第7話

身体における様々な機能の中で、眠いという感情だけがかろうじて働いているようだった。それでも、意識は思考を自ら進んで手放そうとせず、安眠にいたる淵の手前で必要もなく踏ん張っている。どうやらわざわざ望んで葛藤を欲しているらしい。

 僕の理性が思い悩み結論付け、感情をも納得させ、全会一致の末で出力したデータだとしてもだ。やはり事実と異なる「嘘」が文字列として鎮座しているのを眺めていると、喉の奥に言いようのない苦味が広がる。その現象を人は罪悪感と呼ぶようになったのか、あるいは嘘そのものに付随している味覚なのだろうか。鼻をすすっても、唾を飲み込んでも、身体の向きを変えても、その苦い味を消し去ることは出来なかった。

 嘘のひとつやふたつを吐くことは、雑誌制作過程において欠かせないファクターなのだ。ただ今回の場合は、嘘の一部がインクの染みにまで落とし込まれている。しかも落とし込まれた先は拡散を前提とした媒体ということで、僕は逃げようがない。逆に言えば、文書に嘘を残すという愚行を犯すほど僕も必死だった、ということだ。どうかその必死さに免じて許してほしい、と思うとふと目の前を見上げると告解を聞こうとする神父の姿があった。顛末を話してみろ、そう言われている気がした。


 まず、釈明の余地もないところから始めよう。あれはそもそもI君ではない。重大な虚偽表示だ。僕が書いたのは高校三年で同じクラスになったIさん、そう彼女のことだ。女子高生にしては少し大人びていて、クラスのカーストにもグループにも属する事なく、むしろ印象自体を人に与えないように振舞っていたようにすら思える。でも、僕とそこまで仲良くもなかった事は本当だ。いや、僕にそもそも心から仲が良かったと言える友人などいなかったような気もする。

 でも、彼女だってそうだ。友達なんてモノは不要とでも言いたげな表情で、親しげなクラスメイトもいなかったはずだ。髪型はそんな性格を体現したように、いつも小ざっぱりしたショートヘアで、表情は常に無愛想なんだけれど彼女が視界に入ると、僕は嫌な気分がしなかった。人を邪険にすることもなく、されることもない。むしろ事が起こる前の時点において、僕がIさんに対して持ちうる感情や情報は、それ以上でも以下でもなかったはずだった。

「おい高山、今暇だろ。」

 野太い声が聞こえる。授業も終わった教室後方、亀が悠然と泳ぐ水槽の前で担任のSからそう問いかけられたのは、四年前のちょうど今くらいの季節だった気がする。

「突然だが、お前は、Iの事をどう思っている?」

 いかにも不味そうな亀の餌を水槽に振りかけながら、突然振られた話題にどう答えたらいいものか、思案しているところだった。たしか夏の終わり。でも、確かその年は異常な程に気温が高くて、毎日が熱気との戦いだったような気がする。授業も終わり、エアコンも切られ、いくら窓を開けても風は通らない。その日、蒸し蒸しした空気は僕と共にしばらく教室に居座っていた。

 当時、クラスの同級生たちのほとんどは受験勉強まっしぐらで、学校の図書館に籠っているか、足早に駅前の予備校へ向かう者が大半だった。僕も勉強をせねばならない一人なのは間違いなかったが、その日は予備校の講義もなかったし、何せ暑くて気が乗らなかった。Sが見抜いた通り、暇なのは確かだった。

「どうって。異性として好きとか、嫌いとですか。」

「あー、悪いが今俺には時間がない。お前の恋愛相談に乗っかるつもりはないんだ。」

 日頃からさも当然のように業務連絡だけを求めてくるSへのささやかな抗議をしてみたつもりだったが、向こうもお見通しだったのだろう。あまり面白い返答でもなかった。

「そうですね。不思議な子ではありますけれど、文字通り「特筆すべきものはない」と感じます。いじめ・・・そもそもそうした関係性すら発生しそうにないほどです。女子のグループですか。Iさんが行事以外でそうした輪の中にいること自体、見たことないです。」

 頭の中にある情報を特段編集することなく思った事を返してみる。

 僕は中学および高校生活において、運動も趣味も「やるべきこと」以上の面白みを感じる取る事ができなかったので、学生生活において勉学に励み、規律に乗っ取り「真面目に過ごす」という選択肢をとる他なかったのだった。そんな生活を続けてるうちに、いつの頃からか、クラス委員なんてものに担ぎ上げられることになる。

 三年のとき、クラス担任のSは学年六クラス全体を統括する学年主任という役回りだった。そんな忙しい彼の代わりと言ってはなんだけれど、クラスの細かい相関図や、問題が起きそうな関係性の詮索など、生徒周辺の動向を把握することをクラス委員の仕事として求められた。今思えば、彼とは先生と生徒というより上司と部下と呼んだ方がしっくり来る間柄だったのかもしれない。

 Sは当然のことながら、クラスの安定を職務のひとつとしていたし、僕にとっても日々の生活圏が極力穏やかなものであってほしいと願っていた。それは、お互いにとって納得に足るメリットだったし、いわばWin‐Winの関係、みたいなものが結ばれていた。僕からのIさんに関する平べったい感想を、表情に出やすいSは渋い顔で聞いている。

「お前から見てもそう感じるか。どうも掴めない、ってレベルじゃない掴めなさなんだよな。何も感じないでほしいというか、掴まないでください、というような。」

「それが何か問題でも?」

「お前はまったく気にしないでいい話だから忘れてくれ。そろそろ進路の事とかあるだろう。今は、それぞれの生徒と談話する上での参考資料を集めている。」

「要するに、まさかの白紙回答?」

 やはりすぐ苦い顔が現れた。

「ご明察だ。ただ外に漏らすんじゃないぞ、今こういうの最近本当にうるさいんだから。」

 思えば数日前に進路希望調査があったばかりだった。春の調査に次いで二度目。そろそろ高校生という身分から離れる目途をつけろという学校からの最終通知のようなものだ。

 大学に進み、もう少し学生としてモラトリアムに勤しむか、社会人としてこの現実社会に漕いで出るかという二択が一般的な選択肢となる。クラス委員業務としての書類整理にかこつけて、身辺調査の真似事をした結果、クラスの凡そ九割が大学・短大・専門学校へ向かう予定らしい。残り一割ほどが、働き出したり家業を継ぐといった状況である。

 Iさんはそんな中、進路回答を白紙で提出したという。彼女の提出が遅かったせいか、その事実を僕は知らなかった。普段から気に留めていたわけでもないが、進路希望調査を白紙で出すような反骨的な性格をしているとも思えなかったため、彼女に対して小さな興味が湧いた。

「それ、僕からいろいろ聞いたり、調べるのはまずいですかね。」

「え?いや、お前がいいのなら、クラス委員が生徒の相談にのるってのも、何ら不自然ではない。身辺調査をするなら、常識的な範囲までで頼みたいが。」

 建前として問題ない旨を僕に伝えてから、Sは怪訝そうな目をしていた。

「ただ、高山が自分から乗り出すなんて珍しいな。え、ほんとに好きだったりするのか?Iのこと。本気なら相談に乗るぞ。」

「そういう質問は今時分、セクハラにあたりますよ。」

 ため息まじりに冷たく返してから、少し黙る。そう言ってはみたものの、自分の申し出が完全な思い付きであった事に気づいてしまう。これではまるで、本当に好きな子の事が気になっているヤツみたいではないか。何とか理由を繕う。

「そうですね、高校三年の夏なんて受験勉強以外、特にすることもないので。たまにはそうした趣味と実益を兼ねて、クラス委員活動をしてみてもいいのかなと思ったまでです。」

 それを聴いて、多少納得しかねるように目線を泳がせてはいたが、それ以上Sは突っ込まなかった。

「そうか。お前の気晴らしになるならお願いしよう。ただ、さっきも言ったが深入りするんじゃないぞ。そういうことっていうのは、あくまでも本人が決めることなんだから。」

 人使いが荒い気もするが、僕とSの関係はそれほど悪いものでない。教諭とクラス委員として、協力関係にありながらも、明確に一線を引いて不可侵な領域をお互いに作っていた。

 会話も終わり、彼は教務室へ戻っていった。教室には再び自分ひとりだけが残される。ふと窓から校庭を見れば、サッカー部、陸上部、テニス部といくつかの種目がひしめいていて、目で追うだけでも忙しい。各団体とも夏の大会が終わり、皆二年生以下の新チームだろう。僕と同様、受験勉強に疲れたのか、コーチとして声を上げている同級生もちらほら居る。ぼんやりと校庭に点在している同級生一人一人を、頭の中で描いた空想の線で繋ぎつつ、たった今、安請け合いしたIさんの件についてしばらく考えていた。

 先日まで掲示板に張り出されていた期末試験の順位表を思い返す。彼女の成績が中の上くらいだったのは間違いない。手前味噌だけれども、このK高校も県内随一の進学校として知られているわけだから、それなりに努力をすれば有名私立校にだって入ることが出来るレベルだと思う。

 そうなればやはり学力面は問題でない。だったら、進路の白紙の要因はなんだ、と余計な世話心ついでに無粋な妄想が広がる。家庭の経済的な環境、あるいは別に将来の夢がある、とか。

 なんだか、ありそうではないか。僕は身勝手な妄想を展開しながらひとりで盛り上がっていた。とすれば、Iさんの白紙回答には、そんな彼女の悩みが介在しているわけで。その悩みに対して、クラス委員として適切な介助を行う窓口くらいなら紹介できるんじゃないか。今思い返すと非常に痛々しい思い込みだったと反省している。

 一般的に人付き合いが下手な人間ってのは、脳内で勝手に相手とのコミュニケーションを想像しては一喜一憂する。本来そういうものはトライアンドエラーこそが本質なのに、怖がってシミュレーションばかりを試みては、その結果に傷心したり満足してしまうのだ。そして、そんな独善的で都合の良い思い込みには大抵罰が付いてくる。

 亀の世話も終え、そろそろ帰宅の準備をしようと思ったとき、ふと後方に人の気配がする。急いで視線を校庭から教室内に戻すが、しばらく目の前の景色に現実感がついてこず、そこにいる人の顔を認知出来るまで数秒かかった。教室入り口付近の席にそのIさんがいた。自分の席に座り何やら手を動かしていることにやっと気づいた。

「うわ、Iさん。驚いたな、声くらいかけてよ。」

「夕方の校庭眺めて、黄昏ている男子高校生になんか普通声かけたくないわよ。」

 手元には数冊の本が収まっている。彼女は図書室から教室に戻ってきたようで、それらをカバンにしまい、早々に帰宅する準備を進めている。

 今、ここにはIさんと自分のふたりしかない。であれば今を置いて、彼女と会話をするチャンスは他にないだろう。彼女の席へと歩みを進めながら、話の切り出し方を考えるも、自分の脳が全く働いていない。思い描いていた空想をいざ現実にしようとするとき、再現するデータの解像度は恐ろしいほどに下がっていたりする。何とか理性の力を借り、最低限の言葉を絞り出すことには成功した。

「そ、そういえばさ。Iさんって進路希望どうしたの。」

「・・・何よ突然ね。」

 カバンの奥に目をやったまま、感情が読み取れないトーンで返答だけが返ってくる。Iさんは手を止めて、しばらくそのままの姿勢のまま繋げる言葉を探していた。

「いや、S先生がさ。」

 足場を作るようにして、一言名前を出してみた。彼女は、ああ、と小さく相槌をうった。

「なんだ。直接聞いてくればいいのに。」

 独り言のように小さくつぶやいてから、僕の方に居直った。

「で、希望調査を白紙で出したこと、S先生が何か探ってこいって?」

 いかにも不機嫌そうだった。

「いや。S先生は今度面談があるからって、確かにIさんが白紙で出した事を悩んでたけれど。その理由まで聞けとは言われていないよ。」

 そこまで言って、どうしようかと少し躊躇ったが、踏み込むことにした。

「それについて、個人的な興味はあるけれど。」

 思わず目線をそらしてしまった。変な間が、余計に気まずさを強調させるようだった。

「なんだ、高山くんの個人的興味か。君そういう感情あるんだ。驚いたな。」

 堅苦しい顔を崩して苦笑しながら、Iさんは視線を上げる。

「で、それについて話す私のメリットは?悩みでも聞いてくれるとか?」

 急に悪戯っぽい目つきになった彼女に、一瞬だが場違いな感情が過ぎった。出来るだけそれを悟られないようにしつつ、当初想定していた会話の流れに沿ってみる。

「やっぱし、Iさんでもあったりするの。悩み。」

「でもとは何よ。失礼じゃない。」

 そういいながら、そんなに失礼だとは思ってもいない素振りをする。声をかけてからわずかな時間しか経っていなかったが、そういえば四月以降同じクラスになってから、こんなに長く彼女と直接話した事がなかった。ひとつひとつ、彼女が見せる表情が新鮮に思える。僕がそんな事をぼんやり考えているうち、Iさんは律儀に答えを探していた。

「そうね、悩みか。強いて言うならその逆かな。」

「逆?悩みがないってこと?」

「そう。考えてみたら、高山くんの想像通りかも。そんな悩みも何もないの。私。」

 その口調は彼女の言葉通り何か思い悩んでいる、というよりも、すべて通り越してどうでもよくなったような清々しさすら感じさせるものだった。

「だから、調査票も白紙で提出したの。とても筋が通っていると思わない?」

 筋が通っているだけに、僕のどんな想定よりもシンプルに深刻な事態だと理解した。その場に相応しい返答を宙で探す。「白紙」の重みに、僕は出来るだけ希望的な解釈を当てがおうと試みた。

「そのIさんの言う「何もない」っていうのは、今何もしたいことが見つからない、ってこと?」

「そうとも言えるけれど」

 自分の感情に見合う言葉を一つ一つ探しあてているみたいに、言葉を慎重に選んでいるようだった。

「それ以上に何もない感じかな。例えるなら、週末の予定が真っさらだと、やっぱし張りがないじゃない?暇だ、やることもない、しかも何もしたくない。それが、これから先ずっとって感じ。」

「この先ずっとって。ほら、日常でも予定していない事だって、急に起こるかもしれないじゃないか。何か見つけたり、夢中になったりさ。」

 あまり意味のない受け答えになっていることは分かっていた。

「そうね。でも問題は私がそれを望んでいるのか、ということなのよ。」

「何か起こることすら、望んでいないって、それは。」

 限りなく絶望に近い発想をあっけらかんと話す彼女は、既にどこかの出口付近にいるようだった。ここから手を伸ばそうと思っても、届きそうな距離にいない。そもそも、僕なんかが出来心で手を出していい案件じゃなかった。いや、ここで彼女に手を差し伸べたことが幸いするのか。ふと湧いてきた恐怖心を隠すようにして、僕は質問を重ねる。

「じゃあさ、これまで、今まではどうだったの。Iさんは今、この高校にいるわけじゃん。それなりに偏差値も高い学校だし、合格目指して、勉強して、受験して入ってきたんでしょ。そこに君の意思は、何も絡んでなかったということなの。」

 思わず口調がキツくなってしまう。それだけ、僕は彼女の言葉から言い知れぬ不安を感じていたということだと思う。彼女もそれを察してくれたのか、少し哀しげに目線を下げる。目にかかった前髪を横に流して耳にかけつつ、優しくため息をつく。

「本当に自分が何を望んでいるのか、という事が昔から分からないの。例えば小さい頃から「好きな事はなに?」と聞かれる度、苦痛で。進学に関して言えば、親と先生の意見を総合して決めただけ。そりゃ、お腹が空く、喉が渇くみたいな生理的な欲求は存在しているようだけれど、何かを望むという機能が欠落しているのよ。心身は健康、ただただ、そういう自分から湧いてくる何か、みたいなものを感じた事がなくて。」

 誰を責めるでもなく、目の前にいる物分かりの悪い子供を諭すようだった。

「多分、このまま私は生きてはいける。誰かの助言を求め、何をすべきか確かめながら。有難い事に、願望はなくとも社会で生きていく為のリスクの判断は出来るから。淡々と、そうした誰かが無自覚に並べてくれた道を、おもちゃの電車みたいに進んでいくしかないの。きっとね。」

「その例えは、」

 悲しすぎないか、と言いかけてやめた。

 ふと今になって思う。自分から強く望む対象がない。それはそこまで特別な事でもない。普通の生き方のひとつだと思う。ただただ、その時は十代としての自我だったり、切迫感だったり、そんな言い表しようもない何かが、彼女を部屋の隅に追い詰めてしまったのだろう。そして、その時の僕にそんな彼女を狡猾に騙せるだけの器量も知恵もなかった。澄んだ目で自嘲気味に、彼女は苦笑する。

「だからね、進路調査の白紙回答って、初めて自分の意思を示せたものだったの。何か取り繕う事をやめてみようって。本当に自分には何もないです。っていう意思表示。あれはあれで勇気の要るものだったわ。」

 やり切ったという顔は、おそらく彼女の本音そのものだった。

「面談で、S先生には今の話をするつもり?」

「いいえ、やめておく。一応考え中なんです、って事にしておくつもり。仕事の延長で聞いてもらう話じゃないわ。可哀そうよ。」

 不必要に大人ぶった回答に対して、じゃあなんで僕には、と聞く必要もなく求めていた答えは返ってきた。

「高山君、貴方は興味があるって言ったじゃない。そういう好奇心になら付き合ってもいいと思ったの。じゃ、私はこのくらいで。」

 今となっては、何のために読むのかすら分からない本が詰まったカバンを重たげに背負いこむと、何事もなかったかのように彼女は帰路についた。 

 改めて、僕が言えることではないが、この女性は生き方が下手なのだ。そんなことを、笑みの一つも見せず、さも当然という顔で言ってのけ、彼女は僕を置いて教室を後にした。ここでもし微笑みでもかけられていたら、恐らく僕は恋というものに落ちていたかもしれない。一般論かは知らないが、落ち切った恋よりも、落ちる可能性のあった恋のほうが悪質だ。僕はしばらくの間、そのシーンをひたすら思い返していた。

 簡単な結末だけ言えば、彼女との間に何があったわけではない。担任のSには「会話してみましたが彼女の中で、将来まだ決まっていないみたいです。」と有体な報告を残しておいた。「そうか。余計な仕事させて悪かったな。」という労いの言葉が、なんだか皮肉のように感じられ、僕は目を伏せた。

 そしてIさんとは、今回想した通りのやり取りがあったからと言って、突然関係性が密になったかといえばそんなことはなく。彼女はこれまで通り、僕を含めて誰とも距離感を近づけることなく日々を過ごしていた。「誰かの役に立てれば」なんていうありふれた思い付きから、余計な詮索をしてしまった僕ひとりが、勝手にSとIさんとの面談の結果を気にしたり、あるいはIさんがこの先どうするのか、気に揉んでいるだけだった。

 年も明け、あれだけ暑かった日々が誰かの嘘であったかのように、一年で最も寒い時期がやってきていた。その頃にはクラスメイトの半分以上が進路を確定させ、僕もなんとかそこに漏れることなく大学進学が確定していた。そんな中でやはりIさんは、何も決めることなく、そしてそれについて焦っている様子もない。

 あの日以来、彼女との関係が進むことも、退くこともないまま卒業を迎えると思っていた、そんなある日。案の定、僕は彼女に「緒環蓮」という存在を刷り込まれることになる。

「高山君、今日の試験後。放課後に少し時間ある?」

 その日、Iさんは昼休みの廊下でごく自然に僕を呼び止めた。「あの日の続きの話をしよう。」僕はそう言われたものだと信じた。彼女の中にある鬱蒼とした藪にとうとう光が差した、その報告だと素直に思い込もうとしていた。その頃の僕は、日々を「大学入学の準備」という名目で何もしないことに徹していた為、時間だけは腐る程持ち合わせていた。

 午前中で授業もホームルームも終わり、近隣のコンビニで昼食を買って教室で食べた。指定された時間が非常に中途半端で、どうせならとそろそろ見納めになる教室にしばらく残った。彼女から「白紙」の意味を聞いた日と同様、授業から窓の外でも眺めてみる。試験期間ということもあって、すべての部活は休止中。厚い雲の奥で太陽も全く顔を出しそうにない校庭を見つめていても、下校する生徒を数分に一度見つけることが出来るだけのつまらない光景だった。雪こそ降っていないが、紺がかった雲の層が、冷えた空気にのしかかっている。窓の外が暗いせいで、教室の内部が映し出され、しばらくすると気配を察するまでもなく、視界の端でIさんが教室に入ってきたことが分かった。

「お疲れ。今日、寒いね。」

「うん、相当冷えるね。もしかしたら夜は降るかもしれないよ。」

 何事も起こらない世間話をお互いに交わす。彼女が僕を呼び出した本意、それを探そうと彼女の眼を覗く。その執拗な視線に気づいてか苦笑が返される。

「ごめん、こんな呼び出し方、完全に怪しいよね。伝えるべきかどうかも迷ったんだけれど。」

 でもそれは、仕方のないことだと自分に言い聞かせるようにしてIさんは首を振った。

「そして、これからする話もやっぱし怪しいんだな、これが。ごめんね。」

特に悪びれる様子もなく彼女は二度、僕に謝る。

「私。何故かはわからないんだけれど高山君の興味には、最後まで応えないとなってそう思っちゃったんだ。」

「Iさんが、今後どんな道に進むかってことには今も興味がある。それは間違いないよ。」

 何かスッキリしていた彼女の表情を見て、僕は思っていることを真っすぐに伝えた。半年に渡り、自分から覗いてしまった事柄の行く末に悶々していたのは確かな事実だった。そして、彼女の答えを聞いて後悔するとしても、聞かないで後悔するよりはマシだと、その時までは思っていた。

「ありがとう。」

 初めて彼女は僕に屈託なく笑った顔を見せた。物事は万事快調に進むかのような笑顔。しかし、それを見た瞬間、僕はなんだか背筋に寒いものが走った。それはあの日、彼女の笑ったら得られるはずだった感情と、全く異なるものだった。

「今日は私の進路というより、一つの答えみたいなものが見えたって話をしたかったんだよね。高山君はネットよく見るほう?緒環蓮って知ってる?」

 短い間に質問が重ねられ、急な話題の展開に着いていくことができなかった。

「いや、それは一体・・・」

 彼女は先程の笑顔のまま、流暢な口調で話し出した。

「最近匿名掲示板でね、話題になったんだよ。自殺をするとね、願いが叶うっていう考え方を示した動画なんだけれど。勿論、怪しいって理由で様々叩かれていたんだけれどね、徐々に叩いていた人達もその考え方に深いものがあるんじゃないかって、今ちょっとずつネットで広まっているんだよ。私も疑いながら見てみたのだけれど、これだって。何だか私を許す為にこの動画は上げられたんじゃないかって思っちゃって。」

 スマートフォンを弄りながら、動画サイトにアクセスしている。

「ちょっと待って。Iさんはその動画に惹かれたってことなのか。」

「そう。高山君ならもう分かっていると思っていたけれど。」

 何のことか聞くまでもなく、彼女の中では証明が済んでいた。僕と彼女の間で、もう取返しのつかないものが決定的にすれ違っていた。

「ええとね、これよ。」

 提示されたのは動画サイトだった。「死にたいと思っている人へ」というストレートなタイトルをタップすると、画面の中にはアニメに出てきそうな3Dのキャラクターが現れた。青い髪、シンプルな服装、顔には微かに笑みを湛えている。一見して少年、見ようによっては少女のようにも見える。

「ここを訪れてくれた貴方にまずは感謝を。この動画を見てくれてありがとう。」

 滑らかに頭を下げる姿が印象的だった。

「タイトルにもありますが死にたいと望んでいる方へ、この動画はそんな貴方を応援するものです。死にたいと願う気持ちは簡単に捨ててはいけません。その思いは誰にも邪魔されるべきものでなく、貴方を本当の幸福へと誘うものなのですからー」

 声は恐らくボイスチェンジャーか何かで加工してあるのだろう。不自然に中性的な声が優しく頭に響き、目の前の現実感が薄れる。本来、こうしたアバターは誰かが演じているという自我がそこにはあるはずなのだが、それがまったく感じられない。最初から、そこに居たかのような自然さが違和感に直結する。「緒環蓮」と名乗るその存在からは、謎の温かみすら感じた。

 しかし、当時はそのキャラクターが発した言葉の内容以上に、目の前のIさんが「緒環蓮」に心酔しているという事実のほうが僕にとってショッキングなものだった。

「蓮くんが懇々と説明してくれているの。惰性だけで生きていくというよりも、そんな生を終わらせてしまいたい、って思いにも価値があると言ってくれる。どれだけ空白で虚無でも、生きていかなければっていう思想がすべてじゃないって教えてくれたんだよね。この前話した通り、私には何かを望む機能が欠落している。もしかしたら、本当は希望みたいなものがあるのかもしれない、機能は私の中に存在しているのかもしれない。でも、それは自ら死ぬことでね、ちゃんと機能し始める可能性があるんだと思う。」

 僕は必死に彼女が言うことを理解しようとした。それが未来に繋がっていくものだと信じていたから。しかし、徐々にその説明は彼女の白紙の地図の終着点をただただ示しているものだと分かり、僕の頭の中までも浸食されそうだった。

 その後、しばらく続いた彼女の独演会は、僕の中で環境音として処理され、ただただ目の前で興奮気味に、そして心底楽しそうに語るその様子だけが、無声映画として再生されていた。

 「緒環蓮」なんて名前やキャラクターにまったく興味はなかったが、彼女の進路、行き先は聞かなければならなかった。粗方説明が終わった頃、僕はする必要のない質問を一応投げかけたのだった。

「どうするの、これから。」

 そう。あの記事で僕は「知らない」と書いたが、その先どうなってしまったのかを知っていた。質問をしたのだから当然のことだろう。聞かれたIさんは、曇りひとつない表情で答えた。

「うん。なんていうか、初めて生を否定してもいいっていう在り方が許された気がしたの。どんな結末であろうと自分で決めていい。何かしたい事を持つって、こんなにも素敵なことなのね。だから、いつか試してみようと思う。」

 すなわち、僕は嘘をついたのだ。嘘をついて免罪を自分に施した結果、そのついた嘘に対しても釈明の義務が生まれる。最初からこうなるとは分かっていた。一度、嘘をついた人間に安易な逃げ場などそもそもなかったのだ。この回想の一部始終を聞いている神父の顔を覗き見ると、自分の顔と似ていることに気づく。それでも回想は最後まで止まらない。

「僕は、君がその先に進むことを望まない。」

 喉が条件反射で声を漏らす。彼女の明るい表情や声と裏腹に、僕をまっすぐ見つめるその瞳はいささか黒すぎるように思えた。今更、何を言ったとしても彼女に僕の言葉が届くことはないと何故か分かる。教室内の冷えた空気が、鼻の奥を突く。

「大丈夫、すぐじゃないわ。でもそうね。詰まるところ、貴方がどう思おうと、私が望んでいるかどうか、それが問題なの。」

 全てが既に決定した予定であることだけ、そこで僕は告げられた。

 

 Iさんと最後の会話を終えて一か月。それ以降、彼女との接触もないまま、他に漏れず僕も高校を卒業した。式を終えてから一週間ほどだっただろうか。大学入学までの完全なモラトリアムの日々に突入していた僕は、大学への入学や転居の準備を進めつつ、頭の片隅に居座り続けるIさんの事を抹消するのに必死だった。もう彼女とはなんら関係のない人生がリスタートしている。人生の大部分から考えればあんな短い時間のはずなのに、僕だけがわだかまりを抱えているのはバカみたいだった。

 僕の中の彼女は延々と居座り続け、対して僕の理性はどこかへ追い出そうとする。その不毛な攻防を脳内で繰り広げているうちに、その日は来てしまう。夕飯を食べ終えて自室に戻ると、スマートフォンが震えている。それは担任のSからの連絡だった。

 一瞬、怖気づいてその着信がなり終わるまで振動を見守った。逃がしはしない、とばかりにメッセージが残されていた。いやこれはあくまでもSからの連絡だ。Iさんの意思なんてまるで関係ないじゃないか。気持ちの整理をつけてから、ようやくその留守電を再生してみる。

「Sだ。久しぶりだな、元気にやってるか。無駄話を続けたいのだが、早速言いにくい話題で申し訳ない。ほかに言いふらしてほしくない話だが、唯一お前には伝えないと、と思ってさ。Iさん、いただろ。」

 名前を聞いただけで、あの日、鼻の奥を突いた不快な痛みを思い出した。いくら引き出しの奥にしまいこんでも、それは捨てたことにならない。

「俺も結果しか聞いていないから、なんとも言えないんだが、自分の部屋で一酸化炭素中毒で倒れていたって。調べたところ、これといった遺書もなく、ご家族も色々取り計らったようで事故って事で報告が回ってきたけれど、なあ。でも、あれだ。幸い命は助かったそうだよ。しばらくは治療に専念するとのことだ。卒業後だから俺が表立って、腰を据えて調査ということにはならなさそうなんだが、それでも学校の原因究明の協力はせねばならない立場でな。進路も白紙回答だったり、結局あの後の面談でもIさんは俺に本心を話してはくれなかったように思う。それでだ、あの時お前は何か言われていたりしたか?もし些細なことでも分かる事があれば、教えてくれ。無理のない範囲でいい。じゃあまた。」

 スマートフォンから無機質に流れるSの声。電話の口ぶりからすれば情報収集より他に、彼に深い意図がないのはわかる。理解はしているのだが、どう解釈をしたとしても僕が責められている気分になってしまう。これまで僕は脳内でふさぎこみ続けるIさんのイメージを必死に頭から追い出そうとしていたが、それはただの虚像だった。実際の彼女はもっと行動的だったのだ。

 彼女の決断を僕は止められなかったのだろうか。無理にでも、怒鳴ってでも、あの動画を完全に論破してでも。Iさんをこちら側でとどめて置くことはできなかったのだろうか。「死ななかった」という事実さえも、彼女が決断をした時点で、僕にとって何の救いになっていなかった。何パターンもの「もし」を妄想の中で繰り返す。ただ妄想の中でも彼女は何をいったところで、その決心を緩めることはなかっただろう。

「私が望んでいるか、いないか。それが問題なの。」

 僕は彼女の心に手を突っ込んでまで、望みそのものを改変すべきだったのか。それこそ彼女が望んでいなかったものだ。何度となく繰り返したシミュレーションは、いつでもそう結論づける。彼女がすべて決めたこと。僕が責められる立場ではない。それでも今回の編集後記で、僕は何かに怯え嘘をついてしまったのだった。

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