第20話

 出来るだけ何も考えないように、と自分に言い聞かせながら作業を続けていたが、意思に反して頭は勝手に先ほど目にした光景を繰り返し思い浮かべる。そのたびに恭佳は手を止め、邪念を追い払うように両頬を力いっぱい叩いた。何度もそうしていたせいで、頬は赤々と腫れている。

 部屋の主がいない書斎で一人、もだもだ呻きながら、恭佳は机に突っ伏した。距離感を誤ってしまい、額がごんっと鈍い音を立てる。

「……幻獣調査って言ってたけど、もしかしてさっきの人、トキさんの、こ、恋……」

「さっきから何をぶつぶつ言ってんだ」

「びゃっ」と意味のない声が喉から出た。慌てて顔を上げると、書斎に戻ってきたトキが怪訝な面持ちで恭佳を見つめている。完全に不審者を見る目だった。

 動揺する恭佳の前を通り、トキは愛用している椅子に腰かける。机に肘を乗せて手を組むと、「それで?」と呆れたようにため息をついた。

「『トキさんの恋……』の続きはなんだ。言ってみろ」

「えっ、あ、いや……」

「『恋人だったりして!』か?」

 図星だった。恭佳は腫れた頬を両手でおさえ、横目でちらちらトキを窺う。

「だ、だって抱き合ってたじゃないですか! いえ別に、恋仲なら抱き合ってもおかしくないんですけど、でも時と場所を考えるべきじゃないかなって、ちょっと思ったり、して」

 なんだか頭と胸がもやもやする。今まで恋人がいるなんて一言も言っていなかったのに、実はいたなんて、どうして教えてくれなかったのかという不満とはちょっと違う気がした。

 恭佳はただの助手であって友人ではないし、家族でもない。教える義理が無かっただけなのかもしれないと思うと、よく分からない虚しさと寂しさが胸を埋めていく。どういうわけか悲しくもなって、トキの顔をまともに見ていられなかった。

 今にも頭の天辺てっぺんからぷすぷすと煙が上がりそうな恭佳に、トキはまたしてもため息をついた。

「抱き合ってたわけじゃねえし、さっきの女は〈機関〉の妻だぞ」

「……え? 立川さん?」

 そう、とトキが頷く。

「俺はちょっと血を吸われかけだだけで」

「はい? 血? 吸う!?」

「ああ見えてあの女、幻獣だからな。吸血鬼なんだからそりゃ血も吸うだろ」

「そ、そうなんですか!?」

 驚きに顔の色をころころと変える恭佳の反応が面白かったのか、トキの唇が三日月を描く。

「っていうか幻獣が奥さんって、なんで!?」

「それは知らん。事情があるんだろ。矛盾だらけで笑えるよな、〈機関〉なのに幻獣が嫁って」

「えっ、じゃあ奥さんならなおさら、お二人が抱き合ってるのを立川さんは止めたりしなかったんです?」

「だから抱き合ってねえって言ってんだろ。あと止めても無駄だって分かってたんだろうよ。面白かったぞ、あいつの顔が嫉妬で歪んでいくの。絶対に忘れねえ」

 くっくっと喉の奥で嗤うトキの顔は、今まで見たことが無いくらいにどす黒かった。

 自分はとんでもない勘違いをしていたと判明し、それはそれで恭佳の頬が赤くなる。同時に、胸の中を占領していた虚しさやらが一気に吹き飛んで、代わりに安堵が広がっていった。

 さて、とトキが大きく伸びをする。その手にはいつの間にか筆を携えていた。

「再開するか。新しい資料も手に入ったしな、さっさとまとめるぞ」

「は、はい!」

 活気に満ちたトキの笑みにつられ、恭佳も力強く答えて笑った。



 出来た、と漏らしたのは、恭佳かトキか。二人同時だったかもしれない。

 トキの机には表紙のない紙の束が一つ、置かれていた。束の右側にはひもが通され、ばられてしまわないようまとめられている。

「俺の予定じゃ夏までに仕上がってるつもりだったんだが」

「夏どころか、もう秋も終わりかけですけどね。……そういえば求人広告を見つけた時に、常吉さんが『焦ってるみたいだった』とか言ってましたけど、そういう理由ですか?」

「まあな。思ってた以上に幻獣の調査が多かったのと、予想外の事態があったりしたおかげで遅れたわけだが、結果的に満足のいくものが出来たんだから問題ない」

 トキが文字を書き、恭佳が清書し、恭佳の父が絵を担当したヨサカ独自の幻獣事典は、しかしまだ完璧に出来上がったとは言えない。まだ表紙はなく、しっかりした装丁でもない。トキの目標は人々の間に行きわたらせる事だが、手元には一冊しかない。

 それでもひとつ区切りがついたことで、恭佳は達成感を覚えていた。事典を手に取ってぱらぱらとめくると、前半はトキが一人で発見した、後半は恭佳とともに調査した幻獣たちが紹介されている。

 トキがレンフナから持ち帰ってきた事典ほど分厚くないが、それでも確かな重みはある。

「なんだ、やけに嬉しそうだな」

「当然です。だってトキさんはヨサカ初の幻獣事典を作った人に、そして私はその助手になるんですよ! 嬉しいに決まってるじゃないですか」

 あぁでも、と恭佳はほくほくと頬が綻んだ表情から一転、寂寥せきりょう感に眉を曇らせた。

「事典が出来たってことは、私のお仕事もこれで終わりですか?」

 今日までのおよそ半年間、休日を除いて恭佳はほぼ毎日一ノ宮邸で過ごしてきた。調査中の幻獣に襲われたり、攫われたりと危険な目に遭うこともありはしたが、記憶の大半は作業の楽しさやトキやシルキーと過ごす何気ない日常に彩られている。

 そう考えると、自分の役目が終わってしまったこの瞬間は、どうしようもなく寂しかった。

「阿呆。まだ終わってねえ」

「?」

「翻訳しなきゃならねえものはまだ残ってる。それに、幻獣事典は一冊しか作らねえなんて誰が言った?」

「……あ」

 そういえばそうだ。確かに言われていない。

 恭佳が目を瞬かせている前で、トキは好奇心と挑戦心に満ちた黄金色の瞳を輝かせて立ち上がる。

「それに他に作りたい事典も出来た。そのためには桂樹、お前の力が不可欠だ」

 はっとしてトキを見上げると、彼の視線から確かな信頼を感じ取る。なにを言われたのかじわじわと自覚すると、なんとも言えない喜びがあふれ出した。

 他の誰でもない、恭佳を必要としてくれている。トキは何気なく言っただけなのかもしれないが、恭佳にとっては今まで聞いたどんな言葉よりも嬉しかった。思わず涙ぐむと、トキはぎょっとしたように目を丸くする。

「嫌なら無理強いはしねえぞ」

「え? あ、違います違います。嫌だから泣いてるわけじゃないんです!」

 慌てて否定すると、彼はほっとしたように肩の力を抜いた。

 出かけるぞ、とトキは恭佳に事典を持たせ、自分は上着を肩にかけて歩き出す。恭佳はすっかり使い慣れたカバンに事典を入れ、どこに行くのかと問いかけながら追いかけた。

「幻獣の調査ですか?」

「いや、家に行く」

「はあ、家。……家? 誰の? 私のですか?」

「そっちにも行くけどな。まずは俺の家だ」

「トキさんの……」

 分かりましたと頷きかけて、中途半端な位置で首が止まる。

 トキはヨサカを治める代王の息子であり、その家ということは。

「代王さまの家!?」

「さっきから驚きっぱなしでよく疲れねえな、お前」

 驚くなという方が無理な話だ。少なくとも、代王の住まいは恭佳のような一般庶民がやすやすと招かれていい場所ではないはずである。

「ちょっと着替えてきてもいいですか」

「は? なんで」

「こんな格好で行ける場所じゃない気がするからです!」

 恭佳はいつも通りの袴姿で、特別に着飾っているわけではない。穴が開いた箇所は繕ったりして使い続けてきたものだし、全体的によれてしまっている。トキはトキでこちらも相変わらず全身黒ずくめだが、少なくとも恭佳より遥かに身なりがいい。

「いいじゃねえか、そのままでも」

「でも……」

 似合ってんだから堂々としてろ、と振り向きざまに笑みを向けられ、恭佳は一瞬だけ足を止めた。次いで頬や耳がぼっと赤くなる。トキは何の気なしに言っただけで深い意味はないだろうが、それでも照れるものは照れる。

「で、でも、なにしに行くんです?」

「蓮希に事典を見せに行くんだよ。量産して、国民の間に行きわたってから『どうだ、すげえだろ』って見せつけるのも悪くねえんだが、行きわたる前に圧力をかけられそうだからな。正々堂々見せに行って、俺の成果を見せつけてやる」

 なるほどと納得しかけて、恭佳は蓮希と相対した時のことを思い出した。以前、彼はこちらが事典の説明をしている途中に紙を破ったのである。あの時に破られた紙はすでに新しく書き直してまとめてあるが、蓮希の行為が無かったことになったわけではない。

 恭佳が懸念を吐露すると、「安心しろ」とトキは言う。意地悪気な声色だった。

「流石に今回破られたら、目の前で修復してやる。破った次の瞬間には元に戻ってんだぞ。怒り狂うあいつの顔が目に浮かぶな」

「次の瞬間にって、そんなこと可能なんですか?」

「お前の手を治した時と同じくらい簡単だ」

「ならどうして、前に破られた時はわざわざ一から書き直したんですか! 手間だったじゃないですか」

「あそこまで破られてると直すのが面倒くせえんだよ。『これとこれが繋がってて、あれはそれと繋がってて』っていちいち考える方が手間だ」

 そういうものなのか恭佳はよく分からなかったが、トキが言うならそうなのだろう。

 彼が明らかに普通の人間ではないというのは、薄々どころかはっきり感じ取っている。だからといって何者なのかと恭佳から追及はしていないし、トキも何も言わない。

 もしトキから何か言われかけたとしても、言わなくていいと制する気さえした。

 ――だって、トキさんはトキさんだし。

「直すで思い出した」トキは手を打ち、上着の内側をあさった。「渡すの忘れてた」

「……これ……」

 トキが取り出したものに、恭佳はしばし呆然とした。

 壊れたはずのかんざしが、以前と変わらぬ姿のまま、彼の手に収まっている。

 同じものを見つけて買ってきたのかと思ったが、使い込まれた雰囲気や、その過程で欠けてしまった部分など、明らかに新品ではない。どうして、と目を瞬いていると、「大事なもんなんだろ」とトキは恭佳の髪にかんざしを挿してくれた。

「悪かったな。作業に没頭してて忘れてた」

「いえ……いいえ……! ありがとうございます……!」

 どれだけ礼を言っても言い足りない。涙を流しながら頭を下げると、懐かしい音が頭の横でしゃらしゃらと鳴った。

 玄関まで見送りに来てくれたシルキーが、恭佳がむせんでいると気付いた途端に手巾を差し出し、トキに非難の眼差しを送る。彼はレンフナ語で面倒くさそうに言い訳をしているが、恐らく「俺が泣かせたわけじゃない」とでも言っているのだろう。恭佳からも大丈夫だと――トキから教わった片言のレンフナ語で――繰り返し訴えると、シルキーはよしよしと恭佳の頭を撫でながら微笑んだ。

 泣き止んだ頃合いを見計らい、二人はそろって邸を出る。ずび、とはなをすすりながら、恭佳は「そうだ」とトキの隣に並んだ。

「幻獣事典、常吉さんと立川さんにも見てもらいましょうね」

「……常吉はともかく、なんで〈機関〉にまで」

「だって幻獣の情報を提供してくれたんでしょう? 敵だか味方だかよく分からない人ですけど、お礼に見せるくらい、いいじゃないですか」

「……別にいいけど、お前は同席すんなよ」

「なんでですか」

「あの野郎、お前の血を美味そうだと思ってやがるからな」

「はい?」

 声が小さくて聞き取れなかった。なんですかと聞いてみても、トキはなんでもないとはぐらかして教えてくれない。気になって何度も教えてくれと頼みこんでみたが、トキは頑として口を割らなかった。

「そういえば『他に作りたい事典も出来た』って言ってましたけど、今度はなにを作るつもりなんですか?」

「ああ、幻操師げんそうしの事典だ。幻獣の数だけ幻操師もいるだろうからな。こっちはヨサカどころか世界初になるかも知れん。少なくともレンフナじゃそんな事典見かけなかった」

「へえ……! でも幻操師って何ですか?」

 きょとんと首を傾げた恭佳に、トキは幻獣を語る時と同じくらい熱のこもった口調で説明してくれる。その横顔を見上げて、これからも彼の助手としてそばにいられることを改めて実感し、恭佳の足取りは自然と弾んだ。


                            終

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ヨサカ幻獣蒐集譚―彼方に集う獣たち― 小野寺かける @kake_hika

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