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 翌朝、すこん、すこん、という軽快な音が微かに聞こえてきて、わたしは目を覚まします。


 知ってるけれど知らない天井を見て、畳敷きの居間に敷いた布団から這い出ます。お母さんは横でまだ寝ています。こうして横並びで誰かと寝ていると、旅行っぽいなと思います。


 昨日は夕方ごろから三駅隣にある駅に行き、その町にある大きなアウトレットモールでお買い物をしたりご飯を食べたりしました。とても大きくおしゃれな町でした。一応、ここと同じニュータウンだそうです。ニュータウンって本当に大きいんだなと思います。


 レースのカーテンの隙間から外を眺めます。空が白くなってきたばかりで、えだな、と思います。


 時刻は午前五時。こんなに早いのに、Tシャツを着たおじいさんがとぼとぼと団地内の歩道をウォーキングしていたり、スポーツウェアを着た色黒のおじさんがジョギングにはげんでいます。


 自分の知らない時間帯に自分の知らない人たちがちょっと楽しげなことをしている。初めて知る事実がわたしの気分を高揚させます。


 外に出よう。そう思ったところでまた、すこん、という微かな音が聞こえました。


 しばらく観察していると、棟と棟のあいだの上空を何かが飛んでいきました。


 がんばって目を凝らします。


 矢です。


 すこん。


 わたしは、あ、と小さく声を漏らして音を立てずに小走りで居間を抜けてスニーカーの踵を踏んづけてパジャマのまま外に出ました。そのまま階段を忍者のように駆け上がります。


 団地の最上階の階段の踊り場はほとんど物置のようになっていました。近くの部屋に住んでる人が置いたのでしょう、植木鉢がいくつかあり、錆びた物干し竿が何本も立てかけてあります。


 屋上に通じる蓋が開いていました。脚立が置いてあり、メンテナンス用の梯子に手が届くようになっています。ひんやりとした鉄棒に手をかけます。むっとした埃と鉄のにおいを感じながらわたしは登っていきます。


 ひょこっと穴から顔を出します。


 広いコンクリートの大地を素足で踏みしめ、群青色の下にうつくしい人が立っていました。


 ぴんと伸びた背筋と、弓を構えるその腕のラインは、素人のわたしが見ても老練さがわかります。お見事という言葉はこういったものを指すべくあるのだなと、わたしは衝撃を受けました。


 長いまつ毛をそなえた眼は、世界すべてを射抜くようでした。ぶっとい眉毛はお相撲さんの踏み込みのようにどっしりしています。


 引き絞った矢が解き放たれます。風を切るそれは、向かい側にある低層棟の屋上まで飛んでいき、設置された的にすこんと命中しました。ぱたりと的が倒れ、またぱたりと起き上がります。矢はどれも中央やその付近に刺さっています。


「すごい」


 コクゴさんの耳がぴくりと動き、おやとこちらを向きました。


「あ、おはようございます」コクゴさんはきれいに一礼します。


「おはざいます」わたしは会釈します。


 コクゴさんはサンダルを履くとコンクリートの上を歩いてきて、あがろうと踏ん張るわたしを引き上げます。コクゴさんは相変わらずよれよれで大きいTシャツ(むかしのユニクロのコラボのやつです)を着ていますが、引き上げる際にちらと見えた二の腕は気高く引き締まっていました。彼女の意外な力強さに胸が早鐘を打ちます。


「朝……朝これ毎朝やってるんですか? 弓」


「起きちゃいましたかもしかして。音で」


「あ、まあはい」


「やっぱり音多少は響いちゃうか……近くの人たちはみんなだいたい早起き且つご厚意をアレしてくれるし、なんか慣れちゃってますけど」


「はあ……え、で、毎朝やってるんですか?」


「夏はですね。暑いじゃないですか、お昼」


 コクゴさんはさっきまで立っていた場所まで歩いていきます。わたしはあとをついていきます。


 的を指さして「あれ矢って回収するんですよね」と訊きます。


「しますよ〜」コクゴさんはシャツの裾で顔を拭きました。かっこよく割れた腹筋があらわれました。眩しいです。「あっちまで行って屋上登ってって感……あ、」


 そうコクゴさんはいうと、突然ばびゅんと向かいの棟まで跳んで行って、矢をぶちぶちと引き抜いてまたばびゅんと戻ってきました。


「実はこういうこともできます」


 ドヤ顔のコクゴさん。わたしは「わあっ!」とワンテンポ遅れて驚きました。


「どうやったんですかっ」


「ふっふっふ。われわれエルフの骨は霊長類のなかでも中身はスカスカで軽く、しかし群を抜いて頑丈で、筋肉さえ鍛えればこのぐらい軽く跳べるんですよ。森林生活が長いがゆえの進化ですね」


「え、何急に、こわ……」


「あ、実はほとんど嘘で風の妖精さんのおかげです」


「え、すご……」


 コクゴさんはまたドヤりました。


「こういう感じで定期的に使わないと鈍っちゃうので、使うようにしない、とっ――!」


 そういってノールックで素早く弓を構えて的を射ました。うん、今日は調子がいいと顔をほころばせています。


「やってみます?」


 わたしは頷き、弓を受け取ります。ファンタジー作品に出てきそうな小ぶりな見た目ながらも、ずしりと重いです。コクゴさんの二の腕とくらべると、わたしはなんてつるつるな細腕なんだろうと思います。

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