第10話

季節を数週間早めたような低い雲が、足と心を重くさせていた。待ち合わせ時間より二十分も早くに到着した私はスマートフォンを覗くのも飽きてしまい、ぼんやりと行き交う人と、降り出しそうな空を眺めるのを繰り返す。一度は前向きになった気持ちも、やはり揺らぎ続けていた。

「あんな人間、本当にいたのだろうか。」 

 あの葬儀の日、一目見て気になったあの男を思い出してもまだ現実味が湧いてこない。未だに夢だったのではないかとも思ったりする。多分、追いかけようと思えば追いついたのだと思うし、なんなら大声張り上げて引き留めることも出来たのだろう。だけれど、私はそうしなかった。それについて、いくらでも理由は浮かぶ。そう、私はあくまでも場に則した、人として正しい対応をした。どう考えても、その選択が正解だった。

 方や、前号の雑誌企画が通ってから、取材を行っている間。私は何故、あの男を引き留めなかったのかと何度も後悔をしていた。記事として文章を書く為には、根拠となる事実が必要になる。私の手元にある情報や人脈の中で、彼こそが私の書くべき記事の根拠だった。既に決定的なチャンスを逃した自分に対する呵責を、私は正論で延々誤魔化し続けた。

 雑誌作りを行う中で、私はあの場で正しい振る舞いをしたのだと、そう思わなければ自分が保てなかった。実際「問題なく対処した」といくら納得したところで、結局目の前の記事はまったく進んでくれはしなかったが。白紙のテキストエディタに浮かぶカーソルのイメージは、今も頭の中で点滅している。一本の線が浮かんでは消え、浮かんでは消える。目の前の点滅する信号に重なって繰り返される自責と諦め。その象徴のようなノイズは今日の日を迎えても、頭の中に響いていた。

「ごめん、お待たせ!」

 ぼんやりと続く雑念を切るかのように、不要なほど大きな声が聞こえた。午前十時を回り集合時間から三分ほど経った時、半地下の駅コンコースからスーツ姿の男性が姿を現した。ランチ時には多少早いものの、土曜日の池袋駅は人で溢れている。その中からようやく高山先輩を探し出せた。声を聴いても、卒業して以来会っていなかったからか、なかなかその存在に気づけなかった。

「おはよう興梠さん。なんか顔暗いね。どう、緊張してる?」

 久々に見るその人懐っこい笑顔が、私の肩を軽くしてくれた。やはり無意識に硬くなっていたのだと、自分の事ながら気づいた。

「はい、なんとか。先輩の方は仕事に慣れましたか?」

「いやあ、慣れたのかどうかも分かんないね。とりあえず言われたままに走り回っているよ。」

 土曜日のこの時間であったとしても、何とか時間を確保したというくらい激務だという。それでも、その姿から疲れは感じさせず、やはりやりたい仕事に就けたということが、気持ちの張りにもつながっているようだった。少しずつ、緒環であろう人物との対面に頭をシフトさせる。

「それにしても、本当にいるんでしょうかね。」

「それはどうだろうな。ここまで用意周到に呼ばれておいて、結局悪戯ってことも考えられる。何はともあれ、話を聴くだけだ。力を抜いて行くことにしようじゃないか。確か、緒環に呼ばれたビルはここからも近いはずだから、すぐ着いてしまうよ。興梠さんはもう心の準備は出来ているかい?」

 既にどこか楽しそうな先輩に、私は静かに頷いた。私からも聴いてみたい事のリストを、頭の中で反芻する。果たして、そんなリストに意味があるかは分からないが、そうでもしないと気持ちが落ち着いてくれなかった。

「先に言っておくけれど、もし本物に会えたとして。今日は僕から敢えて聞くことはあまりないよ。」

 歩きながら、ごく自然に私に主導権があることを伝えられた。

「え、そうなんですか。」

「うん。以前にも言っただろう。僕は彼に一度、取材申し込みをしている。その時に書きたい事は書き連ねたんだ。批判的にね。彼がそのことを覚えているのなら、むしろその言い訳なんかは聞けるのかもしれない。僕はそれに対して、間違っていると伝えるだけさ。」

 駅前の雑踏を抜け、大きな信号を渡る。路地を進むと徐々に人通りも少なくなってくる。そして複雑に入り組んだ首都高の脇にならんだ雑居ビルの一つが、今回指定された住所だった。

「今日は、興梠さんが聞きたいことを聞きなよ。実際、君は指定されて呼び出されている。あくまでも彼にとって僕は保護者でしかない。多分、緒環は何か、君に伝えなければならないことがあるんだと思う。」

 地図とビル名を確かめ、間違いない事を確認すると高山先輩は躊躇なく、一階のエントランスに入っていく。それを追って急ぎ足で私も着いていく。

 廊下の一番奥、年季の入ったエレベーターが、大袈裟な音を立てて我々を迎えた。たかがエレベーターに乗るだけなのに、踏み出すのに時間がかかる。部長が先に箱の中に進み、扉が閉まる直前に私も滑り込んだ。

「ええと、五階だっけ。」

「そうですね。」

 最大六人乗りという圧迫感のある空間の中、簡単な会話でもありがたいと感じた。

 表示を見ると五階のテナントには歯科と、不動産仲介の企業が入っているようだ。仰々しく扉が開き、薄暗いロビーとそれに続く廊下が目に入ってくる。土曜日ということで、歯科はお休みだった。会社には数人出勤しているのか、扉の向こうから薄らとした会話が聞こえる。私たちが目指している部屋はその先、廊下を進んだ奥。無機質に「503」とだけ記された看板を前にして立ち止まる。ひとつ深呼吸をした。

「さて、僕らが探し求めていたネットミームだ。会いに行こうか。」

 隣で興奮を隠せないように、先輩がドアを強めに二度ノックする。しばらく無反応の後、鍵が開く音がして、静かにドアノブが回った。

「ようこそ、高山さんに、興梠さんでしたか。どうぞこちらに入って。」

 ゆっくりとした抑揚の落ち着いた声がする。開かれたドアの向こうは、背後の窓から太陽光が差し込んでいて見えづらい。徐々に視界が慣れてくるに従い、声の主の顔や姿が目に入ってくる。オールバックに白髪混じりで細身の高身長、年齢の判別を難しくさせる顔に張り付いたような薄ら笑いと、色のついた大きな眼鏡。三十路過ぎ、あるいは五十歳を迎えたと言っても納得をしてしまう立ち振る舞いはそのまま。あの日の喪服と違って、今日はスラックスにシャツ一枚という軽装だが、まさに私が兄の葬儀で見た男に間違いはなかった。

「こんな怪しい雑居ビルにわざわざ呼び出してしまい、恐縮ですね。とりあえず、そこに座って。」

 優しい口調の中に、絶妙に混ざる馴れ馴れしさと恭しさ。まるでこちらに威圧感を与えない。患者を扱うことに慣れた医者がそうするような感じで、ごく自然に座るよう促された。部屋の中は実に簡素で古めかしいデスクに彼の椅子が一つ、そして我々が座る丸椅子が二つ用意されている。まさに診察室のような構図に、今私たちが来ているのも何かのクリニックなのではないかと感じる。椅子に座ってから、高山先輩が改めて挨拶をした。

「今回はあのような雑誌の端書に、ご返事を頂きありがとうございました。佐和田大ジャーナリズム研究会の高山と興梠です。お時間まで頂戴してしまい、こちらこそ恐縮です。何より、お話伺える事を楽しみにしておりました。」

 丁寧に頭を下げつつ、微笑んでいる。多少の緊張感を感じさせるものの、いつのまにかに社会人然とした口調と振る舞いを身につけた先輩の存在が心強く思える。

「いえいえ、こちらこそ丁寧な特集を読ませていただき、大変に興味深く、面白かったです。てっきり高山さんの事だから、非常に強い論調で叩かれるのかなと思ってばかりいたのですが。」

 男は先輩に微笑みかけた。

「まさか、覚えていただけていたのですね。四年前にメールで取材依頼をした時です。あの時期は多少、僕も不安定だったもので。」

「あの節は、取材を受けられずすみませんでしたね。返信内容の意味、緒環蓮に語らせた事が私の思想じゃない点も含めて、今日はお話させて頂くつもりです。」

 先輩はそれを聞いて、一段眼光が鋭くなった気がする。恐らく、この人物が間違いなく緒環本人であると確信したような表情だった。一旦息を飲んで、わざとらしく覚悟めいた間合いを作り、先輩は一言付け足した。

「改めてありがとうございます。今日、貴方が何らかの悪意をもって我々を騙すような意図がないと分かりました。その上で、私たちは今日、貴方のことを緒環さんとお呼びすればよろしいでしょうか。」

 それを聴いた男は悪戯っぽく微笑し、少しばかり悩むような素振りを見せた。

「信じて頂けて光栄です。そうですね。私の中では、あくまで緒環蓮は動画の中のキャラクターのことなんです。僕自身とは違う存在なので、この場において、私のことは。そうですね、真田とお呼びください。」

 真田と名乗った彼は、違和感のなく会話の中で、緒環本人である事を肯定した。先輩と真田、ほんの短いやりとりを交わしたのを横で聞いていた私は、気になる事が既に山積していた。

「すみません、今回一緒にお呼び頂いた興梠由香といいます。」

 前のめりに話を手繰り寄せた私に顔を向けた真田は、何かを懐かしむかのように目を細めた。

「ああ、あの節はどうも。ご一緒でしたね。何せあの日は急いでいたもので、落ち着かない弔問になってしまい、申し訳なかったのですが。」

 こちらが聴こうとしている事を察しているのか、この男、会話が常に半歩先を歩いているようで掴みどころがない。高山先輩を横目で見れば、どうぞとでも言いたげに隣で私を促している。それであるならば、遠回りなやりとりは不要だ。

「早速ですみません。単刀直入に聞かせて下さい、真田さん。貴方が緒環本人かどうか我々はまだ最終的な確証を得てはいませんが、でも、今言って頂いた通り私の兄の葬儀には参列頂いた。あんなに小規模な式、どこから葬儀の情報を得たのです。そして何故、あの時芳名録に緒環蓮の名を書いたのですか。」

 いつもの私の悪い癖で、本当に知りたい事を相手に聞く時には不必要に喧嘩腰になってしまう。すると彼はそんな視線を避けるでもなく、伏目がちだった眼球を上げ、真正面から応じてくる。目が合った瞬間、薄ら笑いがスッと消えた。問い詰めていたはずが、返り討ちに遭うような心地。何か防御をしなければと私の本能が察したところで、彼の口が開いた。

「では、興梠さん。貴方たちは私に聴きたいことがあっていらっしゃったように、私も実は、主に由香さんに聴いてみたいことがありました。質問に対して質問で返すのは無礼と思いつつも聞かせてください。」

 真田が数秒黙ったことで、異常な緊迫感が部屋の中に充満する。

「むしろ、貴方は何故あの日、聡さんの葬儀にいらっしゃったのでしょう。」

 思ってもみなかった問いに思考がピタッと止まる。

「家族、兄の葬儀だから。」

 無理やり口を動かした。自分で答えた回答にも関わらず、そんな言葉が自分の口から出てくることに違和感しかなかった。それを見た真田は少し憐れむような表情を見せる。小さく呼吸をして、真田は薄ら笑いを取り戻し、丁寧に言葉を重ねる。

「恐らく、ええと、ジャーナリズム研究会でしたか。雑誌を作ることを主な活動としているお二方からすれば、本日の件も出来れば記事にしたいとお思いですよね。」

 現役部員である私は首を縦に振った。

「実際、録音をすることも、外部公表することも私は特段構いません。お二方が聞きたいと思っていること、つまりは緒環蓮という存在がどのように生じ、どのように役割を終えたのかという事を説明させて頂くつもりでいます。でもそれは、イコール興梠さんと私との関係を詳らかに開示する、という事になります。それは、あまり一般大衆の読み物として面白いものではないかもしれません。」

「私と、真田さんの関係?」

 明らかに今日、真田と会ったのは葬儀の日から二度目であり、なんなら名前など今初めて知ったはずだった。

「ああ、失礼。興梠さんと言っても、興梠聡さん、いえ古賀聡さんとの関係と言った方が分かりやすかったかもしれません。」

 聞き覚えのない苗字が挙げられる。こちらの混乱を他所に、彼は淡々と自分の目的を果たすべく、話の段取りを頭の中で整えているようだった。

「少し長話になります。その前に、先ほどの問いに答えておきましょう。私がなぜ、葬儀に参加でき、そして芳名録に緒環の名を書き残したのか。」

 真田は私に微笑みかけた。

「葬儀の参加は、多少骨が折れました。彼が亡くなった後の処理を手伝ったのは私です。なので、亡くなった日や場所については把握しています。ですが、葬儀を行うという確証もありませんでしたから、その後お母さま含めて住まわれているエリアから、数日の間、葬儀の開催にまつわる情報を集めたんです。「興梠」という苗字だということを失念していまして、ギリギリになってしまいましたがね。」

 顎に手を当て、思い出すように上を向いた。

「あと、芳名録に緒環を書いた理由ですが。そこにあった「興梠由香」という名前を見てそうしようと思いました。言ってしまえば、貴方を試してみたかった、というのが私の本音です。」

 微笑に苦笑が混じった。それを聞いた私は、これ以上彼の話に水を差すのを止めた。恐らく、真田は私の家族に関して、誰も埋めてくれなかった空白に代入すべき解を持っている。果たして、すべて聞いた後に、データが使えるものになるかどうかは分からなかったが、私はボイスレコーダーの録音ボタンに手をかけた。

「さて、由香さんのお兄さんである、聡さんの事を中心に、興梠由香さんの家族の事について触れることになると思います。貴方が本当に知りたいことなのかどうかは別にして、知っておくべきではないかと、私は考えています。」

 高山先輩と私は、少し大きめに息を吸い込んだ。

「改めて。呼び出しておいて恐縮ですが、私の過去語りに付き合って頂きましょう。」


 私が由香さんのお兄さん、聡さんと出会ったのは、もう十年ほど前のことになります。私は当時、と言っても今もその端くれですが、臨床心理士としてデイケアと呼ばれる施設で働いていました。

 そうですね。少し、私、真田誠について、どんな人間で何をしているのかという所を簡単に話しておきましょう。元々学生時代は心理学を専攻していました。情けない話ではありますが、小さな頃から、共感性が薄いというか、人の心というものが今ひとつ分からない人間だったのです。最近の世間ではサイコパスなんて呼び方もありますが、それに近い存在だったのでしょう。幼児向けの物語に感情移入が出来なかったり、周囲の同世代とも仲良くなれなかったりと、私の両親も悩んでいたそうです。

 ただ、少しずつ大きくなるにつれて、自分が社会からズレているのだという事を自覚し始めます。これはありがたい兆候でした。小学校では、遊んでいても、ゲームに興じていても、嬉しい、悲しい、悔しいという感情がいまひとつ湧いてこない。でも、周囲の表情を見れば分かるのです。そこには、恐らく喜怒哀楽という物があって、それでコミュニケーションが図られているのだと。諸々が欠落したまま育ちましたが、何とか損得勘定は持ち合わせていたようで。周囲を模倣することによって欠落したモノをカバーするようになります。なんとか、ではありますが社会性みたいなものは何とか得られたと自分では思っています。でも未だに、表情と自分の言葉が噛み合わない瞬間に困ったりしますがね。

 なので心理学を専攻したのも、寧ろ誰かのためというより、自分の事、そして目の前の相手が考えている事を知りたいという純粋な願望でした。自我と無意識の存在、それが外部にどのように表出されるのか。そのメカニズムを知ることが出来れば、社会性の模倣もより精緻なレベルになる。そう純粋に信じていたわけです。それ以後の細かい話は、今日の本筋ではありませんから、冒頭のところまで話を戻しますね。

 とかく、私は勉強の末に臨床心理士の資格を得て、人の縁があって、とある埼玉のデイケア施設で働いていたという具合です。

 デイケアとは、主に統合失調症が多いですけれど、依存症だとかを抱えた人が退院後だったり、社会復帰を目指して一時的にリハビリに来る施設の事です。リハビリと言っても、基本的にレクリエーションやイベントがなければ、その場にいるだけといったことの方が多いでしょうか。私は、そこの職員の方と一緒に働きながら、一応臨床心理士として、時たま必要に応じてカウンセリングを受け持つことなどをしていました。

 そこにですね、古賀征司さんがいらっしゃっていた。ということなんです。あ、ええと。そうです。由香さんのお父さんです。古賀というのがお父様の姓で、興梠というのは恐らくお母さまの旧姓です。なので、聡さんも古賀聡さん、とその当時は認識しておりました。

 さて、征司さんの年齢は当時で五十後半だったでしょうか、既に肝臓やら内臓の病気を経験されていて、正直生活自体もツラそうでしたが、精神面での症状はというと、軽いアルコール依存を含む統合失調症でした。特に被害妄想が激しくて、自分の事を責め立てる悪魔のような幻覚が、ほとんど常時見えているといった具合でした。

 それにしても本当に真面目な方で、食事のひとつひとつの所作だったり、時間にも厳格で。断酒も順調でした。それについて、私から「キッチリされていて本当に助かってます」と良心的なコメントをすると、

「こいつにさせられている、自分が好きでやったことじゃないんだ。」

と、何かを指差すんですね。その彼が見えている存在に自分は使役させられているという実感を、憤りながら話すのが印象的でした。私は、彼とのカウンセリングの中で、どうにかしてその征司さんに使役させている存在が何か事象のメタファーなのではないかと考えました。彼に実際何があったのか解き明かしたい、それが彼の症状改善にも繋がると考え、過去の話を伺ったりします。

 様々な話を伺う中で、どうやら半分は純粋な性格からくるものだと思われました。過去の思い出話からは、仕事への取り組み方、子育てにいたる方針など。病気を患う前からその当時におけるまでの彼自身の行動指針が明確に存在していました。そもそも生活習慣というのは、何かがあって百八十度変わるものではありません。やはり従前からの生活スタイルや性質に歪んだ認知が重なって、症例となるの事が多い訳です。

 そしてある日、残りの半分についての手がかりが表れました。その日は、特に情緒が安定せず、しまいには私の目も気にせずに泣き始めてしまったんですね。どうも、聞けばどこか出張中のタイミングで征司さんは、その悪魔の指示によって不埒を働いてしまったということを告白されました。簡単に言ってしまえば不倫です。その場面から「悪魔」は現れるようになったと言っていました。

「お前の為に絶世の美女を用意した。ここで会った女性と一晩共にしなければ、一生後悔し、悪いことが起きるだろう。絶対に行為をしろ。」

 それだけ聞くと何か神々しい啓示のようでもありますけれど、征司さんはその意思に嫌だと言ったようです。それでも、最終的には結局、指示に流されてしまったと。

 普通の方、いや言い方がよくありませんね。特段気にしない方であれば「そんな旅先の一回くらいの不倫で」という風になるんでしょうけれど、征司さんはそうならなかった。その一回を非常に悔いた。そして、誰か見えないモノのせいにしてしまったのだと思います。

「俺は嫌だと言ったんだ。」

という征司さんの悲痛な弁解は未だに私の耳朶に残っていて、記憶からなかなか消えてくれません。

 ここからは私の分析も混ざりますが、恐らく自分の生真面目さを日々見せつけていた対象である奥さんは勿論、息子である聡さんにもその一度の失態がバレないかと恐れた。人は恐れると、疑うようになります。疑う心を避けようと、過度な飲酒にも手を出したりするようになります。恐怖心は非常時に自分の身を守る為の機能ではありますが、日常においてそれが常時顔を出し続けると、意外と簡単に生活を破壊する要因にもなったりするものです。

 その一度の後悔的行為が余りに大きな意味を持ちすぎたせいで、自らの行為すべてを信じられなくなった、そして自分は悪魔によって自分は使役させられているという風に認知するまでに至ったのだと私は考えました。

 ただ、それを本人にそのまま伝えたところで、治療的な意味はありません。今、目の前で起こり、信じている事をただ「貴方の認知性バイアスですよ」と伝えても、お互いの信頼関係が崩壊するだけです。そこで実際に日頃から征司さんと共に生活をしている息子の聡さんと面談を持つ機会を作りました。彼は征司さんの送り迎えをしていて、私とは面識だけはあるといった関係でした。

 改めてカウンセリングの結果の共有も含めて、彼に情報を流すことで協力を仰ぐことにしました。要するに生活の中でも少しずつ征司さんの罪を許し、使役でなく、彼自身の意思がしっかり現実化しているという認知を重ねてもらうという方向に持っていこうとしたのです。征司さんを迎えに来るタイミングで彼にお願いをして、少し時間を取ってもらい、施設の対話室に招きました。

 初めて聡さんと面と向かい合った時、私はそれまでに感じたことのない不安を抱きます。端的に言って、彼の目は穏やかに死んでいました。むしろ、彼にこそ治療が必要だと確信するほどでした。人の感情を読み取ることが苦手な私ですら、直感的に、ああ、結末は分からないけれども、いつか残念なことが起こるのではないかと思った程です。私からの情報共有の提案を聞いた彼は、その案をやんわりと拒絶するように言い放ちました。

「貴方に言うことではないと思っていますが、父はこのまま、恐怖したまま消えて欲しいのです。」

 まるで、その言葉は執行人のように冷たく、同時にどこか慈悲が含まれていたように感じました。

「それは・・・聡さんは父である征司さんを憎んでいらっしゃるということでしょうか。」

 お父さんとの関係は拗れているのかと思い、そう聞くと、

「いえ、様々憎むべきことがあったのは事実です。ですが、それらはもう仕方のないことだとは理解しています。父が妄言を吐き出したきっかけも、恐らく何か父自身に落ち度があったのだということも、当時から分かっていました。ここまで病状が悪化するまでは、家で酒を飲む度に漏らしていた事ですから。」 

 と非常に落ち着いた様子で回答が返ってきました。

「それでは、お父様の回復を望んでいないのは一体・・・」

「それも含めて、私が望む形だからです。」

 この機会では、それ以上の会話は難しいと判断しました。結果からすれば家族に協力依頼を断られた訳ですから、要請としては失敗に終わった訳です。その後もどうしたものかと私は悩みました。

 以後私の立場からすれば、様々アプローチを変えて征司さんの状況改善に対して集中すべきでした。しかしながら、どうしても気になってしまったんです。聡さんがあんな目をするようになった理由が。むしろ私自身が、あの目に気持ちを動かされてしまっていたのかもしれません。その後も継続的に、征司さんの改善協力という名目で、私がむしろ聡さんとの面会を行いたいと考えるようになっていたのです。彼はその都度、征司さんへの協力要請は断りますが、話をすることは受けてくれました。そして、何度か、短い面会の回数を重ねるうち、徐々に聡さんの思想の形、彼の身に何があったのか見えてきたのです。

「お父様の件について、お願いは以上です。」

 味気のない施設の対話室で、恒例なった建前としての問いと、いつも通り聡さんからの冷めた反応があった後。私は敢えて、少し踏み込んだ話をすることにしました。

「ここからは征司さんの件からは少し外れます、お話したくなければ当然拒否してくださって結構です。今、聡さんは、父の征司さんの世話全般をされていますけれども、失礼ですがお母さまの所在はどちらにいらっしゃるのでしょう。」

「既に父とは別れています。妹の由香と同居しているはずです。」

 そこで私は初めて、貴方、由香さんの存在を知ります。

「それでは形式上、聡さんが征司さんを引き取ったということになりますよね。」

「はい。その認識で間違いありません。」

 無感情に語る彼は、特段拒絶をすることもなく、私が聞くのに応じて淡々と過去の家の状況についても語ってくれました。

「妹さんは、聡さんのことをご存じでいらっしゃるのでしょうか。」

「いえ、妹とは歳が離れているので、僕のことは知らないと思います。父と母は生まれた直後に別れましたから。」

「ということは、もう彼女も小学生程ですよね。会いに行かれないのですか。」

 この時彼は目線をずらして少し黙っていました。何か言いたげで、それでも、決まったことを伝えるように、今までと同じ表情で改めて私へ向き直りました。

「父の面倒を私が見ると決めたのは、父が病気を拗らせてからです。特に決定的だったのは、母が由香を妊娠した時でした。」

 思い出すことに時間をかけたのか、はたまた言うべきか悩んだのか。次の言葉が繋がるまで、少し間が開きました。

「父は既に幻覚症状がもう出始めていて、やはり例の悪魔が見え始めていましたが。身ごもった母に対して堕胎を要求したんです。それは、この悪魔の子だと。自分を責めるために生まれてきた子供だと母を激しく罵ったんです。」

「それは・・・もちろん由香さんは征司さんご自身のお子さんであるはずですよね。」

「はい。そのはずです。恐らく記憶が混同していたのだと思います。母との性行為と、自らの不倫による性行為、自身の呵責と猜疑心によって判別がつかなくなった結果、子が出来たという事実に対し、錯乱的な反応が出てしまったのではないかと思っています。」

 そんな悲しい話を、無表情で話す聡さんに、私は徐々に初めて同情という感情が芽生えかけていました。これまでも、依存症や統合失調症、分裂症など色々な患者の方の人生談を聞いてきたつもりでしたが、従来の性格もあって、どれも他人事として捉えてしまう欠陥と才能が私にはありました。それでも、聡さんの話を聞いている私自身が、何か救いのようなものを求めていることに気づいたのです。すると、聡さんの声が珍しく抑揚を帯び始めました。

「僕は母の懐妊をとても嬉しく思っていました。何故だか、小さいころからずっと、私は長男でしたので、妹か弟が欲しくて堪らなかった時期があります。結果としてかなり歳は離れてしまいましたけれど、僕としては、母に子供が出来たことは何者にも勝る喜びでした。」

 その瞬間、これまでずっと死んでいたような聡さんの目に光が宿るのを、初めて私は感じました。

「父は厳格で、母はそれに一歩下がって従うという古い価値観の家庭でしたから。なかなか家族と共に遊んだりだとか、楽しく時間を過ごすという発想がなかったのです。兄弟という存在は、そんな家族という繋がりを楽しい居場所に変えてくれる希望だと僕は信じていたのでしょう。」

 思い返すようにして彼が見せた優しい表情は、私からすれば悲痛なものに映りました。

「結局、父は母に堕胎を要求し、最後には暴力を振るうまでに至りました。最初のうちは、僕もそれを何とか止めようと精一杯でしたが、次第にエスカレートしていき、アパートでしたから。隣の部屋からもそんな声は聞こえますよね。通報があったようで、色々が行き過ぎてしまっていました。もう家族は壊れ、全ては終わってしまったのです。本来あった古賀家の姿も、これから生じえた異なる家族の形もです。」

 その「終わった」という表現に対して、無性に不安を覚えた私は、改めて彼に問いただしました。ハッキリとした嫌な予感がして、聴いてみたのです。

「こんなことを私の立場で言うのは間違っていますが、征司さんは今後恐らく長くはないでしょう。内臓も侵されていて、加えてメンタリティも衰弱していっています。何とかサポートは続けていますがやはり・・・ただ、それ以上に、お父様を見送った後、貴方は。聡さんはその後どうされるのですか。」

 最初に会ったときと変わらない、どんよりとした目に戻った彼が答えたのは、ある種の思想の話でした。

「私は、死のうと思っていますよ。死ぬ、というより消える方が的確かと思います。」

 あまりに予想通りでありながら、あまりに理に適っていない答えに、私は不意に「何故」と声を荒げていました。そんな私を見据えて、彼は穏やかに答えました。

「それは、僕が由香の幸せを願っているからです。父がああなってしまった日から僕は決めたのです。どうなっても、これから生まれてくる由香には幸せになってほしい。間違っても自分の父親が、悪魔の子などと呼んだ事実も知らず、古賀という姓にすら気づかず、僕の事すら知らずに生きていってほしい。」

 そんな理屈の通っていない戯言を真っすぐ、生真面目に語る彼も既にどこか壊れてしまっていたようでした。すると彼は少しはにかんで、この話は少し恥ずかしいのですが、と前置きをしてから、

「由香という名前も実は、僕が母に託した名前です。父がああなってしまいましたから、妹を出産する際、僕が母にお願いしたんです。そうしたら実際、母はその名前を付けてくれました。四月生まれでしたから、花香る季節の自由な子になってほしいと。これでは完全にシスコンですね。」

 一瞬だけ嬉しそうに語る彼に、私は説得を試みました。

「聡さん、やめませんか。今からでも遅くないでしょう、お母さんと由香さんの元に戻って、また家族の暮らしを始めれば」

 彼は話の途中で私をさえぎるように、用意された回答を展開しました。

「いいえ、既に由香は一人の大人の女性です。私が出張って何が出来るでしょう、もはや兄だとしても彼女の自由を奪う存在にしか私はならない。そもそも母にもそう伝えています。古賀家の事は彼女に絶対に伝えないでほしいと。そして父方こそ「興梠家」であり、病死による離別であったことにしてくれと。仮に正気じゃなかったとしても、あの子を悪魔と呼び、生まれてくる前のあの子に暴力を振るった父を抱えて、僕は消えます。」

 硬く、しなやかな、何にも影響を受けない決意だけがそこにはありました。

「確かにこれは、全く論理的でもないし、筋が通った話ではありません。でも父からの暴力を受けて分かってしまったんです。私と妹は因縁に取り憑かれていると。このまま蔑ろに家族を続けていたら、また悲しい事が起こる。それは、父の意思を受けた僕がまたその過ちを繰り返すのかもしれません。今しっかりと私もろとも消え去る事で、ようやく由香は、この暗い因縁から解き放たれて、きっと幸せになる。自分の身体に流れる血筋だったり、あるいは家の匂いだったり。そんな要素から、具体的に僕には分かるんです。」

 そう語る彼の表情はどこか晴れやかで、既に手遅れになった破綻を抱えながら、その思想は完成されているように聞こえました。自分が消え去ることで、幸せになる人がいる。私は心理学を学び、立派な資格を持ち合わせているにも関わらず、そう頑なに信じている彼を、止める材料を何も持ち合わせていなかったのです。

「とかく、人は何かの目的を達する為に人生を与えられているのだと僕は思っています。そして僕はあくまでも彼女のために、生き、消えるのですから。その目的がハッキリしている。それは一人の人生としてとても素敵なことじゃないでしょうか。」

 

 しばらくして私は、その施設を辞め、心理療法の世界からもしばらく離れることにしました。ちょうど征司さんが完全に体調を崩し、近隣の総合病院に入院された後だったと思います。当時、面談を繰り返した聡さんもある種の精神疾患を抱えているとみていました。あんな思想を抱いて死ぬのはバカらしいと、私はそう考えていたのです。彼が見た夢の診断も行いました。ただ、彼を診断する病名が最後まで浮かばなかったのです。

 もちろん鬱だとか双極性障害だとか、神経症、それこそ統合失調症だとか、傾向から病名の断定はいくらでも出来る。しかし、自ら整合性を持って辿り着く死という揺るぎない決意に支えられた結論を目の当たりにして、本質として聡さんが抱えていた病とはなんだったのか。向き合えば向き合うほど、名前をつけようとすればするほど、それが一向にしっくりこないのです。

 するとそれまで、カウンセリングや臨床の場において、これまで得た知識に基づいて断定していた事全てに自信がなくなってしまいました。辞めることで、職場には迷惑をかけたと思っていますが、そもそも自分が行っている事の正しさが分からなくなってしまった中、働き続けるのは非常に困難でした。

 それは、私がこれまでの人生において感じた初めての明確な挫折でもあり、同時に私にとっては激しい感情の芽生えでもありました。これが心が痛むということ、胸が苦しいということ。そして、面談を繰り返し、縁した彼が自ら命を絶つかもしれないという、いつか必ず起こるであろう事実に自分の無力さと言いようのない恐怖を感じました。

 そして、彼に対して病の判定が出来なかったという反動から、彼が自ら至った「不在による願いの成就」という考え方について、自分なりにじっくりと向き合うことになりました。あくまでも最初の仮定通りその発想は聡さんの「疾患」であり、死に囚われた特別な感情なのか。あるいは、我々全般が至る可能性、他の人も思想によって辿り着いてしまう汎用的な場所なのか。この疑問に答えようとしているうちに、私の中で緒環蓮は少しずつ形を成していきました。

 ちなみにその頃は延々そんなことを考えながら、しばらく知人の紹介で映像作成を勉強しつつ、バイトやしながら生活を繋いでいたので、ちょうどその経験が緒環の動画を作るのに役立ったわけです。

 しばらくして、私の中でとある結論が出たころ、聡さんと電話越し最期の会話をしました。彼がまだ生きていれば、私を必要とするだろうという多少の打算もありました。

 デイケア時代に何とか電話番号を伺えたことを思い出し、スマートフォンで「古賀聡」と表示された箇所にタッチしました。呼び出し音がとても長く感じたのを覚えています。既に事が決行されているのでは、という恐れもあっただけに、しばらくして彼が電話口に出ただけで強い安堵を感じました。

「はい、古賀ですが。」

「ご無沙汰しております。あの頃、デイケアに勤めていた真田です。」

「ああ、ご無沙汰しております。」

「お元気そうで安心しました。」

「そちらはお変わりないですか。」

「あの後ですが、私も色々と考えさせられる所があり、あの職場を辞めてしまいました。そのご報告と少しお話が。」

「そうでしたか、きっと適職だと思っていただけに残念です。それで、どうしましたでしょうか。」

「ありがとうございます。それはそうと、気は変わっていないのですよね。聡さん。」

しばらく、何のことかを吟味するように数秒の間が空きました。

「はい。ですが、まだなんとか父も生きていますから、それを看取るまでは。」

「そうですか・・・何か気持ちが変わっているかと少し期待していたのですが。そうであれば、一点ご提案がありまして。」

「なんでしょうか。」

「聡さんが、このまま結論をブラさず、本当に自ら命を絶つのであれば、私に何かサインを送って頂けないでしょうか。直前で構いません。出来れば、その場所と共に。」

「サインですか。」

「なんでもいいのです。電話一本でも、ショートメールひとつでも。その後の事は、私が諸々を手筈したいと思います。」

 少しの沈黙の後、回答がありました。

「・・・分かりました。そうですね。僕もそろそろそうした事を考えねばならない頃合いでした。それであれば、後のことは真田さんにお任せしようと思います。様々ご面倒おかけするかもしれませんが・・・」

 恐らく彼も、旅立った後の事を気に揉んでいたようです。様々な後始末の中で、自分の存在やその情報が妹さんにまで漏れることを恐れていたのだと思います。結局彼からは、日時と場所を記した簡単なメールが届くことになります。

「いえ。ありがとうございます。ひとつ、その報酬というか、許可を頂きたい事がありまして。」

「はい、伺ってみましょう。」

「貴方の至った「不在による願いの成就」という考え方。私に預けて貰えませんでしょうか。」

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