第8話
遠くで「ガチャ」とノブが回る音がする。誰かがここに来る。そもそも、ここは一体どこだ。入り込んでくる冷気に気づき、ブルッと体を震わせた。外からぼんやりながら声が聞こえてくる。
「え?空いている。おはようございます・・・って、そこにいるのは高山部長っすか?起きてます?てか生きてます?」
半分以上眠った頭でここがどこなのか確認をする。ぼやけた視界、回らない思考。答えにたどり着かないまま、急にカーテンが開け放たれ、資料と既刊誌が収まった古臭い棚、あとカビと埃しか存在しない空間に光が差しこんできた。狭い部室の中はすべてが日の光に晒され、容赦なく、まどろみが打ち切られた。
「ちょっと、高山部長。部室で寝るのはどうしても間に合わなそうな締め切り間際の時だけにして下さい。事前申請もなしに誰かが部室で夜を明かしたなんて管理本部が知ったら、それこそ活動停止レベルのペナルティを喰らいますよ。」
遠藤みどりは朝から容赦なく膨れ面をして、僕を責めた。
「それに今、十一月も後半です。そろそろ秋も終わるんですから、こんな所で寝てたら風邪を引いてしまうかもしれません。もう、半年後には高山部長も卒業して社会人になるんですから、自分の身体くらいちゃんと管理してください。」
「そうですよ、ちゃんとみどり先輩が管理してあげて下さい。」
非難の矛先が僕から、突如自分に向いていたことにみどりはしばらく気づかなかったらしく、数秒して、松本を睨むに至る。
「松本さん、私を茶化してるつもりかしら?」
「滅相もないです!お幸せになさってください。」
慇懃無礼とはこのこと、といわんばかりに頭を下げていた。遠藤は怒りながら、何も言えなくなったのか、ばつが悪そうに目線を逸らす。後輩で遠藤みどりをここまでイジれるのは、彼女くらいなものだろう。彼女が揶揄した通り僕と遠藤副部長は付き合っている。それを知っているのは、目の前にいる松本を始め、同級生の一部のはずだ。それにしてもこの太々しい二年生の後輩女子は、我々のどちらかが公表するまでもなく「遠藤先輩の目線で気づきました」と公言するあたり、恐ろしい観察眼だとつくづく思う。そんな内省すら察してか、
「まあ高山部長が卒業なさっても、この遠藤時期部長、そして松本副部長体制でこの部は仕切っていけますので、ご心配なく。」
余計な心配は不要とばかりに付け足した。
「それについては心配なんかまるでしていないよ。」
何も考えずに目の前の会話だけ片づけて、今の状況を整理しにかかる。
「おはよう、二人とも。で、今何時?」
自分が部室にいることをようやく理解する。
「本当に高山部長は寝覚めが悪いですね。もうそろそろ九時です。そろそろ大学生協に「SAJAM」の二刷が届くころかと思われますが。」
「部長ったら、集合早いからって、原稿見返しながら帰るのが面倒になったんじゃないですか?」
図星だった。昨晩自分の書いた原稿や、過去のバックナンバー、そして今回の特集を読み返しながら、今日の集合時間が早かったことを思い出した。結果、指摘通り自分の家に帰ることすら面倒になってしまったのだった。
「いや、なんか色々思い出しちゃってね。」
適当にごまかしたつもりが思わせぶりなセリフになってしまう。
「部長。あまり一人で抱え込まないで下さいね。最近、怖いほど遠くを見ていますよ。」
遠藤は心から僕のことを心配してくれているようだった。なんだか気まずいので、強引に出発することにした。
「ああ、悪かったよ。そろそろ本が届いてしまうな。生協に行こうか。」
「そうですよ。相田さん、と雄太君、多田君は先に現地で集合にしていますから、もう作業を始めているかもしれません。」
平たく言えば「SAJAM五十三号号」は我々の想定を超えて売れていた。通常は、五百部程作成し、この大学生協と大学前に昔からある個人書店、八千代書房に委託販売をお願いしている。結局、売れるのは半分ほどで赤字発行がほとんど、よくてトントンというのが我が部の経営状況の実態だ。
そんな中、今回号は二週間ほどで即売り切れ。部のメールアカウントにも「いつも買えるのに在庫がない」「通販、再販はあるのか」といった苦情めいた問い合わせが届いていた。一度緊急部会を開き対応を検討するに至った。
「いや増版って、現実にあるんだな。」
「部に在籍している間にお目にかかれるかどうかよね。」
「それにしても、新入生企画に乗っかって正解だったな。」
発刊した雑誌がここまで売れる経験をほとんどの部員がしてこなかった為、本来の議題を忘れ、周囲から貰った感想を表明したり、売れた要因を討論することに終始した。要は、僕を含めて皆舞い上がっていたのだ。そして「こんな事まずないし」という記念碑的な理由で増刷が決まった。
そんな中、新入生三人はと言えば、なんだか妙に静かだった。「せっかく自分らの企画で売れているのだからもっと胸を張ればよい」と伝えてみたが、今一つ彼らの心は違うモノを感じている風に見えた。やはり自分たちの思い付きがどんどん世に出ていくというのは、恐怖とも一体なのは確かだ。作り手は何でも自由に生み出すことは出来るが、それがどこでどのような反応を生み出すか、ということに関与することは出来ない。
結局、搬入作業はものの三十分ほどで終え、田中と多田、そして相田さんがこちらに寄ってくる。一度六人全員が集まった。
「今日はお疲れさまでした。あ、そういえば高山部長はこれで、ジャーナリズム研究会としての仕事はすべて終わりなんですよね。」
相田が少し神妙な感じで一言付け加えた。わかっていたものの、そう言葉にされるとなんだか感傷めいたものが胸を去来する。
「いや、そうは言ってもちょくちょくまだ部会には顔を出すと思うし。また更なる増刷の可能性がないとも言えない。卒業まではこのぬるま湯に浸っているよ。」
「これ以上の増刷はさすがにないですよ。」
未だに虫の居所が悪いのか、多田が吐き捨てる。
「なんにせよ、今回の秋号は僕の名前で出してしまっているし、最後にあんなお手紙までつけてしまった。何かしらのクレームやらリアクション、それに対する悪戯の対応くらいはさせてもらうつもりだよ。何か連絡があったら、躊躇わず僕に言ってね。」
「何をこんな朝早い時間に辛気臭い事言ってるんですか。四年生の追い出しコンパは盛大にやりますからね。部長には勿論ご挨拶頂きますので、ぐでぐでに酔っても言えるご高説を考えといてくださいよ。」
松本から皮肉しか籠もっていないメッセージが投げつけられると自然に笑いが起こる。こうしていると自然と話は続くものの、延々生協の前でと時間をつぶすわけにもいかず、そこで散会となった。
単位もほとんど取り終わり、就活も済んでしまうと、余白の時間が増えていく。さて一度家に戻ってから午後のゼミに顔を出すべきか、あるいはこのまま部室にでも篭って資料でも読みながら時間を潰すか。思いあぐねていたところ、後ろから遠藤の声がした。
「高山部長、昨晩は帰っていないんですよね。これから一度家に戻るのであればこの前貸した本、取りに行っていいですか。」
「え、そんなもの、俺が取りに戻れば」
ここまで言って、明ら様に不機嫌そうな表情を浮かべているのに気づき、続けるのをやめた。
「あ、ええと。君がいいなら頼むよ。ついでにお昼ご飯もご馳走しようか。」
「はい、良くできました。」
期待に沿えて上機嫌というより、なんとかして及第点を取った生徒にするような褒め方だった。そもそも、人との直接的な会話も得意でないというのに、行間を読ませるようなコミュニケーションは昔から余計に苦手だ。彼女と付き合い出して思えば一年と少し。日々試験みたいな状況下で、よく愛想を尽かされないものだと自分ながらに思ってしまう。
「ほらやっぱり、散らかっているというレベルじゃないですよこれ。よく暮らせていましたね。」
帰宅早々とりあえずシャワーを浴びた。バスタオル一枚だけを身に着け部屋に出てきた僕を見て早速、辛辣な非難が飛んでくる。午前中からそんな雰囲気になるかもしれない、なんて期待していた自分が呪わしい。なんなら、僅か十五分ほどの間だったにも関わらず、床に積んであった本や漫画は綺麗に棚に収められ、ありとあらゆる小物置きと化していたダイニングテーブルの表面と数ヶ月ぶりに対面した。
「すごいな。こんなに短時間でどうやったんだ。」
素直な感想を投げると、呆れ顔もここに極まれりという表情が返ってきた。
「そんな短時間で出来る積み重ねを、部長は日々サボってきただけの話なんです。」
ここ数ヶ月、やはり言葉に潜む棘が鋭さを増している気がする。いや分かっている。
彼女に「SAJAM五十三号号」の特集を自ら降りるようお願いをしてからというもの、僕への当たりは確実に厳しくなっている。
「ああ、申し訳ない。」
ふと口をついて出る意味のない謝罪が聞こえなかったのか、聞かなかったのか、彼女は何を言うでもなく片付けを続けていた。読みかけたままの書籍、洗って乾かしたままの食器類、放置されたカバンや衣類に至るまで、彼女の手によって本来あるべき所に収まっていく。身を潜めるだけの間取りもない為、僕はとりあえず下着を身につけて、テレビ前のソファにひっそりと座る。どこか怒気を孕みながら、淡々と進む清掃作業を見守る他なかった。
ある程度、作業も終わりが見えてきている。僕はおもむろに立ち上がって、提案を投げる。
「お茶でも飲みますか。」
電気ケトルにお湯を溜めつつ、ドリップコーヒーの包装をねじ切った。空気があまりに重たく、無意識に敬語になってしまった。
「そうしましょうか。」
そして彼女からもやけに他人行儀な答えが返され、しばしのティータイムに移る。さっきまで僕が座っていたソファに身を投げた彼女はひとしきり人の部屋を片付け終わり、どこかスッキリとしているようだった。献上品として冷蔵庫からプリンを取り出す。正直一人で食べようと先日コンビニで買ってきたモノだが、少しでも彼女の機嫌の底上げに繋がるのであれば安いものだ。
「気が利くじゃないですか。」
「まあ、なんだ。ここしばらく諸々わがままを聞いてもらって悪かった。」
彼女は節操もなく繰り返される謝罪にうんざりしているようにも見えたが、僕は気の利いた謝り方なんて知らない。それでも、今言える言葉を繰り返すことによって、ようやく辿り着ける場所もあると思っていた。視線はこちらに向いてなかったけれど、ようやく彼女は対話の入口に立ってくれた。
「部長、もう謝らないでください。確かに特集を降りたことも勿論悔しいですけれど、私はただ、それよりも、私は部長が心配なだけなんです。」
そう言う顔は少し紅潮しているようだった。
「すでに引退された他の四年の先輩から伺って、高山部長の高校時代に嫌な事があったのも知ってます。それを受けて一年生の時に、今回の興梠さんたちのように無理やり特集を組もうとしたことも。」
「あぁ、そんなこともあったね。」
思い返せば黒歴史の一つでしかなかった。自死を図ったIさんの生霊を勝手に脳内に抱えたまま大学に進学し、このジャーナリズム研究会に入った。趣味など特段なかったが、本や雑誌など文章を読んだり、また書くのも好きだった。何より当時の僕は書かねばならぬ事があると思い上がっていた。僕はここで「緒環蓮」にまつわる企画をやることしか頭になかったのだ。
同じく入学した年の秋号だった。同級生の手も借りず、独りよがりに特集企画を作りプレゼンするも、興梠さんらのようにうまくいく訳もなかったが、当時の部長のお情けで一頁分コラムを書くスペースを貰い、なんとか掲載してもらえたという、曰くつきの一冊だった。あの部会の日、僕に興梠さんと遠藤を叱る資格などそもそもなかったのだ。
「今回、春日さんや君津君たちは緒環蓮という現象になるべく自分の思想に関係なく特集に努めていたと思います。特集自体の力もありますが、実際インタビューなどもしっかりと読める内容になっていたからこそ、今回の売れ行きなのだと思っています。」
建前としての分析を終え、ようやく視線が僕に向いた。
「ただ、部長が、一年生の頃あの尖った文章を書いた高山満が何を考えてこの特集を仕切ったのか。それが分からない。そもそも貴方は言葉が足らなさすぎます。」
数年前までの「SAJAM」のバックナンバーは部室を漁ればすべて存在するし、彼女は過去にそれを読んだのだろう。彼女の厳しい目つきは、追及というより悲しいという意思表示のように見えた。
「部会で興梠さんが私に反発をした事、その後彼女が経験したことも含めて、今奇跡めいた事が起きたんです。そんな状況下で貴方が編集長を勤める最後の雑誌に、特集企画を一度明け渡すことなんて、私にとって大した事じゃありません。それより、この記事を使って本当に部長がしようとしていたこと、それくらいは聞けてもよかったんじゃないでしょうか。あんな編集後記ですべて語ったなんて言わないでください。私に言うべき、次期部長に伝えるべきものがあるんじゃないでしょうか。」
少しだけ熱っぽくなりながら、遠藤はこれまで抱いていたモヤモヤを一気に噴出させていた。
よく思い返すと、確かに出来すぎた流れだった。毎年恒例の新入生のプレゼンに彼らがこの話題を選んだこと、それを先に掴んだ松本さんが僕に事前に告げ口をしたこと、そして、あまり深い事を話さず遠藤にお願いをした結果、自ら進んで特集を譲ってくれることになったことまで。
あまり時間に余裕がない中で進んできただけに無自覚だったが、僕はこの「SAJAM」で使える最後のチャンスを緒環への足掛かりにしようと、思った以上に必死になっていたのかもしれない。
そんな思いの元で書いた今回の編集後記や僕の振る舞いは、外から見ても澱んでいると分かったのだろう。そして、それに気づく時点で彼女はよく僕を見てくれていた。
「いつも言葉足らずでごめん。とりあえず、プリン。食べてよ。」
彼女は無言でうなずいて、ぺりぺりと薄いビニールの上蓋を外す。話してみろ、という事だろう。
「僕自身も綺麗に整理できている事でもないんだ。先輩から話を聞いているということは、今回の編集後記にどんな嘘が混ざっているのかも分かっているね。」
「同級生は女性で、実際にその後の事もご承知だと。」
「そう。その話だと先輩からの情報は諸説あっただろうけれど、Iさんは自殺を試みたものの生きている。これが事実だ。だからこそ、記事では事実関係をぼやかした、と言いたいところなんだがむしろ、未だに僕が彼女を止められなかったという罪悪感と向き合えなかったことが大きい。それが嘘をついた一番の理由だ。」
自分の中で少しだけ覚悟を決めて改めて確認をした。
「あまり面白い話ではないけれど、聞いてくれるかな。」
彼女は静かに促す。未だに乱れている僕の頭の中についても、一緒に片付けをお願いすることにした。
「まず、僕が緒環の思想にどんな評価を与えているか、から話そう。未だに危険思想だと思っている。当然、今回の特集でも掲載したとおり、様々な分析がなされていて、自殺を止める効果があると解釈するのも間違いではない。実際に思いとどまっている人もいるわけだしね。ただ、僕の立場からすれば。目の前のクラスメイトが、その動画を希望として一生を終わらせようとした。僕の主観による思い込み、と言ってしまえばそれで終わりなのだけれど。」
ソファの真横に彼女は座っている。至近距離からあまりに真っ直ぐな視線が注がれ、言葉が詰まりそうになるが、その重圧を躱すようになんとか頭を回し続ける。
「ただ、僕の主張にも一応理屈というか根拠みたいなものがある。それは、自殺しようとしている人が行き着く最後の最後。実際に行為に及んでしまう人が何を考えているのか、という話だ。つまる所、遺書の内容だね。」
何かで読んだ話を、頭の片隅から引っ張り出した。
「思いの外、自殺をする人の遺書に書かれている事って現実的なタスクも多い。飼っている犬の散歩をお願いしたい、とか。家族へ気に病まないよう伝えてくれとかね。ここからは僕個人の見解だけれど、悩みの次元を突き抜けてしまって、本気で死のうと決めてしまった人にとって、自らを手にかけることは日常のやるべき事リストの一つに変化してくるのだと思う。緒環の動画は、遺書の作成過程そのものに近い。死ぬ為の実務手続きを淡々と強いているように見えるんだ。」
ふと頭に過ぎるあの日の教室に取り込まれないように、手の中で、爪を手のひらに刺しつづける。
「彼女が何かを決めた日、僕は教室に呼び出されたんだ。こちらが不安になるほど穏やかだったよ。あれだけスッキリとした表情だったのは、生活の先に死をセット出来た事への安心感だったんじゃないかと、未だに思ったりする。」
「言い回しとして正しいかはわかりませんが、死ぬという非日常を日常に落とし込んでしまった、という感覚なのでしょうか。」
理解の早い遠藤が、難しい顔で話の先回りをしている。
「そうかもね。話は飛ぶけれど、人は祖先が木の上で暮らしていたころに恐怖を得たという説がある。進化の過程で図体は猿より大きくなり、関節も硬くなる。要するに落ちたら死ぬ。そのリスクを抱えながら、枝から枝に渡る際、瞬時にシミュレーションをすることで脳の発達も著しくなったと言うんだ。未来の想像こそ恐怖の発明の元であり、反面その恐怖こそが想像力強化の重大な要素と言っていいだろう。」
彼女は既にその先の結論を待っている風だった。
「話が回りくどかったかもしれない。緒環の理屈の展開は聞く人にこの恐怖の克服を与えてしまうものだと思う。一見、ポジティブに聴こえるけれど、人間にはネガティブな恐怖だとしても奪ってはならない領域がある。下手にその恐怖だけを取り除き、悟り切ってしまったのならば、残るものは行為としての解脱だ。僕はIさんを見て、そんな風に思ってしまったんだよ。」
遠藤はプリンを少しずつ減らしながら、何かを差し挟むこともなく話を受け入れていく。横並びで目線が合うことはなかったけれど、こんな意味のない内省でも、聞いてくれているというその事実が有難く思えた。彼女は少し考えてから、過去の事を気にしていた。
「そういえば、部長が無茶していた一年生の時ですけれど。ページが与えられ、なぜコラムを書いたんですか。部長の性格なら取材をしそうなものですけれど。」
「いや、申し込みはしたんだよ。」
「どなたにです?」
「緒環本人さ。」
あえて顔は向けなかったが、視野の端でこめかみが傷みを覚えそうなほど凝視されているのが見えた。
「そもそも今回、実在するかも分からないネットミームの実在を探るって彼らの主張に乗っかって、誌面でもあんな息巻いていたのに。部長は既に本人とコンタクトを取られていたという事ですか。」
口調から一方的に不満のボルテージが上がるのを見て、一旦落ち着ける。
「いやいや、騙したつもりはないよ。」
完全に騙したであろう男が言いそうなセリフが漏れ、余計に立場が悪くなった。
「オリジナルの動画がアップされた初期、一時期だけコンタクトを取れるメールアドレスが掲載されていた時期があったんだ。恐らく、緒環本人の意思としては自殺志願者を止めたいという考えがあったのだろう。」
彼女はまさか、とでも言いたげに怪訝な表情を浮かべる。
「それは視聴者の悩みを受け付けようとしていた、ということですか。」
「多分、そうだろうと思う。匿名掲示板にもメールのやりとりで相談に乗ってくれたという体験談が話題になっていたよ。」
ただ、その後はネットユーザーなら一瞬で想像できるほど安易な展開になった。緒環が抱いていたであろう微かな良心など、匿名掲示板のような好奇心と野蛮の境目が機能しない場所では恰好の餌でしかない。相手のリアクションがあると分かれば、悪戯に走る馬鹿も一斉に沸く。つまりは荒らしに遭ったのだ。
延々とアドレスにメールを打ち続けたと宣言するような輩も現れ、程なくして、動画の詳細欄から緒環のアドレスは消える。遂にはメールのアカウントも消されたようだった。
「じゃあ、部長も取材の申し込みをしたけれど時すでに遅かった、というわけですか。」
「いや、動画の紹介からは既に消されていた時期だったけれど、ぎりぎりアカウントは残っていたのだと思う。間に合ったんだ。メール送信自体はエラーにならなかったからね。僕は真っ向から、先に言ったような主張を展開したよ。実際にあったIさんの事を引き合いに出した上で、貴方は危険思想を振りまいている、と。その上で直接お話しがしてみたい、と。僕が書いたのは、そんな論調だったからこそ正直返信も期待してなかった。」
思わせぶりな語尾に彼女はすぐさま反応する。
「ということは・・・」
「そう。それでも、返事はあったんだ。」
長文のメッセージに対して、緒環からの返信は実に簡素だった。「取材には受けられない」あと「アドレスのアカウントは近いうちに消える」つまりもう、メールしても無駄だということだろう。そして、もう一つこそ未だに自分の中だけに閉まっていた一文だった。
「最後に「これは私の思想ではないから。」そう書いてあった。」
返事にあったこの部分について、僕は初めて人に漏らした。それほど、引っ掛かりを覚えていたし、逆に言えば僕の思い上がりの可能性もあった。
「緒環蓮の思想は、彼のモノではない、ということですか。それは汎用的な意味でしょうか。例えば仏教の教えから一部を拝借しているとか、著名な思想家からインスピレーションを受けているとか。」
「僕もそう考えた。」
その「自分のモノではない」という緒環からの独白をどう受け取るか。このメッセージが返ってきた当初は、返信があった事自体に僕は興奮を隠せずにいた。
しかし冷静になってみれば、どこかで本を読んでみたり、あるいは誰かの話を聞いてみたり、そもそも各宗教の祖だって預言者と呼ばれている。あくまでも皆、絶対神の代弁者でしかない。
あくまでも、思想のオリジナルは他にあって自分はそれを動画にしたに過ぎない。自分は預言者である、という宣言はそうしたカルトの始祖にとって、よくある序文以上の意味を持たないものだ。
「でも、安易によくある預言者宣言と考えて、その一文を捨てるにも少し躊躇いがあった。」
いちいち彼女の黒目が大きくなるのがわかる。リアクションが素直だと話す側としても、気が乗ってきてしまう。少し気持ちを落ち着けながら要点を整理する。
「自分のモノでない」発言の違和感。その一点は、この話がネットで広まっていないということだ。緒環思想は一時期ネットで騒がれた。コンタクト用のメールアドレスもしばらく公開されたままだった。僕に返したものと同じような定型文で返信していたのだとしたら、この「自分のモノでない」という言説は、多少なりともネットの海を彷徨う事になっているはずだ。当時から、緒環の名前をネットで検索しては調べてきたが見つからない。つまり、あの返信の文章はわざわざ僕に対してだけに宛てられたものだという可能性がある。
「無論、ここまでも、ここからも推測の域を出ることはない。でも、敢えて考えてみたい。何故、僕に対してそんな返信内容を付け加えたのか、だ。」
「部長だけが特別だった理由、ですか。」
少し考えるようにして遠藤は上を向く。ほどなくして着想が降りてきたようだった。
「取材申入れの打診内容が他にないものだったということですよね。Iさんの体験談と、部長が書いた思想としての追及が緒環に何らかの動揺を与えたと。」
「そう。真面目に書いてみた甲斐があったってことさ。とりあえず、その仮定を進めてみよう。僕だけに寄越した「他人の思想だ」という宣言の動機だが、考えられる理由は案外少ないと思う。」
「釈明、つまるところ言い訳ということですかね。」
要点だけを外さずに彼女が返す。
「緒環は本当に何らかの善意で動いている。自死を人に勧めながらだ。そんなの普通の精神状況で出来ることじゃない。本当に自分の動画による事例を前にして揺らいだんだ。僕が事細かに書いたIさんの事例に対して緒環は一抹の罪悪感を抱かせたのだと思う。本心から死を勧める事ができていない。」
だから「彼」は表立って人を宣揚するようなカルトの祖にならなかったし、なれなかった。
「緒環は明確な意思を持ちながら動画を上げた。但し心のどこかで葛藤も含んでいる。プロパガンダや売名以外にはっきりとした目的があるとしか思えない。」
「でも、そこまでは部長が編集後記でも書かれていたことですよね。あくまでも緒環の心象分析です。それより高山部長ご自身は一体、緒環と会って何がしたいのです?」
これが最後の問、とでも言うかのような声色だった。緒環の事はわかった、で貴方はどうする。それこそ彼女にとって聞きたかったことの核心だった。雑誌作りにせよ、創作にせよ、何かしらの対象を執拗なまでに追求し、調べ、文字に起こす様子はまるで、恋でもしているように見えることがある。僕もかつてこの部にいた先輩たちが雑誌を作る様子を見る中で、そんな思いに捉われたことがある。
そんな不安定な足場で立ち回る僕を、心配そうに見てくれていた彼女に伝えるべきことはある。その義務があるのだろうと、ようやく分かった。
「すまない。」
結局、口をついて出るのは陳腐な謝罪だった。
「今回の僕自身の目的はトラウマの解決だよ。具体的な未遂事案まで身近にあった身としてはね。動画の目的如何では、Iさんはあんな選択肢を取らなくてよかったのかもしれない。完全に過去のたらればではあるけれど、彼の目的が一体何だったのかやはり知りたいし、その目的を知ったうえで貴方は間違った方法を取ったと直接に伝えたい。」
要するに、と口にして言うべきか言葉に詰まった。正直あまりよくない予感がした。
「すべての治療には、会話が要るんだ。」
それを聞いた遠藤は鼻で笑った。
「今の言葉、そのまま部長にお返し致します。ちゃんと人を頼ってください。部長も、ふとした時に消えてしまいそうな時があります。」
自分こそ言葉が足りないという諫言は図星なだけに深いところに刺さったし、そんな僕を見て彼女はしばらく呆れた顔をしていた。ただ、ひとり墓穴を掘り続けていた僕があまりにバカらしかったのだろう。いいタイミングで時計から十二時を知らせる時報が鳴り、ようやく彼女は我慢しきれなかったのか、笑ってくれた。
「それにしてもお返事、来るといいですね。」
「・・・そうだな、いつもよりは売れたしな。」
今回の「SAJAM」が売れたことは僥倖だった。少しでも、誰かの目に留まる機会は増えたということだ。当人が買わずとも、何らかの方法であの文章が届けばよい。いっそのこと転載でもなんでもしてくれ、という思いだった。
「と、そんなことより。そろそろお腹が空きました、お昼何でもご馳走してくれるって言いましたよね?」
彼女の要望に則って、僕はかなり腹を割って話したつもりだった。じっくりと会話できた事で完全に機嫌を直してくれたと思っていたら、もう一押し必要なようだった。というより「何でも」とは言っていない気はするが、今否定する勇気はない。気持ちばかりの難癖だけつけておく。
「え、さっきプリン食べたのに。」
「あんな少量のおやつ、食事にはなんら影響はありません。そんなことより駅前にいいお店あるんです。そこに行きましょう。」
迷う素振りすら見せずに、ランチに訪れる店までも決まっていた。僕はそこでようやく今日目を覚ました時から、すべて彼女のシナリオに基づいて話が進んでいたことにようやく気が付づく。レールを歩まされただけだというのに、僕はなんとなく気持ちがスッキリしていた。
そうと決まれば、と彼女は簡単な日差し対策と肌の色みを整えて、早速外出の準備を整えている。たかだか歩けば十五分程の駅前までランチだというのに、どこかはしゃいでいる彼女の姿を後ろから見て、ふと彼女という存在を自分のなかで再確認してしまう。
ちゃんと僕のことをしっかりと見てくれている。その安堵を心から感じていた。なんとなく今更ながら、部内の人間と一緒に彼女と顔を合わせるのが気恥ずかしくなってきてしまった。もう、部活には顔を出さないようにしよう。強くなってきた日差しを遮りながら、僕は彼女の後を急いで追いかけた。
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