14

 わたしはエルフの女性を団地の階段に座らせました。狭いスペースにふたりで座ります。この階の踊り場だけ電球が切れていて、暗いです。ひんやりとした彼女の肌がわたしの二の腕にふれます。彼女はいまにもすがりついてきそうでしたが、どこかでそれを我慢しているふうでした。初対面の人にそれをやることはできないと、そういう理性がはたらいているのだと思いました。


 わたしはハンカチを取り出して彼女に渡しました。自分のマメな性格に感謝します。彼女は目元を拭いてから、ブィームと激しく鼻をかみました。アニメのギャグシーンっぽいなとつかの間ほっこりします。


 しばらくふたりのあいだを沈黙が漂います。彼女はすうぅぶふふふぅ、と震えながら息を深く吸い、ふぅううすすすふぅぅぅとゆっくり吐きました。


 わたしは彼女の背中をさすってあげます。黒シャツの下にある浮いた背骨が手のひらにあたります。


「ソーントーンデイル……ソーントーンデイルっていう、いいます……」


 落ち着いてきたようで、彼女は口を開きました。


「こっちの子たちの教科書、好きだから読んでたら、勉強してたら、コクゴチャンって、みんな呼ぶようになって……」


「うん」


「だからコクゴって、名乗ってます……」


「コクゴ・ソーントーンデイルさん」


 わたしは彼女の名前をいいました。変わった名前だと思っていたけれど、そういうことだったようです。となると、本当の名前はべつにあるってことなのでしょうか。


 その予想は的中して、彼女は、


「いっちゃいけないんです、ほんとうの名前……親しくない人には。その、なっ名前は、“その中身”だから」


 と付け足しました。


 わたしは改めて、いえ、いま目のまえの彼女に対して初めて名乗ります。


木津弦羽キヅ ツルハです」


「キヅ、ツルハ」彼女は繰り返します。


 わたしは自分の名前を構成する漢字を説明しました。彼女はちいさく笑って、いい名前ねといいます。特に“弦”が入っているのがいいそうです。神聖な字ねと彼女は付け足します。


「いまって、何年? 西暦」


「正直にいったほうがいいんですか?」


「うん。こういうこと、たまにあるから……おぼえてなくても、聞いておきたい……」


 わたしはおそるおそる、西暦で答えました。


「あの、あれ、元号ってやつは?」


 元号も答えます。数年前に変わったことも伝えました。


 彼女は暗い天井を見上げ、目を閉じ、しっかりと自分を定着させるように呼吸をしました。


「うん、もう大丈夫です」


 ゆっくりと立ち上がろうとするので、わたしはシャツの袖をつまみました。


「え、え、そんなことなくないですか? ぜんぜん大丈夫じゃないでしょっ」


 彼女はかなしそうな目でわたしを見ます。ゆっくりと腰を下ろしました。


「でも、このまま起きててもどうしようもないから。一旦寝ないと……」


「それは……」たしかにわたしにはどうしようもないと思います。「そうかもですが……」


 つまり、どういうことなのでしょうか。


 コクゴさんがいっていた記憶の妖精のことを思い出します。記憶の妖精はエルフのような長命種族と密接な関係を結んでいて、忘れそうなことを代わりにおぼえていてくれたり、先のことを教えることもあるそうです。


 また、シュワイヤさんが話の流れでいっていたことも思い出します。


「妖精が考えてくれてるって、聞きましたけど、そういうことなんですか……?」


「わたしから聞きました?」


「いえ、べつの人で……」


 いま、わたしの目の前にいる彼女は、コクゴさんは、記憶の妖精によって過去の記憶や意識を間違えて再生させられているのでしょうか。それともただ単純に、彼女の脳がそうさせている……つまり、そういう“症状”なのでしょうか。たとえば、長命種族だから、外見は若々しいけれど、脳はそうもいかないとか……?


 どっちの可能性もあるし、どっちでもないし、両方が同時に起きている可能性もある。そう、目の前のコクゴさんはいいました。彼女は自分の現状を冷静に把握し、分析しつつあります。そうすることで混乱のコントロールを必死に試みているようでした。


 コクゴさんは立ち上がると数段降りて、踊り場から外の世界を見渡しました。


「ふふ、時間移動した気分」


 いまのコクゴさんはいつのコクゴさんなのでしょうか。お母さんの名前は出てきませんでしたが、真っ先に大おばさんとその夫さんの名前が出てきました。そうなると、40年前から50年前のコクゴさん、ということになるのでしょうか。


「団地、ずっと残ってるんだなあ……」


 彼女はしみじみといいます。


 わたしは中座して、大おばさんの家に戻りました。ちょっとコクゴさんとプチ女子会をしますとお母さんたちに伝えました。コクゴさんのぶんのシュークリームは、という声には、夜は太るから食べないそうですと適当に誤魔化しました。


 両親にはコクゴさんのこの状態をちゃんというべきでしょう。そのことはわかっています。両親のほうが適切に対処できるかもしれないですし、またはそうでないかもしれません。ひとことでいえば、わたしはわたしで思いがけない状況にちいさくパニックになっていました。


 わたしは彼女のもとに戻ります。夜景を見つめるその背中はひどく小さかったです。


「もっと見たいですか?」


 わたしは気がついたら人差し指を立て、真上をさしていっていました。

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