第6話

 周りが、いよいよ慌ただしく走り回っている。振り返ってみると、この約一ヶ月の間、私は何をしていたのだろうという思いに駆られていた。結局、私に充てがわれた責務は緒環本人に関する情報の収集、そして可能なら本人との接触だった。大それたテーマだったため、ハッキリ言えば達成出来るかわからないけれど挑戦してみよう、くらいのノリで与えられたのは確かだった。

 それでも、企画発案を行なった身としては何かしらの成果は残さねばならない。そのように意気込んでいたのは間違いない。

「呼んで出てくるものではないから気長に行こう。」

 企画決定時に「時間がない」と部員に発破をかけていた部長本人からのフォローが心苦しかった。私だってこのひと月の間、手をこまねいていたわけではない。可能だと思われることはやってみたつもりだった。水原おじさんにも頼った。

「葬儀に来ていたあの人の事、改めて調べてみたいんです。」

「ああ、あの目立ってた人ね。緒環さんだっけ?俺も全くわからないからなあ。そうだ、里美さんなら知ってるかも。俺から聞いてみるよ。」

 私から言葉にはしなかったが、最初からそれを狙った連絡だった。今、例の男と繋がりがあるかもしれない存在は母しかいなかった。何度もスマートフォンのディスプレイに「母」を表示させては、通話を押せなかった。その結果、水原おじさん経由なら、と連絡をとってみたが、しばらくして返ってきた結果は呆気ないものだった。

「ごめんね、やっぱし里美さんもあの人のことは知らない人なんだって。」

 変に期待をしたが、当然と言えば当然の話だった。母は兄の事を喋りもせず、私が見ていた限りでは彼の人生に何も関わっていないように見えていた。そんな人が兄の人間関係を把握しているはずもない。とりあえずお礼だけを伝えて、何か他に掴めそうな情報を探る。とは言っても、あとはネットの情報を探って、そこから文献を漁るのが関の山だった。

 一方で同期の春日さん、君津はそれぞれ緒環を信奉する人間に接触を図り、先輩のサポートを受けつつ一緒にインタビューを行うことになっていた。二人とも無事、接触を終えたようで記事起こしと原稿チェックに忙しくしている。傍で、私には何も進捗がないと言っていい。正直言えば、焦っていた。何か大きな釣果を得ることがなくとも、今回の雑誌は恐らく完成される。それじゃあ、あんな事を部員の前で言い放った自分は、この場に不在でも問題ないのではないか、そんな葛藤に押し潰されそうになる。

「僕もその気持ちは分かるよ。結局、どう調べても何も出てこない。それを対象にしないといけないとなると、無理矢理こじつけでも記事を書かなきゃいけなくなる。あれは、結構しんどい作業だったね。何はともあれ、とりあえず今手元にある情報を綺麗に整理するといい。一応線のような何かが見えてくるんじゃないかと思うよ。」

 逐一、私の状況を観察してくれていた高山部長の一言に救われる。ただ言われた通り、今ある情報を並べてみても、最初に知った情報から殆ど前に進めていない事態が鮮明になるだけだった。

 ただ唯一、緒環のウィキペディアに関する事象は興味を魅かれた。彼が唯一ネットに意思を表出するのがこのウィキペディアの編集だという。過去に一度、そして最近も編集が行われたらしい。その意味深なワードを分析するネット記事も散見されたが、誰でも編纂が可能なオープンなネット辞典でのことである。しかも、たった数文字の短い文章。そこに没入して調査を続けるだけの胆力と余裕が私にはなかった。

 また緒環本人のパーソナリティに言及する記事もいくつか見つけた。しかし、どれも「心理学者崩れだ」とか「緒環は他の大きな宗教組織から逃げ出した」とか「仏道から破門された人物によく似ている」「地元の介護施設で働いているらしい」とか眉唾な噂レベルで、実際その元の寺や組織に関わりがある人に連絡を取ってみても、否定されるか何も関係がないと言われるだけだった。当時の緒環蓮を話題にした雑誌、文献を集めてみても、例の動画を「見たら死にたくなる呪い」「死後に叶えたい希望、そこには自殺の連鎖が」などとオカルト的に扱うような記事を書いていたりと、余計に混乱が強まるばかりの日々を過ごした。

 そんな意味があるとも思えない情報収集ばかりを続けているうちに、記事の締め切りが近づいてくる。九月も終わり、その日は部室に入り込む湿気を含む風が不快で、肩口まで伸びた髪を何度も気にしていた事を覚えている。部活の作業終了時間である二十時過ぎに部室棟の打合せスペースに部長を呼び出す。退館時間も迫っていたけれど、伝えるべきことは短い。雑事で埋め尽くされたノートの提出と一緒に、私はとうとう部長にギブアップを宣言した。

「すみません。私からは何も有益な情報は、ほとんど取れそうにもないんです。何か記事を書く事も厳しそうなんです。」

 もう卒業を控え、企画の開始からほぼ引退の立場を取っていた部長が私をサポートしてくれていた。ふがいない結果を晒すことに我慢はならなかったが、抱え込んだまま逃げだすのはもっとプライドが許さない。敗北宣言もケジメのひとつ。そう自分に言い聞かせながら、そう伝えた自分が口惜しさで震えていることに気づいた。そんな私を、高山部長は優しい目で苦笑しながら、慰める。

「興梠さんの請け負っているものは、大穴を当てろと言われているに等しい。調査を開始する時にも言った通り、今までネットミームであり続けている緒環本人の追跡なんて、実直に続けていれば可能になるものでもないんだよ。」

 実はね、と私を諭すようにして、告白と提案を投げかけてくる。

「僕も一年生の頃、緒環を追おうとしていたんだ。否定的な角度からね。その時も上手くいかなくて。更にその時は僕一人だったし、先輩に緒環擁護派がいて叩く角度の特集なんてもっての他だと大喧嘩になってね。結局、最後は一人寂しくコラムを書いたんだ。」

 高山部長が、緒環に対してそんな感情を持っていたのだとそこで初めて知った。

「個人的なことでね。緒環の影響を受けた知人が昔いて。最終的にどうなったかはわからないんだが、僕はその時ものすごく不安になったんだ。そんな動画一つで、誰か身の回りの人が身を投げかねないという事態にね。」 

 私はそこでやっと、私の兄も緒環の動画を見て自殺を選んだのかも知れないという可能性に思い至った。自分でもどこまで鈍感なのだと呆れたけれど、その原因の人物が葬儀に来るはずなんてない、という思い込みがあった。兄は緒環に殺された、とも言えるんじゃないか。今更、そんな思考に辿り着いてしまう。勢いで、つい思いついたことが口から漏れる。

「あの、緒環が兄の葬儀に来たのは、まさか謝罪・・・だったんですかね。」

「それは僕にも分からない。直接、お兄さんの自殺に関わっているのかもね。葬儀にやってきた彼に直接聞く以外はないだろう。」

 ごく当たり前の返答に、私もうなずくほかなかった。

「でね。僕からの提案というのは、今回の雑誌の最後に、興梠さんの思いも含めて編集後記を書きたいんだ。」

「私の思いも含めて、ですか。」

「僕もその緒環と芳名録に残した彼には会ってみたいんだ。だからこそ私信を出そうと思っている。葬儀に来た件もそうだけれど、きっと貴方は、今何かを伝えたがっているってね。だったら、直接会わせてくれないかと誌面で語りかけるんだ。そこに、興梠さんが経験したことも、これまで取材で集めてくれた情報も含めて記載する。どうだろう、興梠さんは彼に会いたくはないか。」

 ここまで調べてきたのに、まったく手がかり一つ掴めていない自分のふがいなさが過る。それと同時に、私自身があの葬儀に参列した意味を確かめたい。水原おじさんに呼ばれただけなのか。いや、兄の件を知りたい、母の本音を垣間見たい、という思いも確かに存在していたんじゃないだろうか。そして、何よりこの一か月を無駄にしたくないという思いが優先した。

「・・・会いたいです。」

「うん。じゃあ、一緒に会いに行こう。とりあえず取材についてはお疲れ様、興梠君。纏めたノートを貸してくれないか、ぜひ参考にしたい。君は君の仕事を十分に果たしたよ。今日はもう退館時間も過ぎているから早く帰ること。いいね。」

 ポンっと肩を叩かれ、部長は立ち上がって行ってしまった。そこにしばらく座ったままの私は、なんだか安心してしまった。安心した自分がとても情けなく感じたけれど、最終的に誰かに何かを伝えなければならないという責務から解放されたことを実感していた。窓から吹き込む風が心地よく感じる。自分の軽薄さを改めて思い知らされるようだった。



以降『SAJAM五十三号(秋号)から一部抜粋』


対談① 加藤華(仮名)(26歳・パート)

スピリチュアルなセミナーやカルト寄りな宗教の体験記を記したブログを7年に渡り運営する女性。最近では緒環の思想を展開する動画やサイトをまとめている。様々な教えや施術を試した結果として、現在は緒環の動画にたどり着いたという。緒環の思想を援用した形でカウンセリングを独自に行っており、一部相談者から高い評判を得ている。

(聞き手:春日歩 撮影他協力:田中雄太)


―今回は緒環蓮の思想に関する特集ということで、お話を伺っていこうと思います。

華:はい。私が話せることであれば、お話させて頂きます。

―そもそも、今回の話を受けて頂いた動機についてお聞かせください。

華:それは自分でいいと感じたものについて、外に向けて紹介する機会ですから。わざわざ逃す手はないと思ったからですね。

―ありがとうございます。考え方諸々の話に入る前に、まず最初は加藤さんご自身の事を伺っていこうと思います。10年前程から様々なセミナーに参加されていたそうですね。そして各種思想や宗教を体験された上で、緒環蓮の思想に出会って感銘を受けたと。

華:冒頭から暗い話で申し訳ないんですが。私自身、若い頃から恵まれたとは言えない環境で育って。まあよくある話ですけれど、小学校の頃に親が離婚をして。母はずっと働きづめでしたし、私のことを見てくれていた親戚との関係もうまいこといかなくて、家にあまり居場所がなかったんですね。なので、高校を卒業してから地元を離れて早めに東京に出てきました。

―ちなみに出身はどちらだったのでしょうか。

華:神奈川です。とは言っても静岡との県境の方なんで、やっぱり狭い田舎という印象でした。家族関係も含めて、いつでも誰かに見られているような気がして。それがどうしても嫌になって、高校を卒業したと同時に飛び出してしまったという感じです。その後は新宿の小さな不動産会社に拾ってもらい、なんとか事務で生活費を稼いでいたんですが、1年もすると職場の方といい感じになって。その後、自分でも結婚して家庭を持つことができたんです。ただ、やはりそんな生活も、まるで当たり前みたいに崩れてしまうんですね。特に悪いことをしているつもりもないのに、人生が悪い方、悪い方へと転がって行ってしまう。

―踏み込んだ話で恐縮ですが、直接的な原因みたいなものはあったのでしょうか。

華:なんでしょう。ちょっとしたズレが続く感じですかね。意思疎通は出来ているんですけれど、数センチずつズレていて、それが気づいた時には大きな溝になっていたみたいな。これ、というきっかけはなかったです。結婚自体もちろん素敵な事のはずだったのに、自分でもうっすらと上手くいかないことが分かってるような感じがするんです。

―予感というか、そういったものでしょうか。

華:そうですね。あるいは、家族にしろ、過去期待通りというか上手くいったことがないからこそ、上手くいった姿を想像出来ないというのが正しいのかもしれません。

―そんな中、セミナーや宗教を通じてその原因を探されていたと。

華:原因なんておおそれたものじゃないですよ。確か彼と別れたのは二十歳の頃で、友人もいないし、しかもバツイチで、やっぱり社内婚じゃないですか、転職もしました。ただただ、生きるのに必死だったので、何か確かなものはないかと試して回ったという具合です。

―そんな中で、何かセミナーに参加された最初のきっかけというものはどんなものだったのでしょう。

華:最初は住んでいたところに入っていたビラを見て参加してみたキリスト教系のセミナーだったと思います。そこからネットを伝って仏教系もいくつか、いっとき座禅なんかもしましたね。あとは、ネットで知り合った知人の伝手を使って、スピリチュアルなセミナーにも何度いったか分かりません。ボディケアや血液の洗浄をするような施術もありました。

―それほどの数を通われる中で、何か人生が良くなる実感は得られたのでしょうか。

華:セミナーやらカウンセリングを受ける中、その時々で感動はするんですよ。前世の業を説かれたり、あるいは来世に起こる運命を教えられたり。実際、瞑想を終えて、パァッと目の前が明るくなったような、人生が開けたような体験をしたこともありました。そこに思い切りハマってしまえればいいんですけれど、どうしても冷静な自分も捨てられなくて。

―結局はそんな体験だけを繰り返していた、という具合でしょうか。

華:そうですね。でも、そうして色々体験する中で気づいた事として、私が不幸だという理由はいくらでもあるんですね。それら理由を知ると、都度「ああ、私はだから不幸なんだ。」っていう納得感を得られるのは、とってもスッキリとするんです。やっぱしなんにせよ理由のないことが一番怖いものですから。

―そうした理由を都度都度模索されていたと。何か、一つの教えにハマりきったことはあったのでしょうか。

華:知人が主催していたスピリチュアルな感じのセミナーに半年くらいの間、定期的に通うのがいいところだったかな。幸いというのもおかしいのですが、私、そもそも人が苦手で。人の集まりだったり、人が不要に優しくしてくれると余計に警戒しちゃうんです。その割り、自分が不幸な理由とかそんな理屈は比較的すぐ信じ込めるのに。結婚の失敗だとか、親戚との関係だったりで、理屈を言う人に対しては猜疑心が強くなっちゃっているんでしょうね。

―ある意味で、カルトにはまらずに済んだということも言えるのではないでしょうか。

華:確かに大きなお金が絡む話になったことは一度や二度ではなかったので、今思えば良かったと言えることもあるかもしれません。でも、何がカルトかなんて分からないですよ。自分の信じているものが、どこか違うところに行けば迫害される対象になるなんてことも普通ですから。それこそ、今回の緒環さんの思想だって、私が他の人に伝えた際にそんなものはカルトじゃないかと批判されたこともあります。

―やはり、自死を勧めるという点において、特に抵抗感を持つ人が多いようですが、その点加藤さんはどのように考えていますでしょうか。

華:私は進んで、早いうちに自ら死にたいと思っています。

―その割にはどこかハツラツとされているというか。

華:それこそ緒環さんの思想のおかげです。だって、人というより生き物はみんな等しく死を迎えるじゃないですか。結局、いちいち不幸の要因を探すよりも、今自分が何をしたいのかを探す方が遥かに有益だということを教えてくれたんです。それが終わったのなら、スッパリと命を絶とうと。そんな風に思っています。

―そこだけ聞くと、発言の趣旨はさておいてかなりポジティブな発想のように聞こえます。少し話が前後してしまい、申し訳ないのですが。彼の思想について詳しく話す前に、どのように緒環の動画に出会ったのかを伺えますでしょうか。

華:5年前ほどですかね、その時もネット上でセミナーか何かを探していたんだと思います。そしたら違う集会で出会った子から「こんなのが最近話題になっているから気をつけてね」って連絡が来たんです。

―それが緒環の動画だったと。

華:そのはずです。でも、その子とても怒っていたというか「小難しいこと言って、自ら命を捨てることを勧めてくる。そんなのは馬鹿げているから、華さんはこういう危ないのに引っかからないようにしてくださいね。」っていう注意喚起だったんで、よく覚えているんですけれど。

―その知人の方は、あくまでも批判対象として教えてくださったのですね。

華:もともと私自身がこんな感じですから。あまり、自分に対して執着がないというか、そんなところを彼女なりに心配してくれたんだと思います。でも、興味本位にその動画を見てみたら何故だか、ふと気持ちが楽になって。

―それはどのような理由だったかは覚えていますか。

華:やっぱし、死にたいって感情にまず向かい合っていいんだ、って思いました。それまで見てきた考えや思想って、基本的に「死ぬことはいけないこと」と諭してくれたり、「生きていればきっと」と優しい言葉をかけてくれるんです。そういった理屈に対して、そうなんだ。って、なるべく素直に思うようにしていたんですけれど、徐々に「でも、なんで?」という問いの方が強くなってくるんですよね。

―命を尊んでいるだけで、その理由がわからなくなったと。

華:もちろん、その時々でみなさん理由はつけてくれますよ。命には普遍的な価値があるとか、神秘的な可能性に満ちているとか。ただ、どれもとてもふんわりしていて、腑に落ちなかったですが。それよりも、むしろ今私が抱えている死にたいという気持ちをまず正面から受け止めてくれたというのが、ホッとしました。また、他に人がいる環境でなかったのが、有り難かったです。

―人からどうこう説明されるというよりは、動画に淡々と向かい合った方がよかったということでしょうか。

華:この手の話って討論になりやすいですからね。その人らと違う考えを言った途端、大きな衝突が起こってしまうことがよくありました。向こうも信じているものがありますから、譲れない一線ってどこにでもあるんです。なので、私がカウンセリングを行う際には相手に対して、考えの押し付けはせずに、まず「どう考えているのか」という事を引き出すようにします。

―今、加藤さんはカウンセリングという形で緒環蓮の思想を伝えながら、周囲の方を励まされる活動をしていますね。口コミでかなりポジティブな評価も得ているように見られましたが。

華:はい、まだ一人前とは言えませんが、細々とネットで募集を受け付けながらやっています。

―そうした活動のきっかけも、教えていただけますでしょうか。

華:やはり、ブログでしょうか。緒環さんの考え方に触れる前から、今まで話したように体験したことを淡々と書き残していたんです。

―私も事前に拝見させていただきました。体験記のような形で、丁寧な文章が印象的です。

華:文章が上手くないだけですよ。なので、面白半分にそういう体験談目当てで読んでくれる読者の方も一定層いたのは確かですね。その中で昔から、色々な集会やらセミナーに参加したという話はしましたが、特に大きな規模なものでなく、個人が小さく開催しているものも多くありました。

―私もそうした方々の存在を加藤さんのブログで知りましたが、思った以上に多いんですね。

華:地域差はありますが、面白い世界だと思います。個人の方ならセラピストだったりカウンセラーだったり、いろんな呼び名がありますね。何か医療に纏わる資格がなくとも、マンションの一室などで診療のような行為を行っている人もいました。私も、その真似事というか。記事を書くことを通して、少しずつ人との会話術だとか心理的な考え方とか、そういう事を勉強していくと、私にも出来る事があるように思えてきたんです。

―単なる読者とのやりとりから、ブログがコミュニティに変わっていったという感じでしょうか。

華:会話というか、コメントも頂く機会も多くなってきて。最近のブログ内容は基本的に緒環さんの動画の解釈やら、関連した考えを持ってらっしゃる人のサイトなどを紹介していたのですが、たまに関連したコメントやメッセージが付くようになりました。何度か返信のやり取りを通して「元気が出ました」なんて言われたり。

―相談をもちかけられる方は月に何人くらいいらっしゃるものですか。

華:そこまで多くはありません。でも、ブログを続けていたおかげや、口コミをSNSに投稿してくれているからか、月に10人ほど、ほとんどWeb上の文字のやり取りか、ビデオチャットですね。稀に直接会うこともあります。やっぱし、そういう事でも、月並みなんですけれど、こういう活動で人の役に立てるのかなと思えるのは嬉しいものですね。

―聞いていると、徐々にブログや情報発信を通して、華さんが悩んでいる方の相談者として自己実現をはたしているという印象を受けています。それでもご自身は死を選ぶという信念を持っていらっしゃる。人の役に立てて嬉しいという感情と、どこか矛盾するものではないでしょうか。

華:どうなんでしょう。確かに人の役に立つという事で今までになかったような感情を得ているのは事実ですが、そもそも幸福であるために、生きねばならないという事は必要な条件でしょうか。

―加藤さんが言いたいのは死後の世界の幸福といったような話ではないですよね。

華:緒環さんのアイデアを既に調べてらっしゃると思うので、それは明確に違うということが理解出来るかと思います。むしろ彼の思想から私が頂いたアイデアは、その「生きる」固定観念からの解放でした。どうしたって、生きねばならない、が先に来ると苦しいんです。仏教で四苦八苦といいますけれど、それはいずれも生についてくる苦しみです。かと言って、解脱を果たして極楽に行きたいか、と言われても。

―いわゆる「極楽浄土」は救いの形ではないと。

華:それは人それぞれでしょうね。基本的に死んだ後の事はわかりませんが、自我がある限り、きっと人は完成には至らないんです。その先にもし自我があるならば、悩みや苦しみはついてくるものでしょう。緒環さんの動画ではここまでは言い切ってないですけれども。

―緒環思想に特有なのは、自死をすることによって願いが叶う、というものです。この点について、加藤さんはどのような願いを抱いているのか、伺ってもいいでしょうか。

華:このあたりの解釈については、他の緒環さんの考えを支持されている人とも、私は異なる理解をしていると思います。願い、という現世的な現象は正直いえばどうでもよくて、ただただ、絶対に生きなくていいという許しが私の支えになっているのは確かです。

―生きなくてもいいという支え、ですか。

華:そうですね。冒頭から私は不幸だと言いましたけれども、傍らにリセットボタンを用意したら思いのほか、気軽になったという感覚でしょうか。リセットというと語弊がありますかね、電源スイッチと言ったほうが適格かもしれません。この話は、そのままお伝えしてしまうと、なかなか受け入れられない考えだと思います。だけれど、今まさに悩んでいる方にとっては共感頂けることが多いです。特に私のブログに来られるような、緒環さんの考え方に興味を持った方は親和性は高いようです。

―生きねばならない、という考えに縛られている人の救いになっていると。

華:その通りかと思います。若いうちに自死をすると願いが叶う、というのも冷静に見てしまうと観測者がいないわけで、それは確実に「成し遂げられてしまう」ものですよね。そもそも自分を不幸と考えているような人は、常に自分の脇に絶望があるんです。どんな希望があろうと、それを無にしてしまうような強い力が。それごと巻き込む爆弾があるというのは、なんだか希望的なんですよね。

―そのスイッチを自分が握っているのだとしたら、不幸も自分の裁量のうちだと。

華:そうなりますね。仏教系では業と呼んで、西欧の考え方だと原罪ですか。つまり因果ってやつです。学生の頃は勉強もせず何も知らなかったので、初めてその考え方を知ったときに凄いしっくり来たんです。ああ、だから私はこんな感じなんだなと。でも、そうだと理解したからといって、その事実が覆るわけではない。そこでずっと悩んでいたんだと思います。だから、緒環さんの考え方に感銘を受けたんです。生きる事を終わらせるという事くらいは、私が主導したいなと。

―加藤さんが前向きな理由が掴めてきた気がします。

華:ありがとうございます。なので、すぐにでもと思っている訳ではないですよ。区切りをつけて、例えば30歳になって、自分が納得すればそのタイミングだろうし、それまでに自分が叶えたい事を見つけられれば素敵じゃないですか。自己実現と希望を一挙に叶えられる。

―なんだかポジティブな結論に辿り着いているのが不思議に思えます。

華:それこそが、生きていることに縛られている証拠です。人間の幸不幸って、案外、その生きてきた人生ももちろんですけれど、終える時に決まるものだと思うんです。ああ、生きてきて良かったって。それには、タイミングってとても重要なんです。だからこそ、そのタイミングも含めて、きっちりと幸せな所に標準を合わせて、旅立ちたいなって。死を受け入れられたからこそ、死だけじゃなく、対人とか色んな恐怖感から解き放たれて、気持ちが軽くなったんです。そんな自由さを緒環さんは教えてくれたんだと思います。



対談②Yung(29歳・会社員)

緒環思想を受け継ぐ形で動画を作成、サイトにアップロードをしている。彼の動画は「環」というオリジナルキャラが視聴者に滔々と語りかけるタイプで、解説や思想の解釈がオリジナルに近いため緒環フォロワーから安定した評価、PV数を得ている。またその一方で催眠といった要素を取り入れるなど緒環思想を一歩進めた形で継承しており、SNSのフォロワーも多く、発言が注視されている。

(聞き手:君津康介 撮影協力他:松本紗希)



―今回我々は緒環蓮に迫る、ということで企画を立ち上げた訳ですが、冒頭から率直に伺います。緒環蓮は現実にいると思いますか?

Y:世間的には人の名前を冠したネットミームと言われていますが、その文脈を作った人間は確実にいる、といったところでしょうか。当たり前の事しか言ってないですね(笑)。ともかく、最初にアップされた動画がAIによって自動生成されたものでないのであれば、実在すると言えますよね。

―Yungさんはそんな彼の思想に感化されて「環」というキャラクターを作られました。その過程からまず伺ってみたいのですが。

Y:あのキャラクター自体は、緒環に関係なく元から自分の趣味でデザインをしていたものです。元々絵やら3Dモデルを独学で学んでいたので、そんな中浮かんだのがあの子です。

―デザインについては、服飾含めかなり趣味に寄っているように見えますが。

Y:ああいった細かい服飾デザインにハマっていた、というのは建前で。(笑)確かにロリータ服は好きです。ほら、なかなか現実に自分が着るってのはハードル高いじゃないですか。なので、自分の作ったアバターに着せて楽しんでいます。

―一見して少女に見えますが、ちなみに性別については決められているのでしょうか。

Y:そこは見ている方の想像にお任せしますよ。服飾や声質だけで少女と決めるのは早計でしょうし、そもそも元ネタも性別不問な中性的なキャラクターですからね。原作準拠とさせて下さい。

―そうしたキャラクター作成と、緒環蓮の上げた動画の接点はいつ頃あったのでしょうか。

Y:明確にいつ、というのは忘れてしまいましたが、緒環の思想について私も匿名掲示板のスレで知ったというのが最初だったかと思います。当時、オカルトだったり、心理学にハマっていたということもあって、日々ネットでそうした怪しい主張をするサイトや動画を眺めていたんです。端的に言えば、ネクラですね(笑)。

―私もその一人です(笑)。

Y:それなら心置きなくお話させて頂きます。もう4、5年前くらいだったと思います。いわゆる「緒環現象」ってやつですか。緒環の動画がそこにアップされてから、しばらくいつものように馬鹿にする論調がぶら下がっていて。ただ、少し経ったらスレの雰囲気が変わったんですよね。私もその頃あたりから「どんな動画なんだろう」と気になりだして、見てみたんです。なんだか主張自体は怪しいんですが、その中に、なんていうかそれまで他で見ていたようなイデオロギッシュな主張と違って、優しさみたいなものがある、というか。

―優しさ、ですか。

Y:私はそう感じました。あのタイプの啓蒙動画ってとかく「真実はこうだ」とか「~しないと世界は滅ぶ」とか、ノアの箱舟のように自分やその思想を信じる人だけが助かる為の陰謀論タイプってすごく多いじゃないですか。そして予想に反してそれらを信じる人が結構いる。そこには、周囲の人間を下に見たい、馬鹿にしたいという願望が潜んでいるんだと思うんです。

―社会に対する逆恨みのような感情ですね。そうした論調は非常に多いです。

Y:よくある話として現実世界で不遇な扱いを受けている人がいて。そうした事態に対して「なぜ自分だけこんなにもツライんだろう」とか理屈を求めて考え出すんですよね。相談する友人や近しい人間がいない場合、考えの行きつく先はほぼ二択となります。自助努力の不足、あるいは現実世界が間違えている。残念ながらそんな所に落ち着いてしまうのだろうなと。

―そうしたツラさの原因には、本当に社会制度が追いついていなかったり、偶然時勢が悪かったりという側面もあります。ただ、そのように外部に要因を求め、自らの思想を啓蒙をする人に限って攻撃性は高いように思えます。

Y:自助努力の不足を選ぶ人は抑うつぽくなるし、後者を選択すればおっしゃる通り、攻撃的になるしで、いいことがない。しかも、後者の人って案外行動力があるんですよね。いざその理屈を何かの形で公表してみると同じように「社会が間違えているから自分がツライ」と思いたい人って案外多いんです。どれだけトンでもな主張だったとしても、思った以上の同調が得られたりするんですよね。

―こんな考えにフォロワーがつくのか、と思っても取り巻きはいたりするものです。

Y:主張した側は、今までの人生で得られなかった承認欲が急に満たされるのと、同調者の出現によって自分の理屈の正しさが証明された気になっちゃう。無論、そうした考えを公表すると「ヤバい人」として叩かれるリスクは生じるんですけれど、すでに失う物がない人にとって、そういうセルフプロモーションを行うことで得られるメリットの方が遥かに大きいのだと思います。

―今、個人でも簡単に動画が上げられる時代ですから、猶更その風潮は強まっているように感じます。そんな中ですが、緒環蓮の動画に対して「優しい」という印象を得たと仰っていましたが、今度はYungさんが、緒環蓮に対して賛同を覚え、彼の思想を啓蒙するような動画を上げるに至ったきっかけにについて教えて頂けますか。

Y:そうですね。先ほども話題に出た通り、私も単なるいち観察者として、そうしたスレや怪しい宗教組織のHPを巡回していた訳ですけれど、緒環の思想っていうのが、どこか自分の中で腑に落ちた所があったんです。

―それは、どのような点においてでしょうか。

Y:まず、単純な共感点として。あまり内容に関係ないんですが、動画自体しっかりテロップが置かれていたり、わざわざ3Dアバターを自分で作っているのがわかった事でしょうか。

―そこに共感を覚えたというのは。

Y:つまるところ、動画自体にちゃんと手がかかっているなと感じたということです。自分もこういう作業を趣味にしている身として、クオリティの優劣は置いておいても、時間をかけて作り込んでいるなという事がわかると、その動画を上げている本人の人間性みたいなものは伝わりますよね。

―動画をあげるという行為に対する実直さは伝わります。また、ネットカルチャーに寄り添ったキャラデザだったり、何か「我々」に近いところから発信されているという信頼感があったように感じます。

Y:また、思想というか動画のスタンスとして、何かを押し付けてこないというのが新鮮でした。まるで見ている側の意見を聞いてくれる様な間の作り方だったり、あくまでもこちらの意思を優先させるという狙いが明確に存在していたように思えます。

―会話によらない双方向の意思疎通を意識しているということですね。ただ一部動画サイトでは、当時からリアルタイムでの生配信といった仕組みもありましたが。

Y:そうした配信の場って、広い意味での相互性は確かにあるんですけれど、誰かの悩みに寄り添えるかといえばそうではないですよね。視聴者は自由に場へ訪れ、誰もが発言できて、それに対して配信者というゲームマスターがいる訳です。これは私の個人的な見方ですけれど、もはやそれはトークバラエティ番組における司会とガヤでしかないんですよ。だから、視聴者の側も少ない発言でゲームマスターの気をひかなければならないっていう、ある種のゲームなんです。ゲームだからこそ、プレイヤーとして優位になるため投げ銭をするなど課金じみた仕組みも生じている。緒環蓮が動画によって、やろうとしたことはそういう類のことではないはずです。

―Yungさんの視点からすれば、昨今動画配信で行われているのは、純然たるコミュニケーションではないということですね。

Y:視聴者はその配信が面白いと思って見に行っているわけで、配信者は視聴者の需要に応えないといけないじゃないですか。それは双方向のコミュニケーションというより、エンタメと消費という関係性です。対して、そこに置いてあるだけの動画というのは、一方向に見えますが、思った以上に1対1になることができるんですよね。

―ここで緒環の動画に話を戻したいと思います。今、Yungさんがアップされている動画において、その「話を聞いてくれる」というのはどういったところに反映されているのでしょうか。

Y:私が緒環蓮の動画に感銘を受けた点は、何よりも今話に出た「自殺を止めない」という点です。なんなら、それを推奨するという姿勢ですよね。先のスレッドでお祭り騒ぎになった、ということが何よりも証左だと思うんですけれど、例えば「自殺したい」という発言に、「死んじゃだめだ」というお熱いメッセージが届いたとする。それに対して、あんな匿名掲示板に日頃から延々居座っているような人間であれば、冷ややかな態度を取るでしょう。「どうせ、成功者からのありがたいメッセージだろう」とか「放っておけばいいのに」とか。

―啓蒙的な思想に対する批判的な態度というのは、どうしてもその醒めた目線からスタートしますよね。

Y:でもその現象というか、醒めた目線の人間の事をふと考えてみますよ。往々にして怪しい思想やそれに群がる人を馬鹿にするんだけれども、じゃあ馬鹿にしている当人たちは世の中的に成功していて、俗世の悩みから解き放たれているかというとそうでもない。ただ、自分たちの下を作ることで、安心を得ているだけなんです。「緒環現象」を称して一時期「ミイラ取りがミイラになる」と各所で言われていましたが、むしろ実際に自分から「ミイラになる為の方法」をどこかで探してたんじゃないのかとも思うんですよね。

―つまり、自分が救われる教えを探していた、と。

Y:そうだと思います。教えと呼ぶのがいやなら、救われるための保障という感じでしょうか。うっすらと誰もが「もうこんな世の中なんて嫌だ」と思いつつ、自分より下の人間を見出しては自分を守っているコミュニティです。そんなもの、はっきり言えば病んでるんです。そんな病んだ場所に、これが重要なんですけれど、決して煽りや嘲笑でない形で「死んでもいいよ」なんてサジェストされたら、意外と気になってしまうもんです。現に私がそうでした。

―その頃、Yungさん自身も何か悩みだったりを抱えていたと。

Y:詳しくは言いたくありませんが、まあ人並みに行き詰ったりして、何で生きなきゃいけないんだろうなぁなんて考えていたのは確かです。それまで、何も考えずに試験を受け、いい学校に行って、手に職つけて、生きていくもんだとぼんやり思っていたところに、自己責任論でない論調で「死んでいい」と言われて初めて、生きる意味を考え出したのかもしれません。

―Yungさんが動画を作ってらっしゃるのは、そのように自分が気づかされたことを、やはり同じように「環」に語らせたいと思ったからでしょうか。

Y:そうですね。ここからは押しつけがましい話になってしまうかもしれません。冷静に考えれば、人に死を勧めるなんてことは一歩誤れば犯罪というかれっきとした自殺幇助ですから。動画運営サイトが緒環のオリジナルを消して回るなんていうことは、倫理的に考えれば非常にまともな判断です。

―例えばの話で恐縮ですが、Yungさんの動画を見て、そのまま受け取り実際に自ら死を選んだ方がいるとします。それについてどのように考えるでしょうか。

Y:難しい話ではありますが、正直言ってしまうとそこまでの罪悪感は生じないです。

―それは何故でしょう。

Y:僕が上げているメインの動画のタイトルを見ていただければ分かる通り「死にたいと思っている方へ」と掲げています。そもそも、この動画はギリギリなラインにまでやってきてしまった人がたどり着く場所なんです。その上で僕としては、緒環蓮がアップした動画の言葉の裏に存在している自殺を思いとどまらせる可能性に賭けてみたかったというのが、この動画を作った本音です。この動画を見た上で、もう一方の選択肢を選んでしまうのであれば、それは仕方のない事だったんだと思っています。

―ちなみに、Yungさんとして緒環思想にある「自死によって願いが叶う」という考え方はどう思っているのでしょう。

Y:私個人としては、そうであれば素敵だな、と思うくらいですかね。あんな動画作っておきながらと怒られそうですが(笑)。自分が死にたいという感情よりも、その自分の中の死に触れることによる深化、とでも言いましょうか。緒環さんの考えの中では、その重要性にリーチするような意図を汲みたいと考えています。

―緒環の主張を擁護する人の中に「自死を思いとどまらせる」という論調がよく聞かれます。これまでの話を聞く限り、Yungさんはその効果を信じられているのだと思うのですが、実際にどう分析していますか。

Y:これは、他でも言われている事ですけれど、自殺において大きなファクターになるのが衝動です。ふと何もかも嫌になる瞬間、ってやつですね。既に、自死を考えるほど追い詰められている人っていうのは、普段から遺書の内容くらいは頭に浮かんでいて、そしてふと全てが嫌になったというタイミングで、保っていたものがプッツンと切れてしまう、という感覚なんだと思います。花粉アレルギーみたいなもので、黒い感情も少量なら身体になんの影響も与えないんですけれど、累積されるといよいよそういう衝動が湧いてくるわけです。淵まで湧いてきたものに、最後の振動を与えると溢れてしまう。そんなイメージでしょうか。

―その最後の振動を回避しよう、というのが動画の試みなのでしょうか。

Y:むしろ緒環蓮の試みこそこれなんじゃないかと思っています。本当の意図は本人に聞かないとわかりませんが。これが完全に自分の中で死への準備が整理されていて「この日を迎えたら、あとは死のう」と明確に決定されてい人については、環の説得なんかではどうしようもないわけです。先の話で「振動」といいましたが、いわゆる「きっかけ待ち」みたいな人に対して、多少の意味はあるんじゃないかと思っていたりします。

―ちなみに、Yungさんは動画の終盤のパート中に催眠の要素を取り入れられています。こちらについての意図を伺えますか。

Y:前半は緒環さんの意思を汲み取って説明を試みていますが、後半については、その効果をより実際的に引き出せるのではという実験的なパートを作ろうと思っていました。私自身、当時不眠に悩まされていたところ、ネット上で催眠音源が流行っていると知りまして。これも半信半疑で試してみたら、案外眠れたんです。

―どういった感覚なのでしょうか。

Y:女の子の声に併せて深呼吸だとか、体を少し動かすくらいなものですが、結果本当にリラックス出来たというところに尽きますね。また、調べると思った以上に催眠の手法についてネット上でも共有されているので驚きました。簡単なものだと部分弛緩法とかですか。私が緒環さんの動画をリメイクする上で、催眠の要素が必要だと思ったのは、やはりリラックスをして自分自身の本音と向かい会うことが重要だからです。

―見ている人の本音を引き出すための催眠、ということですか。

Y:そうです。思っている以上に自分で考えていることは、自分でも把握しきれていないものです。よくある眉唾な話に「人間は脳の7割を使用していない」という、いわゆる潜在能力なんて話がありますけれど。あんな脳科学を引き合いに出すまでもなく、自分の考えをスムーズにアウトプットするのは難しい。そんな人間が抱いてしまう「絶望」は本当に「絶望」なのだろうか、とふと思ったのです。

―自殺願望すら、本心ではないかもしれないと。

Y:そもそもの話になってしまいますが、死にたいと本気で願うというのは生物としての本能に反しています。裏を返せば、脳が発達した我々だからこそ抱ける願望で、それだけの決意や意志がそこにはあるということです。であると同時に、それは非常に複雑な機微を孕んでいる。だからこそ、死へ向かう気持ちを抱いてはいけないタブ―として処理するのではなく、まず肯定することで、ようやくその奥にある本心に触れる事ができるのではないかと。私はそう考えている訳です。

―環というキャラクターを通しての懐柔、そして、催眠による本音の捜索。こうした経緯を踏むことで、やっと自分が死にたいと思う感情に届くということですね。

Y:そうしたアイデアのヒントをくれたものこそが緒環さんのオリジナル動画だったということです。安易に「自死推奨動画」みたいなレッテルを貼られる事が多いですけれど、まあそのまま言ってるので、確かにそうなのかもしれないんですけれどね(笑)。ただ、それでも一面的に見て正しくある何かが、いつも人を救うわけではない、と私は思っているわけです。むしろ、パット見て怪しいと世の中が思うものこそ、本質をついていることは世の常なんじゃないでしょうか。



編集後記(という名の私信)担当:高山


 この場を借りて些か個人的な私信を送ると同時に、今回特集を総括してみたい。「緒環蓮」という名前がネットで話題になったのは五年ほど前の事だった。あくまでも、ある匿名掲示板における特異として語り継がれたに過ぎず、普段からインターネットやSNSに噛り付いているような人間が一時期気にかけたくらいのものだ。

 それでも、緒環蓮が残した痕跡は未だにネットの随所に散らばっている。動画サイトで検索をかければ「#緒環」というタグで纏められた動画の数は、いっときに比べれば減っているものの、尚多いことに気づくだろう。何ならその名前を覚えている人間は未だに多い。

 本誌の序盤、緒環蓮に関する概要でも触れた通りだが、この騒動の中心である「緒環蓮」当人は「例の動画」を上げてから、何一つ行動や発言を見せていない。ただただ、周囲の人間がその動画に振り回されている構図だ。しかも当のオリジナルの動画は倫理的な問題からとっくに動画サイト上で削除されたにもかかわらず、そのオリジナルがひたすらダビングされ続け、そしてネット上で拡散されることによって、今も尚思想としてWEB上に生息しているという事態が起こっている。さながら、某ホラー作品における呪いの動画のようでもある。


 そんな数年前のムーブメントである緒環蓮の思想。改めて本誌において特集として取り扱ったのは、我々のもとにある機会が訪れたからだ。緒環蓮、その「生身の存在」に触れられる可能性が生じたのである。いわゆるネットミームと言われて久しい緒環が、突如我々の眼前に姿を表したと言える出来事があった。

 事の発端は二か月前に遡る。我がジャーナリズム研究会の部員ひとりに身内の不幸があり、葬儀が行われた。そこに家族も職場の同僚も、誰も知らない男性が一人参加していたという。その男性の事が気になった部員は、参列者が残した芳名録を調べる。するとそこに「緒環蓮」という名前を見つけた、というのである。今本文を読んでいる方は、本件についてどのように感じられただろうか。故人の友人による質の悪い悪戯か、あるいは本当に「緒環蓮」という人間が動いたのか。真っ当な思考であれば、前者を採択するだろう。こんな雑誌の企画を使ってまで着目はしない。しかし、我々、いや私にはどうしても後者に賭けてみたくなる理由があった。

 まずそのひとつは完全に個人的な私怨だ。私が緒環の思想に触れたのは、当時高校時代のクラスメイトに動画を見せられたのが最初だった。進路も決まり、卒業を控えた年明けの寒い日。何か書類を片づけていたら帰るのが遅くなり、クラスでもパッとしない存在だったI君と、偶然放課後の教室で一緒になった。すると「これ知ってる?」とスマートフォン片手に話しかけてきた。彼が見せてきた動画、それこそ緒環蓮のオリジナル動画であり、私はそこで初めてその存在を知った。

 それにしてもその時のI君の口調はやけに生き生きとしたもので、動画の内容より「こいつ、こんなに大きな声を出せたのか。」「ていうか、なんで俺にこんな話を始めたのだろう。」と彼自身に対して驚きを抱いたことを記憶している。

 またその様子は今も脳裏を掠める。声色には生気が漲っているように聞こえたが、その反面、目に光はなく、直感的になんだか彼が終わりの方へと向かおうとしているように感じた。このように私は「自死を肯定する」という緒環蓮の思想に初めて触れたわけだが、その思想の是非どうこうより、そのI君の「目」がやけに気になったまま卒業を迎えるに至り、未だにその嬉々として語る表情を思い出してしまう。

 結局、彼とはそこまで仲が良かったという訳でもなかったので、進学してから彼がどのような選択肢を選んだのか私は知らない。ただあの時、何かに対して明確な希望を見出していた彼に、私はどんな声を掛ければよかったのか。身勝手な後悔と反省を含め、どうしても緒環本人に問いただしてみたかったのだ。

 そして今回の賭けを行なったもうひとつの理由。先の身勝手な述懐などより、こちらの方が遥かに重要な事である。この特集の冒頭、緒環蓮はそのオリジナル動画をアップしてから、何一つ言動を起こしていないと書いた。これは一部の「緒環マニア」からすれば反感を貰う物言いで、緒環は唯一、自分の言葉で意思を顕したとされるネット上の場所がある。

 それこそフリーのウェブ辞典、ウィキペディアの更新だ。I君の一件があってから、私も緒環蓮という存在が頭のどこかで引っ掛かり続ける人間となってしまい、一時緒環蓮に関する情報をかき集めた。その結果、ウィキペディアにおける「緒環蓮」の項目の編纂は本人の手が入っているらしい、という説を知った。

 その説の根拠は、倫理規定により動画サイトから緒環の動画が削除された際、一言だけ概要欄にメッセージのような一文が掲載された。「さようなら。皆さん、後はよろしくお願いします。」この文章は「怪しい出典によるもの」として、しばらくしてから誰かしらに削除されたわけだが、一部有志によって魚拓(プリントスクリーン画面)はしっかりととられており、匿名掲示板の住民によって拡散されるに至った。

 案の定というか、この画像から「緒環本人によるメッセージだ」という風潮は高まり、その後の緒環現象が盛り上がる一因にもなったとされている。以降、当時ほどの盛り上がりは無くなったが、私を含めた一部の物好きは未だにウィキペディアの「緒環蓮」項目を定期的に覗いている訳である。もはや手癖だけでブックマークをクリックし、サイトに飛んでいる。

数年の間、目新しい編集項目もなく、まるで紙媒体のように変わらぬ文字情報が鎮座し続けていた緒環の紹介に、短い一文が加わったという情報が入った。

「緒環蓮の役目は終わりました。」

 私は目を疑った。まず情報が更新された事実に驚き、そしてその文章の意味合いの不可思議さに首を捻った。六年前にアップしたオリジナル動画はとうに削除され、そのフォロワーたちが彼の思想を独自に生存させ、つながりを保っている現在。これまで本誌で確認をしてきた通り、今もなお動画サイトや各所のブログにおいて、彼の思想は連綿と受け継がれている。ハッキリと言って終えば「緒環蓮」というミームの祖としての仕事は、もっと前に終わっていたのだと思っていた。果たして今、彼の中で何をもって、何が終わったというのか。

 しかしながら、裏を返せばもう一面の事実にたどり着く。「緒環蓮」という存在には、動画アップロード以外の役割があった、ということだ。突然記された書き込みを鵜呑みにするのであれば、それがここでようやく終焉をみたというのだ。

 もちろんこの件は、最近SNSで早速拡散され、議論の対象になっていた。そこでも書かれていた通り、この書き込み自体が誰かの悪戯だという可能性は否定できるものでない。しかしながら我々にはもうひとつ、この件と繋ぐべき点を保有している。「芳名録に残された緒環蓮」という悪戯と思わしき誰かの行為だ。しかも、そのタイミングはほとんど一致している。

 過去数年に及んで何のアクションも見られなかったことを考えれば、単なる匿名の悪戯で済ますには気味が悪いほど、二つの出来事は重なっている。そして、わざわざ終焉を誰かに示す必要があった、ということは緒環の「中の人」に具体的な思惑があった、ということではないか。以上から「葬儀への参列」と「緒環本来の役割の終焉」には何らかの関連性があると本誌は睨んでいる。しかしながら、これら手がかりのみで緒環の本懐へ飛び込むだけの鍵を我々は持ち合わせてはいない。  

 本人に関して、様々な噂だけがネットに残される中、ここまでして動画を広め、自ら死ぬことを賛美する思想を広めた元来の目的は何だったのか。そして、それら表向きの活動からはわからない「緒環蓮」が生み出された本当の意味とは一体何だったのか。我々は今回の特集を終えても追い続けるつもりだが。

 緒環蓮と名乗る貴方よ。もし何かの縁で本誌を読んで頂けているのであれば、我々に一報を頂きたいものである。明確な本意があるのであれば、直接お話してもらうのが一番早いと我々は考えている。

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