25

 黒野と見詰め合っていた煝煆は、まるで限界であった風船のように、張り詰めていた笑顔を矢庭に失うと、今度は自嘲の片笑みを作りつつ、肩を竦めて、

「全くね、参ったよ。もう少し国際法や船舶と言うものに詳しければ、こんな死出の旅路などにつかなかったと言うのに。……出港の日を永らく楽しみにしていたのが、馬鹿みたいだなぁ。」

 白沢によって簡単に治療された後、錫杖や剣を没収された上で後ろ手に縛られた蟠桃と不意安は、部屋の隅で座らされていたが、その内の蟠桃が、

「全くだぞお前、……全く、」

 そこまで叫ぶと、口惜しげに頭を垂れつつ、

「あー、畜生。……破壊者テロリストとしても、お前の友人としても、最悪だぜ。どさくさに紛れて不意安と仲良くふん縛られた挙句、それだけならまだしも、」

 そこで言葉を切って、ふと見上げる彼から煝煆へ向けられたのは、口惜しさや恨みなどではなく、明らかな惜別の視線であった。

 見詰められた彼女は、困ったような顔で、身勝手な奴だよな、と独り言ちてから、

「止してくれよ、蟠桃。……そうして見られるだけでも、私へは、とても聞こえるのだ。」

 蟠桃が顔を歪めると、この『悪魔』は、彼の問わんとしたことをやはり表情だけで読み取ったらしく、

「最初からさ。お前達と出会った最初から、或いはこの世界に来る前からずっと、私は『悪魔』とやらだった。そもそも塔也の言ったように、佐藤煝煆というは存在しないのだよ。ずっと、この姿を意図的に象っていただけさ。」

 物思うように、煝煆が少し視線を游がせる。その真に迫った、落莫とした様子が、物理的視力を持たない筈の『悪魔』による演技の恐ろしい洗煉を、黒野に今一度知らしめてから、彼女は訥々と、

「氷織、そして蟠桃よ。この旅路においてお前達は、お前達の生まれの不幸を、つまり、人ならざることや、人から愛されぬことをそれぞれ歎いたが、しかし、どうだろうかね。……別に他人の不幸を敢えて軽んじる趣味は無いのだが、しかし、人ならざる身にして、そしてその正体が絶対に受け入れられないと決まっている私、……つまり、お前達がそれぞれ心の底から血の滲む思いで表明した二つの苦しみを兼ね備える私こそ、中々の不遇者とは思わないかい?」

 彼自身の為していた『悪魔』への評、感情を欠落した「哲学的ゾンビ」というそれを悔いるかのように、蟠桃の顔が暗くなる。日頃悪態や軽口をきながらも、彼が彼女への、一種の同志としての敬愛の念を持っていたことを、その悄然は物語っていた。二つの野望の潰えた今、彼の、尋常な、人間らしい側面が、呪いが解けたかのように現れている。

 そこで、煝煆の悲しげな問いへ応える代わりに、蟠桃の視線が縋る様に変化すれば、

「いや、駄目だ。到着後の検査手続きを考えると、あまりにも危険過ぎる。やはり私は此処で消えねばならぬし、そして、」

 高みから、縛り上げられている奇術師を見下して、

「そしてこの女も、無事でいさせられる法は有るまい。」

 不意安は一瞬顔を凍りつかせたが、しかし、自棄糞な笑みを泛かべると、

「どうなさる、と言うのです? 菩薩の身である貴女が、私を何か害すると?」

 煝煆は、聞こえよがしな溜め息に続いて、

「生憎私はもう仏門の身ではないんでな、……と言いたいところだが、そうだな。お前の言う通り、私は今から、法に准じつつ為すべきことを為そうとするよ。」

 そう述べた彼女は、白沢へ手招きするような仕草を送った。一瞬首を傾げた彼であったが、すぐに諒解して、不意安の錫杖を煝煆へ手渡す。

 興味深そうにその先端をめつすがめつしては、琅然ろうぜんとした音色を長閑のどかに響かせた彼女であったが、やがて、情況を思い出したように相好そうごうを引き締めると、

「不意安。お前の力、良く見学させてもらったよ。それに、大乗の仏門徒同士というのも好都合だった。お蔭で私は、……何を祈り、何を想い、何を描けば時空を操作出来るのか、手に取るように分かったのさ。」

 眉を寄せる奇術師の前で、彼女が、琳琅りんろうと錫杖を一振りする。

 

 南無、阿弥陀仏


 何故か堂に入っている念仏の響きが、ぽつりと発せられては空中へ沁み消えて行った、その刹那。先程不意安の披露したのと全く等しいレンズ効果、空間の歪曲が、煝煆の胸許に発生した。

 人ならざる寿命を以て研鑽してきたのであろう己が秘術を、綽々と模倣された不意安は、目を皿にして呻いたが、『悪魔』は容赦なく続ける。

「そして、……そうだな、何と呼べば良いのかは分からぬが、とにかく貴様が塔也に対して施してやろうと楽しげに意気込んでいた魔術、世界間旅行の為のそれも、どのように実行すれば良いのか、今の私にはまるで知悉されているよ。恰も、歩き方や泳ぎ方のように当たり前のものとしてな。」

 不意安の血の気が、音を伴いかねぬ勢いで引いて行く。

「ば、馬鹿な! そんな、有り得ない、」

 元々色白な彼女であるから、最早紙のような肌色になっていたが、そんな哀れな優婆夷へ、『悪魔』は、

「どうして、有り得ないなどと思うんだい? 不意安、

 たった今披露したように、私は既にお前の魔術を手中に収めており、そして更に、先程お前が高らかに語った願望、つまり、を、お前達が『悪魔』らしいと評する力によって、完全に把握しているというのに。」

 長物である錫杖を傘の如く軽々と操る煝煆は、軽薄にもそれを顚倒てんとうさせつつ、不意安の方へ歩み寄った。その先端の重々しさは恰も断頭斧のようで、そこから鏘然しょうぜんと奏でられる、冥福を祈る音色は、寧ろその威を高めている。

 黒野の抱いたそんな印象と、同じ恐ろしさを抱いたらしい不意安は、歩み寄ってくる処刑人から何とか逃れようと縛られたまま身を捩ったが、しかし煝煆は、だらりと広がっていた奇術師の裾を踏み抜くと、

「そう、恐れるな。他でもない貴様が、この上なく望んでいたことではないのかい? ……尤も、行き先は予定と異なる訳だがな。」

 まるで本当に少女であるかのように不安げに顔を歪める、不意安へ、

「仕方ないだろう。良く知る世界でなければ、幾ら私でも旅行を確実に出来ないよ。とにかく不意安、私はお前を歓迎しよう! ……イロハは嫌う言葉だろうが、〝煉獄〟とでも呼ぼうかな。

 私の故郷、幼年であった私をそこからこの世界へ送り出した連中は、やはり知識に餓えていてな。貴様のような驕り昂ぶった博覧強記の者を連れて行けば、予定より、半世紀程度早帰りしても許してくれるだろうよ。」

 ここで煝煆は、気づいたようにふと瞠ると、矢庭に大笑した。肩を顫わせては、不意安を更に不安がらせる。

「そうか、そうか!」どうにか嚙み殺しつつ、「いやはや、……光栄だよ。これから私は弘法大師と同じく、闕期けっきの罪を、その持ち帰った知によって贖わんと出来るのだからな! 『御請来目録』をしたためた時の大師と同じ挑戦、同じ贖罪を、私は行えるというのだ。これ以上の光栄が、このに有るだろうかね!」

 聞き咎めた蟠桃から、悪態が迸る。

「畜生。結局お前も、に逆戻りかよ!」

 煝煆は、罰当たり至極なこの言葉には取り合わず、

「色々と迷惑を掛けたな、蟠桃。そもそもお前の、イロハへの一世一代の挑戦をこうして台無しにしてしまう訳だし、この船旅も、私の存在が壊したようなものだ。貴様の企んだことの内容は本当に嫌悪するが、しかし友人として、その努力を潰えさせてしまったことについては謝りたいよ。済まなかったな。」

 彼女はここで、実的な問題をふと思い出したらしく、所在なさげなイロハへ、

「で、どうするんだい? お前の夫――じゃなかった、――この男のことは、」

 イロハは、煝煆の放った小さな棘に一瞬苛立ったようであったが、すぐに、惑うかのように目を細めてから、

「そう、ですね。……その訂正、いっそ不要にしてもいいかも知れません。」

 少し間を置いて、はぁ?、とムスリマとムスリムが叫び、その内の白沢が、

「じゃあ、ええっと、何ですか。蟠桃の為した、この上なく人騒がせ、だった求婚は、……しっかり成就してしまったと言うのですか!?」

 最早いつものイロハの如く、くすくすと鷹揚に笑いつつ、

「だって、面白いではないですか。私のことが欲しいばかりにこんな愚かな真似を、日頃の理智に反してこんなも愚かしく犯した男の血は、精液は、どのような子を私に授けるのでしょうか。残りの人生、そんな実験に付き合っても楽しいかも知れません。」

!」蟠桃が、ぽつりと、「その言葉を、貴女が使うとは思いませんでしたよイロハさん! そんな、神学と全く調和しない言葉なんかをね!」

「貴男の粗野や愚昧さに、当てられたのでしょうかね。……永らく共に過ごすと言うことは、恐ろしいものです。貴男などから既に精神的には何か注入されているのだと実感すると、身の毛がよだちますよ。」

 蟠桃を投獄するか追放するか私刑に処すか、というたぐいの回答を期待していたらしかった煝煆は、目を剝きつつ、言葉の毒々しさに反していとも欣然きんぜんとした二人の発する、結婚式の控室のような甘すぎる雰囲気が過ぎ去るのを少し待ってから、歎息と共に、

「まぁ、二人共おめでとう、列席出来ないのが残念だよ。……ところでイロハ、世界を救ってやった見返りに、一つ私から頼まれてくれないかい?」

「おや、」強者の笑みで、「私に出来ることならば、良いのですが、」

 煝煆はこの、全能者の自負を持つ者にしか出来ぬ、傲岸な反語を無視しつつ、

「塔也のこと、もっと普通に外へ出してやって欲しいのだ。私がこの数日で垣間見てしまった、彼の苦しみや冀求は、……ちょっと、並大抵ではなかったのでな。」

 意外そうな顔から、

「そこは、私がどうこうする話ではないですけども、」

「だから私は、どうこうするようにお前から蟠桃へ頼んでくれと、頼んでいるのだ。」

 再び、くすくすとしつつ、

「成る程。……そういう形にすれば、貴女が引け目を感じている蟠桃へは、直截な依頼をせずに済む訳ですね。まぁ、結果は変わらない訳ですが。」

 金髪の『悪魔』は、鼻を鳴らしてから、

「結果なんて、どうでもいいだろう。人生の結果なんて、死んで終わりだ。大事なのはそこまでの過程で何を為し、何を信じるかだ。……私達宗教家は、特にそうではないのかい?」

 この強弁を、何か隙を衝かれたような顔でイロハが受け止めると、煝煆は漸く黒野の方へ顔を向けた。何も話せないでいる彼と同じように、彼女も少し凝固する。

 暫く見詰め合ってから、ぽつりぽつりと、

「不思議だよなぁ、塔也。……一昨日に出会ったばかりなのに、何故かお前は他人でない気がするのだよ。」

 黒野は、此処数分の自分が、別に情け無い理由で蚊帳の外にされていた訳ではないと理解した。煝煆も抱いていたのらしい、母親のような愛情を押し殺す為に、彼女も必死であったのだ。

 別世界への、漂流者。この密かな共通点が、これ以上の無い紐帯として、黒野がそれを暴く前から、孤独な二人を確乎と結んでいたのである。

「何と、言ったら良いか、」

 恰も幽鬼の如き覚束ぬ足取りでやって来る彼女の、脆そうに揺れている肩。それによって見えつ隠れつしている光景を見て、しかし、黒野の、血の気が引く。

 いましめられていた筈なのに、いつしか立ち上がっている不意安。何か、鋭い刃物を右手に握っている。

 彼は、悲鳴を上げる直前に思い出した。そうだ。この女はそもそも奇術師で、ならば、束縛を解くことや、そのついでに蟠桃からナイフか何か一本盗むくらい、きっと造作もない筈で、

 彼の歪んだ表情の意味を完全に把握した煝煆が、血相を変えて振り返る。自由なる優婆夷は、良く研がれた氷刃を気怠げに構えては、狂えた笑みをその少婦面に湛えていた。

 奪った錫杖を握っていた煝煆は、自らの得物を構える前にそれを抛り出す必要が有り、イロハらはすっかり離れていた。よってここから数秒の間、不意安は、なんら脅威に苛まれること無しに全く自由に振る舞えたのである。

 狂信の優婆夷が、その自由を謳歌する。刃の煌めきを避雷針の如く突き上げると、器用に逆手へ持ち変えては、左手を添えて顎の前辺りまで下ろして来た。マイクを両手で握る歌手のようだ、様になっている辺りは流石だな、と、黒野は混乱した頭でぼんやり思う。

 魔術では間に合わぬと判断したらしい煝煆と、そもそも空手の氷織が、その愚行を力尽くで止めるべく飛びかかろうとしている。彼女らの手が届くまで、あと、二歩か三歩か。その刹那、兇刃は振り下ろされた。

 力一杯突き刺さる刃、どよめく「馬鹿者が!」という絶叫。反射的に煝煆がそのナイフを引き抜くと、の胸許から鮮血が噴出した。刹那的であった自由を尚も謳歌しているかの如く、遺憾なく迸った紅は、煝煆の魔女服を凄く染め上げた筈であったが、しかし黒地に吸収されては、そこで全く消え失せたかのようでもある。

 終わったのだ。彼女も、彼女の華麗なる自由も終わった。黒野はそう直観した。

 そうして、崩れ落ちる不意安を、煝煆は揺すりつつ立たせようとするが、無論そんな真似は何の役にも立たない訳で、自分の領分だという緊張感と図々しさで白沢が飛び込んでくる。

 しかし、面を上げた不意安は、

「呪いますよ、医者坊主。私に指一本でも触れたら、何か毫にでも治療を施したら、私は浄土から貴男を呪い続けます。」

 苦痛に歪んだ相好。長過ぎる牙の如く、脣から垂れている吐血。それらの放つ威が、医療者としての誇りを凌駕して白沢を黙らせる。

 そして不意安は、彼のことなど視界にも無い様子で、

「ちょっと思いついたんですがね、煝煆さん。貴女がそんな自信満々に世界間旅行へ挑めると言うのなら、もしもそれを、私への懲罰や貴女の言い訳になぞ使ってしまうとなれば、あまりに虚しすぎるではないですか。そんな、大いなる力を下らない仕事へ投じてしまうのは、いくら何でも勿体ないと思われるのです。最早、人道的な罪にすら当たるかも知れません。」

 一つ、血腥く咳いてから、

「煝煆さん。貴女の力、……黒野さんを故郷へ、つまり、黒野さんにとっての『現代』へ帰還させるのに、用いては頂けないでしょうか。」

 煝煆の見開いた目を、黒野が、希望の眼差しで見咎める中、

「ほら、……どうせ私は、放っておいても死ぬのですから。」

 突然遺志を託されつつある煝煆は、全くな想定外の提案を受けた者の、表情や吃音と共に、

「確かに、……そうだな。やりようによっては可能だろうが、しかし、」

 訝しげな瞳で、不意安を見据えつつ、

「一体、どういう了見だい? あれ程放恣に振る舞い、世界すら喰らおうとしていた貴様が突然、自分の命をなげうって塔也のことを懇願するなど、」

 見る見る生気を失って行く不意安の顔で、今一度、右頬が吊り上がった。そうして歪んだ脣を、しかし最早、動かすことすら大儀な様子で、

「お戯れを。確かに私は殆ど化け物で、その願望通りに振る舞ってきたかも知れませんが、しかし、それ以前に私は一人の優婆夷なのです。法然上人の教導により法門を修めることが、私の窮極な目的であり、ならば、……完全に大志の潰えた今、せめて誰かの為に、私に出来ることをせずに居られる法が御座いましょうか。

 前途の有る若者が元の世界を想い焦がれており、その想いが、どうせこの先ロクな目に遭わない私の命によってあがなえるならば、……いい加減抛ちましょう、こんな、あまりにも古びた命など、」

 これをじっくりと聞き終えた煝煆は、とうとう息も絶え絶えになった不意安から、あっさりと視線を外した。彼女のことを軽んじているからではなく、寧ろこれ以上もなく尊んだ結果、つまり、その無私と犠牲に魅された結果、その生死には興味を無くし、ただ、委ねられた仕事へ神経を研ぎ澄まし始めたのである。少なくとも、黒野はそう理解した。

「イロハ、」錫杖を拾い直してから、「頼みを変えよう。この船旅の後始末、しっかり頼んだぞ。」

 困ったような、うそ笑みで、

「円卓が破壊されて血塗れの船室と、行方不明者が二人に刺殺体が一つですか。……まぁ不意安さんの身柄に関しては、海へ棄てても構わないでしょうが、」

 とにかく何とか承りましょう、と、政界の覇者らしからぬ渋さで彼女が答えると、蟠桃が、何か忌ま忌ましげに遠くから毒づいてくる。

 どうやら彼の母語であったらしく、皆意味を解せずに眉を顰めたが、煝煆だけは、したり顔で黒野へ近づくと、

「『この気違い共が、』……だとさ。」

 彼女はそれから元通り背筋を伸ばしつつ、相変わらず不意安へは背を向けたまま、

「案ずるな、安らかに往生しろ。貴様のことは嫌いだが、私とて塔也の力にはなってやりたいのだから、そこまで頼まれては断れまいよ。」

 彼女が意識を、黒野へ向ける。天井からの、結局最後まで彼が原理を理解出来なかった照明を受けて、金の八字眉が誇らしげに輝いていた。

「思い泛かべてくれ。お前の故郷を、お前の父母を、友人を、そして何より、お前の望郷の念を、今一度、

 そしてその情動によって、表情を崩してくれ。私は、具体的な手に取るようにそれを把握し、確実にお前の世界への旅路を開くよ。」

 静かに頷いた黒野へ、念を押すように、

「頼むぞ。哀しくなるほどに、真剣にだ。……なに、案ずるな。そんな悲哀、私がすぐに癒してやるのだから。」

 煝煆が佇まいを整えると、それが指揮であったかのように張り詰められた、暁闇の伽藍の如き雰囲気の中で、長い経が称え始められる。あの、舞台の上でプラネタリウムショーを演じた時の不意安と、全く同じ姿勢、全く同じ錫杖の構え方、全く同じ眉の寄せ方で、詠誦は進んで行く。

 黒野は、つい周囲を見渡してしまった。自分の命は助かり、煝煆とも別れずに済み、そして何より元の世界へ帰還出来る。あまりにも突然に僥倖ぎょうこうが重なった結果、煝煆の正体に気づいた時の絶念が嘘のように、今の黒野は希望に満ち溢れているのだった。夢か現か、とぼんやりしてしまう頭で周囲の様子を眺めると、イロハは早くもこれからの気苦労に頭を重くしている様子で、守谷は、意外とおどおどとせずに粛々たる様子で此方を見守っている。氷織は、不意安の覚悟を理解出来るらしく、瀕死の彼女へ飛びかかろうとしている夫を、懸命に押さえているのだった。

 そして蟠桃一人は、凄まじく巻き起こった騒動の中でも、イロハとの成婚がとにかく嬉しいようで、静かに一人相好を崩していたのだったが、黒野に見られていることに気づくと、再び、彼の母語で何か叫び返して来る。

 何か恨み節でも吐かれたかと、萎縮する黒野へ、

「『風邪とか引くなよ、』……だ、そうだ。」

 その言葉に彼女の方を見直せば、早くも自分のものとしている錫杖を、堂々と振り上げている所だった。『悪魔』でもないのに、黒野も直観する。あれが振り下ろされる時、自分はするのだ。

 友人や両親は、どうなっているだろうか。そもそも自分は元の世界のどの日時に帰還するのだろうか。そして煝煆は、此方でどう過ごすつもりなのだろうか。日本の僧集団に参加することを冀求ききゅうしていた、と確か語っていたが、それが現実的になったことで、心から喜んでいてくれたりもするのだろうか。

 突然の解決によって何も覚悟が決まっていない彼の、そんな纏まらぬ思考は、次の瞬間の、物凄まじい衝撃によって全て吹き飛ばされた。

 時空の奔流の中で、彼は思う。華々しき狼藉と無私を見せた不意安や、己が不幸を昇華した蟠桃や氷織の生き様に触れたことは、今後何かしらの形、それが成功なのか文化なのかは分からねど、とにかく何かしらのものへと体現せねば、それこそ、不意安の言い回しではないが、世界転覆に相当する重罪に当たるのではないか、と。


(了)

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