15

 コクゴさんとわたしは団地の屋上に出ました。朝見たときも良い景色でしたが、夜も素晴らしいです。


 夜風がぬるく、わたしたちの肌をなでます。汗をかきそうなほど湿度が高いです。


 高層棟や低層棟、タウンハウス、それに比較的新しいマンションといった大小さまざまな建物の廊下や階段の明かりが夜闇のなかで激しく主張し、送電塔の赤い光がゆっくりと明滅しています。朝見たときは皆眠っていましたが、いまは町にきらめきがあります。たくさんの、いろんな人たちが、そこにいました。


 コクゴさんは数十メートル離れた、この団地とよく似た低層の建物を指差しました。その棟から突き出た階段の踊り場には、白い直方体がひっついていました。


「あれは増設した、外付けのエレベーターらしいです」


「へえ~」


 彼女は感心したようにいいました。


「5階建てでもエレベーターがつくんですねえ。便利なもんだ。このマンションにもつくといいのにね」


「それは……」


 そこでわたしの言葉が濁ります。


 階段で足を滑らせたと、わたしは聞いています。苦しむことはなかったと、そう伝え聞いています。


「うん、そうですね。もっと便利になるといいです」


 わたしは切実にそう思います。


 コクゴさんは、向かいにある屋上の的を指さしました。わたしは詳細は省いて、弓矢用の的だと伝えます。


「この屋上広いんだから、別に向こうに置かなくてもいいのに」


「えっ」


「だって、屋上、長方形じゃないですか。わざわざあっちに置かなくても、こっち側の端っこに的置けば同じぐらいの距離になるんじゃないのかな?」


 まったくもって正論でした。わたしは明日、コクゴさんに教えようと思いました。


 しばらく、夜景を見ます。比較的新しいマンションを、コクゴさんは不思議そうに見ていました。


「塔が見えない」


「塔?」


「ほら、電波塔。東京タワー」


「ああ……」


 コクゴさんは丘の向こうを示しました。そちら側は真っ暗で、ほかの街灯や建物の明かりに隠れてしまいよく見えませんが、目を凝らすと電気の一切ついていない高層ビル群があるのがわかります。


「わたしが生まれてその直後に〈特別危機〉っていうのがあって、それで、東京の都心というか23区のほとんどは、人が住んでないんです。だからああなってるんです」


 コクゴさんは「そうなんだ」とちいさくいいました。


「でも、その、あの、悪いことばっかりじゃなくって、たとえばここも人が増えたっていいますし」


「うん、そうだね」コクゴさんはいいます。「ちょっと前まではね――あ、わたしにとってのちょっと前ね――ここって緑が全然なくって、赤土だらけの土地にこういうのが建ってるだけだったんですよ。だからまあ、ここまで緑が増えて、人もたくさんいるのは、いいことだと思います」


 わたしは、〈特別危機〉の影響で更に土地を造成する必要が出てきて環境保全の観点からそれなりに揉めたという話を、コクゴさんが思っているより順風満帆なわけではない、ということをついいおうとしますが、いったところで別にという感じなのでいいません。


「……でもなんだか、とても暑いですね、夜なのに。緑も増えてるのに」


 わたしは何もいえなくなります。何もいえないのは、わたしは何も知らないからです。そして、わずかに知っていることをどうやって彼女にわかってもらえるように伝えればいいのか、それすらもわからないからです。


 いま目のまえにいる彼女がかつて感じて、愛していたものがそのままつづいていったこともあれば、その反面、少なくないものが失われてしまったこともたしかで、コクゴさんは長い時をかけて、そういったものごとをゆっくりと受け入れていったはずです。もしかしたら受け入れがたいこともあったかもしれませんし、それこそカザミおばさんが亡くなってしまったこともこの先ずっとずっと受け入れられないんじゃないかと思います。


 そんな人に向かってわたしは上手く言葉をかけられなくって、でも何もいわないことはできなくって、身が張り裂けそうなほどにもどかしいです。


 手の甲からほとんど消えかけている、赤いスタンプをわたしは見ます。


 未来はあなたが思っているより明るくはないといいきってしまうのは簡単で、かといってきっと明るいよなんていうのも浅薄な気がしてなりません。


 この団地に、ニュータウンに、50年近く住んできた人に、そしてこれからも住んでいく人に、わたしはなにをいえばいいのでしょう。いま目のまえにいる、未来を信じているかつての彼女に。


 たとえばコクゴさんと会えたこととか、一緒に朝に散歩しておそばを食べたこととか、お母さんや大おばさんの昔のことを知れたりとか……そういったことはわたしにとっていい出来事ですが、でもそのきっかけは大おばさんが亡くなって、気まぐれでわたしがついてきたからで、そういったことを、いまのコクゴさんに伝えられるわけがありません。わたしが伝える情報がいったいどういった作用を及ぼしてしまうのか、いっさいわかりませんし……。


 良くないこともあれば悪いこともあるという、そういったことはわかってはいますけど人生の半分も生きてないわたしにはまだ受け入れがたい事実でしかありません。


 映画やアニメの主人公みたいに気の利いたことを矢の的射るようにすこんといえればいいのに。


 わたしはなんだかあれこれ考えすぎてわけがわからなくなってきて泣きそうになっています。


 そっと、指先が目尻にふれました。


 中腰になったコクゴさんが、わたしの目に浮かんだ涙をその指ですくいとり、珍しいものを見るように町々の明かりにかざします。


 彼女はいま、何を見ているのでしょうか。わたしはいま、濡れた瞳でぼやけた彼女を見ています。不確かで溶けそうなそのシルエットを目に焼き付けます。


「ツルハさんが来てくれなかったら、わたしきっと、あの真っ暗な部屋で、一晩じゅう震えて、ずっと泣いてたと思う」


 彼女は優しく、わたしを安心させるようにいいました。わたしが彼女を安心させたいのに、とわたしは不甲斐ない気持ちになります。


「だからね、ありがとう。来てくれて。会えてよかったです」


 彼女が笑ったのがわかりました。わたしはハンカチを取り出して涙を拭き取り、笑顔で答えました。


「わたしも、コクゴさんと会えて、よかったです」

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