第7話

 鉄海林の木樹は鋼のそれである。しかし、数多の脅威を持つ神樹生物が住まうそこに態々赴き、その木に触れた者なら分かるだろう。

 硬く、金属光沢すら醸し出す藤色の木。その木は不思議とほんのりとした暖かさを持つのだ。鋼のような性質を持ちながら、同時に暖かさを放つその不可思議さには思わず首を傾げたくなるが、そもそもとして雨の降らないこの場所に葉を張り、尚且つ高々と一端に成長していること自体が不可思議である。一々目ざとく訝しんでいてはバベルキを探索するたびに頭の中を疑問符で埋め尽くすことになってしまう。

 なのでヴァンは鉄海林の木に背中を預けるとき、ひたすらに神秘の温もりだけを感じることにしているのだ。


「…ふぅ」


 ヴァンはポーチから人差し指ほどの大きさをした茶色の栄養食を取り出して口へと運んだ。食んだ瞬間に口内の水分が一瞬で消え失せて、ヴァンは舌と顎がへばりつくような乾きの不快感に眉を顰めながらも強引にそれを歯で嚙み砕く。

 ガギリ、ゴギリ、とまるで石でも砕いているような音がヴァンの頬を越えて辺りへ響いた。


(もう少し柔らかくなんないのかな、これ)


 少しでもふやかそうと、水筒の蓋を外して中の水を呷る。しかし、口に入れた途端にすべて吸水され焼け石に水。まるで蒸発でもしたかのように消えて無くなり、それでも栄養食の堅硬さに変わりはなかった。

 ヴァンはため息を一つ吐いて柔らかくすることを諦め、徐に口を動かし始めた。再び、到底、口から聞こえたとは思えない音が辺りへ漏れる。

 なお、この栄養食、協会が推奨する食し方としては剣の柄などで砕き、最低でも飲み込める程まで小さくさせてから口に入れるのであり、そして凡その冒険者はちゃんとその通りに食す。間違っても歯で噛み砕くものではない。

 勤勉なヴァンが、何故このような間違いを起こしたのか。それは、またしても彼女が原因である。


「ふむ、ライム味もいけるな」


 ゴギ、ガガガ、ガギリ。まるで削岩をしているようなその音は、ヴァンの真正面から絶えず響いていた。発生元を見れば、ヴァンと同じく木に背中を預けて座り込んでいたゾフィーが、口一杯に栄養食を頬張り、お世辞にも濃いと言えない仄かな味付けに舌鼓を打っていた。

 岩へ振ったら岩の方が砕けた。間違えて煉瓦を持っていっても、いざ口に入れるその瞬間まで気付かなかった。武器が壊れたら栄養食を握れ。

 嘘か真か、その堅硬さを固持するような様々な雑説が付き纏いやまないその栄養食をゾフィーは難なく食い千切り、容易く嚙み砕く。

 大抵の冒険者が思わず目を見開いて、口ものどびこをおっぴろげにするほどに唖然と脱力するに違いないその光景を見て、ヴァンはしみじみと思うのだ。


(……流石はゾフィーだ。カッコいい)


 負けてられない、と手元の栄養食に齧り付く。

 ヴァンとゾフィーはこれまで誰も加えることなく、たった二人で探索を行ってきた。二人で秘宝を見つけ、同じく二人で神樹生物を倒し、そして、二人だけで食事を摂る。つまるところ、二人はバベルギ内で行われる、他グループの食事風景を知らない。

 そんななかで、あまりにも容易くゾフィーが栄養食を噛み砕いてみせたものだから、ヴァンは勘違いをしてしまったのだ。これはそういう歯で砕くものなのだと。

 ヴァンのゾフィーに対する厚い信頼と、ゾフィーの尋常を外れた肉体が引き起こした勘違い。それを一年も近く引き摺っていては、否が応でも顎が鍛えられてしまう。

 ヴァンは大きく口を開いたかと思えば、哀れな産物を遺憾なく発揮させて勢いよく栄養食を一つ噛み。それによって砕ける栄養食。その内の小さな破片が宙を切り、地面へと突き刺さった。


(顎も鍛えなくちゃな……!)


 なお、彼の勘違いを正そうする人はこの一年、一人として居なかった。それはヴァンに人望が無いとか、友人が居ないわけでもない。彼の交友関係はことのほか幅広く、友人もまたそこそこいる。

 ただそんな友人達が、殆ど岩みたいな栄養食を歯で砕こうとする馬鹿が傍にいることに気が付かなかっただけである。


 閑話休題。


 疎に雑談も交えつつ、栄養食を食べ終え休憩も充分にとった二人は体を温めるため軽くストレッチを行った後、再び鋼の森の中を歩み始めた。

 動くに支障が無い程度に膨れた腹を摩り、気持ちの良い満腹感を噛み締めるヴァン。僅かな眠気もまた彼の心を優しく撫でて、欠伸が一つ彼の口から溢れる。

 極めてリラックスした、いっそ散漫とも呼ぶべき状態。しかし、そんな体とは裏腹にヴァンの片手は常に双剣の柄へ添えられ、その耳は一切の異音を聞き流さないよう十全の集中をもって研ぎ澄まされている。

 バベルギ内に真なる安息などない。六階層を超えた辺りで冒険者はその事を悟り、そして気付けなかった冒険者は死んでいく。

 住まう悉くの生物が皆人間必殺を掲げ、虎視眈々と、その首根を引き千切ろうと睨みを効かすバベルギ。緊張の糸を張り巡らせ、僅かな弛みも許されない魔境であることをヴァンはこれまでの探索を通してイヤというほど

 そんな彼に油断などなく、勿論、ゾフィーにもありはしない。

 故に突如として目の前に、四足の藤色の、口が縦に二列に裂けた怪物が踊り出てきたその時でも、彼ら二人の意識は特に驚愕を挟むこともなくすぐさま戦闘へと移行した。

 ぬるり、と藤色の木陰から這い出てくるように現れたのは細長い体躯を持った一匹の獣。何より目を惹くのは縦に二列並んだ口と縁を模るように生えた牙、ではなくその頭部を支える、四肢を越すほどに伸びた長い首である。


「振り下ろし」

「うん」


 一瞬の言葉の遣り取りを挟み、抜剣した二人は長首の獣を挟むように別れて駆ける。しかし先制の行動は首長の獣であった。獣はその長い首を唸りくならせ、鞭のように駆ける二人へ頭部を横に振る。

 獣の名は『ホゾマガリ』。その細く長い首は見た目の脆さとは裏腹に強靭であり、硬くしなやかに、そして自在に折り曲がりあたかも鞭のよう。

 またそんな首もさることながら、頭蓋骨も非常に頑丈であり、まるで鎖の先に鉄球が付いたモーニングスターという武器のように頭部を振り回して、また、二連の牙を用いてホゾマガリは鋼の木すら抉り、そして薙ぎ倒すのだ。

 

「気をつけてゾフィー!」

「誰に言っているんだ」


 蒼髪を煌めかせ、整った相貌を不敵に吊り上げたゾフィーはトン、と野ウサギのように地を軽く蹴って跳び上がり、飛び込むように首の鞭を紙一重に躱す。ゾフィーの眼前を藤色が過ぎ去り、巻き込まれた前髪が少し擦れ焼き切れて落下していった。


「だよ、ねッ」


 ヴァンは膝を曲げて向う脛むこうずねで地を滑る。腹も反って上を向くように顔を上げれば、額から顎の方へと、鼻が削れるのではないかという距離を豪速の藤色が流れていき、ヴァンは肝が冷えるような思いをしながらも跳ねるように立ち上がった。

 

「いくぞ」


 ゾフィーの声を皮切りに武器を構えた二人は疾走。狙うのは当然正面ではなく比較的筋肉の層が薄いホゾマガリの横っ腹。

 ヴァンとゾフィーが織りなす左右からの同時攻撃に対して、ホゾマガリは振った勢いをそのままで首と頭を天高く掲げるように岩の天蓋へと伸ばす。それはホゾマガリの代名詞とも呼ぶべき攻撃の、一つの予兆であった。

 ミシリ、コキリ。首の骨と筋肉、そして毛皮が張り詰め軋む音がヴァンの耳へと聞こえてくる。ホゾマガリは上を向いたまま、二つの口を大きく開いた。藤色の中から突如として生々しくてらてらと赤い肉と牙が垣間見えたその様は、腐った柘榴が割れたようであった。

 疾走するヴァンにホゾマガリは目を向ける。その瞬間、ホゾマガリは音を置き去りにして首を振った。鋼の葉を砕き裂いて、藤色の枝を割って喰らって、そして空気を削りながらホゾマガリの頭部がヴァンへと迫る。

 自分へと迫る、生きた破壊の槌をヴァンは瞬き一つせず見つめながらも、その足を止めることはしなかった。怖気づいてしまったわけではない。ただ避けるために観察しているだけだ。

 攻撃の修正が効かないギリギリの瀬戸際に避けるため、その瞬間を見極めているのだ。

 ヴァンの眼前へと迫るホゾマガリの頭に、服越しに僅かに膨張する彼の両足。あわや髪に触れるその時に、ヴァンは振り下ろされる槌よりも早く地を蹴った。

 ドン。と爆発めいた音が鉄海林へと響き渡り、辺りの空気を大きく震わせた。それはホゾマガリの頭が、地面を強く叩きつけた為に起きた轟音であった。

 ヴァンは俊足を出した影響による、僅かに地面にメリ込んだ足を引き抜くと両手の双剣で、あたかも首を差し出しているかのような、無様で憐れみすら抱いてしまいそうになる体勢であるホゾマガリの首を斬りつけた。

 それとほぼ同時。疾走していたゾフィーはそのままホゾマガリの胴を貫いて心臓に傷を付け、致命を負わせていた。

 灰と化してくテツモウギ。散る灰燼がまるで霧のように舞い上がり、藤色の森へと還っていく。


「もう少し余裕をもって避けろ」

「あれくらい妥当じゃない?」

「見ていてハラハラしたんだ」

「………それは、ごめん」


 ゾフィーが剣を腰に収めながらヴァンへ苦言を申せば、彼も最初は軽い調子で言葉を返したが、しかし彼女の整った相貌が沈んでいるのが灰の霧の向こうに見えてしまったため、申し訳なさからぽりぽりと指で頬を掻いて彼女へ静かに謝った。

 まったく、と言いたげな様子で腰に手を当てながらゾフィーは、降り積もった灰の山を退かすように慎重に蹴る。

 その時、コツン、とゾフィーの皮で出来たブーツに硬い何かがぶつかった。

 

「ん?」


 期待と僅かな訝しさを器用に混ぜた声をゾフィーは漏らして、躊躇なく手を灰の山へと突っ込んだ。もぞもぞとせわしなく五指を動かして弄るように灰を探れば、砂じみた感触の灰とは違う、明らかに異質な感触が小指に伝わった。それは冷たくもなく、しかし暖かくもない。彼女があまり触れたことのない、馴染みのない感触だった。

 ゾフィーは手探りでそれを掴むと、積もった灰が舞わないよう、水が満タンに入ったコップを持ち上げるような慎重さで、静かに灰の山から引きずり出した。

 這い出てきたのは、黒く特徴的な凸を持った細長い円形が、白く丸い小さな何かで幾つも連なった長い何かだった。存外に軽いそれをゾフィーがどれほど長いか探ろうと、片手に持ったまま四、五歩下がるが、それでも先端は灰の山に埋もれており全長は知れない。


「大当たりだね」

「物好きにはそれなりに売れるだろう」

 

 ゾフィーの元に歩み寄ってきたヴァンが笑みを浮かべて言えば、彼女も仄かに口の端を上げて言葉を返した。

 一見、歪なロープにも見えなくもない長さを持ったそれの正体は、ホゾマガリの頸椎である。硬くしなやかにを体現し、岩すら砕く破壊力を生み出す根幹を成す首の骨である。

 ヴァンは腰のポーチから折り畳みの背嚢を取り出して、ばさりばさりとはためかせて広げた。その際、使われている皮の匂いが放つ独特な香りもまた広がってヴァンの鼻奥を突いた。

 小虫に鼻の中で歩き回られているようなむずむずとした痒さを堪えてくしゃみを押し殺したヴァンは、背嚢を片手に持って灰の山に手を入れた。


「よっと」


 軽い調子で優しく頸椎を引き抜き、ゾフィーが持った箇所と橋渡しのように突っ張った。真っ直ぐに張り、ブン、と弦楽器のように揺れて音を奏でた頸椎は、ヴァンが三人ほど並べても足りないほどに長い。それでも未だ灰の山に隠れている部分もあるというのだから、全くもって驚愕的だと、ヴァンは内心で驚いた。

 ヴァンは端っこを手繰り寄せ、少しづつ畳みながら背嚢へと入れ始めた。一方、ゾフィーは頸椎を地面に置いてレイピアの柄に手を添えながら、眼を鋭くさせ辺りの警戒を始める。


「かなり長いよ、これ」

「ああ、見たことがない」


 幾ら引っ張っても先端が見えない頸椎に思わずヴァンが興奮を滲ませ言った。日頃冷静沈着であるゾフィーもまた、初見のそれには思わず声も仄かに上擦り、隠しきれない興奮があった。

 神樹生物が斃れるとその躰は肉片一つ残らず、全てが灰へと消えていく。それは冒険者であれば誰もが知る常識であり、道理でもある。

 しかし、なかにはごく稀に倒されても灰とならずに、体の一部がそっくりそのまま残ることがある。

 例にあげるとホゾマガリであれば脊椎。テツモウギであれば硬い毛皮。例えば、極めて軟体な体を持ち、一切の打撃を受け付けない神樹五層に生息する『マグルダ』と云う生物であれば、粘性の強い水のような筋肉が残る。

 つまるところ、大抵がその生物が持ちうる最大の特性を秘めた部位が落ちるのだ。


「幾らになるかな」

「協会の腕にも依るが、百万はくだらないだろう」

「だよね!今夜はちょっと奮発しちゃおうよ!」

「まったく。所詮これはあぶく銭だ。浮かれていると足元を救わるぞ」


 笑みが止まらない、といった様子で背嚢へ脊椎を入れ続けるヴァンへ、やれやれと窘めるように言ったゾフィーであったが、ただまぁ、と言葉を続けて、


「――今日くらいは羽目を外すか」


 と言い、笑み浮かべた。

 ヴァンもまたそんな彼女の笑みを見て、更に喜色を滲ませて笑みを深めた。

 ちょうどそのタイミングでヴァンは背嚢へ頸椎を仕舞い終える。パンパンに膨れて所々に突っ張り、元の見る影も無くなってしまったそれを四苦八苦しながら背負うと、服に着いた灰を手で払って、最後にパンパンと手を叩いて汚れを払った。


「そうだ、協会の近くに量も多くて美味しい食堂があったんだよ。今夜はそこでご飯食べない?」

「確かに外食も良いが、私は今日は二人で落ち着いて食べたい」

「そっか。なら帰りに沢山食材を買って帰ろう!」

「有難う。丁度、葡萄酒も切らしていたし、この際値が張るブランドを買ってみるか」

「良いね!じゃあ、探す?水面の花」

「そうだな。買い出しに行くとなれば早めに帰ってもいいだろう」


 よし、と予定を決めたヴァンは頬を強く叩いて浮ついた気持ちを叩き落とすように沈めると、辺りを隙なく睨みつけていたゾフィーの肩を優しく叩いて、並んで鉄海林を歩き出した。

 



 それから二人が鉄海林を歩いて、半刻も経たない時だった。

 鋼の葉を踏まないよう細心の注意を払いながら歩くのに加減辟易していたとき、ヴァンは藤色の木々の奥に隠れ潜むように白い花が咲いているのを見たのだ。


「あったよ、ゾフィー!」

「……ん?どれだ」

「あそこだよあそこ!」


 水面の花を指差し、ゾフィーへ呼びかけるヴァン。しかしゾフィーはそれでも見つけられなかったらしく、僅かに首を捻りつつヴァンへと問いかけた。


「無いぞ。私を揶揄っているのか」

「え?あるよ」


 ヴァンの目には確かに真白の花が見えている。鉄海林に真白の花が生息していない以上、紛れもなくそれは水面の花であるのだが、ゾフィーはそれを見つけられないらしい。

 珍しいこともあるんだなぁ、とヴァンは思いつつも、歩いて行けばすぐに分かるだろう、と考えてゾフィーを伴って藤色の木々の合間を縫うように水面の花を目指して歩き出した。

 次第に近づく水面の花。その距離は十メートルほどまでに縮まり、あと少しで境界に入るであろう距離だった。

 ここまで来たらもう見えているだろうとヴァンはゾフィーへと振り返って、したり顔で言った。


「ほら、あったでしょ?」

「………いや、見えない」


 そう答えたゾフィーの顔は苦虫を噛み潰したような顔であり、喉奥から出てくる重い何かを引き摺ったような、掠れた声だった。

 ゾフィーにはあの花が見えていない。その事実に気づいたヴァンは硬く顔を強張らせる。

 二人は自然と歩みをやめて、硬度を増した空気の中に緊張を走らせながら目線を通わせた。


「……前例は」

「………聞いたことがない」


 ゾフィーが言葉を吐く手間すら惜しいと簡潔に問えば、それに合わせるようにヴァンもまた短く答えた。

 ゴクリ。と唾を飲んだのは果たしてどちらだったろうか。ヴァンか、ゾフィーか。それは当人達ですら分からなかった。

 冷たい指が背筋をゆっくりとなぞってくるような悪寒が体を這いずり回る。


「引くぞ」

「うん」


 即決。

 冒険者を張っていく者として培われた判断能力は、こと未知に対して大きく働く。故に二人は言葉を交わす前から静かに音を立てず、ゆっくりと後退を始めていた。

 目線は水面の花を中心とした辺り一体に忙しなくチラつかせ、耳もどんな異音も聞き逃さないようこれまでよりも遥かに感度を高め、冒険者としての五感を全力で働かせていた。













 しかし、遅すぎた。













 それは巨大な炎であった。

 汚物を煮込んだようにどす黒く、闇が盛るように光を喰らい空を削り、隆く燃え上がる巨大な炎であった。

 水面の花を真芯に巨大な円を描いたそれは、軌跡を以ってヴァンとゾフィーを容易く飲み込み、そして鼓動するかのように瞬く間に収縮を始めた。

 

「なッ!?」


 驚愕、そして苛立ち。唖然としたのはほんのひと時であり、背後に出現したそれを見たヴァンは眉間にしわを寄せて、威嚇するように歯を剥き出しにさせ苦悩に喘いだ。

 それが、彼に出来た精々の行動であった。

 おどろおどろしい黒い炎は、風に吹かれるよりも早く迫り、あっという間に二人の体を包み込んだ。ふわりと体が浮いて、たたらを踏むように体を持っていかれる。


「ゾ、フィーッ!」


 皮膚が焦げ、眼球が瞬く間に乾いたその感触は紛れもなく本物であった。

 ヴァンの視界は不定でゆらめく黒に覆われて、開けているだけでも眼球に激痛が走る。口を僅かでも開けばこじ開けるように熱が入ってきて、口内の水分を、唾液すらも奪って歯茎と頬が張り付かせる。

 しかし彼はそれでも彼女の姿を探して、灼熱を飲み込みながらも彼女の名前を叫んだ。


「ヴァン……ッ!」


 確かに聞こえたゾフィーの声。ヴァンは硬直を始めた筋肉を引きちぎるように強引に動かして、その声の元へ手を伸ばす。

 ゾフィーもまた焼かれる体を無視してヴァンの方へと手を伸ばしていた。

 溢れる涙は瞬く間に焼かれ消え失せ、身体中を襲う痛みは一つ一つが針のように尖り神経を鋭く穿つ。しかし互いの指先は盛る黒炎をゆっくりと裂いて、確実に近づいていった。

 もう少し。もう少しだ。垣間見えた鮮やかな蒼髪は黒い炎の中でも鮮明に輝いていて、ヴァンが見間違う筈もなく、彼は互いの距離が近いことを悟って更なる前身をする。

 互いが伸ばした指先の距離はやがて足よりも縮み、腕よりも縮み、手よりも短くなり、指よりも近くなっていった。


 そして、爪よりも短くなり、二人の指先が表皮よりも薄く接したその時、揺らめいていた黒い炎が一際強く揺れて、二人の姿を掻き消すように消し去った。


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