第2話 

 それはある日、世界に罅が入るように大地を激しく裂いて現れた。

 動物も居らず、人も居らず、あまつさえ草木の一本たりとも生えていない、雲海よりも高い険しい山脈に囲まれた場所に突如として現れたそれは、天を摩する程の巨大な樹木であった。

 樹木が持つ、明らかな理を外れた巨大さは通りかかった一つの旅団を魅了した。彼らはそれを崇め、奉り、神樹として信奉しだし、やがてその周囲に家々を築き上げていった。


 人が人を呼び、また人が人を呼ぶ。

 そうしてそれが街としての形が成されていったその頃。

 一人の男がやって来た。


 丸太のような腕に、人が二人横並びになったような長く太い下半身。

 頭を支える首は三角を描くほどに逞しく、その肩には幼子が六人座ったという逸話があるほど。

 並外れた巨躯を持つ男の名は【冒険者ルード】。

 幻想無き時代を往きた最後の冒険者であり、新たな時代を創った原初の冒険者である。


「彼は神樹に内部へ通じる穴があるのを発見すると、剣を一本手に持ち、周囲の制止を振りきって入って強引に入って行きました。その後数日が経ち、神の怒りに触れたと彼の死を考える人も居ましたが、【冒険者ルード】は無事に帰還を果たしました——」


「———その手に、一つの金杯を持って」


 イリヤはチョークで黒板に叩くように書き入れながら、そう言って一拍の間を置いた。

 寓話にもなっているその歴史は、ヴァンにとっては耳にタコが出来るほどに聞き馴染みのある話だが、それでも聴く度に溢れる高揚に変わりは無かった。

 自然とペンを握る右手に力が入る。


「金色に輝くその杯は、艶やかな蛇がとぐろを巻くように彫られ、その純美たるは人の呼吸を止めてしまうほどだったそうです。しかしそれだけではありません。ルードが親指でその蛇を撫でるように擦れば、空であった筈の杯が赤い水で満たされていたのです。それは葡萄酒でした。

 ある人は言います。杯から止めどなく溢れる芳醇な香りを漂わせた葡萄酒を野次馬として集まった市井の民が目に収めたその瞬間、ヒトの全盛は始まったのだと」


 【黎明の金色アウロラ】。

 後にそう名付けられたその杯は、人と幻想たる神秘の初めての邂逅であり、授けられた祝福であった。

 そして御業の如き奇跡を宿した神器を人々が神秘の宝、『秘宝』と呼び始めたのもこの頃から。


「ルードはその金杯を天高く掲げ、溢れる葡萄酒で赤く濡れる全身を物ともせず、街中に轟くような大きな声で言いました」


『この巨大な木の中には、かつて人々が焦がれ、渇望し、夢想した数多の夢が形を持って眠っている!それをみすみす放っておくなどなんたる愚鈍か!これは神秘だ!我々が切望した、幽玄たる祝福の落し子だ!』


「その言葉は民の心を震わせ、街は再び、変容を迎えます。神樹の探索、産出する秘宝を生業とする、現在の神秘都市ユシルへと街は姿を変えていきました」


 無論、それは容易く行えるものではなく、今に至るまでに重ねられた歴史はとぐろを巻く蛇のようにうねり尽くした血腥いものであり、今なお尾を引く遺恨でもあるがイリヤはこの場ではあえて話さなかった。

  それはこの場ではそぐわない話題でもあったためでもあったが、ここにいるのは(一人を除いて)見習い冒険者。瞳に希望を滾らせた、前途ある青き若葉達にこの都市の影というべきものを今ここで教える必要はないと判断したからでもあった。

 彼女なりの気遣いと優しさだった。


「さて、かつて神樹と呼ばれたその木は名前を変え、今日こんにちでは【バベルギ】という名前で市民に親しまれ、数多の冒険者達を誘い導いています」


 教鞭を最後にそう締め括ったイリヤは手に着いたチョークの粉を拍手するように軽く払い、所々が黄ばんでいる古びた教本を閉じた。

 長く教壇に立って肩がこったのか、気怠げに肩を回しながら彼女は億劫そうに口を開いた。


「……次回はバベルギに存在する各階層についての講義を行います。冒険者を目指す以上、避けては通れない大事な講義ですので欠席は控えて下さい」


 その言葉を受けて段々と退出していく見習いの冒険者達を眺めながら、イリヤは人知れず静かに溜息を吐いた。


“控えてください”


 イリヤはそんな言葉でしか彼等に投げられない己に酷い無力感を覚える。そこには彼女一人では抗えない時代の大波とも呼ぶべきものが関わっていた。


 かつて協会は、十三の講義全てを必修とした上で実地で訓練を行うことで漸く、一人前の冒険者として認めバベルギへ探索に赴く許可を出していた。

 だが今は違う。十三の講義はその内の五つを収めれば良しとし、訓練は行うことなく一人の冒険者としてその道を歩ませるのだ。

 

 人類全盛とも呼ぶべき時代。

 その中心たる神秘都市ユシルにはそれこそ吐いて捨てて余りある程に人が集う。そしてその内の殆どが冒険者としての一夜大尽を夢見て協会を訪れるのだ。


 協会はその全員に教育を施す時間は無しと、かつての半分程の教導を以てかの神樹に送り出す。

 しかしイリヤはそこに一つの共同体としての冷たい考えがある事を知っていた。


 数撃てば当たる。協会は一人一人の質を重視するのではなく、その数に重きを置いた。

 全員に教育を行き渡せるには充分なほどの余裕があるのにも関わらず、協会は効率を求めたのだ。

 

 実際、バベルギの探索はそれにより加速した。強力な秘宝で武装した、英雄たる冒険者達も数多く出現した。

 だがしかし、その裏に積み重なる死の数も加速的に増えた。


 イリヤはこの街が嫌いである。

 一つの名声に隠れた、誰かの死を許容するこの街が嫌いである。


 せめてもの抵抗として自身が勤務する西区支部の必修講義を勝手に増やしていたが、何処かの噂が出回ったのか、次第に此処を訪れる冒険者志望の者達は減るばかり。

 聴けば西区の冒険者は大成しないだとか、卒業まで時間がかかるだとか、ある種事実に近い噂だった。

 そのようなジンクスめいた噂などを気にしない人達は西区を訪れ学んでいったが、必修数以上の講義を受けた人など稀。


 だからこそ毎回の講義へ皆勤賞を取った挙句、あまつさえ再び受け直しに協会へ足繁く通うなどという奇行を成すヴァンという少年が、イリヤの目に強く留まる。


「お疲れ様でした、イリヤさん。今日の講義も面白かったです」


 ほぅら来た、とイリヤは内心で身構える。

 毎日バベルギに赴き、怪物を殺しているこの神樹狂いは何をするか分からない。あたかも自分は真面マトモですよと言わんばかりの、無害そうな可愛らしい顔をしておきながらその中身は奇想天外で予測不能に満ちているのだ。


「……あっそ。ヴァン、貴方この講義四回目よね。何が楽しくて受けてるの?」


 少し冷たい言い方をしてしまったかな、と少し後悔。

 そもそも自分は講義を受ける事には諸手を挙げて賛成だと云うのに、どうにも彼と話しをするときは身構えすぎてしまい、無意識に言葉の節に棘が出てしまう。


 同時に、愚問だったな、と振り返る。

 何せ似たような掛け合いは過去に幾度もやっているのだから。

 それは彼女にとって理解不能な彼の、既に学んだ一つの性質。


「だってゾフィーを死なせたくありませんし、僕も死にたくありません。覚えておいて損な知識なんてありませんから!」


 溌剌にそう言い切るヴァン。

 どうにもその顔を見ているとイリヤは悪戯心が湧いて、少し意地悪をしてみたくなって捻くれた返事をする。


「……へぇ〜。義務感から私の講義を受けてるのね」

「ぅえ!?も、もちろん、イリヤさんの講義は何度聞いても面白くてですね!聴いてて飽きないと云うか、所々に挟まる小話もとても興味深くて毎回新鮮味があってですね———!」


 必死に頭を巡らせ、何とか舌をべらぼうに回すヴァン。

 少年味溢れるその様子にイリヤの前髪に隠れた眼差しが柔らかく形を変えた。


 イリヤはヴァンが嫌いではない。

 日がな一日、神樹の事ばかりに想いを馳せて、彼女からしてみたら到底理解出来ないような考えをしていても、それでも死なない為に、死なせない為に努力を厭わない彼が彼女は嫌いではないのだ。


「……まぁ、せいぜい死なないようにね」

「…っはい!」





§





 茜に染まった太陽は街を囲む険峻たる山々に沈みかけ、それでも差し込む夕日は空を越え雄大に聳える神樹すらも染めようと儚くも強かに手を伸ばす。

 時は夕暮れ。神樹から析出する光を放つ鉱石によって街灯が燈る。

 ぽつりぽつりと家々の灯りも燈り始め、仕事を務め終え、疲労を滲ませた人々はそれでも生気を滲ませた顔を茜色に染めて家路を辿る。


 ヴァンもまた例に溺れず、途中の店で買った物が入っている紙袋を片手に我が家を目指して歩く。


 歩く度にがちゃがちゃと擦れて音が鳴る鎧と双剣は傍から見れば重そうで煩わしそうだ。

 実際、それは正しいのだが一年も肌身離さず身に付けていればそんなもの慣れてしまい、当人にとっては最早身体の一部。装備していることを忘れることさえある。


 兎も角、程なくしてヴァンは一つの建物の前にいた。

 煉瓦で造られたその建物は高さ十メートル程。窓が縦に三つ並んでることから、おそらくは三階建てであろうその建物には入り口の上に看板が打ち付けられてあった。


【リダテット・マンション】


 青錆に彩られた銅の看板には、刻み付けられた様に名前が書かれており、その横には小さなベニヤ板で『入居者大募集‼︎』という文字。

 ヴァンは特に気に留めず、ドアを開けマンションへ入っていった。


 左右にある長い廊下を無視して正面の、大人二人が並ぶには窮屈な狭い階段を登っていく。

 コツ、コツとヴァンの足音が只管にこだまする。

 踊り場の壁に埋め込まれた薔薇を形取った紫のステンドグラスが夕日を受けて淡く輝き、鼠色の味気ない床を健気に彩る。


 二階ほど上りきり、三階に辿り着いたヴァンは右手の廊下へ歩みを進めた。

 そうして奥。突き当たりまで歩いたヴァンはそこにあった扉のドアノブを握った。


 扉の横には『ブルックス・コリントフト』の文字。

 ここ【リダテット・マンション】はヴァンとゾフィーが共に暮らす住まいである。


「ただいま」


 扉を開けてヴァンが言う。 

 部屋に入った瞬間に鼻腔を擽るいつもの匂い。料理の匂い、ソファの匂い、少し掃除が生き通ってない埃の匂い、鎧や武器から微かに薫る金属の香り、彼女の匂い。家の香り。

 ああ、帰ってきたと実感を抱く。

 

「おかえり、ヴァン」


 ターナーを片手に茶色のエプロンを身に付けたゾフィーがキッチンから出てきて彼を迎えた。邪魔にならないよう蒼髪を後ろで一つに結い、ポニーテールに纏めた彼女はその尾を揺らして言う。


「もうすぐ出来上がるから、シャワーを浴びてきてくれ」

「わかったよ」


 そう言ってすぐさまキッチンへ戻ってしまったゾフィーに苦笑いを浮かべ、ヴァンは私室へと向かう。

 紙袋をテーブルの足により掛かせるように添え、身に付けていた防具は外してリビングの隅っこに纏めて置いておき、身軽になったヴァンは脱衣所へと入って行った。





 それから十分ほどが経ち。

 濡れた体を拭い終わったヴァンは部屋着へと着替えてゾフィーが待つリビングへと戻っていった。

 

「終わった——」

「——よし、夕餉にするぞ!」


 もう我慢出来ない、そう言わんばかりの勢いで言葉を返すゾフィーに苦笑いが浮かぶ。

 この調子では調理中にどれだけつまみ食いしたか分かったものではない。

 

 微笑ましさを堪えながらテーブルの上を見れば、乱雑に切り分けれたステーキが並び、その横に申し訳程度にパンとサラダが添えられていた。

 簡素だが、これでも最初を思えば実に達者なもの。この街に来て最初の半年に於ける料理は全てヴァンか担当していたことを振り返ればその差は歴然と言っていい。


 要領は人の何倍も良いくせに、ここに達するまで随分と時間が掛かったものだ、とヴァンは塩気のステーキを食みながらしみじみ思った。


「……どうだ?美味いか?」

「とっても美味しいよ」


 美味しくはない。不味い。

 ゾフィーの料理は残念なことに、一般的に見てかなり不味い。

 レストランで出されたら堪らず返金を求め、誤って幼子が食べたらすぐさま自ずと吐き出し、路地に捨てたら野良猫ですら食べないほどに、不味い。


 しかしヴァンは嘘をついていない。おべっかでもなく、世辞でもなく、気を遣って言っている訳でもない。

 ヴァン自身は心の底からゾフィーの料理を美味しいと感じて、真心から感想を述べているのだ。


 詰まる所、彼の舌は愚鈍である。

 味は感じ取れる。しかし詳細を感じ取れない。

 一般に味の感度が一から百まであるとしたら、ヴァンという少年は一と百という寸尺しか持っていないのだ。

 

 元来、彼は繊細な舌の持ち主であった。

 では何故、このようになってしまったのか。

 

 そこには悲しい経緯いきさつがあった。

 先にも云った通り、この街に来て最初の半年はヴァンが料理を担当していた。

 そんなある日。今日も料理を頑張ろうと意気込み両袖を捲っていたヴァンにゾフィーがぽつりと言ったのだ。


『私も、料理がしたい』


 ヴァンは恐怖した。

 彼女のその料理に関する手腕は街に来る前から身に染みて理解していたから。

 しかし彼女なら、悉くに天凛を持つ彼女ならば、もう既に料理も克服しているかもと試しに一つ料理を作らせてみれば、その僅か数秒後に猛烈な閃光がヴァンの網膜を焼いてキッチンを一つ破壊してみせた。


 目が覚めて、グラつく視界でキッチンを見れば、そこにあったのは黒焦げになっているキッチンモドキ。

 その惨状を見て、ヴァンは二度と彼女に調理場の主権を渡してはならないと決意した。

 だがしかし無傷で棒立ちしている、悲しげに眉を寄せたゾフィーの姿を見てしまったことで、ヴァンは抱いた決意を瞬く間に掃き捨てた。


 ヴァンは覚悟した。

 その道は果てしなく長かろうとも、必ず彼女に人並み、いやせめてそこらの粗野な冒険者と並ぶ程度の調理技術を授けようと。

 そうして半年、ヴァンはゾフィーの腕を見事に上達せしめた。

 自らの味覚を代償にして。


 ヴァンの舌はおよそ半年に渡るゾフィーの料理訓練に耐えきれず狂ってしまった。この際、いっそ適応と云ってもいいのかもしれない。

 そしてそれは当人が自覚できないようなスピードであり、ゆっくりと少しづつ、緩やかなものだった。


 故に、ヴァンはここで悲しい錯覚を起こしてしまっている。


 半年前の料理惨状から、ここに至るまでの彼女の軌跡という贔屓目フィルターと、人知れずひっそり破壊された自身の味覚。

 この二つが組み合わさることで、彼はゾフィーは料理が上手くなったと心から思い、その料理に舌鼓を打つのだ。


 仮にこれを親切心からご近所さんに分けてあげようなどと考えた日には、ただでさえ少ない【リダテッド・マンション】の住人が減り、大家から大目玉を食うこと間違いなしである。


「そうか!よかったよかった!」


 だが例え味覚が狂わずとも、ヴァンは彼女の料理は喜んで食べるだろう。

 己の(本心と云えど)ありふれた感想に、嬉しそうに浮かんだゾフィーの笑みは彼にとっては万金にも勝るもなのだから。

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