第5話 ケストス


「そういえば、昨日はありがとうございました」

「気にすることはないよ。あれくらいお安い御用さ」


 フォークでケーキを少し切り取って食めば口内に広がるミルクの優しい甘味。数度の咀嚼を経て飲み込み、茹でた卵のような光沢を放つ美しい磁器のティーカップに入った薄い赤色の紅茶を啄むように口に啜れば、深い花の香りが口を飽和していた甘味を引き締め、途端にやってきた爽快感にも似たそれにヴァンはホッと一息吐いた。

 昨日のことを振り返れば、ゾフィーの笑顔ばかりが頭を過った。


「ゾフィーも気に入ってくれたみたいで、僕も嬉しかったです」

「私としても安心したよ」


 紹介した身としてはとても気掛かりだったんだ、と続けたケストスはソーサーを胸元まで運び、口付けをするように優しくティーカップに口を付けて茶を飲んだ。

 協会からの帰路。夕日に染まった往路を一人歩いていたヴァンは、静かに思い悩んでいた。

 それは心にしこりのように張り付いた、ゾフィーの寂しげな相貌。二度とあのような弱音は吐かないと決めた。だが彼女にあのような顔をさせてしまった事実が酷く心を圧した。

 何かお詫びとして、彼女に渡したい。しかしのことに疎い自分が必死に頭を捻ったところで、果たして彼女が喜ぶようなものをあげられるだろうか。

 そんなときにふらりと道路の曲がり角、あわやぶつかる寸前にしてヴァンとケストスは鉢合わせしたのだ。そして、思い詰めた顔を浮かべたヴァンを察して彼女が相談に乗った。

 

『なら、私が良い店を知っているから紹介しようじゃないか』


 不甲斐なさで溜息混じりに悩みを話したヴァンに、適度に相槌を打ちつつ聞き終えたケストスは、夕日の輝きにすら勝る美しい笑みを浮かべてそう言った。

 颯爽と歩み始めた彼女を必死に追ってみれば、神樹の根に重なるように家々が並んだ、その間にある薄暗い路地を縫うようにするりするりと入っていくではないか。見知らぬ、入り組んだ道々に迷ったら最後、ここで餓死するのではないかと恐怖を抱いて、驀進する彼女の背中を蜘蛛の糸を手繰るように着いていった。

 そうして、やっとの思いで辿り着いたそこは、一見、女の子に贈れるような物があるとは思えない、何とも薄暗い不気味な建物だった。

 全力で訝しむヴァンを傍目に、迷いなく扉を開けて入店するケストス。仕方なくヴァンも入ってみれば、意外と中は清潔に保たれていて、それどころか店内には優しい花の香りすらも漂っており、ヴァンは愕然とした。

 また、並ぶ品々も華やかでお手製だろうか、丁寧に作られ温かみを持ったものが品棚にずらりと並び、光を反射してきらりと輝いている。ヴァンにはそれがあたかも自信満々に胸を張っているように見え、実際のそれよりも眩しく感じた。

 

『どうやら安くしてくれるらしい』


 奥にいたローブを深く被っている店員らしき人と二、三言葉を交わしたケストスがヴァンに言った。ヴァンがここまでしてもらうのは悪い、と言えばこれは投資さ、とまるで商人のようにケストスは答えた。

 ならばと店内を見渡し、ヴァンの目に止まったのが件のネックレスであった。 

 こうしてヴァンはユシルでは中々手に入らない、貴重な水晶があしらわれたネックレスを手に入れる事が出来たのだ。


「あの、お会計は僕がしますね」


 ヴァンはせめてものお礼にここの支払いは任せてもらおうと彼女に提案した。懐のそれは分厚いとは云えないが、男の意地というには大袈裟な、申し訳なさが競り勝っているような気概を思えば多少値が付こうとも安く思える。

 だが彼女は細やかな腕を振って、ヴァンの言葉をやんわりと退けた。


「言っただろう。これは差し入れのようなものであって、私は見返りを求めてやっているわけじゃないのさ」


 だけどそうだね。と彼女はわざとらしく指を整った顎に当て悩むような仕草をした後に、いま思いついたようにぽつりと呟いた。


「強いて言うならば、そうだね、たまにでいいんだ。こうやって私と一緒にお茶をしてくれないかな」


 そんなことでいいのか、とヴァンは驚き勿論だと二つ返事で了解した。ヴァンとしても、こうしてケストスと会話をするのは歓迎すべきことだった。広く物事に精通しており、言葉の節には隠しきれない深い教養を窺わせる彼女との会話はヴァンが知り得ない知識の山が詰まっていた。彼女との会話を通して学んだことも様々あり、本人にその気はなくともヴァンにとってケストスはある種の教師のような存在であった。

 無論、いくらヴァンとてそれを彼女に伝える気はない。その程度のデリカシーはヴァンにもあるのだ。

 その後、ユシルの目覚めを知らせる鐘が鳴ったことでヴァンはゾフィーが待っているからと断りを入れて店を後にした。その折、会計を全て負担しようとするケストスとせめて自分の分の代金は払いたいヴァンの間で争いが起き、結果、せめてもの男の意地を守ろうと頭を地に着けかねない勢いで懇願したヴァンに圧されたケストスが折れ、無事にヴァンは少額の金を失ったと共に男の意地を守ることに成功したのだった。









 ヴァンが去ったことで店内には静寂が広がった。かち、とソーサーにティーカップが乗せられたことで鳴った音が、耳をつんざくような静謐の無聊を慰めるように店内を静かに駆けた。


「ふむ」


 ケストスはその長く美しい足を組むと、皿に乗せられているケーキを切り分けて食んだ。咀嚼し、口に広がる甘味を感じながら、彼女はヴァンが座っていた椅子を食い入るように見つめた。あるいは鼻をヒクつかせた。

 鼻腔を擽るのは口に含んだケーキの香り、紅茶の香り、そして彼の汗の、咽せかえるように濃い生理的な男の匂い。良い香りである。凡その女性が顔を顰め、嫌悪するであろう香りである。だがヴァンのこれは良い匂いなのだ。彼女にとって脳髄を蕩かす魅惑の香りなのだ。

 肺いっぱいに鼻から吸い込み体の中をそれで満たして、そうして耳に残る彼の声と、目に焼き付けた彼の姿を重ねて、彼との逢瀬を永劫に、自分の物とする。嗚呼。と体の芯から出た、甘い、あまい息が彼女の口元から溢れる。愉悦と快感と少しの切なさが込められた、女の情念の落し子であるその吐息は灼熱とも呼べるほどに熱い。

 頬は紅潮し、瞳は儚く潤い、時に体を振るわせるその様はあたかも四肢を痺れさせる絶頂に浸っているよう。艶やかに蕩けた絶世の美貌は固唾を飲むほど扇情的であり、老若男女と問わず魅了し心酔させる妖艶さと身の毛がよだつ凄艶さを孕んでいた。

 

「………」


 彼女がそうして身を悶えさせ始めてどれほどの時が過ぎただろうか。白ずんでいた空には太陽が浮かび、窓の外に疎らだが人の姿も見かけ始めた頃。 

 すっかり冷めてしまった紅茶の前でケストスは、ふう、と静かに息を吐いて顔を上げた。そうして僅かに汗ばんだ額に張り付いていた前髪を鬱陶しそうに払った。どうやらは去ったらしい。

 彼女はティーカップを手に取り、やや乱暴とも呼べる所作で紅茶を啜った。 


「店主」


 どうやら中身が冷めてしまっていることに気づいていなかったようだ。ケストスは口の中の温度感に顔を顰めた後、ひっそりと独り言のような唐突さで静かに店主を呼びつけた。耳を凝らした若人なら兎も角、老いた店主にはそれに応えることなど酷な事だと思われたが、意外にも彼はすぐさま反応してみせた。


「いかがなさいましたでしょうか」


 店主はケストスの斜め後ろ、二歩半ほど離れた位置から顔を伏しつつ彼女へ言葉を返す。彼女との立ち位置といい、礼節を重じんたその様はあたかも主人に付き従う忠義者のようだ。

 先ほどとは明らかに違った様子を見せている店主だが、ケストスはそんな彼にも構わず言葉を投げかけた。


「良いだろう」


 何が、とは続けない。老いた彼は最近、耳が遠くなり目も段々と弱くなってきている。寝起きの気怠さはまるでベットと体がへばりついてしまったような、粘着質めいたもので毎朝起きるのも億劫だ。しかし、日々老いるこの身に抱いていたかねてよりの夢を叶えるため、老骨に鞭を打って店を営んでいる。

 そんな彼でも、眼前の、椅子に座っている、この世のものとは思えないほどに美しい彼女が何を言わんとしているかなど容易く察せた。


「はい。素直で真面目そうな、とても気持ちの良い方でした」

「そうだろう。そうだろう」

 

 鼻高に、上擦った声でケストスは店主へ誇らしげに相槌を打った。生憎、店主からは彼女の顔を窺うことはできなかったが、きっと、美術品も泣いて逃げ出すその絶世も相応なものになっているに違いないと、容易に察せられた。

 

「彼も罪深い男だ。目の前に女神もかくやという美女がいるのに袖にするとはね。しかも別の女の元に行くと告げてまで」


 二人だけの静かな店内にケストスのいかにも残念そうな独白が響き渡る。だがそんな口調とは裏腹に彼女の顔には変わらずの笑みが浮かんでいて、断られたにも関わらず、その事すらも何処か誇らしげであった。

 何と言って良いのやら。店主は彼女の独白に如何様な反応を見せればいいのか困惑した。貴方の美貌の前には些事でしょう、と励ましの言葉を掛けてやればよいのか、はたまた、お気にすることではございませぬ、と慰めの言葉を掛ければよいのか。

 間違えてはならぬ。間違えてはならぬ。

 店主の深い皺の奥にある瞳孔が緊張で僅かに拡大し、老いてからは乾いて仕方がない口内に唾が溢れる。たまらず飲み込めば、ごくり、と喉が鳴り、慌てて彼女に緊張を悟られてしまったかと椅子を見ると、そこには変わらぬ彼女の姿があり、内心ほっと息を吐く。そんな店主へ釘を刺すようにケストスがぽつりと呟いた。


「貴方の言葉は求めていない」

「は、はい」


 背中に吹き出した冷や汗がやけに熱く感じられ、まるで己は蒸し殺されるのではないかと店主は馬鹿馬鹿しくも思わずにはいられなかった。後ろ手に組んだ両手で今すぐに神へ祈りを捧げたい気分であった。

 だがそのようなな仕草を彼女は好まない。だから、彼は神ではなく心暖かい、過去の思い出に祈りを捧げるのだ。

 

『私達、二人で喫茶店を営みましょう!』

『あら、意地悪を言うのね。確かに私は貴方よりも料理は下手だわ。でも愛嬌は貴方なんかでは相手にならないほどあるから大丈夫よ』

『きっと大丈夫よ。貴方なら出来るわ。だって誰よりも頑張ってるんですもの』

『私達二人がいれば怖いものなしよ。ほら笑って生きましょう?』


 嗚呼、ローシュ。愛しき私の妻。どうか私を見守っていてくれ。君の元へ、今日もまた帰れることを私は強く願う。

 組んだ両手は微かに震いて、それに気づいていながらも収めようとはせず、店主はひたすらに妻の顔を思い浮かべた。笑った顔に怒った顔、泣いた顔に悲しそうな顔。あるいは一つ一つが初々しい若い頃の彼女であったり、皺が出来て深みが増した美しい彼女であったりと、今まで彼が自身の目で見てきた彼女の顔。そして最後に彼が思い浮かべるのは今朝に見た、死んだように眠った、病床に伏せる彼女の姿であった。

 店主の妻ローシュは病人であった。かつては店主に咲き誇る向日葵のように朗らかな笑顔を見せた彼女も今では死人のように眠りに耽り、時折、形にならない譫言を口にするだけの病人。それは奇跡と見紛うような幻想が溢れる神秘都市ユシルにおいても不治の病と云われる、死神染みた病であった。

 名前を『むくろ病』。病人は食事を必要とせず、排泄も止まり、体は代謝を忘れ、血の巡りは停止する。故に病人の体は氷のように冷たく硬くなり、肌は血色を欠いた土気色へと染まる。意識は無く、身じろぎもせずに横になっているその様は命亡き骸のようだ。しかし、何故か脈を打つ心臓と、時折口を開いて喃語のような言葉を話すことから、病人を故人と見做すことは許されていない。

 店主の妻が眠りについてから一年と半年。その間、様々な秘宝がバベルギから析出されたが、未だに骸病に対して有効な治療法は発見されていなかった。

 ケストスは肘掛けに重心を乗せて、冷めた紅茶を無感情に見詰めた後に、小さく、消え入るような声で呟いた。

 

「恐怖は従順になる分、些か気遣いにかけてしまうな」


 店主の老いた耳では、彼女が何と言ったのか聞き取ることは出来なかったので、彼は恐怖心と必死に戦いながら彼女へ聞き返すことにした。


「………何か、仰いましたかな」

「ん、なに。貴方が気にすることじゃないよ」


 ケストスはそう言うと組んでいた足を解して立ち上がり、自身の硝子のような銀髪を乱暴に整えたあと、店主の垂れ下がった瞼の奥を覗き込むようにして向き合った。

 聞き返されたことにあまり気分を害していないようだとほっとしたのも束の間、彼女の琥珀のような瞳が突然に己を見てきたために、店主は蛇に睨まれた蛙のように怯えて竦んだ。

 ケストスは店主の心境に気付いていながらも、哀れさや同情などせず、どうでもよい、と無感情にそれを受け流す。そして彼女は形の良い、愛らしさと妖艶さを持った、ぷくりと膨れた唇をゆっくりと開いた。




「私は貴方の愛しき孫娘だ」




 店主は新しく皺が出来かねないような、笑い皺を更に押し上げる満面の笑みを浮かべ、彼女を優しく迎えた。そしてその覚束ない足取りをせわしなく動かして彼女の肩を摩りながら撫でると、老いた喉が引きつりかねない上擦った声で、溢れんばかりの喜色を滲ませながら言った。


「あぁよく来たね、ケストス。こんな朝早くにだなんて起きるのも大変だったろうに。座っていなさい、今、膝掛けを持って来よう」


 店主はケストスを椅子へと誘導した後、カウンターの更に奥、店の裏へと姿を消してゆく。曲がった腰が上下に弾むように、彼の足腰がまだもう少し丈夫であったのならスキップをしかねないようなご機嫌さが込められた歩みであった。それを傍目に椅子に座ったケストスは再び足を組み直して、窓越しに陽の光が差し込む路地をぼうっと眺めた。

 暫く経つと、店主は店の奥から、一枚の水玉模様があしらわられた藍色の膝掛けを大事そうに抱えながら出てきた。店主はケストスの姿を見ると柔らかな笑みを浮かべて、誇らしげに膝掛けを広げて彼女へ見せた。


「ごらん、ローシュが編んだ膝掛けだよ。綺麗だろう。ローシュはこういう編み物も得意だったんだ。羊の毛で編まれているからとても暖かくてな」


 店主はケストスの下半身に優しく膝掛けを掛けたあと、ふとテーブルにある紅茶が冷めてしまっていることに気が付いた。これはいけない、と店主は彼女の体が冷えてしまわないように、皺だらけの手でソーサーを持って彼女へ言った。


「温め直してこよう。ついでに、何か菓子も持ってこようか」 


 店主はそう言って彼女に微笑んだ後、僅かに紅茶が残ったカップから中身が溢れないように慣れた足取りでゆっくりとカウンターへと向かった。

 

「お菓子は何がいいかな」

「何でもいいとも」

「分かった」


 彼女のぞんざいな返事に苦笑いを浮かべながらも、そんな姿も愛らしいく思え、店主はお菓子を多めに持っていってあげようと棚の中から一枚のトレーを取り出した。鉄製のそれは朝の冷気に晒され、まるで氷のような冷たさを持っていたが、店主は意に介した様子はなく、皿を乗せてそこに同じく棚から取り出した色とりどりのお菓子を並べていく。

 最後に湯気を発する紅茶をトレーに乗せて、店主は慎重に、曲がった腰をさらに曲げるように彼女の元へ運んで行った。


「ありがとう」

「なんのなんの」


 窓の外へ視線を向けていたケストスは漂ってきた紅茶の甘い香りに気が付いて、店主の方を向いた後に、店主へ礼を言った。彼女の言葉に朗らかに笑って応えた店主はテーブルに紅茶とお菓子を並べ、自身も彼女と談笑しようと彼女の対面、先程までヴァンが座っていた席に座ろうとしたが、


「下がって」


と彼女に言われたため、談笑は諦め、店主は気落ちした様子もなくカウンターへと戻っていった。ケストスはそんな彼に一瞥もすることなく、カップを手に取り、紅茶から出てくる暖かな空気と甘く爽やかな香りを鼻腔からすうっと吸い込んで、肩を下すようにほっと息を吐いた。そうして、皿の上に置いてある苺のジャムが乗せられたクッキーを手に取って半分ほど食べた後、暖かな紅茶を飲むことでケストスは満足げに窓の外を再び眺め始めた。


「彼、いつもの調子に戻ってたなぁ。何がいけなかったんだろうか」


 そんな中、ケストスは朝日に照らされる神樹を視界に収めながらぽつりと静かに呟いた。






§





 

 疎らではあるが人の姿が見え始めた通りをヴァンは急いで駆けていた。それは静けさと穏やかを内包するユシルの早朝には似合わない慌ただしさであり、通り過ぎる名も知らない住民の目を引くには十分なものだったが、彼にはそれを気にする余裕はなかった。

 なにせ、彼は朝食に遅れてしまいそうなのだ。ゾフィーとの朝食にあわや遅刻してしまうかどうかの最中なのだ。

 そろそろだ、と余裕ぶってケストスの誘いを断り店から出てきたのはいいものの、実はそれほど余裕がないことに気が付いたのは歩き始めて幾分かが経った、顔馴染みの花屋が軒先に売り物である花を並べていたのを見たときだった。


『あれ、今日は随分と早いですね。何かのイベントですか?』

『いいや、全くもって平常。概ねいつも通りの時間だが………』

『………え?』


――――ちょ、ちょっと時計見せてもらってもいいですか!?


 花屋の店員が持っていた、精巧な機構を覗かせた鈍色の懐中時計を見たヴァンは、次の瞬間には脱兎のような疾走を見せて花屋から走り去っていた。突然のことに目を丸くする店員だったが、遠方から聞こえた、ありがとうございましたぁ〜!、という言葉を聞いて、少年の忙しなさにたまらず苦笑いを浮かべた。

 間に合うか怪しいな。先ほど見せてもらった時刻と今の自分の位置を鑑みてそう考えたヴァンは、ぴょいとバッタのように跳ねて窓の縁へと足を掛けたと思えば、その並ならぬ身体能力を生かして道なき道を走り始めた。

 屋根を駆け、壁を蹴り、軒下を潜り、僅かな家々の隙間をアクロバティックに突き進む。縦横無尽に驀進するその姿は正真正銘、神秘都市ユシルに相応しい常識外れな冒険者の姿だった。

 そうして風の如き疾さで路地を疾走していたヴァンの視界が突如開ける。そうして見えたのは赤い煉瓦で造られた、ヴァンの住処であるリダテットマンションであった。

 より一層の加速。猛牛めいた、突進とも呼ぶべき勢いでヴァンはエントランスの扉を乱暴に突破した。その折、赤毛をパーマにした膨よかな管理人らしき人物が扉の近くを箒で履いていて、さらに『走るなッ!!』というガラガラとした彼女のシャウト染みた怒声が聞こえたような気がしたが、ヴァンは自身の精神衛生の都合上、無視することに決めた。

 廊下を走り、階段を駆け上り、マンション内をひた走る。流石にここまでやったら騒音で迷惑かと罪悪感が過ぎったが、自分達以外どうせろくに住人がいないことを思い出して変わらずヴァンは走った。

 マンション内をそんな勢いで駆ければ目的地などあっという間にたどり着く。ヴァンは自分達の部屋の前で荒んだ息を整えるため、ゆっくりと深呼吸をした。ちゅんちゅんと外から聞こえる鳥の囀りがやけに邪魔くさく思えた。




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