第4話

 重なった二人の衣服に、互いの体温が交わり始めた頃。ヴァンは腕を緩めてゾフィーからゆっくりと体を離した。部屋の空気が二人の間に生まれた隙間を埋めて、ヴァンの服にあるゾフィーの体温の残滓が消されていく。その事に一抹の寂しさを覚えながら、ヴァンはゾフィーへ笑みを浮かべて言った。


「プレゼントがあるんだ」

「プレゼント?」

「うん」


 同じように、いや、ヴァン以上に寂しさをその整った相貌に滲ませていたゾフィーは突然の彼の発言に戸惑い、鸚鵡返おうむがえしに疑問を浮かべた。

 何せ、彼の口から出るには馴染みのない言葉であったから。

 ヴァンはそんなゾフィーから離れ、テーブルへと向かう。そうして手に取ったのは先程、自分がテーブルの足に立て掛けておいた一つの小さな紙袋。それを持ち、ヴァンは再び、ゾフィーの元へ戻った。

 

「……なんだ、それは」

「帰りに買ったんだ」


 そう言ってヴァンが紙袋から取り出したのは、紫の水晶に銀の装飾が縁を彩るようにあしらわれた、清らかな川を彷彿とさせるような楚々としたネックレスであった。


「……綺麗だな」

「でしょ?ゾフィーに似合うと思って」

「私には、上品すぎると思うんだが……」

「そんなことないよ。きっと似合う。ほら、後ろ向いて」

 

 大人しく背中を向けるゾフィー。

 ヴァンは彼女を後ろから抱きしめるように、彼女の細い首へ腕を回してネックレスを掛ける。頸の部分で留め具を嵌めれば、ヴァンはこっち見て、と言ってゾフィーと向き合った。


「うん、似合ってる。ピッタリだよ!」

 

 その実、ネックレスを身に付けたゾフィーは非常に可憐で、美しい。

 彼女の鮮やかな瞳と同色の水晶は彼女の白肌によく似合い、互いを引き立たせ、精微な銀の装飾は清廉な川を連想させる蒼髪によく映えた。

 ゾフィーの端正な容姿によく馴染む、優れた一品だった。


「そ、そうか」


 彼女の指が銀細工を撫でる。

 はにかんで笑みを浮かべたゾフィーは沸き起こるそれを抑えようと、ひたすらに首元のネックレスを見つめた。

 いま、ヴァンの顔は見れない。彼を一目でも見てしまえば胸の中に渦巻くそれに歯止めが掛からなくなってしまう。弾けるように、崩壊する煉瓦の建物のように到底抑えられないものになってしまう。

 荒れ狂う嵐にも、穏やかな暖炉の灯かりにも例えられるような胸の暖かさを抱えて、ゾフィーは幸福を噛み締めた。

 ヴァンからのプレゼントなんて、いつぶりだろうか。


「どうかな?気に入ってもらえると嬉しいな」


 見まいとしていたのに、不安が滲んだ彼の声を聞いてしまえば見るしかなくなるではないか。

 ゾフィーはネックレスを抱きしめるように両手で握りながら、ゆっくりとヴァンを伺った。

 見えたのは不安げに眉を曲げて、おずおずといった様子でこちらを見つめている彼。そのあまりにも気弱な様子に思わずクスリと笑みが溢れた。

 そうして、湧き上がる感情のままに彼の胸に再び飛び込んだ。


「ありがとう、ヴァン」

「どういたしまして」


 飛び込んできたゾフィーを受け止めながらほっと安堵の息を漏らして、ヴァンは言った。


(どうやら、気に入ってもらえたみたいだ)


 まさか抱きつかれるほど喜ばれるとはヴァンも考えてはいなかったが、彼女が嬉しいならヴァンとしてはそれに越したことはない。兎も角、選んだ自分の目に間違いが無かったことにヴァンは安心した。

 特に、この街に来てからはバベルギを中心とした生活を送っていた為、今まで何か贈り物をするという考えに至っていなかった。そのため、ヴァンとしても誰かにプレゼントをするということ自体が久々だったのが、彼の不安に拍車をかけていたのだ。


「その紫色の水晶、綺麗でしょ?それ、ルイースって云う水晶なんだって。北の、常冬の大地にしか析出しなくて、ユシルでも滅多に手に入らない珍しい水晶なんだ。何でも、それを持っているとルイースが持ってる人の不幸を吸い取って、幸福を持ってきてくれるらしいよ」


 自分が贈ったもの口で説明するのが妙に照れ臭くて、ヴァンは捻くれたように言葉の尻に、ちょっと陳腐だけどね、と付け加えた。

 それでもゾフィーの気持ちは変わらない。彼女はヴァンの胸元から顔を離して、彼の金のような瞳を見つめながら言った。


「いいや、ありがとう。大切にする」


 そう言って微笑んだ彼女。

 あらゆる芸術に勝るとも劣らないその笑顔を見てヴァンは心の底から、良かった、と思った。





§





 明朝。

 朝霧が神秘都市ユシルを包み、囲む険峻たる山々より覗かせた曙が聳え立つ神樹を優しく照らし始めた頃。未だ街が眠りについている、夜と朝の境界。

 ヴァンは眠っているゾフィーを起こさないよう、静かに玄関のドアを閉め、ゆっくりと鍵を掛けた。マンションから出てきたヴァンの腰には双剣がぶら下がっており、朝の散歩と云うには些か物騒。その足取りに迷いはなく、何処か目的地があるように思えた。

 霧に包まれた、白く仄暗い街を歩く。視界に入る家々の窓は殆どがカーテンで閉ざされており、人々の営みを感じさせない。澄んだ静謐に溢れたユシルは孤独に染められているのだ。それに溶け込むようにヴァンもまた独りで冷えた道を歩く。

 そうして、太陽が山から半分ほど顔を出した頃だろうか。徐々にユシルにも陽の光が差し込み始め、街の眠気を取り払おうとしているその頃。

 バベルギの根に纏わりつくように入り組んだ住宅地、その中にある、ぽっかりと開けた空き地にヴァンは双剣を持って一人佇んでいた。

 ゆっくりと息を吐く。そうして軽く呼吸をすれば入ってくる早朝の澄んだ空気は体の中を一新させてくれるような爽快感があり、ヴァンは体が目覚めていくのを感じた。


(……少し、寒いな)


 冴えた朝の寒気が体を撫でて、まるでざわめくように肌が栗立つ。お陰で、つい先程まで纏わりつくようにしぶとかった眠気は綺麗さっぱりに無くなっていた。

 そうして眠気が取れたヴァンは、ゆっくりと柔軟をし始めた。

 足首から首に至るまで全身をくまなく伸ばし、捻り、回し、反らせる。そうして一通りの柔軟を終えた後のヴァンの体は完全に目覚め、じんわりと汗が滲むほどに火照り活発になっていた。

 大きく深呼吸をすれば、興奮するように僅かに逸る心臓の鼓動が耳の奥で木霊する。


(こんなもんかな)


 既に寒気は感じない。

 足を肩幅ほどに広げる。屈むように膝を曲げ、両手にそれぞれ持つ双剣を改めて握り直し、ヴァンは眼前を見据えた。そうして、一閃。右手の剣を振り上げる。鋭い、空を切った音が空き地を走った。

 虚空に神樹を、敵を思う。鋭い顎を想像する、振りかざされる刃を想像する、向かってくる牙を想像する。

 それを躱し、時には打ち払い、斬撃を喰らわせる。対するのは四足の獣であったり、木でできた人型であったり、あるいは蛇のような胴を持つ鳥であったりの多種多様な、神樹に住まう怪物達だ。

 空想のそれら相手にヴァンは双剣を振るう。

 それと同時に、ヴァンは剣を振るう自分を客観的に見ることに努めた。肘や腰、足の位置を入念にイメージして、思い出の中にあるシューベルトの剣線を必死になぞる。

 シューベルトならばどう斬るか、どのようにして兇刃を防ぐか。彼との鍛錬を今と重ねながらヴァンは双剣を振るっていく。その冴えは上等であり、そこらの凡庸な冒険者など足元にも及ばないような剣技であった。

 やがてヴァンの肌には汗が浮かび、所々の地面に散った汗によって斑点が描かれていった。そんな中でヴァンの剣速に陰りが見え始める。

 

(………く、そッ)


 無理からぬことだ。なにせその剣技はシューベルトのモノであり、人間大の獣を片足で蹴り飛ばす超人の剣である。如何にヴァンの筋力が優れていようとも、あくまでそれは人の粋を超えてはおらず彼の剣を扱うにはあまりにも不十分過ぎた。

 腕は鉛のように重く、足へ幾十人がしがみついているような倦怠感がヴァンを襲う。

 彼に師事を仰ぎ凡そ十ヶ月。ヴァンは未だ、シューベルトの剣を自らのものにすることが出来ていなかった。

 ここが限界だ、と悟ったヴァンは剣を振るうのをやめて、荒んだ息を整え始めた。たまらず両膝に手を置いて項垂れるように深呼吸をすれば、汗が目に垂れて視界が滲んだ。


(………大丈夫だ。確実に振れる時間は伸びてきてる。きちんと筋力も上がってるんだ)


 袖で雑に汗を拭う。

 振り返れば、確かに自分は成長している。

 どんなに牛歩のように遅くとも、確かに進んでいる。

 

(もっと、がんばるぞ)


 なら止まらない。止まれない。

 そんな歩みの遅い自分を待ってくれる人がいるのだ。

 傍に居て欲しいと願いを乞うてくれる少女がいるのだ。


(絶対に、負けない)


 鬱屈に囚われていた自分への訣別。

 あるいはそれを切り払うようにヴァンは再び、双剣を振り上げた。







「おはよう、ヴァン」


 いつの間にか、山々に隠れていた太陽はその全身を余すことなく見せており、朗らかな朝日を以ってユシルを暖かく照らしていた。それはヴァンがいる空き地でも例外ではなく、家々の隙間を縫うように差し込んだ陽光は彼の汗を玉のように煌めかせた。

 只管に双剣を振るい続けたヴァンの腕は微かに痙攣を起こしており、朝の運動としては(鍛錬ということを考えても)そぐわない強強度すぎるものだ。

 それでも懲りずに震える両腕で双剣を構え、鍛錬を続けようとしたヴァンに挨拶が投げられた。

 ヴァンは構えを解いて、その主へ振り返る。 

 そこにいた、挨拶の主は一人の女性だった。

 太腿辺りまで伸ばされた銀髪が目を惹いてやまない、美しい女性であった。登る曙を受けてキラキラと煌めいたその銀髪は硝子で出来ているかのような透明感があり、まるで出来の悪い芸術家がその画の世界観を無視して唐突に全身全霊で『美』を描いたような異物感と圧倒的美麗がある種の神聖さすらも醸し出した、極めて美しい女性であった。


「あ、おはようございます、ケストスさん」


 万人が魅入る、傾国すら容易く成しえてしまいそうな女性をヴァンはケストスと呼んだ。

 ヴァンは彼女の琥珀のような瞳を見ながら、何と無しに挨拶を返した。


「邪魔してしまったかい?」

「いえ、一旦、休憩を挟もうかなと考えていたところですから」

「なら、よかったよ」


 それだけで芸術と呼んでしまえるような笑みを浮かべ、ヴァンの返事にケストスは嬉しそうに言った。

 ヴァンは双剣を鞘に納め、彼もまた微笑んで彼女を見た。


「朝、早いですね」

「ふむ、偶に散歩をしてみればキミは必ずここで剣を振るっているじゃないか。朝が早いと自負する私だけど、そんなキミにそれを言われたら流石に立つ瀬がないよ」


 やれやれと言いたげな様子で肩をすくめたケストスだったが、その顔には変わらず笑みが浮かんでいる。

 出会うたびに毎回繰り返される、二人にとってお決まりの会話だ。

 そうだ。と彼女が呟いて肩から下げていた革のショルダーバックを徐ろに漁り始めた。そうして取り出したのは真っ白なタオル。


「これ、よかったら使ってくれ」

「ええ!?そんな、悪いですよ!」

「いいから。ほら」


 そうしてケストスに半ば無理やりにタオルを手渡されると、ヴァンはその手触りの上質さに驚いた。


「これ、すごく高いやつじゃないですか!本当に使っていいんですか!?」

「いいよ、私は気にしない。それに、この時期の朝はとても冷え込む。そんな中で汗だくで努力に励む若人を放っておいてしまえば、私も悲しむし、折角、拭うことを本望き生まれてきたタオルも名が廃ってしまうだろう?」

「は、はぁ……?」

「だから、遠慮なく使いたまえ」


 そこまで言うのならば、と妙に説得力を感じさせる彼女の言葉に言いくるめられてしまったヴァンは、恐る恐ると云った具合でタオルを顔に触れさせた。

 ふんわりとした心地の良い上質な手触りに顔が包まれ、ヴァンは呆けてしまいそうになる。匂い付けをしてあるのか、タオルからは仄かに薔薇の香りがした。


(この人、ほんと何者なんだろう)


 ヴァンとケストスが出逢ったのは凡そ一ヶ月前。今日と同じように、早朝に鍛錬に励んでいたヴァンに彼女が話し掛けてきたのが始まりだった。

 それから二、三日に一度ほど、彼女は空き地にやってきてはこうしてヴァンと会話をしている。尤も、今日のようにタオルなどを差し入れたのは初めてであったが。

 彼女の名前以外、ヴァンはケストスについて何も知らなかった。妙に色んなお店と親交があり、そのどれもが足を運ぶのを躊躇ってしまうような格式の高い御店であることからヴァンは彼女を何処かの令嬢と睨んでいるが、尋ねてものらりくらりとはぐらかさられ、結局のところは彼女が何者なのかは分かっていない。

 ただ、ケストスが心優しい女性であることをヴァンは会話を重ねたことで理解していた。

 渡されたタオルで(若干、及び腰ながら)全身を拭っていく。勿論、ここで服を脱ぐ訳にもいかないので、あくまで露出している部分だけ。

 

「私としても心苦しかったんだ。ただ眺めて言葉を掛けるだけではなく、誠実に努力を重ねていくキミに何か形としてしてあげられる事があるんじゃないかなとね。そんな折に知人からタオルを差し入れては如何か、と知恵を貰ったんだ。正に晴天の霹靂だったよ。謂わば王道とも呼べるそれを忘れていたなんて、私も随分と抜けた。だから詫びという訳ではないんだけど、ほんの気持ちとしてなるべく質の良いタオルを用意させて貰ったよ」


 如何かな。そう言ってケストスはヴァンの瞳を伺い見た。

 ヴァンは彼女の饒舌ぶりに苦笑を浮かべ、柔らかな感触を首で堪能しながら礼を言う。


「ありがとうございます。とても嬉しいです」

「そうかそうか!キミの助けになったのなら幸いだよ、いやぁ、よかったよかった!」


 喜色に染まった、上擦った声。

 彼女がご機嫌に上体を揺らせば硝子の長髪がふわりと舞い、陽光を受けてきらきらと輝く。それは狭間の空模様と相待って、あたかも黎明の星々のようだった。

 

「そうだ、最近、この近くで新しいカフェがオープンしたんだ。なんでも異国で研鑽を積んだシェフが老後の道楽として開いた店らしくてね、出されるケーキが大層美味しいんだ。君が良かったら、今からでもどうかな?」 

「………その、お誘いはとても有難いんですけど、今、僕とても汗かいてますし……」


 思いついたようにケストスが誘う。ヴァンは暫し考えた後、大衆向けの酒場などならばともかく、そのようなカフェの雰囲気の中で今の自分の状況はそぐわないのではないかと、言外に断った。

 しかしケストスはヴァンに大丈夫、と云って続けて食い下がった。


「確かに、今のキミはカフェの雰囲気を僅かに崩しかねないね。だけど安心してくれたまえ。私とその店主にはそこそこの交流があってね、多少の便宜なら図ってくれるんだ。少し清潔に欠いていたとしてもその程度の寛容さなら彼も見せてくれる筈さ」


 それを言われてしまったらヴァンは何も言えない。

 や鼻腔を微かに擽る薔薇の香りのこともあり、そもそも彼女の誘いを断ってしまうのもヴァンの中では憚られたのだ。

 彼女が何者なのか、さらに上昇した心の野次馬度を傍目にヴァンは彼女に言った。


「じゃあ、是非、御同伴させてください」

「勿論だとも」


 ケストスが笑えば大輪の花が咲いたような華やかさがそこにはあった。

 






 桃色の花が描かれたステンドグラスが嵌められた、木製の深い茶色のドア。リンリリン、とそこに備え付けられたドアベルが涼しげな音を奏でて、ヴァンとケストスを迎え入れた。

 

「ほへぇ〜」


 何とも気の抜けた声がヴァンの口から零れる。

 店内には様々なランプが点在しており、至る所で発光するそれらは鮮やかなステンドグラスを通して色とりどりに店内を彩っていた。その様は幻想的であり、ヴァンも思わず感嘆の念が漏れてしまったのだ。

 

「おや。いらっしゃいませ、ケストス様」


 道具が並べられたカウンターの下から、ぬるりと真白のエプロンを身につけた老人が現れ、出迎えた。曲がった腰や、顔に刻まれた深い皺には似合わない、不思議とよく通った声だった。

 

「二人だ。いいかな?」

「勿論ですとも。お好きな席へお座りくださいませ」


 僅かな遣り取りを挟んだ後、ケストスはヴァンを連れ立って窓際の方へ向かう。真四角の小さなローテーブルを挟んだ、二人用の席、その片方にケストスは座った。当然、ヴァンももう片方の席に着くものだが、彼は一向に座らなかった。

 訝しんだケストスがヴァンに尋ねる。

 

「どうしたんだい?」

「その、汗が……」


 ああ、と合点がいったケストスは、暖かなハンドタオルを運んできた店主に向かって尋ねた。


「構わないよな、店主」

「ええ、構いませぬ。閑古鳥の鳴き声は聞き飽きた故、幾らでも」


 僅かな洒落を込めてそう言った店主は、皺の深い相貌を優しく曲げてヴァンの方へと向いた。そして垂れた瞼の奥から覗くようにヴァンと視線を合わせ、口を開いた。


「ここは喫茶店。文字通り茶をむ場所にてございます。茶とは腰を落ち着かせ、楽々と嗜むものでありまして、酒とは違い突っ立ち飲むものではありませぬ。故に、店主たる私が誰ぞの着席を咎めることなどないのです」

 

 店主は緩慢な動きで空いている椅子の背を掴み、ヴァンが座りやすいようにゆっくりと椅子を引いて皺だらけの手で彼を手招きした。

 

「さぁ、どうぞ」

「は、はい」


 ヴァンは若干の戸惑いを見せつつも、店主の暖かな声に背中を押されるように椅子へと腰かければ、その包み込まれるような座り心地に感歎の念を漏らした。店主はその様を見て満足気に微笑んだ後、二人を見て言った。


「では、ご注文が決まりましたらお呼びください」

「ああ」

 

 紙に書かれた簡単なメニュー表を見つめながら、ケストスは返事をする。ヴァンは腰を曲げてカウンターへ戻っていく店主の小さな背中を見つめながら、そんな彼女へ話しかけた。


「なんというか、とてもしっかりした方なんですね」

「うん、まぁ、そうだろうね。彼自身この店は道楽で営んでいると言っていたから、利益を追従せずにこだわりを推し出せる面もあるだろうけど。こんな朝早くに店を開いているのが、一つの証拠さ」


 ケストスは眺めていたメニュー表を手元で翻してヴァンの方へと差し出す。ヴァンはどうも、と礼を告げて受け取って、書かれているメニューを眺めた。

 しかし、神樹に取り憑かれたように日がな一日バベルギのことばかり考えているヴァンが茶葉の銘など知る筈もなく、いくら目を凝らそうとも彼にとっては意味のない文字の羅列でしかなかった。

 静かに頭を悩ませているヴァンに気が付いたのか、ケストスは微笑みを浮かべて彼へと声を投げた。


「おススメはリンテンラーグのキャルコトット。独特の麦芽香に加え黒糖のような甘味を持っていて、普段あまり茶を嗜まない人でも飲み易く分かり易いフレーバーさ。ついでに言ってしまえば、キャルコトットと、私イチオシのホワイトケーキとの相性は、この店に並ぶ数多の茶葉のなかでも抜群のものだと保証するよ」


 勿論、私もキャルコトットを注文する。そう言ってケストスはヴァンが眺めているメニュー表の項目の一つを指さした。白く美しい指の先を見れば確かに達筆で書かれたキャルコトットの文字。

 彼女が吐いた言葉などヴァンには半分程にしか理解できなかったが、兎も角、この分野に知見の深そうな彼女に従っておけば間違いはないだろうと、大人しく彼女の言う通りにした。


「じゃあ僕もそれにします」

「うむ、それがいい」


 店主、とケストスが片手を上げて呼んだ。その程度の所作にすら何処か優美さを感じられるのは彼女の持ち得る気品が大きいのだろう。

 また曲がった腰を労るようにゆっくりとカウンターからこちらへ向かってくる店主に気が咎めたヴァンとは打って変わって、ケストスは店主を一瞥もせずに告げた。


「キャルコトットとホワイトケーキをそれぞれ二つずつ頼む」

「ミルクと砂糖、それと檸檬れもんは如何なさいますかな」

「一人分のだけでいい」

「かしこまりました」


 曲がった腰をさらに僅かに曲げて頭を下げた店主は、テーブルのメニューを手に回収してカウンターへと戻っていった。

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