいコントラストを描き出し、また、桃色の雲と藍の空もどことなく異界のような雰囲気を醸していた。
(綺麗なもんだよな)
踵を返し、玄関に向かう。ガチャン、と些か重い扉を開け、外に出てみると、ひんやりとした空気が肌を包んだ。寝巻が汗でじっとりとしているがために、肌寒さを感じる。もう秋になった空気は澄んでいて、大きく吸い込むと、寝起きの火照った身体を洗い流すように駆け抜けた。しばらく深呼吸を続け、身体がちょうど良いくらいに冷えた時、不意に男の声が聞こえた。
「なつき?」
驚いて声の出どころを見やると、そこには中学時代に付き合っていた恋人がいた。ジャージ姿で額に汗を浮かばせ、荒く息をついている。その姿に肩の力を抜いた。
「虎太郎」
「ああ、やっぱりお前か。高校に入ってから、連絡すら取ってなかったもんな」
彼は安心したような笑みを浮かべ、嬉しそうに声を上げる。
「どうして、ここに?」
首を傾げて見せる。彼は元気な声で答えた。
「いや、新しくランニングのコースを作ろうと思って。色々走ってたら、ここに着いた」
「また無鉄砲な…。帰れなくなったらどうするの?」
「大丈夫だよ、帰巣本能できっと帰れる」
相変わらずの能天気は健在らしく、大きく息を吐いて脱力する。
「こんな朝早くに、よくやるね」
「まあ、もう習慣になってるしな」
「――サッカー、続けてるのね」
「うん。やっぱり、高校には強い奴が多いよ」
虎太郎は一瞬悔しそうな顔をしたが、すぐに笑顔を作った。
「お前はどう?勉強、大丈夫か?」
「…まぁね。ちょっと伸び悩んでいるけど」
屈託のない笑みを向けられ、いくらか後ろめたくなった。自然と目線が下がり、俯いてしまう。
すると、自分は寝巻で出てきていたことに気がついた。汗で濡れていたそれは外に出て風に吹かれたせいか、しっかりと乾いている。だが、人に見せられるような格好でないのは変わらない。
「そういえば、お前、寝起きだったのか?」
虎太郎は悪びれる事なく言い放つ。
「いや、逆にこんな時間帯に起きている人の方が珍しいよ」
「あ、そっか」
彼は苦笑いを見せ、ごめんと頭を下げた。なつきは顔を上げ、口だけで大丈夫と言い、肘を覆うようにして腕を組む。
「でも、なんでなつきは起きてるんだ?目が覚めちゃったのか?」
虎太郎が不思議そうにこちらの瞳を覗く。何となく目線を少し左に逸らし、頬に手を当てた。
「うん。酷い夢を見ちゃって」
「ーーどんな夢?」
彼は控えめだが芯のある声で言った。その瞳はじっと自分を捉えている。
相変わらず、どこまでも真っ直ぐな男だ。
「聞いちゃう?」
「あ、ごめん。嫌だったら、別に」
「ううん。大丈夫。あんたのそういうところが好きだったんだから」
言った後に、少し顔が熱くなる。虎太郎もそれは同じようで、気恥ずかしそうに目を泳がせ、顔をそっぽに向けていた。もにょもにょと唇を動かし、耳が真っ赤になっている。
その様を見ると、少し笑いが込み上げてきた。急いでそれを噛み殺し、至極真面目な顔をして、彼と目を合わせる。
「私ね。高校で、ちょっと成績悪くて。最近、夜中まで起きて勉強してるんだけど、なかなか良くならないんだ。…だからかな、最近、何かに押し潰される夢をよく見るようになって」
大きく息を吐き、腕を組み直す。虎太郎はいつの間にかこちらを向いていた。
「押し潰された後、私は真っ黒になってるんだ。そしたら白い人間が出てきて、たくさんの顔のない人にその人と比べられるんだよ。大体の人が口を揃えて、『白は綺麗、黒は汚い』なんて言ってさ。そりゃ、黒より白のが綺麗だけど」
腕を掴む手に力が篭る。ふと、下を向いていた目の端に、空が映った。
「…そうだね、今の空みたいな感じなんだ。夢の中の私。灰色の雲が私で、白い雲が白い人間ってとこ」
空を見上げると、虎太郎も同じように上を向いた。
先程よりかは幾分も空は明るくなっており、もう夜明けが近い事を知らせていた。雲はいよいよ橙に染まり始め、東に近づくにつれ白くなっている。東の空は淡く黄色に包まれており、藍色は青色へと変化していた。
「ふーん」
虎太郎は空を見上げながら言った。
「じゃ、お前もあんな風に白いわけなんだな」
目を見張って彼を見た。彼は空から目を逸らさず、口を開く。
「…だって、お前もあの雲なら、陽の当たり方次第で、あんなにも綺麗になれるんだろ?今はきっと、少し太陽が当たりにくいところにいるだけなんだ。ちゃんと待ってれば、いつかあんな風に白くなれるんじゃないのか」
薄く口を開け、まじまじと虎太郎を見つめる。彼は苦笑いをしながらこちらを向き、俺らしくないな、と照れ臭そうに頭を掻いた。
「こういう台詞は、お前のがよく似合う」
寂しげな色を瞳に映し、彼は斜め下へと目線を流した。
静かに息を吐き、目を瞑る。すると、いつかの記憶が脳裏に閃いた。ぽうぽうと次々に浮かんでくるそれは、虎太郎の隣に並んで立っていた、愛しい日々の断片だった。
『なぁ、お前が好きなんだ、付き合ってくれ!』
『…私、あなたのことあんまり知らないのだけれど』
『なつき! ちゃんと俺のシュート見てた?』
『うん。流石だね、流れ星みたいに真っ直ぐに入って行った』
『なんでなつきはそう考えるんだ、もっと他にやり方あるだろ!』
『じゃあ虎太郎に聞くよ、どうしてあんたは私を分かろうとしないの?』
『なつき。俺達、別々の高校に行くじゃん。俺はサッカーの道を進むし、お前は勉強の道を進むし。俺はいいんだけど、俺、お前の邪魔になりたくなくて…』
『…邪魔なんかじゃないよ。むしろ、私の方が邪魔になるかもしれない。そんなこと、言わないで』
『…じゃあ、言い方変える。俺は、ちょっと馬鹿だから、サッカーしながら勉強すると、どうしてもお前に対して必要な時間を割けないかもしれないんだ。それで、お前を傷つけたくない』
『…ずるいね。でも、確かに、私も同じようなことになるかもしれない。私の学校も、課題が多いと聞くし。いっぱいいっぱいになって、虎太郎を傷つけちゃったら、私も嫌だし』
『…だから』
『ーーそうだね。お互いが、お互いのために、別れよう』
一瞬の追想から目を覚まし、じっと虎太郎を見据えた。唇を引き結び、純粋な瞳を曇らせ、何か言いたい事を我慢しているかのような顔をしている。その様子に焦れったさを感じながら、それでも、この頑固さが彼の長所でもあるのだと痛感する。
「ねぇ、虎太郎」
胸のつっかえがするりと深いところへ落ち、消えていくのを感じた。虎太郎は表情をそのままに、こちらと顔を合わせる。
「ありがとう、励ましてくれて」
ゆるゆると頬が綻んでいき、きっと彼以外には見せられないようなふやけた顔になる。彼はというと、少し眉を上げた後、にっこりと笑って大きく頷いた。
「力になれたのなら、よかった」
空が一気に白み始め、太陽が金の光を発しながら東の空に顔を出す。その光は遍くこの世を照らし、二人の足元に影を作った。雲は紅に色を変え、やがて灰色も照らされ橙に染まる。白かった空は目映く光り、朱い濃淡を描きながら青へと広がって行った。
「夜が明けたね」
「だな」
何故だか湧いてきた笑いを堪えずに、お互いの顔を見合わせる。幸せそうに笑う虎太郎の顔を見て、ふと、胸がきゅうと締まった。
「虎太郎」
「ん?」
淡い微笑みを浮かべる彼を前に、震える手を握りしめる。
「明日も、こうやって話せないかな。私、頑張って起きるからさ」
虎太郎が目を見開く。
「この時間帯に、ここで待つよ。数分くらいの立ち話でいいの。…どうかな」
ぐ…と拳が静かに音を立てる。虎太郎は目を瞬かせ、こちらを穴が開くほど見つめた。
しばらくそうしていると、不意に彼は両手で顔を覆って、大きく溜息をついた。
「俺、明日から毎日ここ通るよ。そんで、お前と話す。ここなら、課題もサッカーも、お前との時間を邪魔しないし」
顔から手を離し、彼は泣きそうな顔をして笑った。
「俺、実はさ。別れるの、死ぬ程嫌だったんだ。だから、今日なつきに会って、また会えなくなるのかって思って、どうしよって、考えてた。…まさかなつきの方から言ってくれるなんて」
虎太郎は顔を俯かせ、ぎゅっとジャージの裾を掴んでいる。心なしか声が少し震えており、それを誤魔化すかのように額の汗がポトリと落ちる。汗は太陽の光を浴びて、キラリと光った。
「そっか。そんな風に思ってくれてたんだ。ーーありがとう」
嬉しさに顔が緩み、口角は上がり、声は明るくなる。虎太郎は顔を上げてこちらを見、柔らかな笑みをその顔に浮かばせる。
陽はその全身を空に現し、空を明るく照らしてゆく。家々の壁や草や木はその光を反射させキラキラと輝いていた。その様はまるで、光の中から新しく世界が生み出されたようで、二人は時間の許す限り、じっとそれを見つめていた。
明け方の逢瀬 @yotsuba-3987
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