第44話 過去への決別
あぶなかった。
心臓を今にも吐き出しそうなくらい鼓動が荒い。
全力で走ったこともそうだし、何より後、一秒でも遅ければ、間違いなく未来視の通りになっていたという緊張感もあった。
そしてまるで灼熱のような痛みが襲った。
絶対、明日は学校サボって寝てやる。
そんな決意をした俺は、目の前で声を荒げるレインコートの男──朝霧の弟の腕を掴んで手首ごと捻った。
「あぐっ!?」
朝霧の弟は、軽い悲鳴を上げて手を抑える。
カランとナイフが地面に落ちた音がした。そしてすぐに俺はそれを遠くに蹴り飛ばす。
「な、なんだよ! 誰なんだよ、お前ぇ!! じゃ、邪魔しやがって!!」
威嚇するようにこちらを睨みつける朝霧の弟。
こちらも少し呼吸を整えてから質問をする。
「お前、朝霧の弟だろ? なんでこんなことするんだ?」
「うるさい!! お前、あの女と一緒にいたやつだな!? また邪魔しやがって! クソクソクソッ!!」
朝霧の弟は汚い言葉を繰り返し、苛立ちを隠せずにいた。
また、と言われたが身に覚えがない。
「なんでもクソも何もあるかよ。そいつが悪いんだ。俺の成績が落ちたのも、学校でうまくいかないのも……全部全部そいつが、出来損ないがいるから悪いんだ」
冷静に話が出来そうない。熱くなっているのか、元来の性格なのか、判断できない。
朝霧はというとそんな弟を見て、困惑の表情を浮かべていた。
「わ、私が何かしたの……?」
声にならない声で朝霧は弟へと問いかける。悲痛な面持ちのその姿は見ていられないほど痛々しいものだった。
「姉ちゃんにはさぁ、わからないよね? 姉ちゃんと違って僕は親に期待されている僕の気持ちが」
「──ッ」
親に期待されたくても一切興味を持ってもらえなかった朝霧。そんな彼女にとってはあまりにも残酷な言葉だ。
「そんな僕が思うように結果が得られなかったらどうなると思う? 口を開けば、次の模試で1位を取れば大丈夫だとかなんとか言ってさ」
朝霧の弟はまるで堰を切ったように言葉が溢れ出る。
「挙句の果てには東大に行けるとか、医者になれるとか、あの人たちは現実が見えてないんだ。お笑いだよね、僕は下から数えた方が早いって言うのに。……いい加減、うざったいんだよ。過剰な期待ばっかりする親もくだらないことで楽しそうにしてるクラスの連中も僕がこんなにも苦しんでいるのに、僕より下の分際で楽しそうにしてる姉も。全部全部クソ喰らえだ」
全てを吐き出した弟は息を荒くしている。
後ろの朝霧はショックを受けている。当然のことだろう。ただでさえ、実の弟に襲われたというのに聞かされたのは歪んだ弟の本性だったのだから。
朝霧は、両親が姉弟を優劣をつけて育てたと言っていた。
そのせいで物事がうまくいかなくなった時、肥大化した弟のプライドは暴走した。大方、自分より劣っていると思っていた存在が、自分の知らないところで楽しそうにしていたのを知り、その対象に矛先が向いた、というところだろうか。
でもなぜだろうか。確かに朝霧の弟の言い分はめちゃくちゃだ。思い通りに行かないから、たった一人の姉を刺す? そんなことが罷り通るはずもない。
だけど……俺はそんな彼の気持ちをわからないでもなかった。
朝霧のことで学習したはずなのに、それでも哀れに思うことをやめられなかった。
こいつも親の教育による被害者だ。
「な、なんだよ、そんな目で僕を見るな!!!」
「かわいそうなやつだよ、お前は」
「お前にぼ、僕の何が分かるッ!!」
「分かるよ。俺だって、親を何回殺そうと思ったか」
「!!」
「──っ」
「その度に思ったよ。そんなことをして何の意味があるんだって。そいつらのために自分の人生を無駄にする必要がどこにあるのかって。……一番は妹のためでもあったけどな」
「……じゃあ、僕は一体どうすればよかったんだよ……」
「んなもん、お前で考えろよ。お前はどう思っているか知らんけど、少なくともさっきまで、お前の姉はお前のことを大事に思っていたぞ」
入ってしまったヒビはもう元に戻らない。
それでも時間をかければ、そのヒビを広げないことはできる。その上から新しくペンキを塗り足すことだって可能なはずだ。
「僕は……」
朝霧の弟は静かに涙を流した。
「優斗!?」
「ッ!? な、なんで……?」
そこへ車から降りてきたスーツを着た女性が朝霧の弟の元へ駆けてくる。
その女性はレインコートを着た朝霧の弟と落ちているナイフを交互に見て、一瞬狼狽たが、すぐに表情を冷静なものに切り替えた。
弟はその場に固まり、さっきまでの威勢はすっかり消沈してしまっていた。
……どうやら、間に合ったようだ。
スーツの女性は、朝霧の弟に何かを言い聞かしている。所々キツい言葉が投げかけられているのがわかった。
朝霧の弟は、それを黙って聞いていた。
そしてスーツの女性は話を終えるとこちらに向かってきた。
「あなたね。母さんが言っていたのは」
「そうです。息子さん見つかってよかったですね」
「ええ、そうね。お礼は言わせてもらうわ」
スーツの女性──朝霧の母親は表情を崩さずにそう言った。
俺が倉瀬の元を離れた際、視たもう一つの未来。
それは都合よくも朝霧のおばあさんが雨の足元の中を転びそうな未来だった。
聞けば、朝霧を心配して探し回っていたらしい。そこへ朝霧の母親から電話がかかってきたのだ。
だが、そんなことは今はどうでもいい。
「……それだけですか?」
別にお礼の品をよこせと言っているわけじゃない。
この状況、明らかに普通じゃない。それが分かっていてそれだけなのは異常だ。
俺がそう言うと朝霧の母親は深くため息をついて口を開いた。
「そうね、謝礼なら払いましょう。だからこの事は黙っておいてくれるかしら? 今、この子大事な時期なの。あなたも受験を受けた事があるなら分かるでしょう? こんなことでこの子の人生が台無しになるなんてありえない。この子にはお父さんの病院を継いで立派になる責務があるのだから」
「……なんだそれ」
勝手なことを言った朝霧の母親は、すぐに弟の元へ戻ろうとする。
呟きがかき消された俺は、その場に呆然とするしかなかった。
下の下の下のクソみたいな言葉。
はらわたが煮えくり返るとはこういうことを言うんだと実感した。
俺が聞きたかったのはそんな意味のわからない言葉じゃない。あまりに当然のことのように言うから、一瞬まじで俺の頭がおかしくなったのかと思った。
「この状況を見て、言う言葉がそれかよ」
そして一瞬で沸点に達する。俺の言葉に朝霧の母親は立ち止まる。
「襲われたのはあなたの娘でもあるんだぞ? そして襲ったのはあなたの息子だ。それだけで本当に終わらせるつもりか?」
怒りが滲み出る。もう自分には出せないかと思っていたような感情のうねりが止まらず溢れ出てくる。
気がつけば敬語ですら無くなっていたが、そんなことはどうでもいい。
「…………あなたには関係ないわ。これは親子の問題よ。その子も弟のためと分かってくれるでしょう」
一瞬、俺の後ろに控える朝霧を一瞥したかと思うと、また冷たく突き放した。
「何が親子の問題だよ。そいつのしたことはただの犯罪行為だ。それをわかっていっているのか?」
俺は後ろにいる朝霧の顔を見た。
恐怖、驚愕、そして混乱、悲嘆に満ちたその表情はどれもが入り混じったようだった。一方の弟は、無の表情をしていた。
「なんでそんなことをしたか、その子に聞かないんですか?」
「聞いて何になるの。この子は疲れている。ただ、それだけよ」
ダメだ。本当に。この人は──。
「あんたらはいつだってそうだ。何も見えちゃいない」
「何──」
「子どもはあんたら親の理想を叶えるための道具なんかじゃない!!」
「──ッ」
朝霧姉弟は立派な被害者だ。この親の教育によるものの。
後ろから朝霧の鼻を啜る音が聞こえた。
「子どもを育てたことのないあなたに何が分かるっていうの!? 何も知らない子どもが……。あなたにはわからないかもしれないけど、大人の世界は厳しいの。より過酷な競争社会が待っている。そのためには──」
「あんたがそういうつもりなら、俺にだって考えがある」
言い訳なんて聞きたくない。朝霧とその両親のことなのに、完全な部外者であるはずの俺がなぜかこの場で一番腹を立てている自信があった。
俺は右手を相手に見せるようにして言った。右手からは血が滴り落ちた。
「……ねぇ、それ……手……!!!」
朝霧は急に俺の手を見て、叫んで駆け寄ってきた。一瞬で泣きそうな顔になり、心配した表情が窺える。
俺の手からは、真っ赤なトマトジュースのような液体が垂れている。
このタイミングで朝霧が心配してきてくれるなんて、ちょっと予想外。さっきまで心配をかけまいと見えないようにしていたのが仇となった。
「あー、いや、さっき間に入った時にちょっと……」
「大丈夫なの!?」
「ま、まぁ、薄皮ちょっといったくらいで血は出てるけど、別に大したことない。だから、ちょっと離れて」
朝霧にしか聞こえないような声でそう言った。
嘘です。ぶっちゃけ泣きたいくらい痛い。
だって手を直視できないもん。どうなってるか、わからないって本当に怖い。
しかし、その事実を無視して俺は朝霧の母親に向き直る。
「今から、警察を呼ぶ。そのナイフにはその子の指紋がべったり付いてんだろ。俺の血もな。そうすりゃ、どうなるかくらい分かるだろ」
「ッ!?」
朝霧の母親はわかりやすく焦りの表情を見せた。弟は無反応だった。まぁ、あれだけ説教くさい事言って、やっぱ警察呼ぶわはちょっとダサい気もするけど。でもこれくらいしないとこの母親はわからない。
「や、やめなさい! そんなことをすれば」
「知るか」
俺は無視して、スマホを取り出す。片手辛い。
「わ、わかったわ。謝る。謝ればいいんでしょう?」
「俺にじゃない。分かるだろ?」
「──ッ! わ、わかったわ」
そう言うと朝霧の母親は、朝霧の方へと向き直る。
「わ、悪かったわ」
それだけ言って、軽く頭を下げた。
このとりあえず謝っておけばいいやろ感。もうちょっと隠せよ。
これだけじゃあ、右手の代償とは釣り合わないよな。
あ、絶対俺、今悪い顔してる自信ある。
「それだけ?」
「こ、これ以上何をしろって言うの?」
「日本人には、誠心誠意謝るときにするスタイルってもんがあるだろ?」
半ば無理やり無茶振りをふっかけてやった。
勝手に朝霧の気持ちを代弁して申し訳ないが、これくらいしとかないとスッキリしない。(俺が)
「こっ、ここで土下座をしろっていうの!?」
先ほどまで降っていた雨。地面は当然の如く、びしょ濡れで汚れている。
「さぁ? 110って簡単に架けれるからいいよな」
「──ッ」
俺がスマホを操作しながらそんなことを言うとこちらをキッと睨み、覚悟を決めたのか、その場に膝をついた。
そして、もう一度朝霧を見て、深く頭を下げた。
「ご、ごめんなさい……」
それを見た朝霧の反応はというと、初めは戸惑っていた。そして俺と目があう。俺が頷くとすぐにその表情は変わった。
そして──
「──もういい!! 二度と私に関わらないで!! 帰って!!!!」
そう叫んだ。
そしてそのまま朝霧の母親と弟は逃げるようにして、車に乗って帰っていった。
弟は車に乗る時、こちらを見て、小さく会釈していた。あの子なりに何かが変わってくれればいいが。
二人を見送った後、朝霧は肩で息をしていた。
今まで苦しめられてきた過去との決別。生半可なものではなかっただろう。
そんな朝霧に俺は声をかける。
「大丈夫か?」
「…………」
聞いておいてなんだが、大丈夫なわけないだろうな。今、この瞬間にいろんなことがありすぎた。信じていた弟に裏切られたこともそうだし、母親と決別した。精神的負担は両親と見捨てられた時以上のものがあるかもしれない。
「……ごめんなさい。怪我をしたのはアンタなのに……勝手に帰しちゃった」
「いや、気にしなくていい。あのままだったら俺も通報してたかもしれないけどな。朝霧があれでいいんならもう、気にしないよ」
正直、俺も怪我してるし、警察に問答無用で突き出してもよかったかもしれない。そうでもしないとあの偏屈な考え方は治らないと思った。
それでも、朝霧の家族だ。
家族が犯罪を犯すということがどういうことかは俺が一番わかっている。
朝霧には、そんな道を進んでほしくない。甘いかもしれないが俺一人泥を被ってすむならそれでいい。願わくば、朝霧の弟が今後の人生で道を踏み外さないでいてくれることを望む。
「それでもう一回聞くけど、大丈夫か?」
「…………今はまだ、わかんない。頭が混乱しちゃって……でも、ちょっとスッキリした」
「そうか」
朝霧はようやく笑顔を浮かべた。強いやつだと思った。
「ねぇ、それより本当に大丈夫なの? 血が……」
そしてすぐに不安そうな顔に戻り、俺の右手を指して言ってくる。
血の量を見て、顔色がどんどん曇っていく。
「ほら、大丈夫だって! この通り……いつっ……ぁ……」
大丈夫アピールしようとしたら墓穴を掘った。
朝霧は今にも泣き出しそうだ。
「バッカじゃないの……なんで……? どうして庇ったの!? 私、酷いこと言ったのに……」
そしてまたすぐに俺との言い合いを引き合いに出して、大粒の涙を流しながした。
……泣かれるとこちらもどうしていいか、わからなくなる。女の涙っていうのは最終兵器とよく言ったものだ。
お前を守るためなら、この右手くらい……。
あ、ダメだ。クサすぎる。
気の利いたセリフなんて俺の口から出てくるわけもない。
……というか、別に酷いことを言われた覚えもないけどな。
「アホか。酷いこと言ったからってそのまま刺されるのを見ていられるわけないだろ。勘違いすんな、目の前で同級生が土手っ腹に穴開けられるショッキングな映像見せられたら、三日は寝込むわ」
あくまで自分のためにそうした。ただそれだけだ。一番最初に朝霧を助けた時もそうだった。
「…………ごめん」
朝霧は小さく謝った。何に対する謝罪かわからなかったけど、とりあえずは受け取っておくことにしよう。
「どういたしまして。後、言うならありがとうな」
「……ありがとう」
それからとりあえず、病院へと行った。
そしてやっとのことで治療から解放された時には、もう空に丸いお月様が浮かんでいた。
すっかり雨は止んで、雲の隙間から顔を覗かせている。
「大丈夫か、朝霧」
疲労感が凄まじい。治療の間、朝霧はずっと待っていてくれた。
そんな朝霧にもう一度、同じ言葉をかける。冷静になった今、あの時よりも考えることがたくさんあったはずだ。
「……うん。不思議な感じ」
「……そうか。一人で抱え込むなよ」
「……うん」
俺が言っても説得力はないが、そんなことを知らない朝霧はうなずいた。
「優李ちゃん!!」
そこへ、倉瀬の声が聞こえた。
倉瀬は心配そうな表情でこちらへと駆け寄ってきて朝霧に抱きついた。
「な、七海!?」
「優李ちゃん! よかった……伊藤くんに聞いて……飛んできたの」
「……そう。心配かけたわね」
「……ホントだよ……うぅ……」
「ちょ、七海!? なんで七海が泣くの!?」
「だってぇ……ごめんね……優李ちゃん……ご両親のことで悩んでいるのに力になってあげられなくて」
「…………私こそ、心配かけてさせてごめんね……ぅぅ……」
友達って素晴らしいね。連絡しておいてよかった。
二人を見てしみじみ思う。
その後、倉瀬が俺の包帯だらけの右手を見て、卒倒しかけたのは別のお話。
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