Day by day

高岩 沙由

ジンギスカン

「橘ー! 書類の処理の目途はついたか?」


 僕が机の上に広げた書類を整理していると榊マネージャーから声を掛けられ、腕時計を見て驚く。


「たーちーばーなー」


 再び呼ばれた僕は慌てて書類から顔を上げると、榊マネージャーが呆れた表情でこちらを見ていた。


「あ、あのすみません、こんな時間まで」


 僕はしどろもどろになりながら机の上に広げた書類をまとめ始める。


「こんな時間っても、まだ19時だろ?」


「で、でも定時は18時ですよね?」


 それに今日はノー残業デイだったはず。ノートPCの電源を落としながらフロア全体を見回すと僕と榊マネージャーだけしかいない。


「す、すみません、片付け終わりましたので帰ります」


 ノートPCと書類を袖机の鍵のかかる引き出しにいれ、鍵をかけたのを確認して机の下に置いたかばんの中にある財布に鍵をしまい込む。


「橘、今日この後予定はあるか?」


 榊マネージャーの質問に僕は首を横にふる。


「よし、じゃあ、夜桜見物と行こうぜ」


「夜桜ですか?」


「いやか?」


 榊マネージャーの言葉に僕は慌てて首を横にふる。


「よし、じゃあ、行くぞ」


 榊マネージャーはそう言うと椅子から立ち上がりドアの近くにあるオフィス内の電気スイッチを順々にオフにしていくので僕は慌ててオフィスから出た。


 榊マネージャーが連れてきてくれたのは会社から歩いて10分程のところに目黒川。


 車1台が通れるくらいの細い道なのに片手にビールやソフトドリンクを持った人であふれかえっている。


「こりゃあ、迷子になりそうだな。手を繋ぐか?」


 僕はえっ、と思って榊マネージャーの顔を見上げる。


「え、いや、でも、あの、榊マネージャーはどの人達よりも高いので、僕は見失わないです」


 榊マネージャーは僕よりも頭一つ分高いから、たぶん180センチはあるだろうし、男性なのに美しい顔立ちをしていて、夜でも目立つほど。


 その証拠に道行く女性たちが振り返り、目にハートを浮かべながら榊マネージャーの顔を見ている。


 僕がしどろもどろに返答すると榊マネージャーが目を細めて笑い始める。


「橘は真面目だな」


 からかい交じりの声に僕は顔が熱くなる。


「橘、好き嫌いはなかったな? ラムは食えるか?」


 いつもの声に戻り質問してくる。


「あの、僕、ラムは食べたことなくて……」


「おっ、そうなのか。アレルギーとか?」


「いえ、えっと機会がなくて、食べたことがないんです。一度は食べてみたいと思っているのですが……」


「よし、決定。ジンギスカンの食えるところにいこう」


 榊マネージャーは僕の返事を待たずに人でごった返す目黒川のほとりを歩き出す。

 僕はなんとなく、榊マネージャーのジャケットの裾をぎゅっとつかみながら歩いた。


「ここだ」


 そう言って連れてきてくれたのは、目黒川沿いにある真っ白な外壁が印象的な一軒家のような店。


「いらっしゃいませ!」


 榊マネージャーが店のドアを開けると、黒いTシャツを着た店員たちの元気な声が聞こえてきて、僕は榊マネージャーの背中からそっと店内を見てみる。


 店内は20人ほどの人がアルコール片手に楽しそうに話しながらジンギスカンを食べていて、白い煙と共に肉が焼ける匂いが漂ってきて、お腹がなりそう。


「花見の時期だから、満席かな」


 男性店員が店内を見回しながらこちらに近づいてくる。


「すいません、今満席ではあるのですが、お会計が終わったお客様がいますので5分ほどでご案内できますが、いかがしますか?」


「時間は大丈夫か?」


 榊マネージャーが僕の顔を見ながら確認するので頷くと男性店員に顔を向ける。


「では、待たせてもらってもいいかな?」


「ありがとうございます! では準備ができ次第お呼びしますので、外でお待ち頂けますか? 灰皿は必要ですか?」


「了解。煙草は吸わないから大丈夫だ」


「わかりました。では、少しお待ちください」


 頭を下げると男性店員は店内に戻って行ったので、僕達はドアから入口の邪魔にならないところに立つ。


「夜桜を見ながら待つか」


 ぼんやりと立っていると榊マネージャーが話す。


「雪洞に照らされていい雰囲気ですね」


 目黒川に沿って淡いピンク色の雪洞がつるされ桜を照らしている。


「……ひさしぶりに桜を見ました」


 時折吹く風に桜の花びらが舞い踊る様子を見ながら僕はぼそっとつぶやく。


「橘は新卒で入社して、今年で5年目になるのか?」


「はい、そうですね……5年目になりました」


 桜を見ていた僕は榊マネージャーの言葉に振り返り答える。


 その時、店のドアが開き、先ほどの男性店員が僕たちに笑顔を向ける。


「おまたせしました! 準備ができましたのでご案内します」


「ありがとう」


 榊マネージャーがそう返事をすると僕の肩を押しながら店の中に入る。


「奥の席が空きましたのでどうぞ!」


 女性店員の声が聞こえてきて、僕は榊マネージャーに肩を押されながら店内をすすむ。


 指定された席に座ると、男性店員が素早く水と紙のおしぼり、それと皿とトングと箸、あとからタレを持ってきてテーブルに置いていく。


「何か食えないものあるか?」


「いえ、特には」


「オッケー。それじゃ、何を飲むか決めておけ」


 その言葉に僕は頷くと、アルコールメニューを見る。


「決まったか?」


「あ、はい」


 僕の返事を聞いて店員を呼ぶと注文を始める。


「あと、ジンジャーハイボールの辛口」


「あっ、僕もそれをお願いします」


 注文を聞き終った店員は厨房へと下がる。


 料理が届くのを待つ間、僕は店内を見回す。店内にいる客は僕たちのようなサラリーマンが多く、楽しそうに飲んでいる。


 そこに店員がジョッキに入ったジンジャーハイボールを2つ持ってきてテーブルに置いていく。


 それぞれが手に持つと軽くジョッキを合わせる。


「お疲れ様。やっと一つのプロジェクトが終わったな」


 榊マネージャーが一口飲むとジョッキをテーブルに置く。


「お待たせしました! ジンギスカンです!」


 専門店だからなのか、あっという間にジンギスカン鍋が運ばれてくる。店員が僕と榊マネージャーの前に置く。


「お待たせしました、こちらラムチョップです! 脂身のところから焼いてください!」


 店員が運んできたのをみると黒い皿の上にレモンと共に骨付きの肉がでん、と2本、存在感抜群にのっている。


 僕は初めてのジンギスカン鍋を前にトングを握ったがどうしたらいいのかわからず、目の前にあるラム肉をじっと見つめる。


「……初めてだったな。まずはもやしとかの野菜を鍋の縁に均等に並べる」


 戸惑った僕に榊マネージャーが実演しながら説明してくれるので、言われたとおりに野菜を鍋の縁に沿わせるようにまんべんなく広げる。


「次にラムは……重なっていればちょっとだけ離し、レア目で食べればいい」


 言われた通りにジンギスカン鍋にラム肉を少しだけ広げ焼き過ぎないように気をつけながら焼き始める。


 表面に赤いところがなくなったラムをトングでつまみ皿の上にのせ、そのまま食べる。


 ラムはクセがあると聞いたことがあるけど、今口の中にあるラムはクセもなく、ただ美味しい肉だった。


「次はタレにつけて食べてみろ」


 榊マネージャーの言葉にタレの存在を思い出した僕はジンギスカン鍋の上で食べごろになっているラムをトングでつまむとタレに漬けて食べる。


 微かに甘いタレで、ラムの甘さが引き立つよう。


「食べている間にどんどん食べごろになるから、食べきれない場合は縁の野菜の上にのせておけ」


 僕は頷きながら、トングでラムを野菜の上に避難させておく。


「次、これ焼くか?」


 そう言うと榊マネージャーがラムチョップをのせた皿を目の前に出してくる。


 榊マネージャーが皿から1本トングでつかむとジンギスカン鍋のてっぺんの部分に脂身を下にして焼き始める。


 僕も真似をして黒い皿からラムチョップをトングでつまむとジンギスカン鍋のてっぺんに脂身を下にして焼き始める。


 焼き目がついたところで、側面を焼くためにラムチョップを寝かせる。


 その間に食べごろになったラムを野菜の上から箸でとり、そのまま口に運び、ジンジャーハイボールと一緒に味わう。


「美味しそうに食べるな」


「あっ、すみません。でも、美味しいです。ラムがこんなに柔らかくて美味しいお肉だと思いませんでした」


 僕は思ったことをそのまま話す。こんな美味しい物を食べなかったなんて、ちょっと人生損をしていたのかも、と思いながら、ラム肉を味わう。


「野菜もいい具合だろうから食べてみな」


 その言葉に僕は頷くと、火が通り、柔らかくなっているもやしと玉ねぎを箸で取るとタレの中に少しつけて食べると心なしか、ジューシーな味がする。


「ラムチョップそろそろひっくり返せよ」


 榊マネージャーの言葉で慌ててジンギスカン鍋のてっぺんで焼かれているラムチョップをひっくり返し野菜を食べながら焼き上がりを待つ。


「そろそろ食えると思うぞ」


 その言葉に僕はトングを握るとジンギスカン鍋のてっぺんで焼かれているラムチョップをつまみ皿の上に置くとレモンを絞る。


 僕は箸でラムチョップを持ちあげてそのままかぶりつく。


 噛み切れるか不安だったけど、思いきって噛んでみるとすぐに身が崩れる。脂身が少しクセの強い感じがしたが、そのままジンジャーハイボールを飲む。


「脂身にクセがありますけど柔らかくて、美味しいです」


 僕の言葉に榊マネージャーは満足そうに頷いている。


「次のプロジェクトが無事に終わったら、またここにくるか?」


「はい! また全力で頑張って成功させます」


「よし、それじゃあ、成功を祈って乾杯するか?」


 そう言うとジョッキを持ち上げたので僕も持ち上げるとそのまま小さくぶつける。


 僕はジンジャーハイボールを飲みながら、でも、またすぐに食べたいから、榊マネージャーに隠れてこっそりと食べにこようと決心した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Day by day 高岩 沙由 @umitonya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説