第3話

乗り換えを数度経て、北千住を出発してから十五分もすれば、高層マンションに繁華街といった東京らしい外装は徐々に遠のき、変わり映えのない住宅が並ぶ景色になっていく。ベッドタウンとはよく言ったもので、退屈な車窓を眺める度、寝るために帰る場所という表現がしっくり来てしまう。それが地元の風景だった。特急電車に乗るだけの賃料をケチり、通常列車に揺られて久方ぶりに大学付近を離れる。

「いやぁ。まさか、こんなことになるとはね。」

 ついつい、独りあくびまじりに嘆いてしまう。冷房がよく効いた電車の中、座席でまどろみ、後頭部が細かく窓ガラスに打ち付けられる。電車が短い陸協をくぐるたび車内は一瞬影になり、急いで調達した安っぽい喪服を身につけた自分が車窓に映された。結局、私は兄である聡の告別式にいち会葬者として参加することにしたのだった。

 要因としては何よりも、水原おじさんの歎願が効いてしまったのだ。よほど理不尽なお願いでもない限りは、彼から頭を下げられてしまえば、断ることが出来ない。しかも、混じりっ気のない善意が原動力であると傍から見ていても分かるあたり、尚のこと悪質である。

 昨日のやりとりの後、ほぼすべての時間を葬儀に向かうという決断のために使ってしまった。ギリギリ残った理性で、なんとか学内にいた二人を見つけ出し報告した。

「そんな、由香ちゃんが無理することないのに。」

 やはり私を常に心配してくれる関西圏が生んだ天使、春日さん。

「そういう所で結局断れないのが興梠らしいな。」

 こんな時にも人の皮肉を吐き続ける性悪メガネ悪魔、君津。

 そんな事を言いながら、二人は私の決めた事だからと納得してくれた。こんな身内の問題であっても誰かと共有できているだけで、気持ちが多少楽になることを知った。それぞれの反応が些細なものであったとしても、有り難いものには変わりなかった。

 電車はもうすぐ実家の最寄り駅に到着する。改めて葬儀場を調べると、駅から歩いて十分ほど。「セレモニーホール」とは言うものの、古びた平屋建ての小さな施設だとスマートフォンが教えてくれた。

 水原おじさんが言うには、兄の聡も実家から十数キロほど離れたところで介護を仕事にして生活していたらしく、今日は職場の人を中心に数人連絡をしたという。小規模かつ近場の人しか参加する予定はなく、あくまでも、今回は葬儀を行う事が重要なのであって通夜を省いたようだ。告別式を執り行い、その日のうちに出棺となる。

「逝ってきます。」

兄の死を自死と断定させたのは、そんな短い文から成る遺書だったらしい。周囲の人間関係を捜索したものの、拗れや利害は見当たらず、自殺ということで処理されたという。

 聞き慣れた駅名がアナウンスで流れる。ホームに降り立つと見覚えしかない風景が広がる。電車を降りる人と乗る人が交差している様子を見て、兄と私は、どこかですれ違っていたのだろうかとふと思う。

 昨日のおじさんの話を受けてから、広がる妄想と疑問は尽きる事がなかった。決して知りたいわけではなかったが、一度染み込んだ知識はシミとなり、なかなか落とすことが出来ない。まして、見知らぬ兄が同じ街で暮らしていたという事実が、過去の現実を曖昧にさせてくる。私は本当にここで生活していたのだろうか。

「ふざけるんじゃないわよ。」

 知らない間に弱気になりかけていた自分に対して改めて喝を入れる。昨晩の浅い睡眠もあったせいで少しふらついている。改札を抜けると、日照りに晒されたアスファルトが少し歪んで見える。私は駅前のロータリーを意味もなく強く踏みしめた。 


「昨日は突然ごめんね。そして、ありがとう。」

 受付には額に汗をかきながら微笑む水原おじさんがいた。小さな声だが、誠意の籠った目線で私の労を労う。遊び人を象徴する髪型と浅黒な肌に真っ黒なスーツ。やはりスタイルがいいと喪服も似合ってしまう。

「いえ、こちらこそ諸々すみません。」

 一応、ということで芳名録に名前を書くよう促される。興梠由香。慣れない毛筆で書いた自分の名前が、見たこともない四字熟語のように感じられる。

 方や故人の「興梠聡」という名前を見つめる。血は繋がっているらしいのに、知らないところで生活をし、知らないところで死んでいった兄。未だにその存在を今ひとつ信じられていない。それは母への不信感に直結している。彼女からは結局「兄がいた」「亡くなった」という始点と終点、その最低限の情報しか貰い受けていない。

 その聡について、おじさんとの会話で得られた情報もそこまで豊富ではなかった。自殺という死因。年齢は私よりひとまわり以上離れていて三十台半ばだということと、仕事は近隣の施設で介護職として働いていたこと。そして、まだ単身だったことくらいだ。年齢差を考えると、母が私を産んだのは三十六歳の頃だと聴くから、母は既に二0歳そこそこで子供がいた事になる。若くして子を抱く母を想像すると、まるで違う家族の姿がそこにあるようだった。

「とりあえず中に入って座ってよ。」

 促されて葬儀場に入ると、パイプ椅子が十席ほど三列に並べられている。一番前の端に母は座っていた。決してこちらを振り返る様子もなく、表情は窺えない。鯨幕のかかる壁を前に、ぼんやりとただ目の前を見つめているように見えた。

 それ以外の参列者は恐らく働いていた介護施設の職員、同僚のように見えた。少し蒸し暑い部屋の中、手で自ら扇ぐおじさんやらおばさんやら、パラパラと二,三人の集まりがみっつかよっつ確認出来る。直感的に「若い」と思える人はいなかった。

「どうやら、聡くんはお友達が多いという感じではなかったようだよ。」

 水原おじさんの言葉を思い出す。私は居心地の悪さを感じながら、最後列に座ることにした。丁度、お坊さんが後方から現れ、講話を始めるところだった。すると隣からドンという音と、パイプ椅子が軋む音。事務仕事を終えた水原おじさんが、タオルで顔を拭きながら隣に座っていた。既に始まっているありがたい話を他所に、母の方を顎で促して私に耳打ちする。

「帰る前に一声かけてあげてね。」

 私は素直にうなずくことが出来ず、曖昧に下を向いた。一体なんて声をかければいいのだろうか。きっと会話を始めれば、私はすぐに詰問を始めてしまう。それとも社交辞令的に謝意を伝えるのか。今日は声をかけてくれてありがとう?それでは、露骨な皮肉にしかならない。

 そんな逡巡を繰り返すうち。お坊さんの唱えるお経が私の思考を静止させるかのように頭の中に染み入ってくる。もちろん何を言っているのかその意味は分からない。ただ「分からないものをそのまま受け入れていい」ということに私は安心を覚えたのだと思う。正直、ここ数日は考えなければならないことが多すぎて、眠りが浅かった。

 解決したくない問題、真相などに至りたくもない事案。私の意思なんかお構いなく、それらを解き明かすヒントだけが、一方的に私の元に集まってきてしまっている。私は一定間隔で続くお経のリズムに身を任せて目を閉じる。私が何をしたというのだ。ほんの少しの間、考えることから逃げたっていいだろう。自分に言い聞かせるようにして、目を瞑った。


 気づくと大学の教室だった。君津と春日さんが打合せをしている。二人がああでもないこうでもないと激論を交わす。私も何か言い出そうとするのに言葉が出てこない。焦る。頭がうまく回らない。ふたりは、やがて喋るのを止めこちらに視線を向ける。あまりに無機質な動きにぞっとする。

 いや、二人だけじゃない。視線の数が多い。見渡すと、教室にはジャーナリズム研究会のメンバーも座っており、全員が揃って私を見ている。そして、なんの脈絡もなく高山部長が最後通告のように宣言する。

「さあ、興梠さんの番です。前へどうぞ。」

 話すべきことを何も持っていない私は、重い足取りで教壇に向かう。しかし、席から教壇までの数メートル。どれだけ足を動かそうとたどり着かない。その間、多田の嘲笑が聞こえる。遠藤の厳しい眼差しが刺さる。

 なぜ、責められなければならないのか。私が一体どんな悪いことをしたというのか。

「本当は知っているんでしょう。」

 水原おじさんの声が席から届く。その声は優しいが、とても悲しいトーンだった。そうか。私には話すべきことがある。話さねばならない。そう決意したものの教壇を見ると、既にそこには誰かが立っている。私の立つべきところに誰かがいる。


「由香ちゃん!」

 小声ながらしっかりと私を呼ぶ声がする。肘でつつかれて、意識が戻った。嫌な汗が喉元を流れているのに気づく。前を見れば読経をするお坊さんの後ろに立っている人がいる。寝ぼけた頭で、式が焼香まで進んでいることにようやく気づいた。苦笑いしながら水原おじさんが小さく呟く。

「まさか、寝てるとは思わなかったよ。」

「す、すみません。」

 自分でもこんな状況下において、寝落ちするだけの度胸があると思っていなかった。それにしても夢の中でも咎められるとは、どうやら本当に疲れているらしい。大体、私が何を知っているっていうのだ。自分で勝手に見た夢の内容だというのに、おじさんに理不尽な念を飛ばす。

「今、お焼香だから。由香ちゃん次ね。」

そんな逆恨みにも気づいていない彼のフォローで、私は現実に引き戻される。前列から順番に焼香が進み、もう前列の人は仏前から帰ってきている。ちょっとしたバツの悪さを感じながら、隣がおじさんで良かったと安堵する。前の人が焼香を終えたようだ。タイミングを見計らい、席を立った。

 仏前に向かおうと顔をあげたその瞬間。それまで滞りなく進んでいたこの小さな儀式の中に、明確な違和が存在していることに気づく。その焼香を終えて戻った人物の存在が、あまりにこの場から浮いている。スラリとした細身を高そうな喪服に包み、オールバックで固めた髪には白髪が混ざっている。

 気にするな、という方が無理な話で自然と目線がその男性に向いてしまう。青年?いや初老だろうか・・・まさに年齢不詳といった風貌で整った顔立ちだが、多少やつれた表情から三十代にも五十代にも見えるようだ。目元には薄い紫色のレンズが入った眼鏡をかけ、口元は常にうっすらとした静かな笑みを浮かべている。ただ、それはむしろ感情と関係なく口角が固定されているような、そんな印象を受けた。

 あれは、一体誰なんだろうか。私の中に残っていた眠気は完全に消えた。勿論、今日の参列者の中で私にとって知人と呼べるのは母と水原おじさんくらいである。でもたった今、焼香を終えて戻ってきたこの人物には、見覚えがない。つまり、この葬儀場に私が入室した時には存在していなかった。寝落ちしている最中に途中で入場してきたということになる。

 焼香を終えた私は、席に戻る最中も彼を視線で追ってしまう。というより狭い葬儀場の同じ列に座っていれば、嫌でも視界に入ってくるのだ。

 内心で密かに考え直す。外見が特徴的なだけで、故人の友人、あるいは会社の知人だろう。冷静さを取り戻す為、そうした平凡な結末をこじつけようとしても、何か底を感じさせない彼のその雰囲気は、他の参列者の放つ空気からかけ離れすぎている。

 今のところ、私の人生に現れた兄、興梠聡について語ることが出来る人物は今のところ母の他にいなかった。それ以上、兄のことについて踏み込むつもりもなかったが、ここに来て強烈な違和を放つ彼が現れた。何故だか兄の死について、語ることができる人物なのではないかと頭が勝手に勘繰り出している。

 そもそも兄の存在に今ひとつ興味を抱けなかったのは、母を経由して知ってしまったからである。では、別のルートから情報を得られるかも。と思えばと趣が変わった。少しワクワクしている自分がいる。本当に自分のことながら、身勝手な性格なものだと呆れ返ってしまった。

 

「終わったか・・・」

 不必要に大きな背伸びをして、固まった筋肉をほぐす。小一時間でこの小さな告別式は終わった。行くまではあんなに思い悩んでいたにもかかわらず、参列してしまえばどうということはない。日傘を差し、私は早々にひとり駅へと向かっていた。

 結局、出棺には立ち会わないことにした。今はまだ母と真正面から向かい合いたくない。最後、セレモニーホールから出る際、水原おじさんの要望通り、母に一言伝えた。

「一応、来たから。先帰るね。」

それを聞いた母は、俯きがちな目線をこちらに寄越し、小さく頷くだけだった。自らの子を亡くした彼女の感情はやはりここでも伺い知れずに終わった。唯一垣間見えたのは怯え、だろうか。私から何か問い詰められるのではという不安があったのかもしれない。いや、問い詰めて然るべき要件ではある。ただ実家を出た時に決めたのだ。もう私からは、貴方に何も聞かないのだと。

 一方、水原おじさんは私が帰ることに多少不満げな様子を見せたものの、私の選択を尊重してくれた。

 例の気になっていた例の男も出棺には立ち会わなかったようで、終わった瞬間にセレモニーホールを抜け出していった。行先が気になったので気づかれぬよう追いかけてみたものの、早々に表通りでタクシーを捕まえたのか、一瞬のうちに消えてしまった。

 諦めた気持ちが半分だったものの、残りの半分を覗くと「どうにかしてあの男の尻尾をつかめないだろうか。」という執念が顔を見せていることに気づいた。帰りの電車に揺られながら、気分は私立探偵にでもなった心地で、あの不思議な雰囲気を持った男のことを考えていた。そもそも私は兄のことを何も知らない。兄と何かしらの繋がりがあるからこそ、今日の式に参列していたというのは間違い無いだろう。

「とりあえず、兄の方から調べてみるか。」

 ネットやSNSが普及した今の社会にあって、多少の探偵ごっこは素人でも、自宅にいようと電車内だろうと気軽に出来てしまう。とりあえず、スマートフォンを取り出して、幾つかのSNSで「興梠聡」や「コウロギサトシ」をそれぞれ検索する。

 ネットで詮索をしても望み薄なのは分かっている。ただ調べてみると、ありふれた名前でもないはずなのに、同姓同名は数人見つかるのが面白い。

 私は、違うと思いながら検索によって見つかった「コウロギサトシ」たちのページにひとつひとつ飛んでみた。医者から漁師、ちょっと怪しいネットワークビジネスを展開している人など、実にバリエーションに富んでいる。しかしながら、住んでいる土地や職業、年齢という要素から私の兄だと断定出来る人物はいない。今現在、それぞれの世界で生きているであろう「コウロギサトシ」を数人眺めてから、溜息と一緒にスマートフォンのアプリを閉じた。

 この調子でいくつかのSNSを覗いたものの、収穫はなし。そもそもあったとしても、ハンドルネームを使っているかもしれず、兄の残滓は見つからず仕舞いに終わる。気づけばちょうど電車は乗り換え駅のホームに滑り込んでいるところだ。慌てて手に持った荷物をまとめて席を立つ。

「そんなものよね。ま、暇つぶしにはなったか。」

 電車を降りて、ぼんやりとした頭のままプラットホームを彷徨い、地下鉄の乗り場へと向かう。地下鉄に乗り換えると、ドアの傍らのスペースに佇んだ。SNS上に多数いる兄でない兄と同名の存在。その後も不要な内省ばかりが頭を通過した。それら妄想を振り払うようにして頭を小さく左右に振る。すると目の前を揺れる前髪が視界に入った。そんな意味のない行為から、私は何故だか墨をつけた筆を想像する。筆・・・どこかで。

「あ。」

 思わず大きな声が出て、電車内の数人がこちらを振り向く。わざとらしくドアの上の電光掲示に目をやってその場をやりすごした。

 私はあまりにもシンプルなヒントを忘れていた。告別式の受付には、芳名録があったではないか。自分の下手な字を思い出す。そんな貴重な情報が残っていることが完全に頭から消えていたのだった。

 同時に思わぬ記録の存在にテンションが上がってしまう。芳名録には親族の私ですら名前を書いている。当然、あの場に参列したのならば、きっと名前を残しているだろう。もちろん、芳名録本来の使い道としては許されないだろうが、今回の実質的な喪主である水原おじさんにお願いすれば、教えてくれると思う。むしろ私が兄に対して興味を持つ事は、おじさんにとって、嬉しい変化であるはずだ。

 はっきり言えば私だって、今日告別式に行くにはそれ相応の覚悟を決めていたわけである。何年も前から停滞していた家族の形について、事態が進展するのではないかと期待していた。母からの過去を秘密にしていた事に対して謝罪、あるいは兄の存在についての説明、父についての話。

 ただ、実際に参加してみれば現実は現実のまま、母はいつもの母のまま、滞りなく流れる儀式が催されたに過ぎなかった。ただ、例の参列者の登場によって、まっ平だった壁にひとつ手をかける窪みが生じた。

 早まる気持ちを抑えて家に帰った。出棺と火葬を進めているのであれば、まだ電話には出られない。喪服を脱ぎ捨てると、早々に水原おじさんへメールでメッセージを送ることにした。御礼という建前を使いながら、何とかあの男の名前を聞き出せないか腐心する。

「水原おじさん、今回は母を支えていただきありがとうございました。」

 丁寧な文章を心がけ、挨拶もそこそこに本題に入ることにした。

「参列者の中で、気になった方がいました。私たちと同列に座られていた背が高く細身の男性になります。推測ですが、職場の方とも違うようで、水原おじさんは彼のことをご存じでしょうか。兄の生前の記憶を少しでも残したく、ご連絡をしてみたいと思った次第です。」

 恐らく、例の男と水原おじさんに関係性はない。式後まったく接触を持たずに帰ったところを見れば、顔見知りではないと考えるのが自然だろう。

「その方が芳名録にお名前を残されておりましたら、そのお名前だけでも伺えないでしょうか。我が家のことについて、私としても兄の存在をより深く知りたいという思いが芽生えております。」

 なんだか人のいい水原おじさんを騙しているような気持ちにもなったが、兄について知りたい、という思いは本当だった。文章を一気に打って、全体の文面を見直し、静かに送信ボタンを押す。これはある種、過去の開示を頑なに拒み続ける母への反抗だった。貴方が何も言わないのであれば、私の力だけで家族の真相に至ってやる。知らない兄の詮索。思ってもいなかった熱情の火が、私に宿っていた。


「はい、興梠です。」

「あぁ、由香ちゃん?今日はお疲れ様ね。」

 日付が変わりそうな時間にスマートフォンが震えた。誰かと思えば、水原おじさんからの電話だった。彼は、火葬の後、諸々業者との手続きを済ませ、疲れ切った母を寝かせ、家事など諸々こなしたら思った以上に連絡が遅くなってしまったと謝るのだった。聞けば聞くほどこちらが申し訳なくなった。

「いやいや、今回の件は元々俺のわがままだったんだから。里美さんもよく付き合ってくれたよ。」

「水原おじさんが謝ることは絶対にないです。」

「そうかな?」

 笑いながら答える声にも、さすがに疲れは感じられたが、やはりそれを直接の言葉には出さない。この人が私たちを拾ってくれた事実に今更、感謝の念が過る。

「あ、メールありがとうね。少し硬すぎるけど。」

「すみません、長々と。」

 未だにおじさんとの距離感には悩んでしまう。

「まあ、由香ちゃんぽいわ。で、その要件の件だけれども、あの人俺も気になったんだよ。なんか、一人だけ雰囲気違ったじゃん?でも、本当に忙しくて気にする時間もなくてさ。」

 やはりおじさんも気にしていたようだ。一応、来場したタイミングを確認する。

「うん。俺は由香ちゃんが寝てることには気づかなかったけれど、焼香がかなり進んでから、後ろ見たらあの人が一人受付にいてさ。タイミングもギリギリだったから、慌てて受付席に戻ったんだよ。でも、あの人が来なかったら由香ちゃんを起こせなかったかも。」

私を咎めるように、いたずらっぽく言い加える。

「すみません。」

「いやいや、冗談だからね。それにしてもだ。香典もちゃんと頂いたのに、後から見たらあの人住所書いてくれてなくてね。ちゃんと見ておけばよかった。」

口惜しそうにおじさんが呟く。

「それは・・・住所をあえて書かなかった、ということですかね。」

「うっかりなのか意図的なのか、僕らに知る由もないけれど。ていうか、これ本名なのかな。」

 どうやら水原おじさんは「名前は教えられない」という発想は持っていなさそうで、そこに一安心する。

「本名であることを疑うって、そんな名前なんですか。」

「うん。なんかカッコいいよ。あんまし、こういうの言っちゃいけないんだろうけれどね。親族だしいいか。」

笑いながらおじさんは言う。

「えっとね、オ・・・ダマキでいいのかな。名前はハス?いやレン。」


「まさか緒環蓮、しかも興梠の兄は自死ときたか。」

 その日の授業も終わった夕暮れ時。文学部棟の小さな教室は一分の隙もないほど橙に染まり、窓からは薄らと山の端が見える。春日さん、君津に集まってもらい、昨日あった事を改めて伝えていた。

 君津はその名前を繰り返し、目を瞑る。どこかニヤついている風にも見える。常に人の揚げ足を取ることばかりを考えるいるであろうこの男にしては、珍しく興奮気味なのが見ていても分かる。そんな君津を春日さんは「こいつ不謹慎なんじゃないか?」という疑いの目で眺めている。

「まさかそんな名前が、参列者に加わっているとはな。」

「その人、そんな有名なん?」

 独り言のようなつぶやきに、春日さんが身を乗り出して聞いてくる。

「人、というか、もはや一種のネットミームだ。思想だけを伝達する為の概念、あるいは組織体に近い。」

 メガネがいつも以上にギラギラしている。説明を受けた彼女は案の定首を傾げていた。

「えっとね。ネットで調べれば分かるよ。」

 一応、私も調べて理解した程度の事を言ってみる。ウィキペディアのページを彼女に示す。

「ちょっと怪しいカルトぽい話なんだけれど、つまり君津が言いたいのは「緒環蓮」は特定の人物じゃないってことよね。」

 もっともらしくメガネが頷いてから顎を前に動かす。その先も話せ、という事らしい。

「数年前に配信された元ネタの動画があって、その中で緒環蓮は独自の思想を説いていたらしいの。内容としては、自己啓発だったり癒しに近いものらしかったのだけれど、それにしてはかなりカルトに寄りすぎていて、その動画は運営から削除されたと。」

 ここで抑えきれなかったのか、君津が割って話しだす。

「その内容はおおざっぱに言えば自己啓発なのだが、自死を容認、むしろ推奨したものだった。当然ながら動画サイトの倫理規定にも抵触していたのだろう。その思想に感化された人間が自殺を選ぶ可能性があるわけだ。そんな動画を放置しておくことは、運営としてもリスクでしかない。」

 それを聞きながら、春日さんは一生懸命に頷いている。頭の中で必死に噛み砕いているのが分かる。

「ただ、動画が削除されたその時には既に、緒環は多くのシンパを得てしまっていた。運営から一方的に動画が削除されたことに対する抗議として、そのフォロワーたちが「緒環蓮」を名乗り、類似の思想を掲げる動画を上げだした。名前を騙った悪ふざけ動画も一気に増え、一時、その現象はネットでは話題になったという訳だ。ネット上だけに広がった啓蒙的ミーム、それが「緒環蓮」ということだ。」

 目頭を押さえながら一気に語る彼は、側から見ればキツいオタクそのものだが実際彼は楽しそうである。

 実を言えば、昨晩まで私もその存在を知らなかった。水原おじさんから「オダマキ」という名前を聞いたものの、どう書くのかまるで検討がつかず、改めてどのような漢字をあてるのかを聴いた。

「ヘソの「緒」、に環状線の「環」と書いて、緒環。名前はハスの花の「蓮」だよ。」

 当初それを聞いた私は、へえ、珍しい名前もあるもんだ。これでSNSさえやっていれば一瞬で特定出来るんじゃないか。という浅はかな感想を抱いていた。

 電話を切った後SNSで例の如く探偵ごっこを再開する。そもそも見かけない苗字だし、やはり偽名なのかもしれない。大した期待もせず名前を検索した途端、私は凍りついた。

「なんだこれ・・・」

 昼に検索した「興梠聡」の比ではない人数が検出される。類推されるユーザー数は三万を超えていた。私は背筋に嫌な感覚が走るのを感じ、一旦ブラウザを閉じた。こちらが詮索を始めた時点で、既に誰かの術中に堕ちていたかのような気味の悪さが脳裏を過ぎる。

 意を決した。もう一度ブラウザを立ち上げ、今度はSNSではなく検索エンジンのバーに「緒環」という文字を打ち込む。そうすると、案の定その名前はウィキペディアにおいても纏められていた。私はページを開き、気付けば夢中でその文字列を読み漁った。

 過去にアップされた動画の要約、動画サイトからの削除、そしてその後ネット上においてどのような影響が及んだのかが端的に纏められ、それら一連の騒動を「緒環現象」と呼ぶ人さえいるらしい。なるほど、と知識ベースの情報に納得しかけたものの、今度は私の身に起こったことに対して混乱した。個人を指し示すものでもない名前が、葬儀の芳名録に残され、それを書いたと思われる人物が現に目の前にいた。

 理解を超える出来事に、怖さを感じていた反面、不思議と興奮もしていた。感情の板挟みに居ても立っても居られなくなった私は、君津に相談するに至ったという次第である。電話口で緒環の名前を出すと、彼の声色が変わった。

「明日だ。直接、詳しく話を聞きたい。当日のことを全て教えて欲しい。」

今までに見たことがないほど前のめりな回答だった。


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