第40話 愛されなかった私と愛された弟

 私は、両親に愛されていなかった。

 ネグレクトというらしい。元々、跡取りの男の子が欲しかったという両親は私の誕生に心底ガッカリしたそうだ。

 それでも両親なりに愛情を持って私を育ててくれた。


 だけど二年経ってすぐ、念願の男の子である弟──優斗が生まれた。

 それから両親の愛を一身に受け、優斗は育っていった。


 比べて、私への扱いは徐々に酷くなっていった。衣服や食べ物、おもちゃに至るまで弟と差ができるようになっていた。

 私が物心ついた時にはそれがもう当然で、私はいつも弟がいらなくなったものや余り物のご飯を与えられていた。服だって、ほとんど買ってもらえなかった。


 家ではいつも端っこで本を読んでいた。これも優斗がいらなくなったボロボロのものを仕方なくもらったもの。

 家にあるありとあらゆるものは優斗のために用意されていた。


 私は、あの人たち家族の中に入らないように、静かに影のように過ごしていた。


 何かを無理やりやらされるということはなかったのは幸いだったが、彼らは弟の前で私が如何にどうしようもない存在かとこき下ろし、反面教師の材料として扱われていた。


 だけど、優斗だけは違った。

 優斗は、両親がまるで腫れ物に触れるように扱う私を両親に隠れて、優しくしてくれた。


 たまにおやつを分けてくれたり、ものをくれたり。

 私がしてもらえないことを全てしてもらえる優斗は、私に施しをくれた。


 優斗は優しく微笑んでくれた。

 もし、優斗が私と同じように両親から酷い扱いを受けるようになったのなら今度は私が優斗を守ってあげなくちゃいけない。


 そう心に誓っていた。


 だけどそんな秘密のやりとりもいつかはバレる。

 それを知った両親は、激しく怒り、優斗を叱りつけた。

 私はそんな優斗を庇おうとして、両親に抗議した。結果、初めて両親に暴力を振るわれたのだった。


 それにより、意識を失った私。家庭内暴力を疑われた両親だったが、普段全くと言っていいほど暴力を受けたことはなかったので、その一回が罪になることはなく、事故として処理された。


『酷い事故』で精神的ショックを受けた私は、祖母の家で暮らすこととなった。


 その頃の私はもう何もかもが嫌になっていて。自暴自棄になっていた。

 実の両親に捨てられたという事実。いくら私のことを邪魔に思っていても本音では捨てられるはずがないと思っていた。

 きっといつか昔みたいに優しい両親に戻ってくれる。そんな淡い期待があったのかもしれない。

 でもそんな日はついに訪れなかった。


 そんな私に、転校してきて初めに声をかけてくれた子。それが七海だった。


 私は、誰かに必要として欲しかった。

 みんなにじゃなくていい。誰か一人でもそう思ってくれたら……私という存在にも価値があるんじゃないか、そう心の底で思っていた。


 それなのに素直になれなかった。

 また、必要としたら誰かに怒られるんじゃないか、失ってしまうんじゃないか、そんな恐怖に怯えて遠ざけてしまった。

 それでも拒絶する私にずっと付いてきて、それはもうしつこいくらいで。

 初めは鬱陶しかったはずなのに、気が付けば大好きで大切な人になっていた。


 それから私は七海のために生きようと思った。

 それ以外は知らない。必要ない。

 そんなことを言うとまた七海が怒るものだから、私は少しずつだけど、他人と関われるようになっていった。


 いつまでもこんな暮らしが続けばいいと思っていた。

 あの人達のことなんて忘れて、私はここにずっといる。そう思っていたはずだった。


 それからは今の通り。

 

 だからゴールデンウィークに優斗がきたことは驚いた。もしかしたら、優斗もあの息苦しい家を飛び出したかったのかもしれない。

 なんとなく姉の私にはそう感じた。

 私には優しかった優斗に今度は私が優しくしてあげよう、そう思ってゴールデンウィークを過ごした。


 それでも優斗をかぎつけてあの人たちがここに来てしまうかもしれない。

 久しぶりの弟との再会にもそんな恐怖心が芽生えていたのも事実だった。


 ──ピシリ。


 何かがヒビ割れる音がした。やっぱり私はあの人たちから逃れることはできないんだ。

 心の奥底へ沈めていた感情が蘇ってくる。

 数年経ってもうあの人達のことなんて克服できたと思っていたけど、やっぱり今でも私はあの人たちが怖いのだ。

 単に考えないようにしていただけ。


 そんなハリボテの心で母親に出会ってしまった。

 そして、ついに割れてしまった。


 それからはあまり覚えていない。まるで母親の言葉が命令のようにインプットされていて、気が付けばまた水原町へと戻ってきていた。


 ◆


 ***


 雨が降っている。


 俺は雨の中、ずぶ濡れで立っている。

 俺の視界に映っているのは、倒れた少女とレインコートの男。


 俺はその場から動けない。


 すると、レインコートの男がこちらに振り向いた。


 フードから覗くその顔は……いびつに笑っていた。


 少し幼い顔立ち。

 右目には小さな泣きぼくろ。


「……──!!」


 倒れている少女の名前を叫んだ。


 ***


 ツンとアスファルトの濡れる匂いがする。

 外を見ると小雨が降っていた。雲の隙間はたまに光り、ゴロゴロと音を立てる。

 今に大雨に変わりそうな天気だった。


「うーん……」

「なんだ、新世。変な声出して。恋の悩みか?」

「違ぇよ。頭が痛い」

「恋に悩みすぎて?」


 違うっつってんだろ。


 さっきの授業で居眠りをしていた俺は、また夢を見た。

 またあの時と同じ夢。うちの女子生徒が刺される夢。刺された少女の顔はわからなかったが、男の顔は見えた。


 これって、やっぱり未来予知の一種なのか?


 そう思わずにはいられなかった。倉瀬の件がある以上、この出来事が起きても不思議ではない。


 そしてその夢を見てから、本当に頭が痛くなった。割れそうなくらいに。元々、この変な体質になった日から度々頭痛は起こっていた。医者によれば偏頭痛だそうだ。

 だから今回も天気が崩れたことによって、それが原因で頭痛を引き起こしているものだと思っているのだが……かなりしんどい。


 ここまで痛いと気が滅入って、午後からの授業も受けられそうにない。

 帰って寝よう。


 そう結論を出すのに時間はあまりかからなかった。


「草介。悪い、早退するわ」

「そんなに!? 重症だな……」

「ああ。家に帰って横にならんとどうしようもない」

「恋って素晴らしいね」


 さっきから会話が噛み合っているのか、いないのかよくわからんが草介を無視して、俺は鞄を取り、席を立つ。


「あれ? 伊藤くん帰るの?」

「ああ、体調不良」

「大丈夫?」

「まぁ、寝たら治る……と思う」

「それならいいけど……」


 倉瀬はどこか暗い表情で俺の心配をしてくれている。

 隠しているつもりだろうが、明らかに不安がっていた。


 その理由は、朝霧から連絡が返ってきていないからだろう。


「大丈夫だって。そのうち連絡くるよ」

「あ……うん……そうだね」


 自分の思っていることを言い当てられた倉瀬は、少し驚いた様子で、そしてすぐに明るく振る舞いながら返事をした。


「じゃ、帰るわ」


 そう言って、俺は教室を後にする。


 玄関を出てから空を見上げる。


「ちょうど止んでよかった」


 未だに空は薄暗いが雨は止んでいた。だが、一時的なものだろう。今にまたすぐに降ってきそうだ。

 念のため、折り畳み傘を持ってきておいてよかった。これでどこまで凌げるかはわからんが、ないよりはマシ。

 

 うっすらと濡れた地面を気にしながら歩き始めた。


 頭は相変わらず痛い。こちらはマシになるどころかジンジンと強くなっていく。


「ああー、まじ五月病。明日、絶対に休む」


 誰に言うでもなく、一人で決意を述べながらダラダラと歩く。


「ん……?」


 そんな折、俺の目に意外な人物が飛び込んできた。そいつもまた、暗い表情でどこかへ向かって歩いている。


 いつもならそんな状況、関わるのも面倒だと切って捨てるが、そうはいかない。なぜならその相手が絶賛、倉瀬が心配中の朝霧だったからである。


 俺もそんな姿を見てしまった以上、素無視するわけにはいかなかった。


「はぁ……」


 頭をガシガシ掻きながら、俺は朝霧に近づく。


「何してんだよ、こんなところで」


 髪が少しだけ濡れていた。ちょうど雨が止んでよかったな。そう言葉をかけようとしたが、そいつがまるで死んだような瞳でこちらを見ているものだから、言葉に詰まってしまった。


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