第4話

 自死をした知らない兄、その葬儀に現れたいかにも怪しい参列者、そして残された緒環蓮という名前。要素をそれぞれ黒板に書き出してみる。

「なんやろ、ちょっと申し訳ないんやけど、まるで謎解きゲームみたい。」

 そういいつつ春日さんも口元に手を当てその文字列を眺める。

「いやいや、私もそう思っていたところなの。不謹慎とか全然気にしないで。」

 それは気遣いでなく本音だった。もとより存在すら知らなかった兄が亡くなったことに対して、家族としての悲しみを抱けという方が無理な話だった。

 一方、先に言いたいことだけ言って満足したのか、スマートフォンで何かを熱心に読み漁りだしていた君津に話を振る。

「それにしても、君津はなんでそんなにこの緒環とかいうヤツに詳しいのよ。」

 顔を画面に向けたまま、返答だけが帰ってくる。

「俺が宗教学を専攻した端緒こそ、この緒環現象だ。」

 私と春日さんは顔を見合わせる。「タンショ?きっかけってこと?」「そうだと思う」とお互い小さな相槌で確認をとり、触れていい話なのか迷っていたところ、私たちの空気を察したらしい。君津はおおげさに体の向きを変え、ここでようやくスマーフォンから顔を上げて話を続けた。

「君らが考えるような深い話でもない。六年ほど前か。俺はこの現象が起こる前、つまり緒環本人がアップしていたオリジナルの動画を見ている。それを見て、いや、それが引き起こした現象に感銘を受けたと言ったほうが正しいだろう。」

「え、そんな動画を見てるってことは、過去に人生で悩んでたりしてたん?」

 春日さんから心配そうな声が上がる。私はと言えば絶対面白半分だろ、とたかを括っていただけに、正面から人に同情できるピュアさがまぶしかった。

「いや、そんな心配をされるとこちらも心苦しい。」

 暖かな感情を向けられると思っておらず、君津も少したじろぎながら続ける。

「俺が緒環蓮という名前を初めて知ったのはオカルトやらカルト寄りの話題を扱う匿名掲示板スレッドだったと思う。例の動画もここで紹介された。勿論、こき下ろす対象としてだが。」

 君津によればそのスレッドでは、ネット上に上がる怪しい自己啓発動画や、スピリチュアルに偏った似非科学商材などを話題にしながら、毎日のように議論という名の雑談、あるいは一方的な非難が繰り広げられていたらしい。

「その掲示板においては、そうした世にデマをまき散らすような怪しい存在は叩かなければならない、潰していかなければならないという変な正義感が存在していた。そして緒環の動画も、例のごとく怪しい論理の自己啓発系動画として紹介されたわけだ。もちろん新たな「ヤバいやつ」として、その論調や思想について論われるはずだった。」

 そこまで言って、ずり落ちてもいない眼鏡を直す。

「ただ、緒環の動画はそのスレにある現象を引き起こした。ネット上でそんな掲示板を日々巡回する奴らというのは、怪しい真理を掲げるヤバい人間を面白半分に揶揄し論破することで自分を保っていたり、また信じ込む人間を下に見て馬鹿にして、小さな安心を得ている人間ばかりだと言える。そんな捻くれきった人間らに、緒環の動画は徐々に刺さっていってしまったんだ。」

 私が口を挟む。

「最初はバカにしようとしていたのに、信者になったってこと?」

 君津は小刻みに小さく頷く。

「結果だけ見れば、そうなのだろう。その時の掲示板の様子はまさに「ミイラ取りがミイラになる」という光景で、叩き一辺倒の空気から徐々に手のひらを反すコメントが散見されるようになっていった。非難や罵倒だけで構成されていたようなスレに、緒環を擁護する言葉が現れ始めた。怪しい思想は潰せ、という疑似的な正義感に満ちていた空気が徐々に変化し、初めて議論と呼べるようなやり取りがそこに生じた。これこそ所謂ネットで呼ばれている「緒環現象」の始まりだと俺は思っている。」

 君津は述懐しながら目を細めた。

「日々、知りもしない誰かの揚げ足をとることで、なんとか自我を保っているような連中が、ある動画シリーズによって一種の改心を経たんだぞ。つまりそのスレは、図らずも緒環の布教現場と化してしまったわけだ。そんな状態をリアルタイムで眺めているうちに、人の心という拗れた存在さえ、一瞬のうちに変えてしまいかねない宗教という概念に興味を抱いたというわけさ。」

 柄でもない自分語りを終え、彼は眼鏡の奥で視線を泳がせている。

「なるほどね。ところで、君津はその動画を見たことあるの?」

「無論だ。そんな現象があったのに、内容が気にならないはずがない。そういう興梠は類似動画なりを見たのか?」

「ええと・・・思想の内容がいまいち分からないまま、見たくはないなと思って。」

 春日さんも同調するように頷く。正直に言えば、ひとりで動画を見る勇気が出なかったのだ。緒環蓮という言葉を調べてから、動画を見るべきか葛藤したものの、どこかで怖いと思ってしまう感情は拭い去れなかった。君津が動画についての解説を始める。

「緒環の動画は最近で言うVtuberの体裁でアップされている。アニメキャラのようなアバターを使い、声は自分の声で話すというあれだ。オリジナル動画が作られたのはかなり前のことだから、今見てしまうとキャプチャー技術も洗練されておらず、見やすさには欠けるが、そこまで動きがある動画でもない。」

「自分の声てことは、そういや緒環蓮さんって男の人なん?」

 春日さんの指摘は鋭いと感じた。葬儀に来ていたのは間違いなく男性だった。

「確か、興梠が葬儀で見たのは男性だったと言ったな。だが、残念ながら性別に関しては当初から議論の対象になっていた。つまるところ、声を聞いても判別がつかなかったということだ。恐らく音声ソフトかボイスチェンジャーを使っていたのだろう。そして、緒環を名乗るキャラクターは中世的なアニメキャラのデザインを使っているから、見た目からもどちらにも取れてしまう。」

 思えば、名前も男女どちらであっても違和感のないネーミングだ。

「オリジナル動画が消されてしまってからは、当然その動画の録画データを再アップロードするシンパもいたが、そんな騒動もあって既に注意を向けられている動画だ。即刻運営の削除対象となってしまう。当初は再アップからの削除と、いたちごっこはしばらく続いたが、それより、動画を別の体裁に移し替えて、その思想内容だけ拝借し、緒環を名乗る方が賢いという結論に至っているのだろう。」

 君津が動画サイトの検索結果を私たちに示す。ハッシュタグで「緒環」と纏められた動画はかなりの数に上っており、そのサムネイルは一様でない。様々なキャラクターや、実際の人物、またアカウント名もバラバラだったりとバリエーションに富んでいる。

「つまり、全く同じ思想を別の人間が語り継いでいる、ということね。」

「そう、言ってしまえば彼らは語り部のようなものだ。当然それらも規制の対象に含まれるのだが、その全摘発は不可能に近い。初期の「緒環現象」では動画削除に対して名前を踏襲することで抗議の意を示していたわけだが、最近だと全く関係ない名前で緒環の主張を借りて展開しているアカウントも少なくない。アレンジを施し自分の主張に昇華する輩まで登場している。」

 芳名録に残された名前は唯一の手がかりだったが、同時に、個人の特定を避ける隠れ蓑としてこれ以上ないものだったと言える。

「そろそろ、中身を見てみるか。」

 君津の言う通り、ここまで踏み込んだのに動画の内容を見ないで終わることは出来ないだろう。春日さんも頷く。

「そうだな、この「Yung」というヤツが上げえている動画がいいだろう。今のところオリジナルの主張に近いものとして知られている。元ネタはいくつかの動画で構成されていたのだが、その要旨を一本の動画に纏めているから把握しやすい。登場するキャラクターは多少趣味に寄っているが。」

 私たちは意を決して動画を視聴することにした。『今、死にたいと思っている方へ』タイトルは思っていた以上にストレートなものだった。君津が画面のリンクをタップする。小さな画面に我々の視線が注がれた。


「こんにちは。」

 画面上には、3D画像でアニメ調デザインの可愛い小さな女の子が現れた。スカートの裾を摘んで腰を下げ、我々に丁寧な挨拶をする。想像していなかったタイプの案内人に、多少たじろぐ。

 事前に聞いていた通り投稿者の趣味が強いようだ。茶色ベースのシックなロリータ服を身に纏いながら、どこかボーイッシュな顔立ち。笑顔で自己紹介をする。名前は「環(たまき)」とのこと。緒環から取ったものと直ぐに想像がつく。早速、と言わんばかりに彼女は本題を話し始める。

「貴方は絶望の淵に追いやられて「もう死にたい」なんて思ったことはないかな。何も希望が持てず、救いもなく「死ぬしかない」って自分を責め立てた経験、あったりしないかな。」

 冒頭から視聴者へ重い問いかけをした上で、それがさも些事であるかのように悪戯っぽく笑う。

「まあ、このタイトルをクリックして、この動画を見ているということは、そういう悩みを一度は抱えたことがあるってことよね。でもね、それは決して後ろめたいことなんかじゃないよ。「死にたい」って思う感情、それは誰の胸にもある自然な感情なの。世の中では「生きる活力」とか「生命力」なんて言葉が、さも人間の基本的な資質のように語られているけれども、それと同じくらい「死に向かう推進力」も大切なもの。だって、人は誰しも死ぬのだから、当然のことよね。」

 質問を基調としながら、ささやきのように続くなだらかな活舌。そして耳に染み入りやすい声、ゆっくりとしたテンポで言葉が紡がれていく。それは、見ている人の抱える辛さや居づらさにそっと寄り添うようだった。

「あなたがもし「死にたい」とそう思うならば、その感情は捨てるべきものでなく、その選択肢は尊重されるべきものなの。」

 なだらかに、余りにも自然に発せられたその「死のうという意思は尊重されるべき」という一文。注意して噛み砕いてみてようやく、普通に生きていて受け入れてはいけない主張であると気付く。環はニッコリと画面の向こうから微笑みかける。

「でもね。貴方が考える「死ぬ」ということはどんなことなんだろう。一生が終わること?明日を迎えずに済むこと?嫌な人と二度と顔を合わせずにいられること?いいえ、死ぬということは本来、そんなネガティブなものではないの。嫌な事から目を背けるための手段ではないのよ。せっかく、人生に一度きりしかない出来事、つまり死を迎えるのだから。少し準備を整えてからでも遅くないと思う。私は、その準備を整えて素敵な最期を迎えられるよう、死にゆく貴方を精一杯、心から応援するわ。」

 君津がここで一時停止を押す。

「とりあえずここで動画が十五秒暗転する仕様になっている。おそらく見ている側に内省を促す為だろう。ざっと冒頭部分だけ見てもらったわけだが。春日氏、君はどう思う。」

「え?わたし?」

 突如、名指しで当てられた春日さんは動揺しながら言葉を探す。

「ええと、なんやろ・・・確かに冒頭から重たい話やし、所々怪しいなとも感じたけれど、もっとおどろおどろしいものを想像してたかな。こんなあっけらかんと「死にましょう」なんて言うてくる思わんかったわ。言葉のひとつひとつは不謹慎やけど、本気で死にたい思ってこの動画を開いた人は、こんなん肩透かしくらうんと違うかな。」

 眼鏡が鈍く光る。

「肩透かしか。流石だ、いいところを突いている。」

 満足げに頷く君津に多少苛立ちながら、私はその後を促す。

「そんな思わせぶりなコメントはいいから、要するにどういうことなのよ。」

 呆れたように肩をすくめて説明を続ける。

「これから説明するところだ。今見た通り、緒環の思想は明確に死を賛美している。この後、人の死というものが現実世界に対してどれだけ「効能」を生じさせるのかを説き始める。死への賛美は加速し、お悩み相談といった口調から徐々にカルト色は強まっていく。」

 鋭い視線が私たちに注がれる。

「だが、春日氏の指摘した通り、冒頭を見れば本気で死を考えている人間に対して、一度冷静になるように働きかけているのも確かだ。」

 スマートフォンで何か調べながら、解説は続く。

「政府の統計にもある。自死を選ぶ人間の多くが普段からアルコールに頼っていたり、実際、未遂で運ばれる人間のうち四十%の割合が直前の酩酊状態から衝動に身を任せていると言われる。これは例のスレでも分析されていたことだが、緒環はこの動画で自殺を促しつつ、自殺を止めていたのだとも言われている。」

「促しつつ、止める。」

 矛盾した文章に、思わず繰り返し口に出してしまう。その意味するところを考えようと頭を回し始めると同時に春日さんがその先を言う。

「つまり・・・緒環さんには、突発的な勢いで死のうとする人に対して、その意思を肯定しながら、一旦冷静さを取り戻させる狙いがあった、ということ?」

「エクセレント。見事だ春日氏。」

 彼女を人差し指で差しながら、賞賛する君津。指された春日さんは褒められてまんざらでもなさそうだが、その脇で私はあまりのウザさに右の拳を固くしていた。ただ、その解釈にも違和感は残る。浮かんだ疑問をそのまま口にしてみた。

「この動画には自死を止める効果があったってこと?でも、この先は死を賛美したりしながら、言ってることがどんどんカルトっぽくなっていくわけでしょ。なんで、そんな回りくどいことをするわけ?」

「その疑問も至極真っ当だ。それには諸説ある。今のやり取りを踏まえながら、この先を見て考えてみよう。」

 敢えて突っかかってみても会話が拗れない。やけに上機嫌な君津が再度、スマートフォンをタップする。窓の外はもう暗い。いつまでも暑い日が続くので気づかなかったが、どうやら徐々に日が落ちるのも早くなってきたらしい。どこか薄暗い教室で私たちは、画面の中にいる「環」の語りに集中していた。


「貴方が今思っている以上に人が「死ぬ」ことには、現実世界を動かす効能があるの。その効能について、これからお話ししていきましょう。貴方は今、自分自身の存在を消したいが為に、自死を考えているかもしれない。大きな不幸や不遇を目の前にして、ただただ今目の前の現実に嫌気が差しているのかもしれない。でもね、死ぬ前にひとつ準備をしてから「自殺」することで、貴方はこの世で大きなことを成し遂げられるようになる。もう現世に興味はない?まあまあ、一度聞いてみて損はないと思うわ。」

画面上、スッと環の後方に黒板が現れ、環が何やら文字を書き出す。「ゐぬ」。

「そもそも、一説によれば「死ぬ」という言葉の語源は「ゐぬ」という言葉だったとも言われているの。意味は「居ない」ことを表す「居ぬ」。昔々には医学的な意味での「死」という概念はなく、そのコミュニティから居なくなることが「死」のイメージに直結したみたい。つまり「死ぬ」って、誰かとの関係の間にだけ起こることでしかなかったの。でも、実はそれが人間にとっての死の本質。死ぬことによって身体は朽ちるかもしれないけれど「当人が全て消えて無くなる」ということではないのよ。」

 暖かな笑みを湛え続ける環の声が少しだけ高揚するのを感じる。徐々に話は、主題に近づいているようだ。

「昔の人って本当に鋭いわ。逆に言えばね。「死」は社会からの不在であって、魂や意思の消失でないの。つまり、その人が、世間からは居なくなってしまうのが「死」と呼ばれる状態。だけれども、それによって貴方の全てが失われるわけではない。思念だけが残ると言えばいいのかしら。それは幽霊じゃないか?もし人生に遺恨を残してしまえば、そう呼ばれる状態になるのかもしれないね。でも、それはここで私が扱える話ではないわ。」

 あくまでもこれはオカルトではなく、ただただ理路整然に、厳然と存在するロジックを説いているとでも言いたいようだった。

「そう、これから貴方におススメするのは、とてもシンプルなこと。死ぬ前に、貴方の中で抱いているぼんやりとした希望を完成させて欲しいの。人やモノ、具体的な対象、そしてどうなってほしいのかという明確な結果。ハッキリしていればハッキリしているほどいいわ。完成された貴方の希望は、貴方の身体が消えた後に現世において確実に残り、届くの。」

 自ら死して希望を成就させる。今まであまり聞いたことがないタイプの主張だった。そもそも、人は希望がないから自死を選ぶのではないのか。という疑問も沸いたが、同時に「呪い」という発想を思い出す。話によっては憎んだ相手の不幸を思いながら、自らは最期を遂げる。それによって、相手の不幸を現実に引き起こす。ただ、そこまで考えたことが見透かされているかのように環は続ける。

「もしかしたら、貴方は「呪い」を想像したのではないかしら。まさにそう。私が説こうとしているのは、ある意味で呪いに裏付けられた希望。この科学が発展した現在でも呪いという言葉は日常会話で通じてしまう程に一般的な言葉よね。では何故、人の世に呪いはここまで広まっているのか。それは、呪いが実際に起きたから。では何故、呪いは実際に現象になったのか。それには理由があるの。人が死ぬことで、ある現象が起こる。それまで身体に閉じ込められていた思念が解放されるの。その思念は現実を動かすほどに力があるものなの。」

 少女は優しい笑みを浮かべながら視線を我々から逸らし、どこか上方に向ける。何か尊大なものを仰いでいるような表情に見えた。

「私がここで自死を推奨するのは、この思念と呼ばれるものを最も強く現世に残せるということなの。でも、人間年齢を重ねれば重ねる分だけ一般的に欲や思念は薄れていくと言われている。簡単に言えば、諦めね。若い人にも人生を諦めたような人は確かに存在するわ。でも、深層心理を覗くとそこには歪な諦めの形がある。人にとって老いるという現象は、欲や情念に対して自然な諦めを促す為、人間に備わった素晴らしい機能だとも言われている。つまり、老化は穏やかに死を迎える為のスマートな道筋だということ。だからこそ、若いうちに得た諦観は、老いを経由していないだけ思念が残るの。」

 上空を泳いでいた視線が画面の向こう側、私たちに注がれる。こんな3Dアバターに対して思うのもおかしいのだが、偽りのない真っ直ぐな目をしている。

「若い貴方が死にたいと願うのならば、それは叶えられるべき願い。そして同時に、何かを成し遂げるチャンスでもあるのです。今、貴方に希望はないのかもしれないけれど、現世において何かを遂げたい、その思念が完成されているのならば、必ずそれは対象に届いてしまう。貴方がもし、この世界を変えたいのであれば、この世を発って思いを成し遂げましょう。」

 君津はここでまた動画を止めた。

「まだ続きはあるが、この先は少し催眠の要素も混ざってくる。とりあえず、こんなところでいいだろう。」

 環のアップ画像が張り付いたスマートフォン画面は暗転し、教室に佇む私たちを映し出していた。

「では今度は興梠。以上、動画を見て何か思うところはあるか。」

 人を試すような聞き方は癪だったが、茶化す意図はないらしい。素直に答えることにした。

「そうね。死ぬことを勧めているのに、その現世における効能を説くって、何か根本的に矛盾している気がする。例えば死んだら天国に行ける、とか極楽にいけるってのなら分かりやすいじゃない。理屈としては死んだら救われる、だから今は辛くても耐えてって話よね。本来、死後いいことがあるよってそれが本人にとって救いのはずなのに、この子はまるでそんなことは言わなかった。」

「それは私も思ったわ。しかも、今ツラくて生きる希望もない人に向けて、願望を完成させろって、なかなか無茶なんと違うかなと思ってしまうけど。もしそんなこと言われたら、どうしたらいいのか困ってしまう気がするわ。」

 疑問を抱く私と春日さんに君津が納得した表情で答える。

「そう、興梠も指摘した通り、緒環の主張は回りくどい。そして、本質として矛盾している。自死を望む者は、現世に希望を見出すことをやめた人間というのが一般的な通念だ。そんな人間に願望を完成させろ、というのは一見するとおかしな話だというのも一理ある。」

 そこまで言って君津はいくつか要素が書き出された黒板の前に立ち、単語を指さしながら解説を続ける。

「しかし、俺が先に言った通り多くの自死には衝動が要る。そう考えると緒環の主張には、当事者に混乱を生じさせるが、その衝動を薄める効果があるのではないかと擁護する人もいる。死ぬ間際の人に対して「絶対叶う希望」を提示する。そうすると、その人は希望の棚卸しを始める。その希望を前にして、一度冷静さを取り戻す可能性があるのではないかと。」

 解説を聴きながら、一部納得している気持ちと、反面疑わしいという感情が浮かぶ。理論の筋は通っているかもしれないが、同時に拙い詭弁のようにも聞こえる。なぜなら環という少女の「死にたいと思ったのなら死ぬべき」という主張を聞いた当事者の感情は、結局のところ誰にも分からない。

 春日さんと私、それぞれのモヤモヤとしていた思いを察したのか、君津は教壇を両手で叩き、結論を言い始めた。

「と、今日は興梠の身に思わぬ展開があったことによって、緒環の思想についてしばらく二人に時間を取らせてもらったわけだが。この会議の目的、我々にとっての答えを出そう。来週の企画プレゼンは緒環現象、これをテーマにしないか。」

「ちょ、ちょっと待って。」

 春日さんが割って止める。

「正直、君津君がそういう流れにしたいってのは、うっすら分かってたつもりやけど。今回の緒環さんの話は、由香ちゃんのお兄さんが亡くなったとこがきっかけやろ?それは余りにも・・・」

 そこまで言って口籠もってしまう。つまり、それより先の返事は私が負うところだった。

「ありがとう春日さん。いいわ、やってやりましょう。」

 君津の方は、この返答を想像していたに違いない。ひとりで頷いている。

「君津の興味関心と、私の個人的な私情。雑誌のネタにするには少し不謹慎かもしれない。だけれども、今は私もそんなしみったれた感傷よりも好奇心が上回っているというのが事実よ。逆に、今回は二人に何から何まで私の事情に巻き込んでしまったようで申し訳ないと思ってる。むしろ春日さん、付き合ってくれるかな。」

 その優し気な表情に迷いはなかった。

「由香ちゃんがOKなら問題なし。正直言えば少し怖いけど、もう今更、ここまで来て引き返す関係でも」

 毅然とした回答が返されようとした瞬間、

「はい、お疲れさんー」

 ガサツな挨拶と同時に教室のドアが嫌な音を立てて一気に開く。

「ひゃっ」

 集中していただけに外部からの音には敏感になっていたのか、春日さんが小さく叫びをあげた。そこに現れたのはジャーナリズム研究会の二年生先輩、田中雄太と松本紗季だった。

「はいはい、君たち退館の時間だよ。」

 言いながら気怠そうに手を鳴らす松本先輩に対して、苦笑いしながら

「一生懸命なのはとってもありがたいんだけれど、みんな無理はしないでね。」

 といかにも人が良さそうな田中先輩が言う。

 二人の話によれば二十時の退館時間になっても教室に電気が灯っていると、管理のおじさんから使用している団体に連絡がいくらしい。現在、この二人がその連絡担当ということで私たちを追い出しにやってきたようだ。そういえば大学のポータルサイトから教室の利用申請をしていた際に、所属団体を記載したことを思い出した。

「我々もちょうど企画の結論が出たところです。そろそろ帰ります。」

 君津はそんな先輩二人の来訪にそう言い捨てて、不愛想に帰宅準備を始める。今回の無茶ぶりの件で、多少なりとも部全体に対して不信感を抱いているようだ。一方、松本先輩が偏屈メガネのそんな思惑は気にもせず、ニヤニヤしながら私に絡んでくる。

「ところでさ、興梠君。プレゼンする企画は何にしたのよ。」

 何やら先日の打合せ以降、私は彼女から気に入られているらしい。

「え、いや。それは当日のお楽しみというか。」

 本題のテーマは確かに定まったが、その方法やコンテンツ内容がまだ白紙だったこともあり、口頭で言うのはまだ憚られた。

「なんだよ、ちょっと先に教えてくれたっていいじゃん、硬いなー。」

 その様子を見ていた田中先輩が、少し呆れ顔を浮かべ仲介に入る。

「興梠さんの言う通りだよ、紗季ちゃん。そういうフライングは基本なしっていうのが今回のルールでしょ。プレゼンのみによって企画の是非を判断するという公平性がだね・・・。」

 言いかけて彼が振り返った際、黒板に残されていた話し合った要点とそれを示す単語が視野に入ってしまったのだろう。田中先輩の瞳孔が少し開いたように見えた。特段、隠すつもりもなかったのだけれども、その時点で言うまでもなく私たちのやろうとしていることが伝わってしまった。

 そして松本先輩も黒板を眺めるに至る。すると、彼女のニヤついていた表情が一瞬のうちに引き締まるのが分かった。

「っておい。君ら緒環関係の企画やんのか。」

 松本先輩が正面から私に問いかけた。やはりその存在を知っているらしい。インターネットにおけるサブカルチャーにある程度精通している人間には、馴染みのある名前なのだろう。

 彼女の言葉からは先ほどまでの冗談めいた口調が消え、空気が少しだけ強張ったように感じる。経験上こういう時、変に隠し立てをすると余計に面倒なことになる。

「はい。君津がこれから専攻する分野に関わっているということと、私の私情が絡んでいます。それでこのテーマにしました。」

 スッパリと言い切り、なるべく追及が及ばないように答える。

「へえ、このテーマで私情ねえ。」

 先ほど引き締まった表情が緩んだ。しかし、眼光は鋭いままだ。

「あたし、気になるなぁ。興梠さんのその私情っての、事前に聞いてみてもいい?」

 触れづらいようにはぐらかしたものの、彼女は引く事なく、纏わりつくように質問を投げてくる。この先、面白い事があると確信しているような、どこかで私を値踏みするかのような目をしている。対して、真面目な田中先輩が抑えにかかる。

「おい、それはダメだろ、あからさまに私情って言ってんだから。そもそも俺たちは彼女らに帰ることを促しに来てるんだぞ。」

「由香ちゃんも、それ以上は言わんでもええと思うよ。」

 春日さんも松本先輩に睨みをきかせながら私を止めにかかる。普通の感覚で考えれば松本先輩の質問は、確かに他人のプライバシーに踏み込みすぎている。

 ただ、同時に私たちはこれから、それを使って人に読ませるに足るコンテンツを作ろうとしているのだ。どこかでナイーブな私情など打ち捨てる覚悟を決めねばならない。松本先輩の挑発には、お前にその覚悟があるのかという問いが込められていると感じた。

「私は大丈夫ですよ。松本先輩、時間もないので簡単に言いますね。」

 薄ら笑いを浮かべる彼女にまっすぐな目線を返す。きっと、睨んでいるように見えただろう。ここ数日のことを端的に話すことにした。

「先日、私の兄が亡くなりました。」

 聞いた瞬間、田中先輩が言わんこっちゃない、と言いたげに渋い顔をする。松本先輩は表情ひとつ変えない。それで、とも言いたげなようだ。

「兄の事は、その葬儀で存在を初めて知ったくらいの関係性だったので、ほぼ他人と言ってもいい間柄です。親の希望もあって葬儀だけには参列しました。その時、例の緒環蓮という人も葬儀に現れたんです。」

 ここまで聞いた、田中先輩と松本先輩は顔を見合わせる。

「いや、それは・・・」

 田中先輩が口ごもる。松本先輩もほぼ同時に、ありえないといった口調で反論してきた。

「は?どういうことだ。緒環蓮ってのは、特定の個人でなしにネット上における概念の類だろ?」

「その通りです。私は君津に解説してもらって、その主張の詳細や動画の内容はさっき知りましたが。でも「緒環蓮」は居たんです。葬儀場において親族も知らない明らかに違和感のある人物を見つけ、そして何より、芳名録にその名前が残されていたんです。」

 聞いていて我慢できなくなったのか、君津がその後を継ぐ。

「そして黒板にある通り、興梠の兄の死因は自殺です。多少不謹慎さはありますが、仮にも遺族である興梠の意思を踏まえ、我々は、緒環現象を巡る評価や宗教としての資質、思想としての可能性を考察すると同時に、興梠の兄の存在から緒環という実在するかもしれない人間に迫ろうと考えている次第です。ネットミームと言われる存在の現実的な特定、そのチャンスを我々は得ています。」

「ミームの現実的な存在の特定って・・・マジか。」

 企画を聞くこと自体止めていたはずの田中先輩も、帰ってきた答えが想像の域を超えていたのだろう。唖然としたまま黒板を見つめている。

 私と君津のリレー解説を聞き終え、しばらく俯きがちに黙っていた松本先輩があからさまにニヤリと笑い、今度は目元も緩めた。そしてようやく口を開いた。

「君ら、やっぱしとても面白いねぇ。見立て通りだ。そうだなあ。お礼にひとつ、あたしがいいことを教えてあげよう。」

「え・・・いや、まだ言っちゃだめだろ!」

 田中先輩が何かを察し、慌てて松本先輩を止める。

「いいじゃん。ていうか、ここまでぶっ飛んだ企画を考えていること聞いちゃったら、こちらも教えないとイケないでしょ。フェアとは言えないね。」

 彼女はわざわざ教壇に周り、仰々しく説明を始めた。

「はいはい、よく聞いてね。今回の件、つまり一見、興梠君の罰ゲームみたいな流れで課されたこの新入生の一週間企画立ち上げチャレンジのことね。ぶっちゃけ、恒例行事で毎年やってんのよ。」

 その瞬間、君津と春日さん、そして私も揃って目が点になった。田中先輩はバツが悪そうに頭を掻いている。

「いやあ、騙すつもりはなかったんだが。去年は俺らも標的だったからなぁ。」

「先輩、それ結局、騙してるんと違いますか。」

 怒気を孕んだ春日さんの鋭い指摘に、田中先輩はたじろいだ。そんな姿を尻目に松本先輩が引き継いで説明を始めた。

「あのね、毎年秋号の特集会議では先輩の本命企画プレゼンが行われるんだけど。あ、それが先週の遠藤みどりの発表ね。そのプレゼン会議の最後、実践と経験を積ませる目的で一年生に突貫の企画を持ってくるよう指示を出すの。そして翌々週にプレゼンをぶつけてもらうってのが我がジャーナリズム研究会伝統の恒例行事なんだな。」

 ここでひとつ違和感が過る。

「いやいや。ちょっと、待ってください。これが既定路線だったってことなら、じゃあなんですか。あの日、私が遠藤先輩に反論しちゃった時のやり取りは全部ヤラセだったってことですか?」

 私の怒気にすぐさま反応した松本先輩がさえぎるようにして私を咎めた。

「いや、興梠君。君は安心してしょんぼりしといてくれたまえ。あの日、君の行為によって部員全員の即時帰宅が危ぶまれたのは確かだよ。遠藤みどりも、本来の筋書を忘れて本気で議論に入る目をしていたから、あれは絶対マジだったね。ていうか、あんな成り行きでの部長指示は異例中の異例だったと言える。ま、あたしからしたら傑作だよ。なんだって、あの空気の中で冷徹な遠藤みどりに口答えしちゃうかな。しかも、その企画じゃ売れないとか。本当に面白い新入生が入ったなって興奮しちゃった。」

「多分、そう思っていたのは紗季ちゃんだけだよ。」

 思い出し笑いをする松本先輩に対して、田中先輩はげっそりとした顔で呟く。結局、私の罪は冤罪ではなかったということになる。拭いかけた分だけ申し訳なさが、再度胸に過った。

「とまあ、そういう訳で毎年この時期、何かしらの理由をつけて一年生には企画を持ってこさせるわけだ。あ、でも緊張感が解けちゃうから恒例行事ってのは隠してね。新入生だからって最初から安易なネタを作ってこられても、こちらも詰まらないのよ。そして、プレゼンの後に、お疲れさまでした!よくできました!ってことで打ち明けるのが例年の流れなんだけれど。」

 突如、今回我々に降りかかっていた事態の顛末を屈託もなく喋りだす松本先輩に対して、我々三人と田中先輩はきっと同じ疑問を抱いていた。

「では何故、貴方は今ここでネタバレなんかしたんですか。」

 そんな空気の中、君津が代表して、訝しげな顔で聞き返す。どこか掴めない彼女がまた何か企んでいるのではと、各々が身構えていた。

「いやいや、話聞いてた?さっきもあたし言ったでしょ、ネタバレ禁止の理由。」

 田中先輩も、ここまできてようやく松本先輩の意図に気づいたらしい。

「・・・紗季ちゃんはここからひっくり返せるっていうのか。」

「あり得るよ、このテーマなら。あー、やっぱし対抗馬はこうでなくっちゃ。オッズ百倍超えの大穴が、一気に十倍当たりになった訳だ。そりゃもちろん配当は寂しくなるが、レース自体は盛り上がる。いやあ面白くなってきた。」

 一人盛り上がっている松本先輩に春日さんがシンプルに投げかける。

「すみません。まだ松本先輩が仰る趣旨がいまいち掴めなくて。つまり、どういうことでしょうか。」

 投げかけられた彼女は、さも出来の悪い後輩を見るように、心底詰まらなそうな顔をしていた。

「なんだよ、言わせんなよなぁ。ぶっちゃけ、このタイミングの一年プレゼンなんて所詮はエキシビションなんだよ。二週間、意見をぶつけ合って親睦を深めるためだけのお試し期間。仲良く雑誌つくり体験をしましょうっていう感じでね。まさか、そんな短期間かつノリで醸成された企画が自分たちの機関紙の特集を飾るなんて誰も思っちゃいない。そもそも、上級生のプライドがあるから許しもしないだろうね。」

 そして黒板を一度叩き「緒環」という名前を指さしならが、改めて言い放つ。

「でもね。これなら通せる余地があるんだな。君らの因縁と私情が絡んだ企画だろ。そして聞けばいい具合にバックボーンも重たい。やる動機も一筋縄じゃない。発表まであと一週間しかないが、本気で取り掛かる価値はあると思うよ。いや、あたし個人の意見としてもここではっきり言っておこう。」

 そう言ってやはりニヤリと笑った彼女は、あからさまに私たち三人を煽っていた。

「遠藤のよかこっちのが絶対面白そうだ。マジで期待しているぞ君たち。さあさあ、帰るか。そろそろおっさんに怒られるわ。」

 一人身勝手に言い切ってから早々に帰り支度をする彼女と、それを聞いて満更でもないテンションの我々。仲間と盛り上がる、というのはこういうことを言うのかと変な感慨を得ていた。

 思わぬ追い風の登場に、根拠のない高揚感が湧いてくるのを感じた。対して、田中先輩はひとり困ったようにその光景を眺めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る