第9話

「ふはぁあああ」

 講堂の周囲を取り囲む樹木はカーテンの役割を果たしている。新しい建築物にありがちな大きな窓からは、角の取れた暖かな日光が微かに差し込む。大教室の朝九時半。毎週の事ながら一限の授業に参加できている点では自分を褒めるところだが、講義開始から三十分もすると必然的に集中は欠けていく。しかもこの暖かな気候だ。

 淡々と進んでいく講義を改めて頭に入れこもうと、大きく息を吸い込んだのが仇となった。その空気を吐き出すときには、教室半分に聞こえるような欠伸となって漏れていた。それにしても「顰蹙を買う」という状態は誰が言うでもなく、なんとなく空気だけで伝わってくるのが不思議だ。教授もこちらを一瞥したのが分かった。

「ええ、行政が望むべき状態を実現したいと考えた際、その都合により個人や事業者に対して不作為の指導や勧告、助言を行う事があります。これを行政指導といい、処分ほど強いものではありません。例えば、今聞こえた欠伸を諌めるくらいの拘束力でしょうか。特段、義務を強いるというわけではありませんが、それに従わなければ、事業者が不利益を被る事になるようなものです。」

 静けさのみが占めていた空間に、少しばかりの苦笑が起こる。

「不利益としては例えば、氏名を公表するなどして社会的制裁を図ると言ったところです。ただ、このような制裁にまで及ばないとしても、行政担当が好き勝手にこうした制裁を発動しては困る。逆に事業者との間において、利害関係を使って不透明な癒着関係を構築する可能性もある。それは新規参入を妨げるリスクにも繋がります。こうしたバランスを行政手続法では・・・」

 教室全体の眠気覚ましに使われた苛立ちは多少あったものの、それ以上に授業への興味関心の薄さが勝っていた。その後も教授への復讐を検討する前に、自分の眠気との戦いに集中する必要があった。

 結局、頻発する欠伸は抑えきれなかったものの、なんとかすべて無音でやり過ごした。永遠に続くと思われた一時間半を乗り越えた私は、購買で買った朝ごはんを食べようと、ふらふらとした足取りで部室にまで顔を出すことにした。部室棟は授業があった講堂の真裏にある。この建物への日当たりを重視した結果、文学部棟と同様に部室も樹木と講堂の影に隠れ、いつでも薄暗い雰囲気をたたえている。古びた階段を上り、錆びた扉を開けると、朝から既に三人がそこで作業をしていた。

「おはよう、由香ちゃん。あ、行政法の授業取ってたんやっけ。」

 春日さんが、画面から顔を上げこちらを一瞥する。

「私、あの教授の口コミ見たら性格悪い書いてあったからやめてもうたわ。実際のとこどんな感じなん?」

 とことん勘のいい女だなと思いつつ、

「その口コミ書いた人、出来ればスカウトして。本質を見抜く力があるわ、是非ともうちで記事書いて欲しい。」

 春日さんに授業の感想を返しながら、カバンから潰れたカレーパンを取り出す。

「おい、飯だけなら食堂か、外で食えっての。」

 隣にいた多田がこちらに目線を送ることなく、苦々しい顔で非難を投げつけてくる。恐らく遠藤部長から赤を入れられた記事の直し作業を行なっており朝から機嫌が悪い。いよいよ満を持して発刊される遠藤肝いり企画を特集にした春号の記事締め切りが迫っていた。

「こんな専門用語、一般読者じゃ分からないだろ。ていうか、専門外の俺も分からん。」

いつもは遠藤部長派の彼も、余裕がないせいか苦言の合間に独り言で悪態をつく。部屋には微妙に汗ばんだ空気が篭っている。もしかしたら、昨日から帰っていないのかもしれない。

「私だって先輩方から預かったコラムのチェックと取りまとめやるんです。むしろ、手一杯ならそこで死んでいる人も起こしましょうか。」

「やめとけ、松本は起こすと何を言い出すかわからん。作業の効率が下がる。田中でも呼んでくれた方がよっぽど捗る。」

 目元にタオルを置き、パイプ椅子の上で死んだようにもたれかかる金髪女性を指示通り無視をする。

 ジャーナリズム研究会の部室は作業場兼資料保管庫となっている。作業用の大机があるものの基本的には全員が集まるスペースもなく、基本は幹部の打ち合わせ用だったり、記事の仕上げや編集作業が詰まってくると使っていいことになってくる。そうすると現に今そうなっているように、大体詰めの時期には、授業がない部員の詰所となる。

「おはよう。って、やっぱ満員か。」

 一限終わりということで、またもや扉が開く。噂をされていた田中先輩が君津を引き連れて、部室にやってくるともう部室内は人でいっぱいだった。あまり試したことはなかったが、見たところ最大容量は六人といったところ。

「その作業する気のなさそうな副部長を追い出せば、多少スペースは確保されると思うが。」

 正論を言う君津に多田がフォローを入れる。

「やめとけ、部長の記事打ち合わせがいつのまにか講演会になっていた現場に居合わせてたが、完全に朝方までかかってたんだ。当の本人は言いたいこと言ってスッキリしたのか、颯爽と原チャで帰宅なさったよ。」

「なんてブラック職場・・・え、てことは副部長と多田さんはそのまま部室で一晩を?」

 思ったことが口をついて出てしまう。それを聞いた春日さんは口を手で抑えながら信じられない、といった表情を浮かべている。

「アホか、俺は徒歩圏内だからな。部長と一緒に出て一度帰ったわ。」

 仮眠をして、早朝またここにやってくる多田の姿を想像する。余計にブラックな職場のように思える。

「そこの副部長は多分そのままだろうが。それもこれも、前回特集が誰かさんのおかげで売れたから、遠藤部長が変にプレッシャー感じてるのが原因なんだよ。打ち合わせの内容も販促やら売上が半分だぜ、あの人が。とにかく我々の寝不足は部長のせいでなくむしろ緒環のせいだなんだよ、そんな余計な疑義をかけてる暇があるなら作業しろ。」

 スキャンダルな煽りに慌てる様子もなく、余計な疑惑が生じる前に苛立ちで鎮火され、嫌味まで追加された。これは恐らくシロだ。春日さんに目配せすると、少しガッカリした表情を浮かべていた。そんなやりとりを聴きながら、かつて副部長だった屍を眺めて田中先輩が諦めたように言い放つ。

「でも、放っておくとこの人多分夕方までここで寝てるよ。そろそろ起こした方が、」

 そう言って松本先輩の目元に置かれたタオルを外しにかかる。そこにはカッと見開かれた眼光があった。

「って、うわ!この人起きてるじゃん。」

「こんだけ煩ければ、流石に目も覚めるわ。おはよう。」

顔を下げることなく天井を見据えたまま、朝の挨拶を終える。声色は案の定非常に不機嫌そうだった。

「なんだよ、誰かが私の悪口でも言わないかと心ときめかせていたのに。」

 呆れたように田中先輩が返す。

「おはよう。本人の目の前でそんなリスク誰も取らないよ。さて、昨日帰っていないのなら一度帰ったほうがいいんじゃないか。」

 正論と共に、それぞれが机を囲んで作業に取り組み出す。次号の記事締め切りまであと一週間となっていた。二年生になった私たちは本格的な調査やら取材に加え記事を書くやら、春日さんは相田先輩の仕事を引き継ぎ徐々にレイアウトデザインなんかも任せられるようになっていた。前回は任された事を必死でこなすだけだったが、今回は自ら行程まで考えなければならない。やはり本質的に異なるプレッシャーを感じていた。

 傍ら、春は入学の時期ということで新入部員の確保という重大な任務もセットで負っている。そろそろ各部共同で行われる新入生への説明会にも顔を出す予定だった。もちろんだが、学業もおろそかには出来ない。思えば、去年の松本先輩や田中先輩は、この忙しさの中で我々に付き添っていたのだと思うと、頭が上がらなくなる。そんな風にして私も先輩としての責任みたいものが降りかかってくる立場になってきてしまった。

「さてと、私は一度家に帰ってシャワーでも浴びてくるよ。授業もないから、また昼過ぎか夕方にでも顔を出すかな。」

 先ほど目覚めた副部長が誰に言うでもなく、本日の予定をそこにいた全員に告げる。するとそのまま私に顔が向いた。

「それと、帰る前に。そうだ、由香ちゃん。ちょっと話があるから外来て。」

 少しいつもと違うトーンの声だった。多田がその声に反応してPCから一瞬顔を上げる。何か言うのかと思ったが、何事もなく作業に戻った。

「はい、わかりました。」

 部屋を出る際、君津と春日さんが何事かと視線で追ってくるのを感じた。

 このクラブハウス棟の一皆には、どの部活動が使ってもいい共用スペースがある。自販機とテーブルが四台おかれ、それぞれパーテーションで区切られている。部室以外で何か個別の話をするには大体そこが使われていた。

「さて、忙しいのに時間もらっちゃって悪いね。」

 差し込んでくる日差しを眩しそうに手で遮りながら話し出す。

「いえ、副部長こそ徹夜なのに。」

「見ての通り、爆睡していたから大丈夫。」

 心配無用とばかりに笑みを浮かべるものの、多少ぎこちないのは疲れのせいなのか、これから話す話題のせいなのかと少し不安になる。

「あまり今の私に余裕がないもんで、早速本題なのだけれどね。あ、やっぱコーヒーでも飲む?」

 落ち着かなさげに立ち上がった彼女は、私の分まで買う素振りを見せている。

「じゃあ、なるべく甘そうなやつを。」

 せっかくなので遠慮せずお願いすることにした。ガタンという音がして、真っ黄色の缶が投げ渡される。一度手の上で跳ねてから、細身の缶はなんとか手中に収まった。彼女は私と同じ缶を手にして、真正面の席に座った。

「まあ、飲みながら聞いてよ。」

と言いつつ、私と同時に缶に口をつけた。

「それにしても前号、緒環特集はかなり売れたね。本格的に雑誌作ったのは初めてだったろうから、実感ないかもしれないけれど発行部数は過去最多に近い。その点は、改めて企画発案である由香ちゃんに感謝したい。」

 正面から言われると、なんだかむず痒い気持ちが湧く。でも、その実績報告はすでに部会でも聞いた話だった。

「まあ分かっていると思うけれど、言いたいのはその先だ。売れたということは、あの本は数多くの人の手に渡った。ということで色んな反響も頂いた。」

 それも既に一部把握していた。発刊されたことへの反響が気になっていた私と春日さんは、相田先輩にお願いして部のメールアカウントのチェックもさせてもらった。「あまり見ない方がメンタルには優しいよ」と脅された通り、そもそも緒環蓮という特集を組むことへの意見や、考察に対する批判だったり、インタビューへの賛同や非難など様々だった。

 こんな大学生のサークルが発刊しているカルチャー誌であろうと見ている人はいる。自分の発想や考えを形にして世に出すという事がどういう事なのか、達成感と恐怖感のちょうど狭間にある何かを肌で理解出来た気がした。

「そしてだ、その様々なご意見に混じって、とうとう返事も来てしまったんだよ。」

 唐突に松本副部長の口から飛び出した「返事」というワードに一瞬理解が追いつかず首を傾げた。しかし、すぐにあの本雑誌の最後に私信を載せた前部長の顔が浮かぶ。

「え、まさか。」

 彼女は即座に頷いた。

「恐らくだけれどね、緒環ご本人の登場だよ。」

 特段嬉しそうでもなく、むしろ迷惑そうな困ったような表情だった。

「高山部長宛てに丁寧に特集を組んでくれてありがとう、という感謝と共に住所まで書かれていて、そこにおいで頂けないかという招待状のようだったよ。ちなみに住所を調べると場所は池袋駅前、事務所やら小さなクリニックやらがチラホラ入っている雑居ビルの一室でね。ネットで調べる限りではテナントは入っていなさそうな部屋なんだけれど。個人使用をしているのかもしれない。まあ、本人という確証はまだないのだけれど。」

 彼女らしくもなく何か釈然とない口調だった。

「にしても、いかにもって場所で怪しいですね・・・そんな向こうの身元が完全に緒環蓮本人だと分からない状況であっても高山部長は行くんでしょうか。」

 差出人はやはり「緒環蓮」と名乗っているらしい。前号の誌面であれだけ「実体を暴く」と豪語したはいいが、いざネットミームという概念みたいな相手の誘いに「はいそうですか」と顔を出すのはいかがなものかとも思う。安易な悪ふざけの可能性もあるし、それ以上に身の危険が及ぶ可能性だってある。

「もちろん、由香ちゃんが想像しているであろう通り、リスクが存在しているのは確かだ。それも踏まえた上で前部長にお伝えしたところ、彼は即答で向かうと断言していたよ。まったく社会人になったというのに、相変わらずのフットワークの軽さだよ。」

 彼女は、呆れ顔をして鼻で笑った。でも、高山部長らしい判断だった。たった一年同じ部にいただけだが、彼のスタンスはどこか現実から離れているように見えた。いつもヘラヘラしている割に、誰にも見せない部分で譲らない思いを秘めている。現に私の取材ノートから、あそこまで切迫した私信を書き出した彼の内情は、思いの外複雑に入り組んでいるのかもしれない。

「そしてだ。」

 覚悟がついたような顔で、副部長は私を見据えた。

「由香ちゃん。緒環蓮から君にも召集がかかっているんだよ。」

 言葉の意味を理解する前に、何やら聞き流せない事だという点は分かった。高山前部長の事を考えていたところ、顔面に水でもかけられたような気分だった。頭を再起動するのに数秒かけて、改めて今言われたことの意味を呑み込む。緒環が私を呼んでいる。

「本当・・・ですか。」

 別室に呼び出して伝えている時点で、何かあるとは思っていたが事前の想像を超えていた。私の中で、正直に言ってしまうと前号の「SAJAM」が無事発刊され、そして売れた事で、抱えていたモヤモヤはなんとなく解決したつもりだった。兄の葬儀についても、そこに現れた緒環蓮らしき人物のことも、母の薄暗い表情も。喉元過ぎれば熱さを忘れるのと同様、高山部長にノートを預けたことで、全て一度終わった事だと頭が処理をしていた。

「実際昨晩、夜通しで遠藤部長と私と多田の三人で話し合ったのも、半分はこの件についてでね。勿論、高山部長が一緒だとはいえ、そんな危険な場所に君をすんなり送り出すわけにはいかないと思って。むしろ由香ちゃんにこの話も伝えない選択肢だってあった。人間知らないまま、という方がいいことも沢山ある。」

 遠藤部長は私の身を案じて、高山前部長一人に行かせればいい。興梠さんは行かせるべきでないし、この件も知らせるまでもないと断言して聞かなかったらしい。

「お兄さんが亡くなった理由だって、緒環が関わっているかもしれない。そんな事を君が掘り下げるのは賢明でないのかもしれない。」

 いくつかの仮定を述べて、更に松本先輩の方が大きく息を吸う。

「でも、前号の企画も何もかも、君がお兄さんの葬儀に参加したことから始まっているわけでしょ。自分自身が行くかどうかくらいは選択をしないと、私もそして君も。後悔すると思ったんだ。」

 いつも飄々として、人を食ったような松本副部長はそこにいなかった。普段は威圧的なメッシュが入った金髪も所詮飾りでしかなく、自分のとった選択が正しいのか、話しながら未だに疑い、私に打診を続ける年相応の女子大生が眼前にいるだけだった。

「さっき緒環本人かどうか確証はない、と言ったけれど。高山部長はこれを見て、ほぼほぼ確信をしていたんだよね。」

 緒環から送られたというメールを印刷した紙が私に手渡される。

「私信の中で、部員の一人を紹介していましたね。葬儀に「緒環」が現れたと言っているその部員。是非、その子と会わせてくれないでしょうか。寧ろ、今回の高山さんとの面談はそれを条件とさせていただきたい。」

「由香ちゃん、それを読んだうえで勘違いしないで欲しいけれど、君が行くにしろ行かないにしろ、高山部長は乗り込む気でいる。そんな条件を提示されようと、あの人はそれに関わらず緒環のもとへ向かうと言うから気にしないで欲しい。あくまでも君自身の感情だけを優先してほしい。」

 私は、その一枚の紙を見ながら一つの自問に至る。その自問は、副部長の口からも再度繰り返された。

「このメール文面だ。ここまで言っているということは、恐らくこのメッセージを送っている人物がオリジナルの緒環蓮かどうかは別にしても、由香ちゃんが葬儀に現れたと言っていた男と同一人物で間違いないだろう。その男を追っかけるかどうか、君が決めるべきだと私は思っている。お兄さんの事、何か分かるのかもしれない。由香ちゃんが本当に知りたければ、その男に会いたければ、私は行ったほうがいいと思うんだ。」

 そこまで言われて気がついてしまった。他人事だと思い込んでいた身の回りの出来事は、すべて自分が必死に見ないようにしていた事だった。水原おじさんとの会話、突如知らされた兄の葬儀、そしていつまでも読めない母の思考。いつか対峙しなくてはいけないと、なんとなく思っていた。気づけば、そのなんとなくが緒環特集にまで繋がり、ついには企画にさせた。でも、雑誌づくりを終えたことで、やはりどこか満足しようとしていた。

「一緒に会いに行こう。」

 あの時、取材を諦めた日に高山部長から誘われたことを今更思い出した。

「この件、教えてくれて、ありがとうございます。」

 私の身を案じてくれた遠藤部長にも、そして、真正面から反論をぶつけて私の意思を尊重してくれている松本先輩にも、不思議と感謝の念が湧いてきた。それに応じるには、私が納得をする答えを得るしかないのだろう。そして、答えを得る方法はひとつだった。

「私、行ってみようと思います。」

 そう答えてみると、何故だかふと安心感を覚えた。自分は一人で悩んでいたわけじゃない。雑誌の企画は春日さんと君津と一緒に立ち上げたし、私のことを心配してくれている先輩がいる。そして約束の通り、高山部長と一緒だ。

「なんだか、私雑誌を作って満足してしまって。企画を立てる前から、いえ、実家にいる時から、そもそも小さい頃から。何か家族ってものにモヤモヤを抱えていたのは事実でした。それをなるべく直接見ない事で解決しようとしていたんです。そんなの解決と呼べるはずもないのに。」

 ハッキリ言えば、この半年ほど。解決したくもない問いのヒントばかりが降ってくると思っていた。私は知りたくない。知ったところでいいこともない。だけれども、同時に心のどこかでは「知らねばならない」とそう思っていた。

「私の中で色々と割り切るには、まだ材料が不足してるんです。それを探してこようと思います。」

 私が下した決断を、正面の彼女は真面目くさった表情のまま聞いていた。缶コーヒーの縁を指でなぞりながら、何を言おうか考えている風だった。プルタブの奥を右回りに降りていき、口をつけるところで指は止まった。

「正直、この事を伝えてしまえば、君ならそう言うとは思っていたんだ。遠藤部長の言う通りだったよ。どこかで私も、断ってほしかったのかもしれないな。緒環が呼んでいると伝えておきながら、矛盾していることは承知の上で、部長が言うように私も多分不安なんだよ。ツライことを聞くかも知れない場所に由香ちゃんが行くのは。企画をプレゼンするよう、あれだけ煽っておきながらだ。」

 缶を指の腹で叩くようにしながら、ため息が混ざる。

「この半年で君のことを知り過ぎたな。」

 自嘲するようなつぶやきが聞こえた。私の返答がどうこうではなく、引き止めたい気持ちと答えを探しに行って欲しいという気持ちで葛藤しているようだった。そんな松本副部長の振る舞いに苛立ったのか、パーテーションの向こう側から聞き覚えのある声がした。

「ああ、もう面倒くさい。興梠に覚悟が出来ているのなら、さっさと行ってくるべきだろう。」

「一度、決めたら行ってまうのが由香ちゃんやしな。あ、どうも。でも、あれですよ。盗み聞きしてたというか、多田先輩が心配なら覗いてこいって。だから、そのここに私たちがいるのは、多田先輩のせいです。」

 最初の勢いはすぐにしぼみ、申し訳なさそうに弁解する春日さんと、最初から謝意の欠片もない君津が顔を出した。春日さんが付け足す。

「緒環蓮という企画にまで、私たちがたどり着いてしまったのは、私と君津君がお母さんからの電話に出るよう、背中を押したのがきっかけなんです。その時は、きっとお母さんからの連絡を無視を続けていたら、何か後悔するんじゃないかと思って。松本副部長はそもそも私たちを唆したのが自分じゃないかと思っているかもしれませんが、なんなら私たちが先に、由香ちゃんに重たいモノを背負わせてしまったんです。」

 春日さんを遮って、私の背中を蹴るように君津が言い放つ。

「いいや、そんな美談みたいな話じゃない。むしろ前回企画は興梠、お前の為に組んだようなもんだ。その落とし前くらいは自分でつけてきてもいいだろう。」

 乱暴な理屈ではあったが、その分空気は前に進んだように感じた。再び、ため息とも深呼吸ともつかないくらい大きく息を吐き出し、松本副部長は私を見据える。

「冷たい同期だこと。これを最終確認にしよう。やっぱし、行くのね。」

 ようやく彼女自身も覚悟が決まったという顔をしている。

「はい。私には非情な同期含めて皆さんがついていますから。君津と春日さんのいう通り、前回特集を終わらせてきます。あんな締まらない前部長の編集後記じゃ、次回に続いちゃいますよ。」

 「返信を待つ」と巻末に書いた雑誌に対して、返信が返ってきたのだ。私は手紙の差出人ではないけれども、呼び出された以上その結末を見届けなければいけない。無視をして、解決したと思い込むことはいくらでも出来るのかもしれない。でも、私はネットミームの実在を確かめたかったのだ。結局、取材時には本命を見つけることは出来ず、私は記事を書くことすら流してしまった。

 「まあ仕方ないよ。」「周辺のインタビューメインの構成に切り替えるから大丈夫。」先輩からかけられたフォローの言葉をひとつひとつ思い返す。それでも、やはり私は納得していなかった。誰が何と慰めてくれとようと、最終的に私が納得しない限り、あの特集は終わらない。

「まあ、それならくれぐれも気をつけて。由香ちゃんの身に何かあったら、多分私高山部長を半殺しにする。」

 混ざる半笑いが逆に冗談っぽさを薄めていた。その表情に春日さんが若干引いている。

「なんなら、ついでに次号のネタくらい拾ってきたらどうだ。」

 君津はいつもの皮肉じみた口調で言ったが、案外私はその気でいた。

「たまには気が合うじゃない。緒環の掲載許可が降りたらそうするつもり。またプレゼンから練らなきゃ。」

 何度目か分からないため息と一緒に、私たちのやりとりを見つめる松本副部長。そういえば、遠藤部長になんて言い訳するつもりなんだろう、と思ったけれど渦中の私がそれを言うのはお門違いだろう。そのやりとりは彼女に任せよう。先輩たちは私の事に気を揉んでくれたけれど、やっぱり中途半端に首を突っ込んで、そのまま放置しておくことは出来なかった。母の事は未だに許せそうにはない。それでも、ただ事実を知りたい。そう思えるようになっていた。これは私の家族に関するプライベートな事。ただただシンプルに、私自身の決断なのだ。

 そうと決まればと、スマートフォンを取り出し高山部長に至極簡単な連絡を投げた。

「私は行くことにしました。いつにしましょうか。」

 すると、すぐに既読の文字が表れ、間の抜けたような猫のイラストのスタンプで「OK」そして「五月下旬で調整しようかな」とだけ返ってきた。まるで、私からの一報を待っていたかのようなタイミングの良さに思わず苦笑が漏れる。そんな五秒にも満たない簡単な手続きで、いよいよネットミームとのご対面が決まってしまった。その画面を松本副部長に見せると、私と同じ様子で笑っていた。

「まあ、この人がいるなら大丈夫か。」

 思えば、自分が葬儀に行くことを決意し、行動に移してから、いろいろな物事が動きだしている。閉ざそうと決意していた心さえも、小さな契機をきっかけに変わってきている。後悔するかどうかは別にして、今足が動くのであれば、その先へ歩き出すべきなのかもしれない。生きている中で、そういう選択をしなければ見えないモノがあるのだと、薄っすらと理解できるようになってきていた。

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